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#68:1020年3月 疱瘡

 最悪のタイミングと言って良かった。

 子供はまだ生まれたばかり、三か月も経っていない。クワメも産後でまだ身体を養生しなくてはいけない時期だ。

 確か、種痘は生後すぐの子供には出来なかった筈だ。多分生後半年は経たないときついだろう。ワクチンは弱毒化してあるとはいえ、症状は出るのだ。

 北郷党の子供たちは生まれたのは去年の夏頃、種痘はもう出来る筈だ。

 それに比べると、アキラの子、ネ子が無防備に過ごさなくてはいけない期間は長すぎる。


 そもそも、もっと先の事だと考えていたのだ。

 天然痘対策は、ワクチンの開発に全てがかかっていた。

 治療法は無い。感染したら燃えるような熱病に灼かれ、膿んだところから雑菌が侵入して感染症を引き起こし、そして体力が尽きれば終わりだ。


 ジェンナーと牛痘の話はアキラも知っていた。

 牛の罹る病気である天然痘近縁種の牛痘は、人間が罹ると軽い症状で済むほか、天然痘への免疫を獲得できる。つまり、牛痘を人間に植え付け牛痘に罹らせると免疫を得ることができるのだ。


 さて、天然痘を牛に接種したらどうなるだろうか。

 人と一緒に牛も死ぬのだろうか。いや、死ななかった筈だ。天然痘の大流行で牛もバタバタと死ぬのなら、種痘なんてそれ以前の話、実行不可能だっただろう。牛が使えたから種痘もできた筈なのだ。

 だが、突然変異すれば牛の中でも生きていられる天然痘の菌株も現れるかもしれない。免疫が効くぐらいの近縁なのだから。


 アキラのアイディアとは、牛痘っぽい症状が出るまで、牛に人痘を接種するというものだった。突然変異が現れる確率も、どのように現れるかも不明だったが、やるしかない。

 人工牛痘とアキラは内心ひそかにこれを呼んでいた。


 このアイディアの最後の難点は、牛痘っぽいものが出来たとして、それを人間に試すのはリスクが高いという事だった。突然変異一回というのは流石に怖い。


 最低でももう一頭、どこかから調達してくるべきだろう。

 予定ではこの秋にもう一頭調達して番にして増やす計画だった。


 どうしたものか。

 馬と交換してもいい。

 薪を拾い、最近めっきり掛らなくなった罠をチェックする。

 獣の足跡。山犬か狼か。外周の柴垣を超えて中に入り込んで、立ち去っていた。賢い奴だ。罠を位置を変えて張り直す。柴垣の穴をふさぐ。

 牛が生きているという事は、牛小屋周りの垣根は突破できなかったという事か。


 山を越えた向こう、飛駒の牧へ行ってみようか。牛が居るかもしれない。

 飛駒の牧で牛を殺すのは、最近のアキラの副業となっていた。


     ・


 藤原兼光のところでは、鎧に使うために牛を多く飼ったのだが、殺すことが出来ずに悩んでいた。


「さっと殺しおればよかろう」


 愚痴をこぼす平良衡にアキラはそう答えたが、


「殺せば、牛育ておる百姓が怒る」


 飼育している動物を殺すのは、この時代、禁忌なのだ。

 飼っている馬の死期が近づくと、郷村の者たちは近くの神社の境内に馬を繋ぐ。ここで老衰して死ねば穢れにならない。神社の神馬とはつまりこういうことだ。


「では、狼に殺されたことにすれば良い」


 その通りなのだが、顔見知った武者ではすぐに知れてしまう、と平良衡はいう。


「そこでよ、吾子が狼にならぬか」


 そういう訳で、石灰を調達している百姓経由でたまに符丁が伝えられる。香木受け取られよ、が符丁で、それが伝えられるとアキラは背負い子と山刀を持って飛駒の牧へ行く。

 大抵は川のそばの木に牛が繋がれているので、牛捨場と呼ばれたちょっと離れたところまで牛を引いて、そこで牛の首に縄をかけて引き、首を折って殺す。殺し方はこれが一番汚れず暴れず都合が良かった。

 あとは解体して皮を剥ぐと桶に入れて石灰粉をまぶし置く。残りのうち内臓は埋めて肉は持って帰る。

 あとで肉は鹿肉と称して燻製にして北郷の者に振舞い、油脂は石鹸を試しに作るのに使っていた。油脂には大量の固化を妨げる成分が入っており、しかしこれが塩を入れると沈殿して分離できる。どうもこれはグリセリンの一種らしい。

 この取引でアキラは潤沢な石灰を得ることが出来ていた。


    ・


 勿論、符丁の連絡が無いのだから牛が居る訳が無い。

 馬に接種したらどうなるだろうか。異種を二度経由すれば、流石に弱毒化されるのではなかろうか。

 こうなるともう、動物ならなんでもいい、という気分になる。

 狼はどうだろうか。いや鹿ならまだ捕まえやすい。


 牛を囲う垣根の下から、何かが出てきた。

 ぴょこん、と、おや、耳だ。頭が見える。茶色の、野兎か。

 周囲を見渡す。耳は思ったより短い。

 捕まえようか。だがそこで物音を聞きつけたのか、兎は頭をひっこめてしまった。


 兎のいた場所には、垣根の下にトンネルが掘られていた。

 静かに垣根の中を覗く。見えるだけで三匹見える。

 なるほど、この垣根の中を安全地帯にしていたのか。気が付かなかった。普段は垣根の外にいて、外敵があると垣根の中に逃げ込むのだ。

 そうと分かれば話は早い。


 アキラは小川の河原石を薦袋一杯に詰めて戻ると、垣根の下に見える穴全てに小石を詰めて穴を塞いでしまった。

 勿論ほおっておけばそのうち穴を掘って全部に逃げられる。


 アキラは竹を編んで小さなケージを作った。兎にかじられたらすぐに逃げられそうなケージだが、今は仕方がない。

 薦袋の口に枝で枠を嵌め、棒を結んで兎捕り網とした。まぁ網ではなく袋だが。


 それからアキラは、陽が落ちるまで半日、兎捕り網を無為に振り回して過ごした。

 勿論収穫は無し。


 翌日、行商人はわずかに意識を取り戻し、水を飲み、僅かだが粥を食べた。意識そのものはまだ朦朧としているらしく、会話にはならない。昨日より呼吸は落ち着いていたが、水疱はほぼ半身、そして顔もまたぼ半分まで広がっていた。


 この日アキラは新兵器を兎狩りに投入した。

 拾えるだけの松葉を集めると、垣根のそばに距離を置いて積み、火をつけた。

 やがて垣根を超えて煙が中へと侵入する。燻して出すのだ。

 アキラはうまいこと、早速飛び出してきた一匹を兎捕り網に捉えることができた。さっと捻って袋の口を塞ぐ。

 えらく暴れる。けっこう重い。アキラは急いでケージに袋を押し込み、袋の口を開けた。袋から飛び出した兎をよそに袋をケージから引きずり出そうとしたが、兎が一緒に飛び出そうとして、アキラの頭にブチ当たってきた。

 滅茶苦茶痛い。兎を掴むとケージに入れて蓋を閉める。

 やった。

 

 その日アキラはあわせて二匹の兎を捕獲することができた。大収穫だ。

 兎は両方ともオスだった。というのも、キンタマらしきものがある。鼠蹊部に毛が薄い所があるのだ。

 これはちょうどいい。毛を剃る手間が省ける。


 その日の夕方、行商人は会話ができるほど体調が回復していた。


「荷は」


「燃やした」


 そこで行商人は少し考え込むと、此処は何処で、今はいつかと聞いてきた。


「ここは足利荘の奥山、吾子が病に倒れてから5日」


 これから病癒えても、あと十日はこの奥山に留め置くぞとアキラは告げた。

 行商人は自分の腕に浮かんだ水疱を確認すると、名乗った。

 

「武蔵村岡のタキジロウにあります」


 それは、遺族への通知の依頼だった。


   ・


 翌日、行商人の病状は一転して悪化した。

 水疱は目を覆い、もう目を空けることが出来ない。口の中にも水疱は広がっているようだった。

 その日の朝、僅かに水を飲んだのが、意識らしきものを確認できた最後の機会だった。

 アキラは兎狩りに精を出した。

 いぶり出し戦術は最後には兎の掘った穴に松の薪を突っ込むという荒っぽいものとなり、同時に仕掛け罠を用いるようになっていた。

 その日アキラは更に二匹の兎を捕まえた。全部で四匹いたのだ。


 翌日、行商人の全身の水疱は黄変し、見るもおぞましい姿になっていた。膿だ。

 ただひたすら苦しむだけの姿にはこちらの意思を砕いてくるものがある。一体何の罰なのか。どんな神だろうと、人をこのように苦しめて良い訳が無い。


 アキラは腕の水疱の膿を竹串で突いて中身を取り出した。陶器の小皿に採ると、ケージに向かう。

 ケージの兎は腹を上にして板に縛り付けられていた。兎を板ごとケージから運び出す。兎は鳴きながら暴れるが、足は縛ってある。

 毛の薄い部分に尖った竹串を押し付ける。

 あまりうまくいかない。毛はきれいに剃った方が良かったもしれない。しかし、もう遅い。

 アキラは力を更に込めて竹串を突き刺した。

 兎の甲高い叫びがこだました。


 翌日も行商人の症状が好転することはなかった。水疱近くの皮膚は黒くただれ、水疱は膿んで白く、黄色く、その姿はおぞましくカラフルだった。顔などもはや元の姿を留めていなかった。

 症状が好転すると水疱は瘡蓋になり剥がれるというが、その気配は全くなかった。


 これは助かるまい。


 水疱の内容物を接種した兎は今日はおとなしかった。そんなにすぐ発病するものでもあるまい。潜伏期間はどのくらいなのだろうか。


 翌日、アキラは行商人の膿をふたたび採取した。

 全身の症状はもう、行商人にまだ息があるのが不思議なほどだ。


 新たに兎に接種しようと準備をしていたところ、こないだ水疱の内容物を接種した兎のようすがどうもおかしく思える。

 なんかブルブル震えている。

 感染したのだ。


 結局、膿を接種するのは止めた。兎の数は限られている。


 稲苗の植えられていない水田の雑草を取る。用水を調べて、水の勢いで削られた場所があるのを見つけた。石を沈めて修復する。


 翌日、水疱の内容物を接種した兎を調べてみた。

 兎は足取りもおぼつかない様子で、暴れる気力も無いようだった。睾丸は腫れあがっていたが、膿んではいないようだった。いや、まだこれからだろう。

 しかし、いつ兎が死ぬかわからない。何せ小さいのだ。コロリと死ぬかも知れない。それでも、膿が生きていれば弱毒菌が取り出せるかも知れない。


 翌日、行商人は息を引き取った。


 水疱の内容物を接種した兎の睾丸を小刀で裂く。兎の血が器に注がれる。そこに白く粘るものも混じる。膿だ。

 確か膿は白血球の死骸だったっけ。免疫活動の結果だ。


 その内容物を竹串で、他の兎に接種した。今度は一度に二匹だ。さっきの兎を殺してしまったので保菌のバックアップが要るだろう。今度からはうまく血か膿だけ少量を取り出して兎を殺さないようにしたい。


 その次の日は兎の様子を観察して、行商人の墓穴を掘って過ごした。火葬にはするが、そのまま埋めてしまいたい。

 穴に薪を盛ると、アキラは行商人を荼毘に付した。

 行商人の死体は見ていられなかった。だから蓆で巻いて、できるだけ見ないようにして穴まで死体を引きずる。破裂した浮腫から垂れた膿が地面に黄色の跡を残した。

 膿の跡を削って墓穴に放り込み、その跡に石灰を撒く。


 死体を焼く。


 次の日は何もしなかった。


 思えば、もう随分と人と会話をしていない。しかし、誰に会う気もしないし、何か話すことがあるとも思えない。


 翌日、墓穴に石灰を撒いて土を被せた。土の上には墓石代わりの石が一つ乗っている。そのうち立派な奴を作ってやる。


 兎のほうはピンピンしていて、しかし睾丸が腫れ上がっているのが両方で確認できた。感染したのだ。


 さて、もう牛に接種しても良い頃合いだろうか。それとももう一度だけ兎を使うべきだろうか。

 ようやくアキラは少しだけ気が楽になっていた。純粋な天然痘の保菌者はもうこの場にいなかった。理屈の上ではここにあるのは弱毒化された菌の筈だ。つまり危険は大幅に去ったと言える。


「生きておるか」


 後ろから、ここで聞くはずのない声がした。

 振り向く。


 クワメだ。

兎を一羽、二羽と数えるようになるのは、もうちょっと時代を下った辺りでしょう。

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#68 天然痘について


 天然痘は感染するとまず潜伏期間が7日から16日前後あり、この間は他への感染力はありません。発病すると高熱を発し、これから一週間前後がもっとも感染力が強い期間になります。特に患者の唾液には大量の病原菌が含まれています。高熱と共に頭痛や腰痛の訴えがあり、発熱は40度にまで達します。発病後3~4日で発熱は一旦弱くなりますが手足に赤い発疹が現れます。

 やがて発疹は全身に広がり、発病一週間ほどで膨れた発疹から水ぶくれを生じます。発熱は再び烈しくなり、呼吸困難を生じることもあります。水ぶくれは膿を含んで膨れ、膿疱となって特に顔や手足を覆います。

 感染から10日が過ぎ、膿疱の表面が固く色が変り始めると感染力は衰えていきます。発熱も落ち着いていき、膿疱が瘡蓋となって剥がれ落ちるともう感染力は無く、治癒した事になります。天然痘は一生に一度かかるともう感染する事はありません。

 死ぬ場合、それは発病一週目から二週目、炎症反応や敗血症、ウィルス血症によります。体力さえあれば最悪の時期を乗り越える可能性もあります。逆に小児の致死率の高いのは体力の無さに起因するものです。また天然痘は感染者の栄養状態によっても死亡率の大きく変わる病気でした。流行のピークが春から夏の間であったと多く記録されているのはその為です。

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