#5 :1018年2月 上野行 (足利荘近郊地図有)
最近は朝に深い霧が湧く。
助戸郷は80軒くらいの集落だ。人が住む用ではない小屋も併せれば200軒ほどになる。
世帯数はよくわからない。多分50世帯くらいだとは思うが、家族の幅がよく判らない。アキラの感覚では要するに村だが、だがかなり大きな村だ。
郷の周りには立木がぐりると巡っている。郷へと足を踏み入れると、かすかな腐敗と発酵臭が漂ってくる。
果樹らしき木立の中の道は真ん中が窪んでいて、アキラはそこに自動車の轍が無いことに気づく。いや、そもそもここには車輪を使ったものが無いのだ。
平安時代と言えば牛車みたいなものがある筈だから、どっかに車輪はあるのだろう。車輪の製作コストが問題なのだろうか。
郷の様子には異様な感じがする。何と言ったら良いのか、何か日本じゃないみたいだ。
人が住む家は竪穴式住居だ。壁は一応あるが高さは50センチを超えない。茅葺の重い屋根がその上に乗っている。
これから俘囚の為にこんな感じの家を建てることになるのか。20軒ほども。
郷長の家へは何度か使いで行ったことがある。
ひときわ大きく、はっきりと壁と呼べる壁があるが、この雰囲気は農家と言うより、アレだ。
「埼玉県境から車で20時間。ここが群馬県庁である」
あのコラの雰囲気そのものだ。群馬じゃなくて栃木だし、県庁じゃなくて郷長だし、屋根も茅葺きだが、雰囲気としてアレだ。
裏手には高床の蔵がある。校倉作りだったっけ。
郷長はその郷の税をまとめて納める責任者だ。
日本史の知識、墾田永年私財法の知識があるから、この時代もう荘園ばかりで中央集権の税制なんて崩壊しかけているものだとばかり思っていたが、実際には、少なくともこの時代この界隈はそうじゃない。
たとえばここは足利荘という名前の荘園だが、税はきっちり国司の元に納められる。たとえ御堂関白、藤原道長の息のかかった荘園であってもだ。
荘園とほかの農地、公田とを分けるのは、郡司を介さない点くらいでしかない。
足利荘は17年前の疫病で郡司の家が滅びて、統治困難になったところを郡ごと源頼信が統治を引き受けたものらしい。詳しくは当時の下野国の事情が絡むらしいが。
税は田んぼの面積単位で課されて、名主と呼ばれる税の取りまとめ請負者がまとめて郡司に納める。大抵の場合名主とは郷長であるらしい。
まぁ取りまとめる奴というのには役得が多少なりともある訳だ。そして権力も。税は誤魔化した分がそのまま自分の取り分になる。
特に足利荘のように、郡司が機能しなくなった場所では。
・
いつも不思議なのだが、どんなタイミングで訪れても、郷長は必ず彼の家の前で待っている。
「……昨日のくだりについてでございますか?」
おはようの挨拶もなく話は始まった。
「昨日は都合をおもんばからず、三郎様はかたじけなく思っておられます。
ついては都合について聞いて参れとの仰せにて」
アキラは早速要点を切り出す。
「いや……その……」
郷長が言葉に迷い、だがアキラは畳み掛ける。
「かくあるべしと思われること、ことごとく述べられよ」
「解決すべき問題があるのなら言ってください」と言いたい場面だが、解決も問題も、この時代そんな言葉は無い。
屋敷ではまじない使いキャラ扱いされているせいで、この時代に無い言葉を使っても、まじない扱いされるだけで済んでいはいるが、実際に意思疎通しようとすると、とにかくつらい。
アキラは前もってどういう言葉ならそれっぽく意味が伝わるか、道すがら考えていた。だがこれ以上は行き当たりばったり、出たとこ勝負だ。
「いや……そうにあらずと思し召されたく、その、
……どうにか、無しにならんものか。もう、済みし事にならんものか」
「は?」
つまり、
「来て欲しくないのか」
「伏してお願い申し上げます」
本当に地べたに土下座しようとするのを止めさせる。
「訳を申せ」
「件の二十人、男ばかり鎮西から参ったとか」
鎮西とは九州のことだ。
「そうだ」
「この郡に住まわせるとか」
「そうだ」
「鎮西は疫病み多き地ゆえ、郷の者には避けさせとうございます」
疫病か。そういう視点は無かった。
この地は17年前、深刻な疫病の被害に会っている。ひょっとして、過去にもそれなりの対策をしていたのだろうか。
「はい。病に対しては郷を閉ざすのが大要にございます。
それと」
「まだあるのか」
「二十人、武者にされるとか」
「郎党と云う訳ではないが、兵にはする」
「そのような強力が、みだらを催して郷を襲うようなことがあっては」
「なるほど」
レイプ沙汰は嫌だ、という訳か。それはそうだろう。
「郷の女目当てに通ってこられても困ります」
「婿に迎えるつもりは無いと」
「しきたりを守るならば否はありませぬ」
なるほど。単なるヨソモノ嫌悪か。しかし馴染ませるのに急ぐ必要は無い。
「わかった。これにて俘囚顔見せは済んだ。半月はこの郷に近づけさせぬ。
病持ちならそのうち判るだろう。
困り事があれば、俘囚頭の君子部三郎か、このアキラに申せ。
それと、話は変わるが、大工と田堵に心当たりは無いか」
屋敷で聞いたところ田堵というのは農業のプロフェショナルらしい。農業指導をしたり徴税の計算などの助けもするという。徴税代行までやる田堵も多いらしい。
「大工なら大窪に。田堵は評判が良いのが簗田にいるとか」
簗田とは足利の南、清水川を渡った向こうの郡だ。
「それと、この郷に空き家、空き田はあるか」
郷長は少し考えて、
「空き家はございません。
空き田なら、少々」
「……空き田も無いと言うのかと思っていたが」
「しばらくすれば誰の目にも判ってしまいますれば。しかし……」
もしかすると空き家もあるのか。ただここは郷長の言い分を尊重すべきだろう。
「俘囚には他に田を作らせるが、せっかくなら空き田を、今年だけ任せたい。
今年だけだ。ついては、空き田に、いや、空き田でない田地に棒を立てよ」
こう言ったほうが確実だろう。面倒かもしれないが、こっちは二十人余分に食わせねばいけないのだ。確実にすぐ使える田んぼが欲しい。
「仰せの通りに」
・
「簗田は駄目だ」
朝餉の席で報告すると、頼義殿はそう言われた。
「何故でございます?」
「誰も教えておらなんだか」
頼義殿は一座を見渡し、知らぬものが居るなら改めて言い渡すと前置きして、話し始めた。
「元々我等が足利を任されたのは、俵の藤太秀郷の血筋の家が下野をほしいままにして国司の政を妨げるのを防ぎ、国司を助ける為である。
下野の国は将門の乱行で国庁を焼かれ、故実は失われ、国司の給田を耕す者もいずこへと逃散してしまった。
国司を助けるものは誰もおらず、藤太の血筋のものが在庁を勝手に束ねている。
今だと藤原の兼光がそれよ。
そして、簗田の郡司、藤原の正頼は兼光が子よ」
「簗田に助けを請うのは何れを以っても駄目、と」
「田堵は上野から連れて来よう。急ぐならこれより上野へ行く。アキラは付いて参れ」
いきなりである。
それから事はバタバタと進んだ。まず着ていく服が無い。ここで、半年前に倒れていたときに着ていた水干があるではないかという話になり、アキラは急遽着てみることになった。
アキラが普段着ているのは小袖と短い袴、頭に烏帽子のみだった。下着は無い。
小袖は袖口の狭い麻の長袖の筈だが、袖は短く手首が丸見えになっていた。波か何からしいよくわからない茶色の模様で染められていて、棟紐は取れかけていた。
袴は茶褐色一色で染められた、やはり麻である。こちらは丈が膝下あたりまでしか無い。これも小袖と同じく丈が短いのだ。というよりアキラの身長に合う服が無かったのである。
お陰でそのままではかなり見苦しく、最近ではアキラは袖を捲っていたが、おかげでこのまだ寒い季節、腕には鳥肌が立ちっぱなしだ。
さて、水干に着替えてみると背丈がきれいに合う。紺の袴もぴったりだ。
「これは立派な偉丈夫だな」
頼義殿はそう言うと、急げと急かす。見れば既に頼義殿の馬は鞍をつけて引き出されており、荷物らしき物も結わえられていた。
当然だがアキラの馬というのは屋敷の馬である。雑色の準備を手伝う者はいない。
自分で急ぎ鞍を付けて紐を結わえ、食みを噛ませる。まだあまり慣れておらず手間取るのを見兼ねてか、荷物だけは何か用意して貰えた。中身はわからない。
アキラの準備が整ったのを見ると、頼義殿は待たずに出発してしまった。急いで鞍にまたがり追う。
頼義殿には清水川の浅瀬を渡るところでようやく追いついた。
そこから頼義殿の馬の後ろについて南にしばらく進む。決して急かされている訳でなく、馬はただ歩ませているだけだったが、気を抜くとすぐに頼義殿の馬との距離が離れてしまう。
そういえばこの辺りが簗田か。やがて太日川の氾濫原に突き当たり、しばらく浅瀬を求めて自然堤防の上を西に進む。
浅瀬は礫だらけの広い川原の真ん中だった。
馬を浅瀬に進めて渡って行く。川の流れは袴を濡らすほど深かった。
山の間の小高い鞍を越えると、目の前に平地がずっと広がる。
広く、遠い。これを向こうの山のあたりまで行くのだ。
視線のずっと先に聳える山は、あれは浅間山か。富士山は見えないかと探したが、よくわからない。道はほぼ真西、浅間山のほうへと続いていく。
そこからしばらく、道筋の風景は田んぼと桑畑のパッチワークだった。
やがて田は谷間にみえるだけになり、桑畑は荒れ野が取って代わる。
昼頃、谷間で二人は馬から下りて休んだ。アキラの疲労具合を見て休むことになったのだ。
アキラの足はガタガタ、腕も背筋も強張りが酷い。頼義殿は何とも無いようで、
「この辺りは昔は御牧だったそうだが、すっかり馬も失せてしまった」
東国は、いや今は何処もだが賊の跋扈がひどいからな、そう呟いて、
「そうだ、アキラよ、ひとつ歌でも詠んでみよ」
無茶をおっしゃる。
できません、との言葉を喉元に堪えて、試すか、という気になる。
考えてはいたのだ。
アキラがいるのは平安時代である。
ポエムひとつで立身出世も思いのままの時代の筈である。
という事で、冬の間ときどき練習していたのだ。えぇと、季語は俳句だったっけ。
「春の鳥 声を聞きたし 東国」
と、ここまでは出た。さて、どう続けるか。
「馬の手綱に、寒風ぞ吹く」
頼義殿は鼻で嗤って、
「下手よの」
おっしゃる通りで。
#5 単位について
長さですが、小さいほうからまず1寸、これはおよそ3センチになります。
10寸で1尺、30センチです。10尺で1間、3メートルです。10倍づつの桁上がりで単位が変わるのはここまでです。
36間で1町、109メートルです。そして5町で1里、およそ550メートルです。
本作品では、尺、町、里に記述を絞りました。それぞれ30センチ、100メートル、0.5キロと換算してください。
面積は、1町が基本になります。これは距離の1町四方の正方形がつくる面積に等しいものです。つまり100メートル四方、およそ1ヘクタールです。
通常の耕作は、田んぼ1町を10個に区切って行なっていました。この面積単位を1段と言います。初期の条里制では農民一人あたり3段半が版田、割り当てとされていました。
容積は 1合がおよそ100cc、1升が1リットル、1斗が10リットル、1石が100リットルとなります。1俵は5斗です。当時の正確な値は判っておらず、筆者は作中ではきっかり1升1リットルで計算しています。21世紀現在の一合180.39ccとは食い違っていることにご注意ください。
重量は、お米の比重を0.8とすると、1俵40キログラムとなります。貫などの硬貨重量を単位とした重量制は、通貨崩壊のこの時期無かったと考えています。