#67:1020年3月 疫病
陽炎が立ち見えるほど暖かい春の日だった。
八幡宮の布施屋で行商人が熱を出したとアキラは後から聞いた。既に見舞いに葛粉が振舞われたので、葛湯飲ませて寝ておるだろうという。
アキラはその日名草谷の奥山に行き、戻った後は産屋のクワメと我が娘を見舞った。アキラの腕の中でネ子はぐずったが、寝かしつけるとそのまま寝てしまった。また起きて泣き出すだろうが、今は静かだ。
アキラの家はまだ出来ていない。蔵の増築のほうが優先されていたのだ。何せ春の祭りでは五百石の余剰収入があったのだから仕方がない。御蔭でアキラたちはほとんど屋敷の住人みたいになっていた。
まぁ、屋敷の雑色や女房たちに何かれ気を回してもらえるのは楽でいい。特にクワメの事を考えると歓迎すべき状態だった。
行商人の話は夕餉の席で聞いた。
「もう暖かいのに」
産屋に山菜を散らした粥を持っていくと、行商人の話に対してクワメはそう言った。
クワメは産後からもう見た目ほとんど回復していた。しかしそこからなかなか体力がつかない。精神状態もあまり落ち着いていないようで、時々なにやら影を見るという。
この時代の人々は暗闇に妖や鬼神の影を見がちだが、クワメはそう言う類の物には無縁だとばかり思っていた。しかしこれも、不安な気持ちが生み出す幻だろう。
行商人の病気は気になる。
傷寒は暖かい頃合いでも掛かることがあるゆえ、何とも言えぬし、腹の虫が暴れても脂汗かくことがある、そう古い雑色は言う。
腹の虫。寸白、寄生虫か。実にありそうな話だとアキラは思った。寄生虫駆除の手段らしきものでも無いものだろうか。
ただでさえこの時代カロリーが少ないのだ。寄生虫にくれてやるカロリーは無い。
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翌日も行商人は良くなる気配は無く、高熱を出してうなされているという。腰が痛いと言い出して大変であったと雑色は言う。
人の出入りがあまり無い時期で良かった。農繁期にはあれこれ買い込んだりする暇はない。食中毒だったとしても他に広がる心配が無い。
この時期、大学のほうは皆農作業をやるために郷に戻っていて休学状態だった。田植え休暇という奴だ。勿論秋には稲刈り休暇がある。
田には水が入り、代掻きが始まっていた。馬でおこなう代掻きに皆切り替えたのか、馬で鋤を使う姿しか田には見えない。
アキラも自分の田を代掻きするのに忙しかった。終わったら上名草の小金部岩丸に馬を貸す約束だ。
その翌日は幾人かほかの行商人が通りがかったが、布施屋を利用するものはいなかった。行商人の病状は良くならず、流石に何かせねばという話になった。
「アキラよ、何ぞ効くまじないは無きや」
薬が有る訳でも無いので、こういう話になる。
実際この時代、病気となると陰陽が一番効き目があると云う話になっている。それはそうだろう。西洋医学とか漢方とか、そういう次元ではなく、その遥か以前の段階に医療と言うか、医療もどきは存在していた。
こういう時代、病気の原因を考えると、結局悪鬼疫神のせいだという事になる。そうなると陰陽師が"蘇民将来子孫也"と書いた紙を家の柱にペタリと貼る、または追儺の儀式を盛大にやる事になる。
勿論仏式もあるが、これは結局、前世の宿因という話になるので供養法会をやることになる。
ちょっと変形パターンもあって、唯識論に関する書物が家にあると疫神が避けていくという話があるという。そこまでして唯識論を権威付けたいのか。
そういう事なので、普通にしているのがこの時代、一番良い。
「良く食わせ、水良く飲ませ、暖かくさせるが良き」
少し回復して来たら肉でも食わせようかとアキラは考えた。
その日の夕餉、行商人の体に赤い斑点が浮かんだという話に、疱瘡やもしれぬ、という声が上がった。
郎党の中で最も年上の男だ。顔の半分を古い痘痕が覆っていた。
「誰ぞ他に熱出したる者はおらぬか」
男の問いに誰も応えない。
「赤斑有りとて疱瘡とは限らぬ」
尼女御が言う。以前、赤斑が同じように出たが、あばたが出ずにそのまま死ぬ病が流行ったという。
「但し、人死に出るのは同じぞ。
これより塩売りに触る事ならぬ。誰ぞ他に塩売りに触りし者はおるか」
尼女御は一同を見渡して言った。
「吾が今朝、粥食わせ水飲ませました」
雑色が言う。良く食わなかったので、その場に椀置いて帰ってきたという。
「吾子はもう誰にも触るな。何にも触るな。十日離れておれ。
十日のうちに熱がなければ、とりあえずは良かろう」
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翌日朝、クワメと我が子のまだ寝ているのを見ると、アキラは渡ら瀬の布施屋に向かった。
巻いた蓆を担いで、念のためとエプロンとマスクをし、両手には肘まである皮手袋をしている。腰には刀の代わりに携帯鉄鍋をぶら下げていた。
布施屋は壁のある二間四方の建物と壁のない二間四方をくっつけたような代物だった。寒い頃は壁のあるところで旅人は休み、暑い頃は壁のないところで寝る。
行商人は壁のない板間の真ん中に寝ていた。傍には荷物が放り出されている。担いでいたのは紙と墨か。これまで行商人というと塩がその商品のメインで、だから塩売りと呼ばれていたが、そろそろ塩ではなく他の商品でもいい商売ができると考える行商人が現れるようになっていた。
喉から手が出るほど欲しい品物だったが、最悪の場合、焼き捨てねばならない。
「つらくなきや」
板間に草鞋のまま上がり、声をかける。
尼女御の接近禁止の指示に明確に逆らう行動だったが、以前から考えていた事を行動に移さなければならない。
「吾子はいずこより参られた」
反応は無い。荒い息のあいま、いや、反応か。開かれた目は薄く濁っていた。
話に聞いていた赤い斑点は今や全身を覆っていた。ぽつぽつと水疱が見える。
間違いない。疱瘡、つまり天然痘だ。
最悪の事態だった。
傍の椀には粥が手を付けられず置いてあった。取り上げると川までもっていき、中身を洗う。
渡しに誰もいない。渡し舟は対岸にあって、声を上げたが誰も応える気配が無い。
悪い予感がする。
椀に手押しポンプで汲んだ水を満たして、行商人のところに戻る。
行商人の身体を起こそうとして、その身体に触るのを躊躇する。アキラは考える。まだ助かる可能性は充分にあるんだぞ。
とりあえず、その口に椀を近づけ、唇を湿らせる。
手が動く。反応はちゃんとある。アキラは行商人の頭を抱えて、水を飲ませる。
しかし、最初の一口でかえって反応が悪くなったように見えた。息が荒々しくなる。
天然痘にかかって助かる割合というのは、どの位あるのだろうか。
近郷で見かける、大人の手足や顔にあるあばたの跡は、天然痘にかかって生き延びた証だ。天然痘は死病だが、しかし必ず死ぬ病気ではない。
しかし、恐らく小さな子供にとっては致死率は100パーセントに近い。当然いて然るべき、働き盛りの若者の世代が丸ごと社会から欠けていた。19歳以上25歳位までの世代だ。
それは前回の大流行の時に小さな子供だった世代でもある。
行商人の脇に蓆を敷いて、その身体を蓆の上に移す。
もし彼が死んだとき、これで移動させやすくなる。蓆の端を引っ張っていけばいい。
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着ているものを全て脱ぐと河原の石の上に積み、川に入るとそのまま対岸まで泳ぐ。
渡し舟のもやいを解き、棹を差して足利側に渡し舟を移動させる。これで多少は人間の移動を阻止できる筈だ。
更に舟を引っ張って陸に上げてしまおうとしたが、無理だった。馬で曳くしか無いだろう。もしくは、もう焼いてしまったほうが良いかも知れない。
流木を拾って火を熾し、身体を石鹸で丁寧に洗った。震えながら焚火に裸の身を晒す。
石で竈を作り、川の水を汲んだ携帯鉄鍋を置く。
流木と燃える薪で火を熾し、水が沸くのを待つ。待っている間に八幡宮に置いていた木桶を取ってきて、そしてまた待つ。
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話しに聞く疫病は皆疱瘡と呼ばれていたが、どうも二種類あるらしいというのは尼女御の言う通りだ。どちらも赤斑が浮かぶまでは同じだが、天然痘のほうはそこから水疱が出来て、それが膿んで広がる。
漢字で書くと疱瘡、水疱瘡の一種くらいに思っていたら、その被害はえげつないなんてものじゃなかった。生き延びたものの顔に残る痘痕を見て、ようやくこれが天然痘だとアキラは気づいた。
要するに、ワクチンが偉大だったと言う事だ。アキラはそう結論した。
天然痘のワクチンの作り方だが、人の天然痘の菌株を牛に植えて弱毒化し、これを数回繰り返せば出来るのではないかという見通しをアキラは持っていた。
ジェンナーだったか、ヨーロッパで使われた牛痘を手に入れる充ては無い。使えるのは天然痘の膿、人痘だけだ。これを弱毒化するのに牛はきっと使える筈だ。しかしこれはアキラの勝手な想像である。
さて、問題はワクチンの元になる菌、人痘だ。これを手に入れるには天然痘にかかった人間、つまり感染者の膿が必要だ。
つまり、地獄がこちらのドアをノックしてこなければ、ワクチンを作る準備すら出来ないのだ。
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木桶に革手袋を入れ、携帯釜の熱湯を注ぎ込む。湯が足りないか。木の枝を使って全体が浸るようにする。石灰が欲しいところだ。
取り上げた革手袋は熱のせいかゴワゴワと固い感触になっていた。もう決して以前のような柔らかな感触は戻らないだろう。だが、その感触のおかげで、十分な熱が与えられたと踏むことが出来た。
消毒はこのやりかたでうまくいくかも知れない。エプロンとマスクも湯に投じた。
荷箱を燃やすと、燃えて壊れた個所から中身がこぼれ落ちた。きれいな白い紙が何十枚も、しかし一瞬で火に焼かれていった。
生乾きの服を着て屋敷に戻る。
朝餉の席に招かれるのを辞して、廻縁の外から言う。
「布施屋の塩売り、見たところ赤斑に水膨れありて、話に聞く疱瘡で間違いなきと見ました。
これ見るに当たって、前掛けし皮手袋付け、見終わりし後は湯で洗い、疱瘡の毒を避けましたが、それでも毒に侵されおるやも知れませぬ。
ならばひと月、奥山に離れ籠る事、布施屋の塩売りの面倒を見る事を願いたく」
アキラは頭を下げた。
「三郎様、お許しあれ」
「屋敷にはまだ小屋離れあるゆえ、そこに半月籠れば良かろう」
頼季様の声に頭を上げる。
「疱瘡の毒に打ち勝つ術を編み出したく、その為のひと月にて」
「クワメはどうする」
「赤子共々預かり頂きたく」
「疱瘡の毒に勝つと、言うたか」
尼女御は、無駄であろうと切って捨てた。それより半月籠って、すぐに屋敷で働かねばならぬと言う。忙しき頃合いぞ、と。
冷静な意見だ。種痘を知らなければ尼女御は完全に正しい。
そして、もうすぐ田植えなのだ。
しかし、
「疱瘡が広がれば、それどころではありますまい」
「目代仕事があろうぞ」
「渡しを封じ、各々郷に籠らせるが良かろうと」
感染拡大を防ぐのが、今この時代に採ることができる次善の策だろう。
「疱瘡は終わるまで長き」
「長くなりましょう」
もはや通常の生活は諦めて欲しい。
「うまく行けば、それがひと月になります」
アキラは柔らかい声で言った。
「田植えは遅く行いましょう。多く死ぬよりは良きかと」
残り細かいことは書き物に起こしております。クワメに文箱の事聞かれよ。クワメには書き物の中を読み聞かせ願いたく。あと、暫くは布施屋に近づかぬよう。
アキラは足利屋敷をしばし、辞した。
・
行商人は馬橇に乗せていた。
弱々しいうめき声をあげる行商人を蓆で巻き、更に藁縄で橇に固定する。今のところ行商人には触れずに作業できている。
アキラは行商人を単なる天然痘の膿の供給源と割り切っていた。とにかく必要なのだ。よく手当てをすれば生き残るかも知れない。しかしその手間で弱毒化人痘を作るのが妨げになるなら何にもならない。
クワメを救い、屋敷の皆を救い、大勢を救う。その為の犠牲になってくれ。
橇を引いて奥山へと向かう。
もう陽は高く、田にはもう出て働いている者も見える。
「近寄るな!疱瘡ぞ!」
アキラは繰り返し叫ぶ。
気が付くと誰も見えなくなっていた。
上名草谷の者にも近寄るなと言い、詳しくは屋敷で聞けと付け加えた。彼らはもうちょっと情報があったほうが良いだろう。
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名草谷の奥のアキラの田は、ほぼ二町あまりが開墾されていた。
開墾余地は大きいものの、アキラが忙しいのと、石垣積みする畦の面倒で、なかなか田は広がっていない。
柴垣を超える。ここには鍵付きの物置小屋を一軒、校倉を一軒建てていた。
更に奥へと進む。春先に野焼きした草原には新しい柔らかな草が伸びていた。ここは牛を飼うために作った牧草地だ。
それが奥まで続いていて、そして奥にもう一つ背の高い柴垣と牛小屋があった。隣接して作業小屋と厩もある。
橇から馬を外すと、馬を繋ぐ定位置にしている木に繋ぐ。桶に水を汲んで馬に飲ませる。
アキラは柴垣の戸を開けると、中に橇を引きずって入れた。
牛小屋は空きがあり、その一間をアキラは行商人の病床に充てるつもりだった。
作業小屋に戻るとアキラは備蓄品を確認し、早速湯を沸かし始めた。革手袋を取り出し、エプロンを用意する。
用意が出来ると、病床に充てた一間を佩き、簀子を敷くとその上に藁を敷いて床を整え、そして行商人を抱えて床に移した。
一度服を脱がせ、身体を拭き、こびりついた排泄物をそぎ落とす。もう一度身体を拭き、用意していた古着を着せる。脱がせた服は焼き捨てなければならない。
服と道具を煮沸し、川に行ってまた石鹸で手足を洗う。
考える。
問題は今、ここに牛が一頭しかいない事だった。
#67 歴史に見る疫病について
症状に特徴のある天然痘は、記録に残された疫病の中でも特定のし易いものでした。
「日本疾病史」によれば記録にある最初の天然痘の流行は天平七年(735年)まで遡ります。これは記録によれば大宰府から流行は東進し、明らかに海外からもたらされたものでした。以降三十年程度、つまり前の流行による免疫を持たない新しい世代が人口の大部分を占めるようになる度に、天然痘は大流行を繰り返しました。
長徳三年(998年)から長保三年(1001)までの長く続いた流行は極めて厳しい被害をもたらしたものと思われます。一方この頃には流行から流行までの間隔は20年ほどにまで狭まっていました。これは長期のうちに病原菌が弱毒化をしたものと考えられています。流行の間隔は次第に短くなり、十三世紀には天然痘は小児の病気とみなす記述が現れるようになります。
ただこれは、大人では生存確率がかなり高くなるものの感染は変わらず、あばたの痕は残るものでした。種痘が普及するまで、天然痘のあばたづらの人々は多く見られるものでした。
1020年の流行は、前年の刀伊の入寇と関連して、海外から入っものという説が広く流布しました。この次の記録に現れる流行は1025年と近く、これは実際には1020年からずっと続いていたものを記録する側が捉えきれなかったものと思われます。