#56:1019年8月 法師
八幡宮も勧請したゆえ、今年は盂蘭盆会に代わり放生会をおこなう。盂蘭盆そのものは屋敷でひっそりと行うが、放生会は大々的に行う。
冬のうちにそう決まっていたのだったが、そもそも放生会とは何なのか。
準備ついでに調べたが、要するに仏式の儀式である。動物の殺傷を禁じる仏教の教え通り、死ぬ運命にあった動物を助けて放す行動がそのまま儀式化されたものになる。
つまり、放つための動物を用意しなければならない。そのためには事前に動物を捕まえておく訳で、結局どうしようもない偽善のマッチポンプだ。
でも、石清水八幡宮と言えば放生会、つまり八幡宮と言えば放生会なのだ。やらざるを得ない。
神社でなんで仏教儀式なのか、それは勿論、神仏習合だからである。
目の前に太日川があるのだから、放流するのは水生生物、メインは魚になる。生息地に返すだけだ。
放生会まで水生生物を捕まえておく池が要るのだが、そこで池原殿がかねてからの宿願を同時に実現する提案をしてきた。
池ではなく、水堀を掘るのだ。
池原殿の二十里堀構想はあれから何度も見直しされ、既存の川を利用することによって総延長は三十里を軽く超える大構想に成長していた。それが実際の掘削距離十里ほどで実現するのだという。
計画は数次に分かれ、第一次計画では清水川が長大な堀川に作り替えられる。それがわずか四里の開削で実現するのだ。
四里。
充分長い。二キロだ。歩けば簡単な距離だが、掘るとなると話が違う。
近郷の住民を動員しても、一度に掘ることができるのは半里がせいぜいだろう。
で、ここで放生会用の堀として半里ほど掘ろうというのだ。
水は用水路として使用予定なのだから引いてくることが出来る。すぐに水掘として利用できるのだ。
これら説得に負けて、尼女御と頼季様は、この計画を承認した。
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冬からこつこつと掘り続けた結果、ほぼ一里ほどもある立派な水堀が、肝心の八幡宮からかなり離れたところに誕生していた。
まぁ、祭りの際には生き物は桶に入れて境内に並べるので、水掘が離れているのは許容できる。しかし、掘るのは半里ほどではなかったのか?
しかし御蔭で、来年一里掘れば、とりあえず農業用水として使用できるようになるという。放生会用の池としては、水を通して生物を通さない柵を作って堀を区切ればいいと池原殿は言う。
「もちっと鮒など欲しいな」
水面を眺める北郷党に、食べるのではないぞとアキラは念を押す。最近になって、この堀の魚が狙われる懸念が出てきた。
しかし見張りに人を張り付けて置くという訳にもいくまい。どうしたものか。
「吾子は何か用事あるので無かったか」
池原殿が声を掛ける。そうだった。
「ついて来てくれ。前々話しておった事についてぞ」
用事と言うのは、人糞肥料の相談だ。
この時代、人糞は使われていない。だが家畜の糞は使われていた。
これは全く理屈に合った話で、要するに人間向きの寄生虫は家畜の糞の中にはいないという事だ。これはまた、人糞を使うにはその中の寄生虫やその卵を殺さなければいけないという事でもある。
アキラは肥料についての詳しい知識がある訳ではない。ただ人糞肥料が使われたことや肥溜めと言う形態は知っていた。
春先の祭りでアキラは肥溜めを作るのに必要な人糞をたっぷりと得て、近くの草むらに肥溜めを作ることが出来た。
しばらくして気が付いたのが、肥溜めの中が暖かくなっている、という事だった。
要するに発酵しているのだ。発酵熱は寄生虫を殺すのに十分なのではと思えた。
「腐ると熱くなるというのはあるが、で、これは何か」
という訳で、肥溜めの中身をちょっと汲んだものを洗って、寄生虫の死骸らしきものを並べたのが、目の前の板だ。
「これ皆寸白か。これも」
寸白というのは寄生虫、要するにサナダムシのことだ。この時代ちゃんと寄生虫の認識はあるが、対策は乏しい。
アキラは肝心の寄生虫の卵らしきものは見つけることが出来なかった。見つけるには多分顕微鏡が要る。
「皆死んでおった。これなら肥として使えよう」
「馬の糞がつかえるなら、人の糞も使えるというのは道理よな。そしてなぜ人の糞を避けるのか、寸白を避けるためと言うのも分かる。ふむ」
池原殿は肥溜めのほうを眺めると、顔をしかめて鼻をつまんだ。
「吾も試すが、目代がまず肥に使い試されよ。採れたものは食わず売ろう」
しかしすさまじきことよな、と池原殿は言う。
「糞が宝なるやも知れぬな。糞目代殿もまたすさまじき事よ」
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アキラの仕事は他にもたっぷりあった。
こういうイベントの準備はアキラの仕事である。そもそもアキラがいるおかげでイベントが出来るようになったのである。つまり他に人手が無い。
まずは市の準備だ。
市の地割は春の五倍に拡大されていた。足利荘から出店は十にものぼっていた。他郡からも出店があったが、この配置は政治的にかなり気を使うものとなる。
今回の目玉は、八幡宮の門前に作られた布施屋だ。
今回は遠くから訪れる客があることを足利側では予期していた。その為には宿泊施設が要るが、まだ常設の宿屋が営業できるほどの交通量は無いため、こちらで用意するしかない。
布施屋は三間ほどの壁のない掘っ建て小屋で、とりあえず屋根のある場所で横になれるという程度のものでしかないが、無いよりはずっと良い。
すぐ近くに竈を用意して炊き出しの準備もしていた。来年春には立派なものに建て替える予定だ。
この調子なら来年か再来年か、常設の門前市が出来るのではなかろうか。
そして肝心の法事の準備だ。
放生会は法事なのだから、法師を連れてくる必要がある。どこから呼ぶか、これは極めて政治的な問題だった。
例えば下野には大慈寺という天台宗の大きな寺がある。しかしここは藤原兼光の影響下にあるので、もし大慈寺に頼めば、足利の八幡宮はやがては大慈寺の別宮寺、支配下となるだろう。
寺領を足利に確保したなら藤原兼光は自分の息のかかった僧と開墾者、そして武者を送り込んでくるだろう。これはまずい。
では寺領として管理を放棄せざるを得ない程遠い寺ならどうか。例えば中禅寺だが、中禅寺とは足尾谷を巡ってアキラとの関係がこじれたままだ。
色々考えていくと、結局薬師寺から呼ぶという話に落ち着くのだった。以前からの付き合いがあり色々話を通しやすい。こちらが欲しいのはお坊さんの出張説法に過ぎないのだ。その程度の付き合いで良い。
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法師の送迎はアキラの仕事だった。
薬師寺から足利へは橋の掛からない規模の川、思川があるから馬車も牛車もそのままでは使えない。
ここでアキラは偉い人用の新型馬車を投入した。御者席付き、屋根付きである。
屋根はこけら葺きの屋根付きで左右には簾も掛かるようになっている。黒漆塗りにでもしたかったが、流石にそこまでの漆の余裕は無かった。
馬車はそのままでは思川を渡ることができなかったから、川ではお客はおぶって渡すことになる。橋が欲しいところだ。
前々日からアキラは御者の少年と共に出発し、薬師寺で一行は宿泊した。翌日は参拝のあと、来てくれるお坊さんを僧坊へと迎えに行く。
来てくれるのはいつぞやの講師だ。
馬車には驚かれたがまぁ好評といったところか。川はアキラがおぶって渡った。しかし、
「御坊、気分はいかがか」
その後もしばらくは何かと喋っていた乗客、弁徴法師がしばらく沈黙しているのが気になってアキラは御簾の中に声を掛けた。
「少し、頭が痛む。むかむかしおる」
ああ、乗り物酔いか。アキラは御者に馬車を停めるよう指示した。
御簾を上げて、声をかける。
「遠く山など見ると、気分が収まると聞いております」
少し休憩だ。馬を馬車から外して、少し水を飲ませに行かせた。田んぼの真ん中だが、用水は干上がってはいない。
道はこの夏、足利の百姓たちを雇って穴や崩れた道肩などはあらかた直していた。といっても土を入れたり盛ったりしただけであり、恒久対策には程遠い。
弁徴法師がもぞもぞと馬車から降りてきた。
「外は暑うございます、ああ、足元お気をつけなされ」
しかし構わず法師は降りて、アキラの隣で大きく背伸びをした。
「これは腰やら肩やら凝りますな」
少し急ぎ過ぎたかも知れない。大体平均して時速15キロは出ていたのではなかろうか。全行程九十里、渡河もあって大体二十里を二時間ほどで走破したことになる。
チャリンコの速度が出せるからと言ってその速度で行く必要もない。
「ここからは歩みよる程で行きましょう」
水の入った竹筒を弁徴法師に渡すと、法師は中身を一気に飲み干した。
「御坊は他にも法事行かれますか」
「この時期は盂蘭盆ゆえ」
色々行きおります、との事。そうだった。
「しかし、放生会は初めてで、どうしたものか、少し迷いおります」
弁徴法師は意外なことを言う。
「殺生の禁断など進講されれば良いのでは」
「無論その心積もりではありますが、どうにも放生会というのが分らない」
「一体どの辺りが」
「殺すはずであった魚獣を放ち命を助ける、良き事であります。しかしその為に前以て魚など取り置きたると。つまり殺す筈ではなく善行でも無き」
そういう事を言われても困る。というか、嫌味か何かか。放生会がどうしようもないマッチポンプだっていうのは皆見て見ぬふりをするのが礼儀ではなかったのか。
「えー、仏法に普段縁なき下衆百姓に御仏の教えを説くにも、何か切っ掛けが大事でありましょう。何か事あればそれにかこつけて法事行える訳で」
あ、馬と御者の少年が帰ってきた。
「毎年に一度、殺生について考える、これだけでも荘村の者に法話されれば足利荘代の目代と致しては、僅かながら功徳を積む機会を得たものと思っております」
さて、また車進ませるゆえ、御坊よ乗り下され、アキラはそう言って会話を打ち切った。
馬を繋ぐと御者に、歩む速さでと、速度を指示する。
まぁ悪い人物ではあるまい。いや、こういう理屈っぽい人間は良い。文明的でよろしい。
馬車が進みだし、御簾が降りて、しばらくして声がした。
「目代殿、先程は下らぬ無分別、申し訳無い」
おや、何かと思えば。気になさることは無い、とアキラは返した。
「ふむ、目代殿は慈悲の心もさることながら、堪忍の心もお持ちのようだ」
「本当に気になされるな。放生会がマ、いや、その、慈悲を偽るものである事は確かにて、まこと苦しく思っておりますれば」
「目代殿、仏法の法理に興味はおありか」
え、いやそんなものには全く興味はありません。
「唯識の法理など好まれるのではと見える」
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まぁ、暇つぶしだったのだろう。アキラは馬車の横を歩きながら延々夕方まで、足利の屋敷に着くまで、弁徴法師の有難い講話に付き合ったのだった。
いや、思い返すと、アキラによく付き合ってくれたと言うべきかもしれない。
実のところ、唯識論とやら、ちょっと気に入った。これ、ほとんど人間原理だな。
「誰もいない森で木が倒れたら音はするのか?」って誰のセリフだったっけ?
「確かに、吾に意識が確かにあるとしても、他の者に意識があるとは、確かなことは判らない。確かに」
唯識の本意に触れた心地しましたぞ、法師はアキラの言葉をえらく褒め上げる。
「見たもの聞いたものをそのままを見聞きしておると、多くの人は思うておりますが、人はその心の中で変転した、我が心を見ておるのです。
決してそのままを見てはおらず、見えども見えず、聞こえども聞こえず、これが人の常でありましょう」
「そのままで無いとすれば、どのように変わるのでしょうか」
「欲界においては人の識は欲にて歪みまする。焦りしは時伸び、楽しきは時短く感じるものです。飢えし時には妻子を売りても欲しきと思いし飯も、腹くちくなれば何ぞまずき飯ぞと感じましょう」
「御坊、数は識にございましょうか」
弁徴法師は、アキラの言っていることの意味がピンときていないようだ。
「目は二つ、足は二つ、指は手に五つ、これらは見て、触りて判る事かと。しかし腕が三本になったような覚えはこれまで無き。常に二本、これは歪みなきと思わる」
「ふむ。しかし識の変転するは確かぞ」
「吾も見聞きするものの変転を疑いおる訳ではありません。むしろその確かであることを知っております。御坊、錯覚というものをご存知か」
「目代は陰陽も行うと聞いておるが、その類か」
いえいえ、違います。アキラは馬車の屋根からこけらを少し毟って、短い棒にした。
この端を掴んで振る。ほら、鉛筆やペンとかでよくやるアレだ。
「御坊、この坊は曲がって見えませぬか」
「曲がりおる」
「しかしこの棒、曲がってはおりませぬ。そう見えまするが違うのです」
「見えるからには曲がっておろう。実のところ曲がっておったのだ」
「疑いあるなら鉄釘で試されよ。曲がって見えましょう」
「ふむ、試すまでは何とも言えぬ」
おお、実証主義か。いい判断だ。
こういう知的な会話の心地よさを、誰か理解してくれるだろうか。自分は飢えていたのだとアキラは突然自覚した。
誰か、自分を理解してくれる人に会えるだろうか。
アキラの知っている事、記憶、考えの多くが理解されないだろう。それを考えると、憂鬱な結論をせざるを得なかった。
アキラは結局、孤独なのだ。
#56 唯識論について
唯識の考え方は、仏教思想の中からインドで成立した思想で、中国へ玄奘三蔵らなどによって伝えられた後、奈良時代に法相宗として日本に伝えられました。奈良のいわゆる南都六宗の一つとして、また薬師寺もこの法相宗を専らとしていました。
唯識は、この世界は結局のところ認知の表層に把握されているだけのイメージでしかないと説きます。外界は結局のところ、視覚や聴覚といった感覚器を通して把握される存在に過ぎず、感覚のコントロールによって外界のありようも変化すると考えました。
更に感覚と意識を区別し、意識の更に下層に無意識の領域があることを明確に定義しました。
この思想は、悟りのための考え方として基本的なものとなります。この世界は虚像に過ぎず極論すれば実体は無く、そして更に意識も実体ではなくその根本には無意識があり、そしてそれも消滅するところに悟りの境地があると考えたのです。
従って"我思う故に我在り"というのも、意識があるからと言って我という実体があるとは限らない、と考えます。
このように、進んだ哲学思想でしたが、論理学的には不毛な荒野を作り出すことになります。そこには疑い得ぬ真実など何処にも成立しえなかったのです。