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#53:1019年7月 産屋

 大きな蒸し箱には、収穫した苧麻(ちょうま)の茎がいっぱいに詰め込まれていた。蒸せば麻糸がほぐし取りやすくなるのではないかと言うのが目論見だった。

 今蒸し箱は盛大に蒸気を吹いていた。(かまど)の火は既に落としてある。


「良かろうか」


 池原殿が不安げに言うのにアキラは良かろうと答える。

 蒸し小屋は、様々なものを蒸すのに新造した小屋だった。屋根が高く、竈も煙突を高く設えてある。更に益子製の陶器タイルを竈の内側に使っていて熱効率はかなり良い。

 高い屋根の梁には滑車が仕込んであって、蒸し箱は滑車から麻縄で釣られていた。アキラが縄を引っ張り、池原殿が鉤つき棒をつかって、蒸し箱を床に下ろす。

 床は焼いた石灰とよく乾燥させた土を混ぜた三和土(たたき)になっていた。普通より石灰の量を増したところ、これがえらく硬い。長く使うと表面が削れてくるという話だったが、一応これで防水の床を作ることができる。


 箱の蓋を棒で突いて落とすと、蒸気が噴き出してくる。箱を傾けると、しんなりした苧麻の茎が滑り落ちてきた。


「これは水にて洗うべきか」


 樽の水の中に移して手もみすると、茎はばらばらにほぐれるようだ。これはいい。

 人手を集めて、茎の皮をむいてほぐれた繊維を干す。


「木が蒸して柔くなるなら、苧麻も確かに柔くなる。確かにアキラの言う通りよな。

 これは大麻もよろしかろうぞ」


 アキラは以前から気になっていたことを池原殿に聞いた。


「大麻であるが、茎のほか、葉はどうしておるのか」


 池原殿はちょっと怪訝な顔をしたあと、


「集めて枯らしおくと、そのうち箱担いだ行者が来るので、喜捨しておるよ」


 香に使うと聞いておる、と答えてくれた。


 うわ。

 日本の大麻は成分が薄いという話だったが、この時代のものはどうなのだろうか。


      ・


 織機のほうは三台作ったが、一台が新機軸に過ぎて別物になってしまった。

 この地方の農家で使っている織機というのは、機械とはちょっと呼べない、ただの木枠だ。しかしよく見ると織機の要素は全て持っていることが分る。要するに煩雑な人力での作業が要るのだ。

 アキラが複製した従来型の二台はそれらとは違い、縦横に木枠のあるがっちりした工作物だった。仕組みとしては古くからの織機だと聞いた。縦糸を張るメインの木枠は斜めに固定されて、作業をする織手は木枠の下側に座って織ることになる。


 織機の原理は簡単だが難しい。

 布は縦糸と横糸で出来ている。縦糸と横糸は互い違いに交差することになる。そのために織機では縦糸を飛び飛びに二つ上下に分ける。

 この二つの上下を、横糸を通すたびに入れ替えるのが織機の原理だ。

 だがこの上下入れ替え、実際にやろうとするとかなり難しい事がわかる。


 従来機では上に分けた縦糸の一本一本それぞれを別の糸で釣って、その糸を上下に動く枠に固定している。枠を上に動かすと糸の半分は上になるし、枠を下に動かせば下になる。

 枠は上から竹竿のばねで釣っていて、足で引くとこの枠が下がって、足を離すとばねで戻って枠も上がる。


 アキラの新機軸、まったくの新型は、縦糸の半分づつを一枚の板でそのポジションを入れ替える。板には縦に溝がびっしりと掘られていて、糸はこの溝に一本一本嵌って、板の回転にあわせてそのポジションを上下するのだ。

 この溝を掘るために、アキラは薄歯の鋸を鍛冶屋に新たに作ってもらった。ごく小さい、ほとんど糸鋸のようになってしまい、この歯を張るために木枠を使うことになった。木枠に合わせて治具も作ったので、溝付き板の精度は今望みうる限り最良のモノだろう。


 この薄歯鋸のおかげで、例えば櫛がこれまでにない歯数で造れるようになっていた。こっちのほうが短期的には収入に繋がるやも知れない。アキラは行商人に櫛に適した硬い木を仕入れてくれるよう頼んでいた。


 この新型だが、板を回転させればどんどん織ることができる、という訳にはまだいかないところがつらいところだ。織る速度は従来と変わらない。

 アレだな。飛び杼だ。飛び杼が要るところだ。名前しか知らないけど、ここは飛び杼を実現して水力で動く高速織機を実現してやろうじゃないか。

 ……かなり先のことだろうけど。


 新しい産屋のほうから勢いよく煙が立ち昇るのが見えた。


「湯沸かしおるのか。ふむ、今日あたりであったか」


 産屋に集められたうちもう十人が臨月だという。そろそろ、とも言われていた。

 行ってみるか、という池原殿に対して、アキラは首を振った。行ってやることもないのであれば、行かない方が良い。しかし、


「目代殿、ここであったか」


 産屋で働いている村の少女がやってきて、付いて来いという。


「何ぞまじないせよとか、そんな話だったか、急がれよ」


 陰陽関係の話か。


 アキラには21世紀の基礎知識としての衛生観念を持っており、これをある程度この時代に導入すれば乳幼児の死亡率を大幅に改善できるだろう、とは思っている。


 とにかく酷いのだ。


 助戸郷そばの小川に死産の赤子が浮かんでいるのを見たときは流石にぞっとした。

 いや、実は死産ではなく殺したのかも知れない。犬にでも食われたら酷かろうに、と思ったが、アキラはそのまま迷って結局放置した。幸いにもそんなものを見たのは一度だけだったが、ちょっと色々麻痺するような経験だった。アキラにはその光景は衝撃的に過ぎた。


 アキラは近郷の子供の数と名前を実際のところちゃんと把握していない。以前居た子供が既に死んでいるというのはざらで、そして誰も気にしていないように見える。

 赤子となるとなおさらだ。母親の腹が大きくなるから、妊娠しているのは判るし、それが小さくなれば生まれたのではないかと思う。しかし実際には流産かひと月も経たずに死ぬか、生き残るのは半数ほどだ。

 まだ名前も呼ばれぬほどの赤子は精神衛生上、個別にはまだいないものとして考えないとまずい。アキラはそう考えるようになっていた。


 だが現在、衛生観念を導入しようとしても、アキラが何を言ってもまじない程度にしか取られることは無い。言う事に裏打ちも実績も無いのであれば、この時代衛生観念なんてタワゴトだ。

 だが幸い、尼女御には僅かだがそこそこの衛生観念があって、アキラは陰陽、つまりまじないごとの担当だ。


 まじないとしての衛生的儀式をアキラは編み出していた。

 洗った衣類や桶を熱い蒸気に晒し、血や吐瀉物は直接手に触れることなく鹿革の手袋とマスクをした者が洗い流して清掃する。産屋の床は三和土になっていて、毎日ささらに柄を付けたブラシで水洗いする。

 しかし真似事に過ぎず、儀式に過ぎない。


 便所と洗い場、井戸を離すことができたのは僥倖だった。

 アキラは陰陽の方角がどうのという説明でそれら場所を決めることができた。井戸は便所に汚染されることは無いだろう。

 蔭で糞陰陽と呼ぶ奴がいることは知っているが、我慢だ。自分の法にも正義にも、武者振りすることを含むつもりはない。


 ただ、その分便所は不便になった。特にアキラにとってだ。

 アキラは便所からまっすぐ30メートルほど溝を掘って、敷地の外まで排泄物を流すことにした。溝の端には深く掘った肥溜めを掘ったが、防水は間に合わなかった。

 屋敷の建物と肥溜めの間には植樹したかったが植えるものが無いので、ススキの根を植え替えている。正直、目隠しになれば上出来と言う程度にしかならないだろう。

 溝には毎日水を流すことにしていた。桶で水を汲んできたのを流すのだ。

 本来なら用を足すたびに盛大に流したいところだが、足利荘の水不足は開墾が進むにつれて逼迫していた。だから何処かから水を引いてくるというのは無しだ。井戸を掘ることが出来て本当に良かった。


 問題は匂いか。

 アキラは送風機で匂いを建物から遠ざける妄想をしばらく弄んだ。動力はどうする。アキラは解決策が無いのを認めざるを得ない。


 幸いなことに、今匂いはしない。

 建屋の裏手に回り込み、裸足の足と手を三和土の上で洗う。木桶から柄杓で水を流しかけるのだ。三和土には簀子を敷いており、そこで足裏が少し乾くのを待つのだが、待たずに裸足でアキラは建物に入る。

 奥から苦しげな呻きが聞こえてくる。


「来たか目代殿。頬当てに印が足りぬ」


 アキラは関係者にマスクを付けさせるために、乳児を殺す鬼の話と、これを封じるまじないの印をでっちあげていた。で、あらかじめ作っておいた印が足りなかったらしい。

 印の効き目は一日限りと伝えていた。印は膠の入っていない墨で小さく書くもので、熱湯できれいに落ちる。これで洗濯の状況がわかる仕掛けのつもりだった。

 アキラは竈の内側に人差し指を押し当てると、これを麻のマスクの上に付けた。そのままむにゃむにゃと適当なことをつぶやいて指を離すと、黒い煤の印がつく。


「これで良かろう」


 さっとマスクが持っていかれる。用意していたエプロン姿の少女はマスクを身に着けると、建屋の奥に飛び込んでいった。

 建屋の奥との間には暖簾がかかっている。ただ暖簾とは呼ばれず、布蔀という名前になっている。アキラが提案したものだったが、普段はどうも手拭き代わりにでも使われているらしい。こまめに洗濯しているらしいから、いいのか。

 と思ったら、


「湯持てよ!」


 さっきの娘は直ぐに飛び出してきた。桶を探すのを手渡してやると、湯を汲んで持っていこうとする。その場にいた者で手伝うと、娘は桶を抱えて奥へと戻っていく。

 石鹸、欲しい。すごく欲しい。


 布蔀の奥が騒々しくなる。

 アキラは手持ち無沙汰になったので、産屋から出て蒸し小屋に戻ろうとした。


 聞こえてきた。

 大きな甲高い、短く断続的な泣き声。産声だ。


    ・


 皮をむいてしんなりした苧麻の繊維を池原殿と担ぐと、産屋の軒下へと持っていく。そこは最近のクワメの定位置だ。

 クワメのためにアキラはしばらく軽労働を探していたが、ちょうど織機はそれにぴったりの仕事だった。


「ようやく麻糸つくれる」


 繊維を竿に干し掛けると、クワメは早速繊維を繋ぎ始めた。

 麻の繊維の長さはしょせん伸びた茎の長さまででしかない。これを絡め継いで長い繊維にするのは気の遠くなるような手作業だった。この気の遠くなるような作業で麻糸は作られるのだ。

 どうにかしてこれも道具を導入したい。


 クワメのお腹のほうはまだほとんど大きくなっているようには見えない。悪阻はたまにあるし、気分のむらときたら大変なものだが、元からかなりの気分屋である。


 しばらくしてクワメが言う。


「吾はまことに目代の妻なのであろうか」


 いや、言いたいことは判る。もうちょっと偉い人みたいに振舞えないのかと言う話だ。しかし、アキラは次から次にやりたいことを試すために蓄財が無いし、それら新規な諸々は、他に任せる人間も当然居ないために、アキラ本人が雑色よろしく働くことになる。


「ほう、吾もまことに目代なのかどうか、同じように思っておった所ぞ」


 すまん。しばらくしたら楽させてやろう。

 しかしそれまでは、今はごまかさないと。何せやりたいことは、まだ山のようにあるのだ。

#53 織機について


 水平と垂直の繊維を互い違いに組み合わせてつくる織物は、その制作に何らかの道具を要するため、ごくわずかな道具しか使わない編物からの派生物だと考えられています。織物と編物ではその繊維構造は全く違うものですが、日本では特に、藁織物を編むと言うような混同した用法が見られます。

 織物を製作する道具、すなわち織機は日本では縄文時代晩期からあったと考えられていますが、証拠となる出土物が乏しいのが実情です。

 古墳時代になると埴輪として織機の構造がわかるものが出土しています。作中時代に農民が使用していたのはこの技術水準の織機だったと思われます。


 織り機の構造の原理は簡単です。


 織布は経糸と呼ばれる縦糸と、緯糸と呼ばれる横糸で出来ています。横糸は縦糸の上下を交互に通り、縦糸と横糸は、互いを互い違いに交差することになります。この構造をつくるために、織機では縦糸を一本飛びに二つに分けます。

 この半分づつの片方を偶数糸、もう半分を奇数糸としましょう。偶数糸を上に、奇数糸を下に寄せて、その間に横糸を通し、そして今度は偶数糸を下に、奇数糸を上にとポジションを入れ替え、また横糸を通す。これを繰り返せば布が出来る訳です。


 さて、さっきさらりと偶数糸と奇数糸のポジションを入れ替える、と書きましたが、これは普通に考えれば入れ替えるところで干渉が起きます。


 作中で農民が使用している織機は、偶数糸は織機の枠に張り、奇数糸は手で引っ張ります。引っ張っているときに横糸を通し、打具で横糸を叩いて布に押し付け、そして奇数糸を張っていたのを緩めると奇数糸が下に垂れるので、その隙間に板を入れ、そして横糸を通して打具で叩き板を外して奇数糸を引っ張って張る、こういう工程の繰り返しで織っていきます。


 地織、作中の高級機では奇数糸それぞれを糸のループで釣って、上下に動く枠に固定します。枠を上に動かすと偶数糸は上になるし、枠を下に動かせば下に移動します。この枠の範囲なら偶数糸と奇数糸は互いに干渉しません。

 この枠は上から竹竿のばねで釣っていて、足で引くとこの枠が下がって、足を離すとばねで戻って枠も上がる、という仕組みです。


 アキラのつくる新型は、偶数糸と奇数糸のポジション入れ替えを一枚の板でおこないます。板には縦に溝がびっしりと掘られていて、糸はこの溝に一本一本嵌って、板の回転にあわせてそのポジションを上下します。溝の深さが奇数糸のものと偶数糸のもので違うので、自然にポジションが変わるのです。板を180度回転させると、溝の深さは逆転し、奇数糸と偶数糸のポジションも入れ替わります。

 この方式はポジション入れ替えを回転で済ませることができるため、動力化に向いています。

 但し、横糸を通し、打具で叩く手作業が残っているうちは、その動力化は難しいでしょう。

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