#72:1020年4月 傷跡
どうして忘れていたのか。どこかで精神が麻痺してしまったのか。
アキラは頼季様と尼女御が無事だったことにすっかり安堵してしまっていた。絶望の中に希望を見て、他に確認しなければならない諸々をすっかり忘れていた。
池原殿の屋敷には門扉は無い。柴垣が折れ曲がって目隠しになっていて、少し内側に竹が植えてあるが、まだ根付いておるまい。
建物は幅三間の母屋作りで、縁側の側の壁には蔀の代わりに障子戸が嵌っていた。但し障子戸は引き戸ではなく、両開きになっていた。
「池原殿、おるか!」
アキラは縁側に上がると足の裏をはたき、障子戸を開いた。
暗い室内に、誰かいた。
勿論、池原殿だ。しかし、一瞬誰か分からなかった。
床に臥せっていたのを上体を起こして、池原殿は弱々しく、がらがらとした声を出した。
それがアキラの名を呼んだのだとはちょっと気が付かなかった。
痩せて肋骨の浮いた半身を疱瘡の痕が覆っている。大小のあばたが醜い帯をその身体に刻んでいた。年寄りたちによく見る痕だ。
そしてそれは顔にも及んでいた。顔の三分の一程、右耳から右目にかけて、あばたがその顔を変形させるほど覆い尽くしていた。
だがアキラは、まず安心した。死ななかったのだ。
もう天然痘に怯えることは無いのだ。
しかし、
「もしや、片目、見えぬか」
「……良く聞こえぬ。こちらから問われよ」
「耳もか」
とりあえずアキラは水を持って来て飲ませた。
あとで飯も持ってくると約束すると、池原殿の屋敷を出た。次は貞松だ。
屋根の掛かった作業場は人気が無く、奥の小屋も暗く静まり返っていた。
だが、居るはずだ。
奥の小屋は二間四方しかないその見かけによらず、凝った作りだった。屋根は板屋根で南の縁側以外の壁には筋交いの入った塗り壁になっていた。
縁側は障子の引き戸になっている。敷居に掘られた溝を障子が左右に動き、外そうと思えば障子板ごと取り外せた。アキラの知る限り、日本最初の引き戸だ。
足を洗う石台の傍の手洗いに水は無かった。
臭いがした。
「貞松よ、おるか」
障子戸を引く。
二人いた。
一人は貞松、もう一人の傍に座っているが、こちらに目もくれない。荒い息を吐き、身体がわずかに揺れている。
熱病が貞松を侵していた。
もう一人は床に就いた小柄な、恐らくは女だ。恐らくと言うのは既に水疱が半身を覆っており、その容貌はアキラの覚えのある誰だったとしても、もう判別も付かない。
まだ、生きているのか。
息はある。しかし、明らかにもう末期症状だった。疱は既に白く膿んでいた。
貞松が、ようやくアキラに気が付いた。
「アキラか。なんとかのまじない、出来たか」
「出来た。できたゆえ、寝よ。あとは任せよ」
アキラは小屋を飛び出して水を汲んできた。手洗いにも水を満たそう。
貞松に水を飲ませる。
「とにかく寝よ。あとで粥持つゆえ」
「……かやの粥も」
かや、だったのか。
小学に出てきていた娘で、産屋の手がすいた後も何かと屋敷で働いていた。覚えている。そういう間柄になっていたのか。
「勿論持って来よう。さぁ寝よ」
貞松の身体に、赤い斑点が帯状に広がっていた。
・
老雑色と二人で飯を炊く。出来たのは塩粥だ。山菜も肉も芋も無い。
せめて芋粥くらいにはしたい。
貞松にまず食わせる。
貞松の手が震えているのを、アキラは匙を使って口に含ませる。
かやの口にも粥を持っていくが、かやに意識は無く、食わせるふりだけをした。
池原殿には粥の椀を置いて、後で椀を取りに来ると告げた。
武者たちにも飯を持っていく。
武者に発病者はいないようだ。産屋から死体が片付けられ、武者たちは生気を取り戻したように見えた。
これらを頼季様と尼女御に報告しながら、夕餉をとる。塩粥だ。
「体の様子はいかがか」
「何も」
尼女御は短く答えた。
・
翌日は奥山でクワメの墓をつくった。穴を掘り、死体を焼いた灰を丸ごと埋めた。骨も炭も一緒だ。
土を被せて、土饅頭に整える。
アキラは小川の河原から大きくて平たい石を選び、その表面に鏨でクワメと刻んだ。
これが墓標だ。
貞松と池原殿の替えの小袖を用意し、着替えさせた。
産屋や小屋に染みついた死臭を洗い落そうと努力する。
武者たちにも服を洗わせる。
雑色仕事に戻った気分だ。
服を干し、着替えを持って産屋に行くと、武者から声を掛けられた。
「吾子のまじない、試そうかと思う」
「少し痛いぞ」
「それだけか。
しかし効けば便利、効かぬは今と変わらぬ。試すだけなら難しき事無き」
早速やろうと武者は急かせた。
・
接種用意の一式を準備し、尼女御にもした説明をもう一度おこなう。
「ふむ、その弱き鬼は刺して入れねばならぬか」
アキラは武者の腕をアルコールで拭きながら答えた。
「弱きゆえ、世話焼いてやらぬと人にうつれぬ」
他の武者たちは遠巻きに見ている。
兎の睾丸はもう傷だらけだ。新しい兎を調達すべきだろう。
睾丸から膿を取ると、
「では」
さっと二度刺して、接種は終わりだ。
「これだけか」
「終わりぞ」
アキラが道具を直しにかかると、
「吾もやる」
別の武者が腕をまくり上げた。
・
結局、武者たちのうち四人が接種した。残り二人は、まじないなどやらぬと言う。
それも正しい態度だろう。こういう時でなければ。
尼女御は昼のうちに少し熱が出たという。
「今はもう何も悪しきところありません」
夕餉の席で尼女御はいつも通りに見えた。
粥には塩漬け燻製肉を刻んだものと大根の菜を細かく切ったのを散らした。
武者たちに接種した旨を告げると、頼季様はそろそろ吾も試そうぞ、と言うが、
「まだ確かなことは判りませぬ」
尼女御に却下された。
・
なんとなく判ってきたが、尼女御は、クワメを殺したのかとアキラを疑ったことを、隠してはいたが気に病んでいた。
アキラの視線を避けているのだ。気づかないとでも思っているのだろうか。
それで種痘なんて訳の分からないものを身をもって試すことで、アキラに詫びる気持ちの代償行為としているのだろう。
決して表立ってアキラに詫びることは無いだろう。代わりに、要するに尼女御は、我が身を人身御供にささげたのだ。
極端な方だ。
北郷党を尋ねる。
月谷の君子部三郎は、ようやく家が見えてきた辺りから、アキラに近づくなと大声で警告してきた。無事なようだ。
疱瘡除けのまじないが出来た事を告げた。
「印付けよ。屋敷に来い」
下名草では死者が出ていた。大人一人、幼児三人。
上名草では小金部岩丸の妻は発病していた。幼児は既に死に、妻は一人離れて水車小屋に籠っていた。
アキラは小金部岩丸の妻に粥を運んだ。
「アキラよ、その印あらば疱瘡にかからぬのか。病ありし者に触れて良いのか」
「今見ての通りぞ」
「吾に印付けよ」
北郷党から四人の接種志願者を得ることができた。
それぞれ接種を済ますと、一日二日、少し熱出るまでは待てとアキラは注意した。
「赤子にしても良いか」
どのくらいから接種はできるのだろうか。
アキラはその境界を生後半年と考えていた。死亡率から考えるとできるだけ早めにやりたいが、弱毒化したとはいえ軽い症状は出るのだ。
「よい」
猶予は無い。それに生まれたのは皆半年以上前だ。
小金部岩丸の妻が発病している。天然痘はいまだ流行中だ。
翌日の接種は六人、うち四人は赤子だった。
一人は頼季様だった。
尼女御は自分の接種痕に出来た小さな水疱が広がらないのを確認して、これで良いと接種を許可した。
これで出歩けるようになったと喜ぶ頼季様だったが、
「まだです。病持つものに触れてはなりませぬ」
尼女御の指示は適切と言えるだろう。
池原殿が屋敷に出てくるようになったのは明るい兆しだった。
一方、貞松の症状は悪化を続けていた。
かやは先日死んだ。
遺骸を埋めたいという貞松は既に水痘に半身を覆われていた。アキラたちは奪うようにかやの遺骸を運び出し、河原で焼いた。
体力があれば天然痘にかかっても生き残るのではないか、というアキラの仮説は貞松の症状を見ていると揺らいだ。
貞松は決して体力のない訳ではない。逆だ。だが、その症状は激しかった。
天然痘の症状は人次第であることを認めざるを得なかった。
武者の一人が、信田小太郎に印を付けてくれと頼みに来た。
「小太郎はいずこぞ」
「益子に行かれた」
・
どこまで接種をやればいいのか。
助戸郷を訪れた。
郷の入り口は倒木で塞がれていた。勿論人為的なものだろう。縄が垂らされている。注連縄的なものだろうか。それをかき分けて郷内に入る。
甘い腐敗臭に混じって、最近馴染みになったあの臭いがかすかに漂ってきた。
死臭だ。封鎖に失敗したのか。
郷長の出迎えは無かった。
家から出てきた郷長は、少し痩せたのではないだろうか。
「二人死にました」
思ったより少ないな。いや、
「赤子は」
「八つ。皆死にました」
乳幼児は人口のうちに入っていないのだ。
アキラは疱瘡除けの印について説明した。郷長はあきらかに疑わしいものと思っているようだったが、目代の手前である。はっきりとは言えないようだ。
屋敷に来れば印付けると言ってアキラは郷を後にした。
・
武者たちが馬の世話を始め、北郷党の者たちも水田に出るようになった。
北郷党の接種率は次第に増え、今日は君子部三郎がやってきた。小金部岩丸の妻は看護の甲斐あって回復したと聞いた。
助戸郷から一人、接種に来た。郷長はまずは人身御供代わりのそいつで試そうとしているらしい。
貞松は回復しなかった。
武者たちが足利荘内の各郷を巡り、疱瘡の被害の状況を調べてきた。
久しぶりに屋敷の母屋で会合が持たれた。信田小太郎と貞松はいないが、武者たちと北郷党が詰めかけていた。
「まずは荘内からです」
尼女御はそう宣言した。尼女御は貞松の看護も手伝ってくれていて、そこで種痘の効果に確信が持てたという。勿論それだけであるまい。
武者たちも接種から随分と経ち、各地に出歩いていたが、今のところ全く問題は無かった。
これらを勘案して尼女御は、疱瘡除けの印付け、つまり種痘を全面的におこなうと宣言したのだ。
すなわち、荘代頼季様の令により、荘内の全員、過去に疱瘡にかかった者、今罹っている者以外の全員に疱瘡除けの印を付けることとなった。
およそ三千人だ。
同時に尼女御は、アキラ以外にも疱瘡除けの印付けを行わせると宣言した。
「まじない事ぞ。習えば出来る事か」
「まことのところ、これはまじないに非ず。弓馬の芸のごときものよ」
アキラは見渡して言った。
「誰でも出来るが、少しばかり修練が要る」
#72 天然痘の治療法について
天然痘の流行に際して、まず人々がおこなったのは神に祈ることでした。ただ、特定の神に祈るようになったのは江戸時代になってからで、特に住吉神社が信仰の対象となりました。これは疱瘡が新羅から来る病であると云う説から、三韓降伏の神とされた住吉大明神が効ありとされたものでした。
次は読経です。祈祷は最もポピュラーな治療法とみなされていました。
もちろん陰陽も重要でした。病室は東南に向き西北を後にするを良しとし、患者に赤色の服を着せ、緞帳には赤い服を掛けて何もかも赤色をよしとしました。
唐の頃の中国の医学では疱瘡は傷寒、かぜの一種であるとされ、治療法もこれに沿ったものが行なわれていました。これは日本でも同様で、当然のことながら全く効果はありませんでした。
中世以降では、牛の尿を感染予防に用いたり、蛭に血を吸わせたり、にんにくのスライスしたものを患部に当ててその上から灸を据えたり、お香を焚いたり、いろんな治療法が試されました。
米のとぎ汁と酒を混ぜて鼠の糞を加えたものを沸かし患部に塗るという酒湯法なる治療法もありました。
風呂は人気のあった治療法で、これは疱瘡のかゆみに大きな効果があったようです。
最も効果のあったのは、患者の隔離でした。遠隔地に小屋をつくって患者を収容するのは近世までよく僻地で行なわれていました。山野に患者を捨てるのもよくあることでした。