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#63:1019年12月 法要

 寒風の吹く中、アキラたち一行は松戸に上陸し、用意のあった馬に乗る。アキラの馬の尻には弔問の品が載せられていた。

 一行の先頭は源頼季様、次が信田小太郎、最後がアキラという順だった。

 千葉までどのくらいの距離だったっけ。アキラは考えた。

 平忠常の父親、平忠頼の一周忌がおこなわれるという千葉寺までどのくらいかかるのか。21世紀には千葉方面にはディズニーランドより先に行ったことが無い。


     ・


 半日がかりだった。

 おおよそ、足利から上野国庁くらいの距離感だ。千葉ってそんなに遠かったのか。


 目的の千葉郷の前の辻には、五騎ほどの直垂姿の武者が待ち構えていた。何かと思ったが、出迎え役らしい。うち一騎に案内されて、宿となる民家に案内された。寺の伽藍が森の木々の向こうに見えるが、一周忌はあそこで行うらしい。


 葬儀でも四十九日でもなく、一周忌をなぜ盛大にやるのかと言うと、葬儀の前に不吉なことがあったからだそうだ。

 葬儀を前にして喪に服す屋敷に鬼が訪れたのだと、案内の武者は言う。


「勇ましき者有って、鏑矢を射掛けたものの、これが矢傷を与えることなく」


 しかし確かに鬼に矢は当たったのだと言い、そこで落ちていた矢を拾い見るに、確かに矢の先が潰れていたという。


「その屋敷は、下総の国府近くの」


「然り」


 アキラにはとても身の覚えのある話だ。正月に平忠常を訪ねようとして下総国府周辺の屋敷にお邪魔して、そこで矢を射掛けられた。

 脂汗がちょっと滲む気がする。


「アキラよ、如何した」


「いえ、何も」


 案内人の話は続く。

 陰陽師の言うには、強い鬼が関わっているのだから、葬儀を盛大に行っては障りがある。しかし三百二十日経てば良い。

 そういう訳で一周忌を盛大に行う事になったのだと言う。


 それにしても、かなり大規模な法事のようで、足利屋敷の聞き及んだだけでも、上野、下野、武蔵の国司、そして藤原兼光にも案内が届いている。

 恐らく国司は来ないか、下野のように在庁を代理に寄こす事になるだろう。下野の場合、藤原兼光が下野の国司代だ。武蔵からは藤原の真枝という在庁が国司代として来ていた。

 上総は国司本人が来ているようだ。流石は平忠常の直接支配圏というところか。



 アキラは手伝いという名目で舞台裏に潜り込んだ。いや本当に潜り込んだというより、客人に顔の効く便利な奴という点を重宝がられて、そのまま頼られた。


 どんな客人が呼ばれているのか。宴席の席順は、寄進は、そもそも平忠常はこの法事にどのくらい動員しているのか。知りたい情報を得るには舞台裏はもちろん特等席だ。

 実際のところ下総側は客をもてなすどころか、案内にも人出が足りていなかった。

 字の読めない雑色たちに指示して、法事の後の宴席の準備をさせているところに、見知った顔が通りかかった。


「吾子は何故ここにおるのか」


 葛飾の郡司だ。


   ・


下総権介(平忠常)の勢いの良きを見るに、下働きこそ見所であると思いし事にて」


 下総の様子に凄く感銘を受けていて学びたいのだ、その一心から出来るだけ多くを学べる近くで手伝いをしているのだ、そういう屁理屈をアキラはなんとか捻り出すのに成功していた。スパイ行為も言いようである。


「何とも良き心がけにて」


 葛飾の郡司の顔からは疑いはすっかり消え失せて、アキラのいう事を100パーセント信じているように見える。この郡司、チョロ過ぎないか。

 下総の常陸に対する塩供給のコントロール、あの経済攻撃の首謀者として葛飾の郡司を疑ってはいたが、これは無理な感じがする。あれは、もっと裏も表もある巧者によるものだろう。


 宴席の席順をどうするか話し合う。

 宴席の決め方としては官位職位の順と、年齢順の二種の考えがあるだろう。ここは公の席ではないのだから何らかの式に則るという訳でなく、礼つまり儒教に従って順位を決めればよい。

 だが、アキラには儒教はさっぱり分からない。


「何ぞ陰陽で何とかならぬものか」


 そんなものは無い。アキラは誰か論語か何か学んだ者はおらぬかと聞いたが、葛飾の郡司の知る限りに誰もいないという。しかし、


「都の方なら知っておろう」


 恥を忍んで、今来ている上総の国司に教えを乞いに行こうという話になった。

 全く失礼な話だと思うが、失礼と言う概念そのものが儒教のもので、それが無いのだから仕方がない。

 勿論アキラに付き合う義理は無いのだが、付き合うことにした。


「これも何かの宿縁であろうぞ」


「ありがたい。アキラ殿が菩薩の如くみえるぞ」


 はいはい。


 国司ともなるとその扱いは特別になる。

 千葉郷の富豪の家に上総の国司は宿泊していた。


「しかし何故上総であるか。下総の国司のほうが馴染みあろう」


 アキラが聞くと、下総守は既に都に戻られたという。

 国司の任期は9月初めから、4年後の8月終わりまでだ。国司の任地が決まる除目は正月のうちに決まり、その後準備や前国司からの引継ぎなどをやって、9月から任地で勤務するのが決まりだ。そして決まりでは、前任者は直前の8月までいないといけない。

 しかし今では、調の税さえ都に収納して書類をすっかり済ませてしまえば、いつ都に帰ってしまっても良いらしい。例え国司の勤めとされた正月の拝礼をサボっても、だ。


 対して、葛飾の郡司の言うには上総の国司は任期を全うするつもりらしい。


「上総介は学のある方によって、吾らもよく難しき事聞きおる」


 こっちの富豪の家は垣があるのか。千葉郷の外れに大きな萱屋根を乗っけた家があるが、敷地の中には馬小屋と小さい土壁の蔵も見える。柿の木も生えている。立派な屋敷だ。


「上総介はおらるるか」


 雑色か家の者かわからない男にそう聞くと、素直に家の裏手に案内された。


      ・


「まず、客に席次を尋ねるというのが宜しくない。

 ……しかしまぁ、分からぬ話ではない。良かろう」


 上総介は落ちていた枝で地面に図を描いていく。


「北面しておるとしてだが、奥を上席、更に向かいて右を上席として並べる」


「席の列を二つ用意しております」


 葛飾の郡司がそう言うと、


「端を上席とせよ」


 ああ、相撲の関取表と同じ感じになるのか。


「官位あればこれが上席となる。これは(おおきみ)が与えたもうたものであるから、天道に即してこれを尊ばねばならない」


 ふむふむ。


「出家した者は元の官位に即して扱う。官位なければ老幼の序に従いて扱う。職位は官位相当に扱う。元職も現職に準じて扱う」


「官位調べておるか」


 アキラは葛飾の郡司に聞く。


「無論調べおる」


 郡司はもう一本枝を取って、地面の図に位置を書き足してゆく。


「従五位が一人、正六位が一人、従六位上が三人おる。で、六位下が二人」


 そしてアキラのほうを見やって、


「で、ここに七位がおる」


「七位は無きと同じにせよ」


 アキラは顔をしかめて言う。頼季様より上席になるような事は絶対に避けたい。


「ほう、吾子が話に聞く七位か」


 如何な経緯ぞと上総介が聞いてくるが、京を訪れた時に何があったのか、実のところは良く判らぬとしか言い様がない。


「下野が近頃何ぞ盛んであるとは聞いておる」


「この男の働きにありましょう」


 上総介の言葉に葛飾の郡司が答えて言う。


「粉炭にて塩焼く件、この男の御蔭なれば」


 ふむ、と上総守は思案顔になると、


「うち所でも目代働き頼めば良かったな。もう任期終える故縁なき事だが、重任あれば頼もうぞ」


 受領は皆同じ国を二期担当する重任を望むが、御堂関白こと藤原道長ゆかりの家司しかそういう厚遇は望めないとアキラは知っていた。


    ・


 寺では既に法要が始まっていた。

 喪服でも着なければいけないかと思ったが、そういう事は無いようだった。足利荘の三人は全員直垂姿である。

 尼女御に聞いたところ、帝の葬儀の際は服装も全て事細かに決められては居るが、他はそうではなく、そもそも帝の葬儀の際も服喪の範囲や期間の決まりはほぼ無視されており、葬儀でもない一周忌となれば、大人しい服を着ていればおおかた問題ないとの事。

 回廊の中で護摩でも焚かれているらしく、白い煙が敷地内に漂っていた。


 懐から数珠を取り出して、頼季様の横に滑り並ぶ。


「遅参しました」


「良い。間に合っておる」


 とは言われているが、どうやら読経はもう終盤らしかった。


 どーいつしょーこーにゅーあーーじーー 


 鉦が鳴る。また鳴る。しばらくおいて、小さな鉦が鳴る。


 どうやら終わりらしい。

 暫くすると、施主である平忠常が出てきた。灰色に染めた麻の直衣(のうし)を着ている。


「皆の方々、今日は我が父、前陸奥介、村岡次郎忠頼の没一周忌に参集、有難く思いおります。

 まことならば四十九日など執り行いたい所、忌み事を避けて今日の事盛大に行う事となりました。

 方々この場に遠くより来給いあり、有難き事、これも我が父の遺徳かと」


 客は皆境内の中庭にいるから、金堂に上がる階段の上にいる平忠常は客を見下ろす位置にいる。


「吾が父、忠頼について子が申す所は思うより少なく、滅罪生善のためと仏事供養を怠らぬ様はよく見ておりましたが、いくさ事で働きをしたところ見ておりませぬ。

 思うに世にこれほど大いくさ無き世が続いておるのは、これぞ吾父の天下騒乱を好まぬ善心ゆえ、働きゆえにありましょう」


「いくさばかりしておった癖に」


 誰かが小さく呟くのが聞こえた。


「善成すを好むはこれ治徳あっての事。祖父鎮守府将軍良文の遺徳もまたありての事。

 将門公の大徳もまた、吾父に連なるものにて、これら徳行思うに子として心厳しく思いけるに」


 平忠常の後ろ、少し離れて数名見えるが、一名やたらと若いのがいる。


「五郎太ぞ」


 頼季様がひそひそ声で教えてくれる。


「簗田の郡司の息子、下総に住んでおるとは聞いておったが」


 平忠常は喋り続ける。


「将門公を害した悪徒共、あるものは滅び、又あるものは衰え、これも皆悪行の報いにて。

 近きは常陸の太夫、古きは仏道神道に背くもの、悉く罰を受ける事覿面なり。


 しかるに近頃の常陸の者共の有様、これ将門公に害なした報い、そして吾が父の恩功あってのこと。

 数多ある賊党悪徒共も、いずれその身に」


 そこで、はっきりとした声が割り込んだ。


「悪徒とは吾子の事ぞ、平の忠常」


 役職名全て省いて名前で呼ぶ。公の場でのそれは、敬意を完全に欠いている。

 アキラあたりがその名で呼ばれるのとは話が違う。上総、下総の実質支配者を相手にした話だ。


 声の主は、回廊から金堂に渡る廊下の上にいた。一段高いところだ。

 よく知った顔、信田小太郎だった。

#63 葬儀について


 この時代、立派な墓が作られることはありませんでした。そもそも土を動かす事が忌み事で、これに死体という特級の穢れが加わると、もう死体の為に何かするという事がなくなります。結果として賀茂川の河原にはうち捨てられた遺体のなれの果て、遺骨がごろごろと転がる事になっていました。このように基本は放置でしたが、火葬や土葬が無かった訳ではありません。

 墓に卒塔婆を設置するのは平安時代後期から一般的な物となります。この卒塔婆が石になったものが現在の墓石の起こりです。それまでは墓に目印となるものも無かった訳です。そういう訳で子孫も先祖の墓がどこにあるのか分からないという事態もよくありました。

 平安時代の法要は墓や遺体を必要としていませんでした。故人が極楽へ往生を遂げるよう、僧を呼んでの追善供養をおこないましたが、それは遺体や墓のような実体を必要としませんでした。

 法要は葬儀だけではなく、初七日、四十九日、一周忌などの節目ごとにも行われました。喪に服す期間は一定ではなく、その範囲も一定ではありませんでした。天皇の服喪は長く綿密に決められていましたが、この時代は大幅に簡略化されています。

 服喪の最長は儒教の求める三年ですが、これは仏教式に三周忌と言うかたちに翻訳されました。盛大な法要が服喪の代替物となっていったのです。

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