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#57:1019年8月 放生会

 放生会の目的は結局のところ、祭りである。

 領民が浮かれて遊ぶイベントを催行するのも足利荘代の務めである。これまでは盂蘭盆祭に酒を一杯振舞うのがせいぜいであったが、涼しい夜に明かりを灯して騒げるイベントとして今年から生まれ変わるのだ。


 勿論、市を並べるのも放生会の目的だ。珍しい物品を見るだけでも貧しい百姓にとっては娯楽なのだ。勿論一つ二つ買ってもいい。足利荘の田率、つまり税率は一段につき二斗に据え置いており、地元の百姓は他郡と比べて比較的余裕がある。

 税率を低くしても、その余裕で屋敷の息のかかった製品を買うことで、屋敷の収入は充分以上に辻褄を合わせることが出来ていた。郷民の中には買ったものを他郡に転売する者もいると聞く。

 足利荘全体が豊かになる仕組みが廻りだしていた。


 祭りには傀儡子が舞台を出していた。

 松の木の間に白黒の幕が張られ、紅白の幟が立てられて微風に揺れていた。幕の上から竹馬らしきものの先が見える。

 ポン、と鼓の音が響いた。


 祭りは前日から始まっていた。

 多くの人が遠方から足利目指して訪れていた。上野や遠くは武蔵から。いや、最近ではもう武蔵は遠くないと考えるべきなのかも知れない。

 泊まり込みで来た客を布施屋では全員を収容できないことは明らかだった。河原で焚火をして幕を張って収容したが、これはもう商売にでもしないと割が合わない。

 次の朝になると、松の木を乾留して作った燻し薬の液は蚊除けとして飛ぶように売れた。


 当日は昼過ぎから法要が始まった。

 木の台に畳を敷いた壇が八幡宮境内に設けられ、弁徴法師がそこに座って、読経と講話をして、そしてアキラたちはその前に蓆を敷いて座ってじっと拝聴することになる。

 勿論百姓たちはそんなものに興味は無い訳で、遠巻きに眺める者もやがて入れ替わって散っていく。祭りは傀儡子や食べ物の屋台ばかりではない。あちこちに茣蓙を敷いて煮炊きをし、互いに食わせ呑ませ、歌い踊る、それも祭りである。

 つまり、歌い声や囃し声、笛吹く音などが聞こえて来る訳である。次第にそれらが腹立たしくなってくるのも仕方が無い。


 とはいえ弁徴法師の講話は相変わらず面白く、アキラは真面目に聞いてしまった。



 陽が傾きだした頃、手桶が先ほどの講話を聞いていた連中に手渡されていく。彼らは何がしかの喜捨をして、法要の特等席と魚獣助命の功徳を積む機会を得たのだ。

 その中には梁田郡の郡司や山田郡の郡司も見える。芳賀郡の郡司も遠路はるばるやってきていた。郷長や富農たちも、アキラの手から手桶を受け取っていく。

 藤原兼光にも招待状を、伺いの手紙を出したのだが、やはり本人は来なかった。来たのはいつもの平良衡が名代としてである。

 手桶にはそれぞれ魚が一匹づつ泳いでいる。ひとつだけ中身が亀で、誰に当たるかと思ったが助戸郷の郷長だったらしい。


 皆ぞろぞろと太日川の河原へと向かう。その先で篝火が点けられていく。

 それぞれが川面に魚たちを放流し終えると、儀式は終わりだ。空になった手桶を回収すると、それぞれを幕を張った宴席へと案内する。

 陽は落ちて暗くなる中、篝火は燃え笛と鼓の音が響き、それぞれの席で皆料理と酒に興じることになる。


 勿論アキラは別だ。


 流石に放生会の料理に獣肉は使えない。そこで用意したのはキノコ三昧だった。アキラは法師の傍について椎茸の冷や汁や、房のままの塩茹で大豆を説明した。

 宴席のメインはほうたく、要するにほうとうだ。麦粉を練って細かく麺に刻んで茹で揚げたコシのまったくない麺を、醤を冷水で薄めたものにつけて食べる。醤は最近流通が増えて値下がり気味だが、まだ高価だ。

 次いで市に行って、盗みの被害を聞く。盗人を捕まえることは難しいだろう。この人出で夜間だ。

 喧嘩の仲裁のあと、宴席に戻る。

 この宴は地域の有力者が顔を合わせる絶好の機会だった。顔を繋ごうと瓶子を持って席を廻る山田郡の郡司にはなんだか既視感を覚えてしまう。千年後の社会人しぐさの源流がここにはあった。

 機会といえば男女の出会いの機会でもある。そうは聞いていたが、暗がりには確かにそれらしい人影が散在する。


 尼女御と弁徴法師が休まれるのに付き合って屋敷に案内し、戻ってくると、宴席の人数は随分と減って、しかもたっぷり酔っぱらっていた。

 何か言いたげな池原殿を無視し、ほとんど酔いつぶれかけている頼季様に柄杓で水を持っていく。


「ああ、良い心地よ」


 一丁前の酔っぱらいのような事を言われる。そろそろ引き上げませぬか。


「ん、宴主が先に下がってまずかろう」


 宴のほうは見ての通り、これは終わっておりましょう。後の事はそれぞれの供の者に任せましょう。供の者たちには屋敷への案内をしておりますれば、後は良く事運ぶでしょう。

 

「ふむ、アキラの言の通りよな」


 頼季様は立ち上がると、いきなり転びかけた。足元があぶない。

 しかしアキラの手を振りほどくと、


「良き風よ」


 歩いていく。アキラは篝火から薪を取って松明にして、付いていく。


「アキラよ。

 山田郡の郡司が言っておった。この宴席の者はみな源氏の若君の御方であると」


 それはどうかとアキラは思う。例えば簗田郡の郡司は藤原兼光の後継となる筈である。これは逆に足利が藤原兼光に取り込まれていると評する向きもあるやも知れない。

 ただ、上野、下野の四郡の郡司と荘代が酒を酌み交わしたのだ。この意味は大きい。


「郎党も手勢も無く何も無き様から、ここまでになるとは。ああ良い心地よ」


 アキラは黙って付いていく。

 夜の川面を吹き渡る風は、既に秋の風情がしていた。


    ・


 翌日アキラは弁徴法師を北郷党に任せて送り出すと、流石に疲れ果てて昼過ぎまで寝こけてしまった。

 弁徴法師はアキラの持たせた土産、鉄釘と錯視図形を描いた数枚の紙を押し抱くように持って帰られた。ちょっといい気分だったことを告白しよう。

 起きると、祭りの後始末だ。

 最後まで残っていたのは行商人たちで、夕方アキラが炊き出しのついでに酒を持ち込むと、そのまま布施屋で宴会となった。


 アキラの格好は目代と言うより雑色のそれだ。もう一人、信田小太郎が近くにいる筈だが姿は見えない。あと数人の武者が目立たない位置に控えていると聞いていた。


「ところで、鎮西で賊あったと聞いたが、細かい話知る者はおるや」


 最近屋敷でも話題になった話だ。都からの手紙に頃触れてあったが、新たに武者を九州に送るような話では無かったらしい。


「賊とは、純友のごときか」


「新羅の賊ぞ。海超えて対馬壱岐荒らし、大宰府襲いおるときく」


 元寇みたいなものか。時代的には250年くらい違う話だが、アキラにはそんな日本史の知識は無く史実にある話なのか判断が付かない。


「大変なことであろうが、遠きことよな」


 しかし東国では、反応はこんなものである。


「唐物入るに難であろう」


 輸入品は何でも唐物と呼ばれる。商人なのだから貿易への影響を考えるのはごく自然な話だ。


「唐物入るは鎮西のみとは限らぬ。越前や若狭も」


「越前も若狭も、海の向こうに新羅あるは同じぞ」


 熱心な会話のやり取りは、唐物の扱いが減るであろうという事で結論を見たようだった。


 アキラは、行商人のうち一人が、どうも他と違うのに気が付いた。

 違和感の理由に気づく。背負い式の荷物入れ、長櫃の置き方だ。

 行商人たちが皆背中の後ろに置いている長櫃を、一人だけ右手の近くに置いている。まるで、いつでも箱の中から何か取り出せるようにしているかのようだ。


 足利の桶は常陸で売れるだろうか。アキラの問いに、酒で口が軽くなった行商人たちは様々に見解を披露した。


「売れるとも。売れずにおるか」


 上野の山中を廻るという行商人はベタ褒めするが、


「いや、売り歩く者がおらん。近頃の常陸の馬借は当てにならぬ。この夏はどこにもおらん」


「それはそうであろう。常陸に塩が出回っておらぬ」


 東の方に良く行くという塩売りが、口々に常陸は駄目だという。

 常陸では春には安く出回っていた塩が、ふた月ほど前の頃から出回らなくなったのだという。


「内海におった藻塩作りどもが散所しおったのは聞いておろう。常陸ではもう塩を作るものがおらぬ。馬借も塩売る事なくなった」


「そもそも馬飼うに塩が要る」


 ああ、という空気が一同に漂う。常陸の流通に異常事態が起きている、その理解が共有されたのだ。


 恐らく、下総が塩を常陸に売るのを禁じているのだ。知っての通り、鬼怒川を渡る地点は限られている。そこで塩の流通を停めてしまえばいい。

 それだけならば、常陸内で生産される塩で需要を賄えばいい。しかし下総は周到に前もって安い塩を常陸にたっぷりと供給した。勿論それは、上野の炭粉を使って葛飾で安く製造されたものだ。

 価格競争に負けた常陸の藻塩製造者たちを廃業させた上での周到な手際は、とてもじゃないが商取引を理解しない平忠常のやったこととは思えない。


    ・


 気が付くと目を付けていた行商人が消えている。アキラは静かに席を立ち、布施屋の外に出た。

 布施屋の周りを一周すると、地面に矢印が書いてあるのを見つけた。西か。

 暗い夜道を太日川へ出る道を歩いていくと、こっちに歩いてくる姿がある。顔を伏せ静かに歩いているが、背負った荷がどうしても目立つ。行商人だ。

 藪に身を隠し、目の前を通りがかるところを行く手を遮る。


「出掛け早うありますな。如何にされたか」


 行商人は一目散に逃げ出したが、すぐにその足を止めた。向こうから信田小太郎がやってくる。

 二人に挟まれて、行商人、いや、どこかの手の者は荷を足元に降ろした。


「陸奥道は逆さではなかろうか」


 信田小太郎が腰に手を添えながら声を掛ける。アキラは素手だが、そもそも身体が大きい。行く手を遮るだけなら十分だ。

 さてどう出るか、

 男はさっと横に跳んだ。ザッと大きな音がして、藪の中に偽行商人は逃げ込んでいく。

 一瞬、追おうかとしたが思いとどまった。そもそも真っ暗なのだ。藪の中を追いついたところで、相手が刃物でも持っていれば逆襲される。


 後には荷箱だけが残されていた。

 中身は麻布と、そして短い直刀が入っていた。鞘が白木で一見刀に見えない。


「この刀、陸奥海道のほうの産とみえる」


 賊がこの刀を取り出してアキラの方へ向かってこなくて良かった。


 帰り道、信田小太郎は言う。


「思った通りの盗賊の手下であった」


「盗賊がこんな手の込んだ真似をするのか」


 よくある事よ、と信田小太郎は答える。長者の家に盗賊の手下が雑色として入り、半年ほどしてから盗賊を招き入れる、そういう事もある、という。

 官人の落ちぶれたものや、武者の持ちぶれたものが盗賊となり、その得手を生かす事も多いという。


「化ける、騙す、謀る、殺す、およそ盗賊のよくやる所ぞ」


 盗賊が検非違使や押領使と通じるというのも良くある事だという。


「賊と賊は心通じるところあるのやも知れぬ。

 盗賊の使い道は盗みだけとは限らぬ。およそ悪行すべて得意の者共よ」


「では、そのうち足利に賊が来るのか」


「いや、来まい。

 盗賊にも大物小物おるが、あれは大物の手のものぞ。この辺りにおる者ではなき。

 まこと、盗賊の使い道は盗みだけとは限らぬのよ。例えば、いくさ支度」


 偵察か。


「小太郎殿は、あれを何処の者と」


「常陸に決まっておろう。

 稲刈の前に賊の手の者がうろつくのは判っておったが、大物がかかりおったな」


 月光の下、信田小太郎はアキラに振り向いて言った。


「さて、直ぐに戦の用意ぞせねばならぬ。アキラよ、かねてよりの事進みおる故、財部郷へ行かれよ。戦は間もなくぞ」

#57 放生会について


 仏教の思想に則り殺生を戒めるために、捕獲した鳥獣を開放する行事、放生会の歴史は古いのですが、特に宇佐八幡宮や石清水八幡宮など、各地の八幡宮で盛んとなりました。これは作中の時代は特に決まった社寺に限られた行事ではなく、個人でも放生会を盛大に催すような事がありました。

 源氏の八幡大菩薩への帰依を見てわかる通り、武者の殺生をもっぱらとする生き方と、殺生を禁断とした仏教との折り合いを付ける意味でも、八幡宮での放生会は盛んとなります。

 武者は普段より野に鳥獣を追い、装備の為に多数の獣畜を殺していました。信仰しているだけでは殺生の罪を免れるには十分ではなく、例えばその後、源頼義の子源義家はその生涯で殺生をあまりに多くしたために地獄に落ちたというような説話が生み出されることになります。

 河内源氏にはもとより殺生供養譚が多く、今昔物語集にある源満仲の出家のエピソードも、その原因を主に鳥獣の殺生の供養のためとしています。出家の際には飼っていた鷹が解き放たれ、武具が庭で焼かれました。勿論これは説話集の中でも特に嘘くさい話揃いの出家エピソード中の話なのですが、雰囲気として、文化として、こういうものがあったことは事実でしょう。

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