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#51:1019年6月 山村

 アキラは奥山の小屋の前に立つと、扉を軽く叩いた。


「おるぞ」


 ゴトゴトと音がして、戸が開く。

 戸は蝶番(ちょうつがい)ではなく、戸の上下に飛び出した軸木を軸に開く構造で、戸には中と外から鍵を掛けられるようになっていた。こんな山奥の小屋には過ぎた構造だが、盗みや獣が荒らすのを考えれば仕方がない。

 といっても、鍵は実際には穴に棒を突っ込んで、棒の先の鉤でラッチを外すだけの簡単なものだし、中からは(かんぬき)を差すだけだ。


 中から現れたのは、佐渡から来た男、古部三郎だ。

 顔に目立つ痘痕だらけの、目つきのおかしい狷介な性格の男だった。昨日屋敷に着いた移民の一団から抜け出すとアキラの案内でここに身を隠したのだったが、その際にいきなり酒を要求してきた。

 アキラが渋り、代わりに飯を持ってこようと言ったのだが、それで古部三郎は怒り出し、それぐらいも出せぬなら他所へ行くと言う。


 勿論、他に行く所などない。

 この時代、どこかに鉱山があるなど噂すらアキラは聞いたことが無い。そもそも鉱山を指す言葉があるかどうかも知らない。

 鉄が欲しければ川で砂鉄を浚い、金が欲しければ川で金を浚う、そういう時代だ。かつて採鉱技術が存在したとしても、この辺り東国からはすっかり失われてしまっている。

 そんな東国のどこに行くというのか。

 だが、そう判っていても、そこはこの男の感情を汲んでやらねばなるまい。ここで反感でも拗らされても困る。


 そうして調達した濁り酒を既にたっぷり片付けてしまった後らしい。小屋の中の匂いが凄い。アキラは元々濁り酒の匂いが苦手なほうだ。たまらず鼻をつまんだ。


「匂いあるか」


 それを体臭かと勘違いした古部三郎は服の端をつまんで匂いをかぐ。


「悪くあるまい」


 構わずアキラは小屋に入って荷物を出す。テント道具一式に匂いが移っているのが嫌だが、これは古部三郎に貸すので匂いに悩む必要は無い。ただ、もうこの姿のままでは戻って来ないだろうと思うと切なくなる。


 次は道具だ。しいたけ穴に向かう。崖に掘った横穴の扉にも鍵を付けている。

 実際のところを言えば、鍵なんてこの時代気休めに過ぎない。丸太担いで突っ込まれたら破れない戸など無いのだから。

 しいたけ穴を後ろから覗き込む古部三郎が、これは何ぞ、と聞いてくる。


「椎茸を育てておるよの。椎茸は湿りを好むゆえ」


「これは何ぞ」


 指さすのは穴の崩壊を防ぐための支柱だ。穴は柔らかい砂岩の崖に真横に掘っていて、穴が崩れるのを防ぐために天井に板を、そしてこの板を支柱で支えていた。また側壁が崩壊しそうなところには板が当ててある。

 そう説明したところ、よく見せよ、と言う。


「明かり火持ち来給われ、急がれよ」

 

 火など入れる事できぬ、と強く言うと、古部三郎はぶつぶつ言いながら見える範囲で天井や柱を入念に観察しはじめた。


「もしや、金掘りに穴掘らぬのか」


「掘る。しかし柱や屋根は付けぬ。何ぞ土の中に家建てようか」


 そう言いながら、フンフンと鼻息荒く、こら柱を揺らすな。


     ・


 主人が言いつけた事以外、家来のやることは自由の筈である。しかし、アキラと平良衡のこの秘密のプロジェクトは、あまり人の噂になることは避けたかった。

 山のような荷物を馬に積んで、アキラと古部三郎は手綱を引いて山道を歩く。足利の奥山を西に抜ける裏道で、これなら足利荘の誰かに見つかる心配も少ない。

 アキラの格好は雑色姿に脚絆を巻いたもので、頭には烏帽子ではなく笠を被っていた。そこに太刀を佩いているのは全く変な恰好だった。

 山を下って太日川まで出ると、更に西へ、上流へと川べりを進む。


 アキラは道すがら、様々な話題を古部三郎に振った。


「佐渡はいかなる所ぞ」


「海の中の大きな島、ただそれだけぞ」


「金が取れると聞いた」


「山を少し取り崩して、あとは砂金採りと変わらぬ。少ししか採れぬし、崖掘っておったら崩れて二人ばかり死におった」


「穴は掘らぬのか」


「掘らぬな。しかし、茸生やした洞のような穴掘れば違ったやも知れぬ」


 佐渡の金鉱はそんな調子だったのか。


「越後にも住んでおったのか」


「昔、少し」


 歯切れの悪い返事だ。


「越後はいかな所ぞ」


「沼と砂、葦原続きて人少なき」


 そして、しばらく置いて、


「昔は違い、人がおった。吾の妻子もおったが、皆疱瘡(もがさ)で死におった」


「……いかほど、死んだのか」


「二人に一人」


 まさか。壊滅じゃないか。

 下野ではそこまで酷い話とは聞いていない。いや酷い話の筈だが、国庁の数字を見て修正して出た値、死亡率はおよそ三割だ。

 そういえばそこで知った事がひとつ。疫病の死者は夏に集中する。何故かと考えたが、要するに食料が乏しくなるのが駄目なのだ。体力が病魔に打ち勝てないのだろう。


「昔は人多く、船も盛んであった。

 佐渡へは能登から向かうは昔の話にて、今様の舟ならば越後からの方が近き。

 やがて牛頭のものたち、大船作りて海渡り渤海へ行って、そして帰り来た。

 それからだったか。ひどい疱瘡が流行りはじめたのは」


 皆ばたばたと倒れ、その様子は仏法に説かれる地獄そのものであった。

 起き上がる者誰もおらず、やがて鳥や犬が亡骸を食い散らかしはじめた。


 古部三郎は佐渡から帰ってくるタイミングがちょっとだけ、初期の急速感染の時期から遅れていたために助かったようだった。

 人から人に感染するためには、感染した後ある程度は感染者は生きていなければならない。感染から発症まではタイムラグ、つまり潜伏期間がある。

 聞いた限りでは疱瘡、つまり天然痘の潜伏期間は10日ほど、8日から12日ほどばらつきがあるようだった。しかし今聞く越後の大流行は、潜伏期間が6日ほどではないだろうか。

 潜伏期間が短いとあっというまに感染者が広がって、未感染者をいわば食い尽くしてしまう。こうなると疫病ももう広がりようがない。そこで流行は終わりだ。

 この終わったタイミングで古部三郎は越後に帰還したのだ。


「その後、牛頭の者どもは行疫の者として石もて追われ、そして何処へか消えた。

 それより後は知らぬ」


 以来、佐渡では右京大夫致忠という流人のもとでちょびちょびと砂金を取っては、それを越後を阿賀野川を遡って会津へと売る生活をしていたという。


「牛頭の者とはどのような者か」


「背の高き、頭に短き牛の角生えた者ぞ。角は烏帽子被らば見えなくなるほど小きものの、確かに生えおる。

 穴住みしたる土蜘蛛ぞ言いける者もいたが、あれは金掘りし者ぞ。今考えるに、あれらは目代の茸穴のごとき横穴を掘っておったか」


「直に角、見たのか」


「見せてもろうた。小さきが確かに角であった」


 そして少しあって、


「吾は鉄鉱(あらがね)扱う業を、あの方らに教わったのよ」


      ・


 太日川が北へとその流れを変える辺りで、アキラたちと平良衡は落ち合った。

 平良衡を馬から降ろして、その馬にも荷を割り振る。不満げだった平良衡も、荷の多さに口を噤んだ。

 山中の村、花輪の入り口に待っていたのは、こないだまで貞松の作業場で木工を教わっていた奴だった。


「足尾谷の口まで、人通る道は出来ておる。しかし馬通るにはあと二十本、馬車通るには百本切らねばなるまい」


 村の中に歩きながら男は説明する。


「村の者には足尾谷に障ること良く思わぬ者も居たが、大鋸が何もかも変えてな、ひと頃はいくさ事のごとき様子であった。

 今は木造り所作りて、足利のように用いておる」


 村には建物がまばらに散らばり、石垣を積んで作った畦が様々な曲線を描いて田んぼの縁を飾っていた。そんな田が幾重にも重なって谷間に広がってる。田植えは済んでいたが田の水は冷たく、あまり稲の生育は良くないのではないだろうか。

 集落を抜け田んぼを抜けると、川沿いに木材加工の作業場らしき建物が見えてきた。あれが木造り所か。


 川沿いに建物があるのを見ると、大水のときに大丈夫かと思ってしまうのだが、同時に豊富な水量が羨ましくなる。水車が使い放題だ。しかし揚水する訳でも粉挽きする訳でもなく、一体何に使うというのか。

 今一瞬、アキラの脳裏を水車を円鋸と組み合わせる構図がよぎったが、払い除ける。


 建物はかなり大きく、丸木の柱に壁は無く茅葺きの屋根は低く、そしてその屋根の下は加工中の丸太や木材でいっぱいだった。

 その建物の周りには小さな小屋が幾つも取り巻いていた。明らかに新しいのは杉の葉を屋根に葺き、その下に並ぶ薪も杉の枝だったものだろう。

 ほかの小屋には流木を薪にしたものを積んでいるという。この渡良瀬渓谷の奥で地崩れして立木が流れてきたのを木炭の原料にしているのだ。元々の住人はそれだけで食っていけたというから、どれほど流木は多かったのだろうか。

 よく見ると、谷の奥から空へ、幾筋も煙が立ち上っているのがわかる。炭焼きの煙だ。


 木造り所の屋根の下は暗く、案内をする村の男を先頭にアキラたちは中に入っていく。建屋内は材木と木片がいっぱいで、あまり整頓されているという印象は無い。管理者がいないのか。

 暗がりから男が出てくる。手に持っているのは鋸か。建物の入り口付近に鋸を置く場所と決めている木箱がある。足利の作業場でも大体その位置だ。男はそこに雑に鋸を抛り込んだ。


 見覚えのある鋸。それはアキラの作った鋸だ。


「雑に扱うな!」


 男の襟を掴むと引き回し、蹴り倒す。

 さらに蹴りつけて、アキラは遅れて、自分が完全に頭に血が昇っていることを認識した。


「何ぞしたか」


 平良衡らの声にアキラは構わず、男の足を掴んで木造り所から表へと引きずり出した。


「ここでは鋸をかように雑に扱うのか」


 ここで男を良く見ると、これは見覚えのある顔だ。

 大物部季通だ。


    ・


「さっさと首落とせ」


 大物部季通はそう言う。


「ふむ、さっさと首落としてしまえ」


 平良衡はそう言う。これに賛同する声がその座の者から幾つか挙がる。


 大物部季通は去年この谷にやってきて住み着いたという。アキラの仕掛け矢にかかって逃げた直後の話か。

 普段は無口で、流木を拾って生計を立てていたが、ようやく斧を手に入れ、自分で窯も作って炭を焼くようになったところらしい。

 ただそこから先はあまり思わしくなく、炭を売ってはその代を酒に替えるようになってしまったという。

 酒に酔うと、吾は武者なりとわめくのが常だったという。炭代で刀を手に入れると常々言っていたらしいが、住人たちは誰も本気に取りはしなかった。土地の住人に溶け込まず、協調性の無いのは足利に居た頃そのままだ。

 実際、ここ花輪村の住人達にもあまりよく思われていないらしい。

 理由の一つは、鋸だ。


 大物部季通は足利で鋸を使ったことがあり、これが材木を縦横に加工することを知っていた。対して村の住人は最初、鋸に懐疑的で、そして大物部季通はその猜疑心を煽った。鋸なんて大したものじゃない。お前たちはつまらぬ金物で働かされるのだ、と。

 そうして大物部季通は鋸を独占した。

 その時の経緯を村の者は忘れていない。


「誰も目立てせぬのか」


 手に取った鋸の歯を観察してアキラはうめいた。ひどい有様だ。


(やすり)無きゆえ……」


 貞松のもとで大工の技を学んだ筈の男が申し訳なさそうに言う。


「そこの板全て売りて鑢を手に入れよ。よく手入れせねばすぐ使えなくなるぞ」


 アキラはそう言い放つと鋸を静かに箱の中に置いた。


「さて、この下衆をどうする。殺さねば後の面倒ぞ」


 平良衡はそう言う。


 大物部季通は憎しみに満ちた目でアキラを睨みつけていた。

 全くの逆恨みだが、正しいとか逆とか、そういう論理性をこいつに求めるのは酷というものだろう。論理なんてものはこの時代には無い。そして、こいつはただ武者になりたかっただけなのだ。


 殺すか。


 太刀を掴む。胡坐の上に太刀を置いて、しかしそこで考える。


 後の面倒だから殺す、侮る奴は殺す、それはこの時代、正しいことだ。

 しかし、

 そもそも、この時代をアキラは正しいとは思っていない。


 この時代にまともな法は無い。律令の法は貴族の儀式の日取りを決めても、百姓の苦しみを救いはしない。

 それっぽい法運用は存在するし、それに従って都に訴えることもできたが、それらは税か土地についての物言いに限られた。いざ生活が、生命が脅かされるとき、素早く事を決めるのは法ではなく武者の暴力だ。


 武者の論理では、(おびや)かすものは殺すし、侮るものも殺す。

 いま平良衡が殺せと言うのは、後々アキラを脅かすであろうことを案じてだ。

 しかしそれは、言ってみれば怯えだ。怯えるのが嫌だから殺そう、そういう話だ。


 怯えで人を殺すか。

 法が無いなら、俺の勝手正義で決めよう。人殺しくらい、俺の論理、俺の正義で決めるべきだ。


 さて、


「大物部季通よ。

 盗みを二度、家壊すを二度、家汚すを二度、これら罪状は二年の労役にて贖うものとする。

 ここで二年働け。それまでここから逃げる事ならん」


 これで、この村の住人がただで使える奴婢、労働力が一人分出来た訳だ。村の住人は喜んでアキラの宣告した罰の執行を強制するだろう。

 大物部季通の憎しみに満ちた目は変わらない。


「殺しおいた方が良いぞ」


 平良衡はそう言うが、


「殺し来た時に殺せばよい」


 アキラはそう答えた。


   ・


 その夜は花輪村の衆に歓迎されて、アキラは苦手な濁り酒を飲まざるを得なかった。

 製材の収入は住民たちを強く刺激していた。

 これくらいの小さき板でも集め組めば桶ができる。アキラは手ぶりで説明した。一斗サイズの桶が十斗で売れるというと場の者は目の色を変えた。

 アキラは小屋の隅に蹲っている大物部季通に声をかけた。


「二年、よく働けば武者にしてやろう」


 大物部季通は顔を上げた。憎しみと疲れと、そして何事にも興味を失いかけた顔に、わずかに表情が戻る。


「この奥、足尾谷にてよく働くならば、吾の郎党にしてやろう。馬も刀もやるぞ」


「糞が」


 帰ってきた答えはこれだ。

 結局、いつか殺すことになるのだろうか。

#51 越後について


 平安時代の越後については文献に残っているものは少なく、発掘による知見が当時の越後の姿を知らせるものとなっています。

 平安時代前期に信濃川及び阿賀野川の下流域は大きく開墾されましたが、それらは長続きしなかったようです。河川の氾濫と津波のどちらも考えられますが、基本的に河川が越後平野の地形を形成したと言えるでしょう。歴史時代においてもその地形変化はダイナミックに続いていたのです。

 平安時代中期には摂関家家司が相次いで受領となる、条件の恵まれた大国として知られていました。紫式部の父である藤原為時は摂関家家司ではありませんでしたが、詩才によって除目を淡路守から変えてもらったという逸話が残されています。ただ、これは交易の可能性を考え、漢文の才のある藤原為時をあてたという話もあります。彼が越後守となって赴任していたのが996年から1014年、つまり重任しているのですが任期を一年残して都に戻っています。次の受領は藤原信経、紫式部の従兄弟で越後守は以前にも任ぜられた二度目でした。藤原信経は枕草子の中で字が下手だとさんざんネタにされています。この任官は晩年のことと思われ、任国に赴任したかは判りません。

 作中時期である1019年には、藤原道長の家司である源行任が任命されていました。彼は能登守からの歴任で一期のみ受領として赴任しています。彼の任期中の話として今昔物語集には奇妙な逸話が残されています。

 越後の海岸に長さ二尺五寸、80センチほどの小舟が打ち寄せられ、良く見ると舷側に良く使い込まれた小さな艪を受けた跡があったというのです。つまり小人が使っていた船なのだと推測されました。このような舟は過去にも越後の海岸には打ち寄せられたことが有ると、土地の古老は語ったといいます。

 日本海側のこの時期、使用されていた舟は帆を使わず手漕ぎによる航行を行なっていたことが読み取れます。


 受領任命の記録だけをみると豊かだったように見える越後ですが、平安時代中期から鎌倉時代にかけて遺跡が極端に減ることが知られています。しかし受領たちは特に税の減免を申告したりはしておらず、天災によるものでは無かったと思われます。つまり土地利用に大きな変化があったのでしょう。

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