#50:1019年5月 会津 (地図有)
那須の郡衙を後にして四日。
那須の荒れ野を横断し、廃墟の白河関を超え、細い山道を、蒼く広がる空の下を、夏草の広がる野原の中を、陸奥路をアキラは旅をしていた。
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那須郡の検田は梅雨の切れ目をついて始まった。
雨を防ぐために測量盤の上に掛けるテントを用意したが、これは夏の強くなった日差しを避けるためにも役に立った。子供たちに被せた笠も、日差しを防ぐ意味でそのまま被らせている。
子供たちはすっかり測量にも慣れて、数人ついてきた大人は保護者として身分を保証したり交渉したり、それくらいしか出番が無い。アキラはそうやって郡司の屋敷で用を済ませると、一行を置いて北へと一人旅立ったのだ。
この道に宿は無い。道筋の郷村を訪れては、一夜の宿を乞う。
家の主人に世間の事を話し、物語し、時には詩歌を見てやる事すらあった。
陸奥にも安価な塩は流入して、痩せ馬が肥えたとも聞いた。周囲は安積野なる原野で馬の産地だという。
会津への道へと入るともう人の姿を見る事もなくなった。辺りは荒れ野ばかり。
その夕方、アキラは手製の小陣幕、テントを使った。
細竹を継いで曲げた骨材に柿渋を塗った麻布を被せる。テントは二重構造になっていて、内側のものは編みが粗く蚊帳になっていた。
床には菅茣蓙を敷いたが、あまりクッション性が無いため寝ると背中が痛い。
煮炊きは鋳鉄の組み立て式五徳に小さな鉄鍋を使う。燃料には勿論現地で調達する薪を使うが、念のために炭団子を一袋持って来ていた。寒い季節などは炭団子は重宝するだろう。
装備一式は重くなったが、騎乗しての旅である。まだ余裕は充分ある。
山道はやがて鬱蒼とした木々の中に埋もれ、眩しい日差しは木々の葉で遮られる。
風の音と沢のせせらぎの音、そして痛いほどの蝉の声ばかり。
今日は誰とも話していない。
アキラは時々心配になって、懐から磁石を取り出す。
新しい磁石は、木箱の中で糸で釣ることで、水の上に浮かべる必要を無くしていた。糸は撚りを解いてほぐした、撚りの無い麻の繊維だ。
道は変らず西に続いている。
やがて、湖が見えた。
猪苗代湖か。
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慧日寺は猪苗代湖の西岸、磐梯山の西南の裾野の果て、会津盆地の入り口に位置していた。
アキラはさんざん住民に寺のありかを聞きまわったが、心配するまでも無く、道を進めばやがて寺に出くわした。
広い参道の両脇には家が立ち並び、築地塀を持つ恐らく商家らしきものも見える。常設らしき小屋には竹籠に盛られた長芋やちいさな瓜、壺の中に漬けられた大根らしき漬物などが売られていた。
しかし参道に真っ赤な鳥居が立っているのには驚いた。寺、だよな。
「あれは便法にあります」
奥に案内してくれた当人が別当だった。いい感じの老僧だと思っていたらびっくりである。
「当寺は古くより戒律を学ぶことに重きなしておりますが、けして決まり事をただなぞるのみに腐心しておるのではありません。
大事はまず衆生を救うことであり、その為には様々な事が決して禁じられてはおらぬのです。
例えば石清水に寄進するがごとく鳥居が寄進されたとしても、その善行の心根を大事と思えば、これを受け取らぬという訳にはいかぬのです。
それに別段、鳥居が立ったからといって何か修行修法に困る訳でもなく、かえって稲荷か何かと間違えて迷い込みし者を救う切っ掛けとなりしやも知れぬのです」
老別当の後ろについて境内を歩く。
白い湯気が漏れ出している建物がある。その壁には薪がどっさり積み上げられていた。
「あれは蒸し風呂です」
「蒸されるのか」
サウナか。
「風呂を振舞うにも湯では大勢に振舞えぬ故、小部屋に湯気入れて中の人を蒸して風呂としたものです。あれだと湯風呂の三十倍は振舞いが増えます」
冬には近郷の者が列なして並ぶのです、目代殿も如何か、と言われてアキラも好奇心が沸く。
やがて案内されたのは境内の外れにある小さな薬師堂だった。
「中にて既にお待ちでしょう」
草鞋を脱いで板張りの暗い堂のなかに入る。
中にいたのは、良く知った男だった。
最初に会ったのは薬師寺だったか。寺に縁のある奴だ。
「平良衡にあります」
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「なぜここにおる」
アキラの言葉に平良衡は、吾は元々越後の者ゆえ、とそれだけ言うと、アキラの渡した書状を解いた。
「俘囚二十ほど、確かに工面しよう」
平良衡は頼季様からの文書を読むと、まずそう言った。
「但し、ここだけの話ぞ。実のところ正味は陸奥ではなく出羽の者になる」
聞くと、実に生臭い話だった。
元々は、もっと移住者が欲しくて慧日寺に相談したという足利荘の都合がある。
できれば無税の俘囚がいいが、西国からはもはやどこからも連れてくることが難しい。となると東国から連れてくるしかない。陸奥や出羽からなら、いわば誰でも俘囚である。その中から移住者を募るという話だった。
この都合に乗っかったのが、出羽の俘囚頭である。
自分の権力確立に都合の悪い連中をまとめて追い出す機会と考えた。出羽では永いこと権力闘争が続いていて、これは追い出される側にとっても渡りに船だったらしい。そのまま嫌がらせを受け続けるより新天地でやり直す方がまだマシだ。
とりあえず平良衡から説明された都合はそういう話だった。
「嫁子付いてくるが良いか」
「いかほどぞ」
「二十に五十足して、合わせて七十」
多い。そこまでは養えない。
「多い。二度に分け、半分づつ行くのではどうか」
それで話は固まった。
「俘囚と偽りて佐渡の者混ぜたるに、これを銅つくりに使え」
平良衡が都合すると言っていた人間はそれか。
佐渡って、佐渡ケ島、金山があったところだっけ。
「その佐渡の者、金など採るのか」
「金と鉄に詳しいと聞いておる」
おお、頼もしい。
「何しろ牛頭に習いし者共だからな」
「何ぞそのゴズとは」
「吾子の専らとするところ、陰陽の者ぞ。金土に通じておると言われたが、吾の幼き頃にいなくなったと聞いた」
陰陽師にそんな高度技術集団がいたのか。初耳だ。
「今では直に知る者のほかに良く言うものおらぬからな。
越後でしか知られておらぬし、今では牛頭といえば行疫の者、病の化としか言われぬ」
そうだ、これを守りにやろうと平良衡は直垂の懐をまさぐって、何かを取り出した。首にかけていたのか、紐のついた何かだ。
「よく見よ。銅採ってこれ作るぞ」
手に取ったそれは、四角の穴が空いたコインだ。その穴に紐が通っている。
コインには穴の上に太、下に平、左右に難しい字がある。裏には文字は無い。
「宋の銭、これを数作るのよ」
なるほど、よその通貨なら贋金作りの罪には問われまい。
アキラはコインをまじまじと観察した。鋳造精度、結構良いな。
「鋳物もできるか、いや、いい。鋳物はあてがあるゆえ」
アキラがそう言うと、平良衡が逆に鋳物とは何ぞ、と聞いてくる。
その程度の認識で贋金作りに手を出そうとしていたのかよ。銅を溶かして凹みに流し入れて固めるのだと説明して、ようやく理解したようだ。
「叩いて作るのかと思っておった」
「鍋と作りの方は同じぞ」
まぁ、武者だからな。そもそも知識があれば一人で勝手に贋金作りでもなんでもやれた筈だ。
そういえば、聞いておかねば。
「吾子は何の益あってこれをやるのか」
以前聞かれたままを当人に問い返す。
「吾が祖父の益になる故」
どこかで聞いたような答えを返してくるが、祖父とは誰だ。
「聞いて驚くな、吾こそは余五将軍大掾維茂の末孫よ」
「余五将軍とは誰ぞ」
そう聞くと平良衡は呆れたものをみる表情で、
「吾子はまこと物知らずよの」
吾子がアホと聞こえた。
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蒸し風呂は思ったよりサウナではなかった。冷水を入れた木桶に笹束でも置いて身体に打ち付けたいところだ。
気持ちよく蒸し風呂を出て、夕餉を頂く。木椀の飯と、これは茶色だが沢庵か。しょっぱ甘い沢庵の味が染みる。
どうやって作るのかと聞いたが、米糠に漬けるのだそうだ。糠を頂きたいと願ったが、夏に運ぶのは悪しき故、冬にでも取りに来られよとの事だった。冬なんて無理だ。
平良衡が語る余五将軍の話は、ごく最近の関東の動乱の原因についてだった。
余五将軍平の維茂とは平将門の従兄弟平貞盛の養子であったらしい。15番目の子に当たるから余五だとか。
昔陸奥で藤原秀郷の親類と争って殺し、以来下野の藤原氏とは仲が悪かったという。
それが15年ほど前に、更に平忠常とも対立したらしい。
下総の国庁を焼いて追討の官符も出たこともあり越後に逃げ、この時に父親が上総介だった頃に築いた所領も失ったが、そもそもこの所領を受領と一緒になって平忠常が収奪したのが事の始まりだったのだとか。
常陸を牛耳る平維幹と祖が同じ、つまり同様に将門に関する因縁を持っている訳で、平忠常と対立するのは避けられなかっただろう。しかしこの余五将軍、敵が多すぎだろう。
その後越後で勢力を盛り返したところで、平忠常とのパワーバランスを模索する藤原兼光と戦略的に手を組むことになったと。
「おおむね、相違無い」
平良衡はアキラの理解を確かめると、満足げに頷いた。
で、こいつが連絡将校みたいな事をやっている訳か。
文机を探し出して、そこで平良衡は何か書きつける。
「名表はこの通りとする。これら連れ帰られよ。姥子連れで数は三十ほどになるか」
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足利への彼らの移住に関して、慧日寺は惜しみなく準備を手伝ってくれた。
陸奥の境まで馬一頭と人が付いてきてくれるという。それは助かる。
老人たちとの会話は困難だった。彼らの発音がフニャフニャモガモガと不明瞭だったのもあるが、方言がきつい。ある程度若い人は、こちらの言うことは理解できるようなので基本問題は無かった。
アキラの馬に足の弱い老婆と、子供のうちでもっとも小さな子二人を乗せる。子供は荷物を駄馬に積むための振り分け籠に入れる。他は自分の足で歩いてもらう。しかし小さな子供も、杖を突く老爺もいて、一行の歩みは遅い。
寺に用意してもらった馬には荷物、その大部分は食料が載る。
最初の日は無理をし過ぎた。
山中で夜を超すのは避けようと、山を越えて里で夜を越そうとしたが、結局山中で夜を越すことになった。老人や子供がいっぱいの大勢で、だ。最悪である。
翌日の行程はおそらく前日の半分ほどになった。往路で泊めてもらった家にお世話になる。ほか四軒ほどに頭を下げて泊めさせてもらう。宿代に払う米は半斗ほどにもなった。更に子供に被せる笠を急ぎ調達した。
アキラは歩きでの長旅というものを初めて体験していた。
初日については、後から考えればあんなに頑張るんじゃ無かったと思う。翌日から足はいきなり重くなった。疲労は積み重なっていくのだ。
次の日も民家に泊めてもらった。
アキラは老人や子供が早々にへばっていくのに焦った。休憩は頻繁に入れ、水も欠かさず飲ませる。今は夏場なのだ。
次は白河の関で泊まった。民家は無かったが屋根はある。宿代を払う必要が無い分助かったとも言えるが、あばら家の有様は怖いほどだ。
慧日寺の人は翌日の下野那須郡の郷まで付いてきてくれた。ありがたい。
アキラたちはその郷で丸一日休んだ。一行の体力がどのくらい回復したかは推し量るしかないが、アキラへの効果は覿面だった。
馬は一頭帰ってしまったが、そこで新たに那須の郡司が用立ててくれた馬二頭を加えて馬三頭となったことで、旅の行程はずっと楽になった。へばりそうな老人を馬に乗せて運べるのは行程を著しくスムーズにしたのだ。
郡司の使いは新しい地図をアキラに見せびらかした。測量隊が作って現地に配布している奴の写しだ。一寸五里、およそ十万分の一縮尺の道路地図は行程把握にもってこいだった。
郡司の使いは地図を目の前に広げ、ぐるぐる廻して道の向きを確認していた。そういう読み方をしているのか。
足利まであとは4日。一歩一歩、照り付ける日差しの中、根気を振り絞ってアキラたちは歩き続けた。
街道筋の見知った民家に泊めてもらえるようになると、宿と食事代の面倒はかなり減る。
田んぼの真ん中を雨に打たれながら歩いていく。
足利への良く知った小路を、夕焼けの中歩いていく。
一人の欠落もなく、計34名の移民が無事足利に到着したのは、まったくの僥倖だった。
ひたすら疲れた旅だった。
#50 余五将軍について
余五将軍の別名で知られる平維茂は、平将門を討った平貞盛の養子のひとりで、十五番目の養子であったことから余五と呼ばれたという逸話があります。今昔物語集にも複数のエピソードに登場していますが、この人物は逸話と共に謎も多く、例えば平維良と呼ばれた人物も平維茂と同一の人物であったという説が有力です。
将軍と呼ばれたのはこれは鎮守府将軍と言う職位に着いたことに由来します。鎮守府将軍は陸奥及び出羽の軍事的権威で、行政権威者であった国司とその権威を争いました。
ただこの時期は東北の反乱はほぼ慰撫が済んでおり、鎮守府将軍は実際の軍事的脅威に対応する必要はありませんでした。しかし権威とその権限は保持したままであり、作中の時代には武者に与えられる職位の事実上の最高権威とみなされていました。
平維茂の今昔物語集に出てくるエピソードは二つ、若いころ下総に父を訪ねて、そこで郎党を殺されるエピソードと、そして陸奥で合戦して勝利するエピソードです。どちらも当時の武者の姿を良く伝えるエピソードとして重要でしょう。
今回特に論じるのはこの陸奥での合戦のエピソードです。この合戦で平維茂は藤原秀郷の累系である藤原諸任(沢股四郎)と戦っています。藤原諸任は実在の人物ですが、このエピソードのもう一人の重要人物、大君の実体は不明です。大君は妻の兄で橘惟通の子とされており、伝承されていない地元の大物です。また、合戦の舞台も全く不明です。エピソードでは細かい状況説明がある割に、地名の特定ができません。ただ、傍証から藤原諸任は福島南部の人であったと思われます。
本作品では平維茂と藤原諸任が争った地を会津と仮定しています。これは後に平維茂が越後に逃れていることを希薄な根拠としたものです。
平維茂は1003年、下総の国衙を焼いたかどで追捕の官符を受けることになり、越後に逃れています。ただこれは当時の下総国司、宮道義行の受領終任年の過酷な取立てが原因ではないかとの指摘もあります。この追捕には当時の越後守源為文が追捕停止の言上をしています。
追捕には藤原惟風が押領史に立てられましたが、半年後に行なわれた報告では藤原惟風が事実関係の確認が出来ていないと藤原道長に詰問される流れになっています。
その後平維茂は藤原道長への多量の贈物で知られるようになります。多くは馬で、1014年に20頭、翌年は10頭と、毎年のように献じ続け、遂に鎮守府将軍に任命されます。但し4年きりで重任されることはありませんでした。
つまり余五将軍と呼ばれるようになるのは晩年の1014年になってからという事です。
鬼女紅葉にまつわる伝承では、平維茂が信濃守として在任中の話として物語られていますが、信濃守に補任されたという記録はありません。要するに良く知られた武者の偉い人を説話にあてはめたものと思われます。
鎮守府将軍に二度も任じられた藤原兼光はほとんどエピソードが知られることが無いのに対して、晩年ちょっと一度だけ任命された平維茂が民間説話でも目立つようになるのは面白い所です。