#55:1019年7月 水守 (地図有)
常陸の奥深い根拠地、水守宿営への攻撃計画はきわめて慎重に計画されていた。
主役である方梁は分解されて既に大型の舟の組み立て場に搬入されていた。攻撃の参加者は全て信田小太郎の手配した者で、足利荘の関与を匂わせるものは全く無い。
アキラもこれは例外ではなかった。直前までこの攻撃日程については知らされることが無かったし、攻撃に参加する予定も無かった。
しかし、攻撃の頭となった多聞が是非とも準備を見てくれという。それでアキラは準備だけは見てやると約束した。
攻撃の日取りは盛夏の頃を予定していた。食糧が一番乏しい頃で、だからこそ水守が焼かれればそのダメージは大きくなる。勿論収穫までの間だが、収穫したものが食えるようになるまでの期間を考えれば、秋の農繁期に下野を襲うスケジュールは確実に潰れる。
・
太日川を下り、栗橋の手前でアキラは舟を降ろしてもらった。思川との合流点の近く、古河という沼地を越える道があり、そこから常陸川の上流に出るのだ。
道は実際のところ藪だった。沼は要するに古い河道で、かつては思川か太日川か、この辺りを流れていたのだろう。
やがて広い水面に道は出た。広河の江だったか。対岸までは1キロくらいか、水面は南に広く開けていた。
この良く知らない湖も21世紀にはすっかり消えうせるのだ。
湖岸を少し南に歩くと、目印の藁縄が木の枝に結わえてあるのが見えたので、アキラは革袋から麻縄を出して腕に巻いて結んだ。
更に歩くと、
「目代殿か」
どこからか声がかかった。
「然り」
答えると、小袖姿の男が現れ、ついて参れという。この暑いのに手首まで布を巻いて覆うのは虫除けだろう。実際もう羽虫がうるさい。
ただ、今日はまだ蚊に刺されていない。
「アキラよ、見よ」
多聞の声に、どこかと思えば、湖上だ。
小舟に帆柱が立ち、そこに変な旗がはためいていた。
帆柱に横木を渡して、そこに三角の菅の蓆を頂点を下向きに垂らしていた。
「三角の帆、やはり良くは無きよ」
帆、なのか。
竿で岸に寄せてくる多聞に、違う、と言いたい。全然違う。
「その帆の付き方は違うぞ」
言うと多聞は顔をしかめた。
「何ぞ他にあるのか」
・
宿営地には10人ばかりが作業をしていた。大型舟は既に試運転を終えて岸に上げられ、分解された方梁は舟に積まれていた。持っていく食料の準備の煮炊きがおこなわれ、装備が点検されていた。
「陽の落ちる前に出て、夜分に七里の渡しを超えて信太、浮島に着ける。
それから陽の出ているうちは休んで、再び陽の落ちる前に出て桜川に入る。夜半には前以て調べし辺りに着けよう」
夜勤みたいなスケジュールだな。
「三角帆をどうにかしたい。横木を解くぞ」
アキラは三角帆を正しく付けようと、多聞の小舟を岸で横倒しにして帆柱を弄りはじめた。帆柱は川岸の木に縛って横倒しのまま固定している。
「方梁構えて火袋抛るのだが、水守の宿営まで五町か六町、考えてみるとこれは外すやも知れぬ。アキラよ、何ぞ考えはなきや」
アキラは横木を帆柱の下の方に仮で縛り付ける。横木の端には穴があって、この穴を使えばうまいこと帆柱と連結して向きを自由にできそうだ。
「歩きて道程測るのではなかったか」
「測れど、その道が真っすぐではない。検田しておる訳で無く、その真っすぐの距がわからぬ」
ふむ。
アキラは三角帆を帆柱と横木に結びながら考えた。測るのはもう間に合わない。
「一人誰ぞに旗持たせて、どこか、船と水守、どちらも見ゆるところに置け。
火袋が水守を飛び越せば旗を振れ、飛び越さねば旗振るな。当たれば旗倒せ」
帆柱と川岸の木を結ぶ縄を解く。
「方梁のものは、旗振られれば縄長くせよ。旗振られぬ時は縄短くし、旗降ろされればそのまま次も同じ縄で抛ればよい、おっ、そこ持たれよ」
アキラと多聞は帆柱を掴みながらゆっくり岸の小舟の傾いたのを復元してゆく。
「三角の帆とはこの姿よ。横木を掴んで操るのが大事ぞ」
「アキラよ、ついてきてくれぬか。先ほどの話、ちと判らぬ」
待ってくれ。
今日ここで準備を見てやって、ちょっと多聞の相談に乗る、それだけの話だった筈だ。
明日には池原殿と、人糞を肥料として使うことについて色々相談する予定だってあったのだ。
しかし、水守宿営の攻撃を失敗させる訳にはいかない。
「……分かった。終われば疾く帰るぞ」
「元よりそのつもりぞ」
・
大型舟を湖面に押し出すと、乗り込んだのはアキラ含めて五名だった。
残りは後始末をして撤収だ。
「おかしな匂いするぞ」
アキラの隣に座った多聞が言う。いま舟はほかの者の竿さばきでゆっくりと川下に向かっていた。あまり目立ちたくないのだ。
「どこぞで燻られたか」
「これは虫除けの薬を塗ったのよ」
松の木から採れた燻製臭のする液体を、虫除けになるかと試していたが、いまのところ良い調子だ。およそ五倍に薄め、手首と足首に塗っているが、虫に刺される様子もない。
「吾にも分けて呉れ」
「持ってきてはおらぬぞ」
そもそも直ぐに帰るつもりだったのだ。
「つまらん目代ぞ」
仕方ない。作り方を教えよう。
「木を水を使わず蒸して、その煙を集めよ。水煙が露になるが如く、焦げ酢水が取れおる」
多聞はちょっと考えると
「木を蒸すとは、つまり炭作りではないか」
「炭作りし時、白い煙が出る。この煙が薬の元である」
「ふむ、つまり炭作り共は薬をむざむざ逃がしおるのか」
しかし煙を集めるなぞ、できそうもない。多門はそう言って首をひねった。
そろそろ陽も落ちて、相手の顔も良くわからない程になっていた。少しだけ空気が冷えて、心地よい風が吹いてきた。
竿を使う役が交代し、さっきまで竿を使っていた者はそのまま横になる。
「ところで三角帆だが」
アキラはもうちょっと色々言いたい気分だった。
「何ぞ」
「横木はもうちっと下でも良いやも知れぬ。舟に座ったまま横木扱うほうが良かろう」
「あの三角帆の横木、片方は帆柱に結んでおったな」
「結ぶが縛らず、左右に動かすのよ。それで帆の向きを変える」
「ほう」
多聞は少し考え込むと、
「ならば帆はもっと広くて良いな」
「舟の後ろで艪持ちながら扱えばよい」
しかしまぁ、試さねばよくわからぬ。多聞はそういうと横になった。
アキラも倣って、寝てしまうことにした。
・
「起きよ、アキラよ、起きよ、浮島ぞ」
目を覚ますと、既に舟は陸に着けていた。
頭を振りながら舟を下りる。足元がふらふらする。
「糞は向こうの浦でせよ」
後ろから声が掛かった。
すこし小高い丘に登ると煮炊きの準備が進んでいた。舟から薪の柴が降ろされ、積まれる。
水は舟からでなく、どこからともなく運ばれてきた。どうやら島に真水が湧いているらしい。
アキラは最後に乗ってきた余計な客だったから決まった役割は無く、手持ち無沙汰だった。北東に一番近い陸地が見えるほか、南にもうっすらと陸地が見える。
「あの地が信太ぞ」
朝餉を食べながら、多聞が指さして教えてくれる。さっきの北東の陸地だ。
「信田小太郎の故郷か」
「吾らの故郷ぞ」
多聞はそう答えた。
・
多めに作った飯は強飯にして、荷物をまとめると午後まだ陽の高いうちに一行は出発した。
結構な熱い風の吹く中、皆で艪を漕ぐ。鞆の櫓はそもそもこの場では使わない予定だったらしく、鞆の櫓も合わせると艪は五本、アキラの分もあることになる。
アキラも、もろ肌脱いで艪を漕ぐのに加わる。
沖に見えた陸地はすぐに近づけた。北に回り込む。
こうして見ると、ここが霞ヶ浦とはとても信じられない。水はしょっぱいし。
陽が陰る頃、どうやら目的の河口に近づいたようだった。
長い竿が取り出され、艪が片付けられる。櫂でゆっくりと河口に近づくと、その小さな河に舟を押し込んだ。
陽が落ちてからの方が川の遡上は楽になったように思えたが、それは大潮にタイミングを合わせたからだそうだ。なるほど。
しかし河は流れの聞こえる様な小川となって遡るのは難しくなったが、一人川に降りると、川岸のそいつの誘導で竿が操られ、舟はまだスムーズに遡上していく。小さく声がかかると、それに合わせて竿が操られて、小さな瀬を幾つも超えていくのだ。
「ここらの筈であるが」
「もう少し先、あれが印ぞ」
目的地に着いたらしい。皆きびきびと作業を始めた。舟を川岸に寄せると、縄で川岸の木に結び付ける。舟から荷物が降ろされる。月明かりはあるが充分とは言えない明るさの筈だが、訓練を十分に積んだ彼らの手は迷いなく動いた。
虫の声がうるさい。いや、これは蛙の声か。すごくうるさい。
「旗どうする」
アキラは竿の先に、支払い用の白布を切って結び付けた。
「終われば持ち帰り来い」
それを受け取ると男は闇に消えていった。
「向きは良いか」
「右にずらせ、まだ、まだだ」
事前偵察の際に方向の印をつけてあるという。それに合わせるべく全員で方梁の台を押して方向を調整する。
カウンターウェイトに水が汲み入れられ、スイングアームを引っ張って発射位置に固定してゆく。
やがて全ての準備が整う頃、月が地平線に落ちていった。
「しばらく待て。明るくなるまで待て」
アキラは太刀を握った。
ここは敵地ど真ん中だ。
脳裏に思い浮かべる関東地図の、茨城県のあたり。
覚えている21世紀の関東の地理は明らかに歪んでいたが、それでも千年前、11世紀の地理情報よりは正確に違いない。
南西茨城の知識と言うのは、筑波山と牛久大仏とつくば市、そんなところである。
その筑波山が目の前にある。
下野を下総に向かう時の通り道としか思っていない連中、平惟維の本拠地はここから見える筈だが、暗くて良く見えない。
聞いた話では山の上だとか。流石に筑波山の上ではあるまい。しかし後世の城のようなものはこの時代アキラは見たことが無い。塀と堀、四角の敷地だけの館ばかりだ。
もし山の上にあるのなら、城のように防御施設があるのだろうか。
あれほどうるさかった蛙の声が止んでいた。
なんとなく、周囲が見えてくる。
空が明るくなっている。
アキラの肩が軽く叩かれ、小さく声が掛けられる。
「始めるぞ」
あくまで静かに準備が始まる。
火が焚かれた。
砲弾である火袋は松の枝を藁の小さな袋に詰めて、更に小さな素焼きの壺に入れたものだった。壺は飛ばしている最中に火が消えるのを防ぐのと、砲弾に必要な重量のためでもあった。
「旗見えるぞ」
遠くに竿が立つのが見えた。結構遠い場所だ。竿の先に白い布が付いているのが見える。
「ひとつめ、はじめよ」
火が火袋に付けられる。
「結びは」
「八つ」
縄の結び目が調整位置だ。八番目の結び目は射程五町半に合わせてある。
「備え良し」
「抛れ」
間髪入れず多聞が命じると、方梁が爆ぜた。
ぶんという音と共に、アームが空を振り抜き、重りがガチャンとすごい勢いで揺れた。
本当に火袋は飛んで行ったのか。
「まて、まだ触るな、縄掴めるなら掴め」
直ぐに次弾発射の準備が始まる。
「竿振られず」
多聞がアキラのほうを見る。
「結びを七つに合わせよ」
アキラはそう答えた。
次の発射でも旗は振られず、しかしその次で竿が降ろされた。
「当たったのか」
「結び六つのまま、次行け」
アキラは催促した。
「当たり所悪かったのやも知れぬ。地べたに落ちれば燃えまい」
「なら変えずに良いのか」
「全く同じ所に落ちるものか」
次弾も手応えなく、しかし三弾目は、
「煙見ゆるぞ」
「朝餉の頃ではなきか」
そこに旗竿を持った男が帰ってきた。
「どんどん抛れ。真ん中に火袋飛び込みおるぞ」
四射目、五射目となると建物に火が付いたのは明らかとなった。
「引き上げるぞ」
方梁は見る間に打ち壊されて、河原にうずたかく積み上げられた。余った薪の柴が隙間に突っ込まれて、これで残骸は奇麗に燃え尽きてしまう筈だった。
全員が舟に乗り込むと、多聞が残骸に火をつけて戻ってきた。
さぁ、さっさと川下りだ。暫くは残骸が燃えるのが目を引き付けてくれる筈で、それから川下を探そうとする頃には、既に舟は沖に出ている筈。
竿を繰る手は焦り、どこまでも気が急く。
ようやく河口に辿り着くと、ようやく一行の緊張はほぐれた。
「皆よくやった!」
多聞の声は喜びに震えていた。
「全く、常陸どもの館はよく燃えるわ」
皆の笑い声が弾けた。
「信太衆は何でも出来おるぞ!」
・
浮島に辿り着いたのは夕方の頃だった。
舟を岸に着けもやいを結ぶと、皆その辺に転がってすぐに寝てしまった。
朝起きると盛大に虫刺されしていた。そろそろ薬の効果も切れたらしい。
そういえば舟がない。
「あれは暫く信太に隠す」
島に残っていたのは多聞とあと一人だけだった。
多聞が言うに、最近この香取の海の沿岸の漁村が幾つも逃散しているのだという。塩の値が下がって、藻塩焼きで暮らしていた漁村が幾つも空になり、もう数ヶ月も住民たちは戻らない。そんな漁村のうち陸から近づくのが難しいところに一旦舟を隠すと言う。
「新しい舟と言うのは目立つからな。噂立つのは避けたい」
しかしそれではアキラたちの帰りの舟がない。いや、来たか。
「あれもまた噂になりそうだな」
三角の帆が見えてきた。帆が風を孕んでいるように見えるのは見間違いではない。
小舟に乗っている者が手を振っている。
「おおおおい、この帆は面白き物ぞ」
#55 トレビュシェットについて
作中ではカタパルトと称されていますが、歴史上において使用された投石器トレビュシェットと原理構造が同じであるため、トレビュシェットについて解説します。
トレビュシェットは12世紀東ローマに初めて現れたとされています。動力源がばねの弾力ではなく錘であるため、大型化がばねに制約されず、またアクションの再現性が良いことも特筆すべきでしょう。
その原理はシンプルなてこの原理です。トレビュシェットのアームの振られる距離は単純にアーム長に比例します。つまりアーム長が錘側長さの15倍あった場合、錘が1Gでスイングすれば弾には15Gがかかります。
同時にアームはシーソーでもあります。但し錘の釣り合いは取れていません。弾を1kg、錘を150kgとしましょう。力の釣り合いを考えると、錘が落下する速度は0.9Gになり、すなわち弾の加速度は14Gになります。
勿論錘はそのまま落下するわけではなく円弧を描く訳ですが、それでも落下距離はある訳で、その分が弾の加速度に転嫁されます。錘の落下距離を1.5mとすると落下時間は0.55秒、すると弾速は80m/sになります。空気抵抗が無ければ最大射程は600mを超えるでしょう。
錘の落下距離をできるだけ大きく取り、アームを長くするのが射程を伸ばすコツですね。