#70:1020年3月 死
翌日は雨だった。
アキラは決意した。乳母を連れてこよう。乳母が駄目でも、誰か連れてこよう。来ないなら預けよう。
クワメの熱は少し下がったようだった。水だけ少し飲んでくれた。
奥山を歩いて降りると、柴垣の外に人影が居た。
乳母だ。
「何故ここにおる」
都合が良すぎるだろ。
「赤子の身が案じられたもので」
ありがたい。しかし何故そこで留まる。柴垣の門の向こうから動こうとしない。
「すぐこちらへ来よ」
門を開けてそう言うと、ようやく乳母は柴垣の中へと入ってきた。
アキラは早速、乳母にネ子の世話を頼んだ。
少し遅い朝餉の準備をする。
クワメは粥を少しだけ啜って、何か悪しきものが見ゆる、と言った。
寝ておれ、アキラはそう言ったが、
「ネ子はいずこに」
「乳母に預けよる」
だから寝ておれ、と言ったが、一向に寝る様子が無い。そのうち熱も上がってきた。汗が凄い。
アキラはクワメの小袖を脱がせると、新しい小袖に着替えさせた。あまり仕立ては良くないがアキラの試作の桑木染めのハニカム模様が入っている。
雨も止んできたようだし、小袖を洗うか。
ほつれたところでも無いかと小袖を探ると、襟の辺りに何か縫い付けがあるのに気が付いた。
糸を切って、縫い付けを解き取る。何か字が、
ドン、と大きな破裂音がして、向こうで、乳母が草むらにひっくり返っている。
「間に合うたか」
大声が頭上から響く。見上げる。
赤い肌の大男がいた。
・
身長は8尺、2.5メートルを超えるだろうか。
上半身は裸で、下半身には粗末な草木染の袴を穿いている。あと、頭に短い角のようなものが見える。こいつはいつか、足利で目を覚ました初日に見た、幻の赤鬼だ。
ぶん、と音がして、大男は乳母に走り寄る。
しかし、乳母は別人のように素早く立ち上がると大男の拳撃を避けた。腰をかがめて後ずさり、距離を取る。
「赤子を守れ!」
赤膚の大男の言葉にアキラは走る。
ネ子は校倉の手前の草むらにいた。無造作に放り出されたような姿にアキラは不安になったが、泣くネ子に逆に安心した。大丈夫だ。
校倉の影に隠れようとして、そこでアキラは鋭い一撃をとっさにかわした。乳母がいつのまにかアキラの目前に廻り込んでいたのだ。
逃げる。
腕が熱い。どうも躱しきれなかったか、血が出ているようだ。
背後で轟音と共に何かが吹き飛ぶ。構わずアキラは逃げる。
気がつくと小屋の前まで来ていた。クワメの傍はまずい。アキラは牛小屋の方へ走ったが、途中で何かに足を捕まれた。
転びかかったが、足はあまりに強く捉えられていて転ぶことも許されない。アキラはしっかりとネ子を抱くと、振り向いた。
そいつはもはや乳母の姿をしていなかった。
人間の姿をそいつはしていなかった。
緑色をした鬼がそこにいた。
背丈はさっきの赤膚の大男よりひとまわり大きい。髪の毛は黒く長く乱れ、岩のような肌には太い毛が無数に伸びている。そして角は長く猛っていた。
アキラの足を掴む三本の指には長い爪の生えている。爪の先は赤く濡れている。この爪がさっきアキラを傷付けたのだ。
鬼のアキラを掴む力が強くなる。このまま足を握りつぶすつもりか。
そこで、白い刃と、赤い血が散った。
白い刃の軌跡はふらふらと定まらない。
「我が夫と、我が子を、放せ」
クワメだ。
何をしている。逃げよ。
クワメは、アキラの太刀を抜いて鬼に切りかかっていた。
その非力な腕で、もう一撃を加えようとするのを、鬼はもう一方の腕で叩き伏せた。
逃げよと言う間もなく、悪夢のように速やかに、
「クワメ!」
クワメは小屋の壁に叩き付けられ、太刀は草むらに転がる。
視界が反転する。
緑肌の鬼に逆さに釣り上げられたのだ。アキラは片手一本で吊るされていた。
アキラは腕の中のネ子を守るのが精一杯だった。ちくしょう、赤膚の大男はどうした、どこへ行った……
そこに、
「こっちを見ろよブサイク」
そう声がして、衝撃と共にアキラの身は自由になった。
硬く身を丸めてネ子を守る。強い衝撃と痛み。息が出来ない。痛すぎる。
アキラはそのまま転がると太刀のあるところへとにじりより、ネ子を置くと太刀を握った。
見れば赤膚の大男は頭から血をだらだらと流しながら、緑肌の鬼に丸太を叩きつけるところだった。
緑肌の鬼が殴り返そうとその腕を振ったところを、アキラは両手で掴んだ太刀を思いきり振り被り、
「くたばれ!」
キィエエエエエエエエエ!!!!
耳を聾するとんでもない怪鳥音と共に、緑肌の鬼の腕のあったところから黒い血がホースで水を撒くかのように噴き出した。
ドサ、と、近くに何かが落ちた。アキラは鬼の腕を切り落としたのだ。
「よくやった!」
赤膚の大男は折れかけた丸太を更に二度、三度と鬼に叩きつける。
ふらり、と鬼は倒れると、黒い煙がその身体から湧き出してきた。
煙が消えたとき、鬼の身体も消えていた。
「クワメ!」
投げ出されたような姿に駆け寄る。だが、
首が、変な向きに
息をしていない。
すでに事切れていたのだ。
・
「その子、預かろうか」
その声でアキラは我に返った。
「涙拭けよ。なぁ、その子、そのままでは養えないよな。
ウチんとこなら安全だぞ」
振り返る。赤膚の男は額の傷口を押さえながら、草の上に座っていた。
「あんたが雇った乳母、あれは生霊ってヤツだ。
どこぞの陰陽に操られておったのだろうよ。憑依みたいなもんだ。
それと、足利の屋敷の北東隅を掘ってみな。あんたと奥さんを呪った人型が壷の中に入っている筈だ。
あと門の北東の隅にも、あんたが奥さんの服から剥ぎ取った奴と同じものが貼られているから」
アキラはネ子を胸に抱くと、片手で太刀を構えた。
「何者だ」
「……あんた、輪廻転生は信じているかい?」
答えない。
「俺は信じている。
何と言っても、おれ自身に転生した記憶があるんだからな。
但し、記憶は、あんたと同じ、二十一世紀のものだ。
山田健一、愛知県小牧市出身、2009年に胃がんでたぶん死亡」
アキラは返事ができなかった。
「気が付くと、美濃の国の百姓の子だった。天禄か天延の頃、大体半世紀くらい前だから仲間うちでは俺は新顔だな。
気がつくと、俺の頭には角があった。二本のちっちゃな角がな。
俺たちは牛頭などと呼ばれていたりする」
・
俺たち転生者は、皆鬼みたいな角を持って生まれてくるんだ。
例外は今のところ知らんな。大抵は身体が丈夫で顔も良い。これは俺たちが輪廻をいわば逆に廻っていることと関係しているらしい。
輪廻が因果で繋がっていれば、魂も肉体の特徴もそう変に外れることができない。あんまり外れると次に繋がれないから、だろうな。しかし俺らには輪廻で繋がる因果が逆、つまりまともじゃない。
俺たちの肉体には、俺ら自身の認識がそのまま反映される。
かなり前に見知った転生者に、前世でスピリチュアルとかパワースポットとか、そういう代物に入れあげていた奴がいたよ。
その女にとっては、この状況この時代はまさに自己実現の場だった訳だ。その次に会った時には、幽霊だか妖精だか、なりたい自分になりおおせていたな。
俺は気がついたら、気づかれにくくなっていた。
透明とはちょっと違う。雰囲気的に存在しなくなるとか、そんな感じの筈だったんだがな。いまではすっかり透明化能力みたいになってしまった。
俺ら転生者はほおっておけば、どんどん変わっていってしまう。
化け物になってしまう、と言ってもいい。
だから俺たちは鬼やら妖怪やらに見られないように、現地民から離れていないといけなかった。そんな風に見られたら、そんな風になっちまうんだ。
そういう隠れ家の一つが、足尾の谷の奥だ。
お前が突然現れた時には、俺たちは大騒ぎになったんだぜ。
何しろ、21世紀の格好をしている。まるでタイムリープしてきたようなスタイルじゃないか。
タイムリープと転生では随分と違う。
そもそもそんな前例を知らない。俺の仲間たちは全員が赤ん坊として生まれてきた転生者だ。大の男の姿のままこの時代に現れた訳じゃない。
そう、お前がなぜこの時代の此処に現れたのか、俺たちは全く知らないんだ。
だが、推測は出来る。
お前は誰かに送り込まれた。それは間違いない。
目的は多分、歴史改変の筈だ。
俺たちの歴史改変の企ての殆どが失敗しているのと、何か関係があるんだと思っている。
俺たちの内輪の説に、唯識の理屈でいう阿頼耶識、因果で固められた歴史の実体には、多分弾性があるんだろうってのがある。変形させると反動があるんだそうだ。
という訳で俺たちは、お前がこの時代を最低限生き抜くことが出来るように訓練をして、身なりを整えて、この辺りで最も長生きできそうなところに放り出した訳だ。記憶はあんまり無いだろうが、薬の影響はそんなに長く続かなかった筈だ。
そして俺はお前の見守りをずっとやっていた。
誰にも見られることが無い、という俺の能力は、ここら辺の百姓どもに見られる心配が無いって事だ。つまり変異する可能性が低い。
ただ、お前が奥さん貰ってからは、あんまり近寄れなくなっていた。斜視って奴は、何故か見えないものが見えたりする。見られるのは勘弁してほしいからな。
そもそもお前自身に呪いに耐性があったのは助かったよ。
だからお前はほうっておいても大丈夫だろう。
問題はそこの、おまえの子だ。
守るのは難しいぞ。
・
「なんでクワメを守れなかった」
「おい、オレの話ちゃんと聞いていたか?」
赤膚の男は止血できたと判断したのか額から手をよけて、そしてお手上げのポーズを取って見せた。
「なぜもっと早く助けなかった」
「お前の奥さんの服に、まじないの印が縫い込まれていたからだよ」
同じ理由で屋敷にも入れなかった、と赤膚の大男は言う。
「信じられると思うか?」
「信じるさ。
同じ21世紀人だ。ほかの誰より信じられる筈だ」
信じられるか。
しかし、アキラが一人でネ子を育てられないのは明白だ。
常識的なやりかたなら、尼女御に相談して、誰か乳母を周旋してもらうことだろう。探すのは大変だし面倒だが、変な奴に任せるのとは話が違う。
「そもそも、種痘の接種ができるまで育つのに、まだしばらくかかるんじゃないかい。
どの間どうやって感染を避けるんだ」
「この奥山に隔離する」
「それで乳母のなり手がいると思っているのか」
「有無は言わせん」
「いや、まともに考えろよ、無理だろ」
アキラはしぶしぶ、男の言う通りであることを認めた。
「ここでその子が死んだら、多分お前、精神的にまずいだろ。
二年だ。二年預かろう。そのくらい育てば、男手でも人を雇えば何とかなるんじゃないか?」
「人質を、取るのか」
「そんな風に考えてもらいたくは無いが、お前さんにとっては、そうかも知れないな。
あんたをこの世に繋ぎ留めておくためなら、人質も止むをえまい」
そこでアキラは、訊かなくてはいけない事を思い出した。
「なぁ、俺がピンチの時は助けてくれたりするのか?」
「安心しな、死んでも転生できるさ」
冗談じゃない。転生しても俺なんか羽虫がいいところだろう。クワメの転生した小鳥に食われれば上出来だろう。
「つまり、助けは無いと」
「お前さん、基本的に俺の助けは要らんだろ。他の者は別として。
さてと」
赤膚の大男はアキラに歩み取ると、その腕からネ子を優しく、しかし断固として奪った。
「心配するな。仲間のところまですぐだ。すぐにすっ飛んでやる。
親身になって世話をするさ。きっと病気ひとつすることなく、すくすくと育つぞ」
ほうらパパにさよならしな、と男はネ子に話しかける。
ネ子は泣き疲れて寝たままだ。腹を減らしている筈だ。もう衰弱しかけている筈だ。
「ならば急げ」
「判った」
男は立ち上がると、では二年後の今日、お前の目の前に現れよう、そう言うと、
消えた。
#70 日本における種痘史について
疱瘡は長いこと胎毒、生理の穢れまたは淫気に胎児が侵されたものとする説が強く、これを感染病として日本で始めて論じたのは江戸時代後半、19世紀に入ってからでした。この時に海外からの感染経路もまた論じられています。また山奥や離島など僻地の感染者が無かった事例を挙げて、接触による感染であると論じています。
日本に種痘法が入ったのはこれより半世紀ほど早い頃で、これは中国で生まれた人痘法、弱毒化されていない天然痘を人為的に感染させるものでした。人痘法は18世紀末に緒方春朔によって技法として確立され、19世紀に疱瘡の感染症であるという説と共に盛んに行なわれるようになります。
これはまず天然痘の膿を採って乾燥保存し、その粉末を患者の鼻から吸引させるというものでした。但し、この方法は発症まで至らない例、発症して重篤な症状に至る例など、決して成功した方法ではありませんでした。
やがて西洋の人痘法も入ってきて、静脈注射が試みられるようになりますが、結果は同様でした。
ジェンナーの牛痘法が伝わるのはずっと遅れて天保年間、実際に牛痘の種痘が伝わるのは更に遅れ、散発的なものになります。これは種痘の生きたままの輸送が困難であったことも理由の一つでした。
初期の種痘の保存と輸送には、人に種痘して、その膿が現れて瘡蓋になって治癒するまでの短い間に、また別の患者にその膿を種痘するというバケツリレー方式が採られました。その為に、天然痘に未感染の子供が輸送経路に確保される必要があったのです。