#49:1019年5月 学校
「いろはにほへと、ちりぬるを、わかよたれそ、つねならむ」
少年たちが絶叫する。うるさい朝だった。
「うゐのおくやま、けふこえて、あさきゆめみし、ゑひもせす」
「……では女子」
クワメが促す。
「いろはにほへと、ちりぬるを、わかよたれそ、つねならむ」
少女たちも絶叫する。
何を間違えたのか。
・
学校づくりは頼季様と尼女御によって了承されたが、どうやら産屋に次ぐ本格事業となりそうだった。
まず、各地から送り込まれる見習い、アキラの言うところの技術実習生を受け入れる制度が必要だった。
これは子弟制度ベースでは師匠の確保が難しいし、大量の弟子の面倒を師匠に押し付ける形になるのも好ましくなかった。フタロウやアサマルを師匠として弟子についてくれる人間がどれだけいるか、貞松に付くであろう弟子の数がどのくらいになるか、考えただけでも難しいのは判る。
とにかく従来のやりかたはマズい、それに足利荘の持ち出しが多過ぎる。彼らの面倒を実質タダでみてやっているし、いつまで居るかもわからない。
アキラの提案とは学校、この時代の学校というと大学である。
見習い共は入学すると学生となり、学士となって卒業する。貞松は木工博士で、フタロウとアサマルは測量講師だ。学士となると立派な書状が贈られる。
年限はおよそ一年だが卒業試験に合格しなければ学士とはなれない。学費は一年あたり絹一反だ。このかなり高めの価格設定は頼季様と池原殿の一致した意見だった。
大学の入学者は名札を作るがこれは木の札で、名前の下に入学日と専攻を書く。一年過ぎれば名札は取り上げるので、それまでに卒業しなければいけない。
要するに年限を付けて格好をつけた徒弟制度である。しかし人は格好にこそ価値を言い出すものだ。
とりあえず学科には各五人くらいの生徒を想定していた。定員と言う訳ではないが、許容限度はあるのだ。
勿論文句は出た。山田郡の郡司からの苦情は煩いほどだったし、簗田郡の郡司、藤原正頼殿は国庁を巻き込みかけた。しかし、要は書状代を取るだけだと、要らなければ代を取らないと説明すると納得してくれた。つまりこれまでと変らずタダで技術修行をさせることができる。
しかし、だ。
全く同じ事を学んだのに、一方は立派な書状を貰って位を認定されるのに、自分にはそれが無い、なんて事が果たして我慢できるだろうか。
この官位と職位欲しがり共が、学士という位を我慢できるだろうか。
来年の春までには、全員残らず学費を納めているだろうとアキラたちは予測していた。
大学の常設の学科は今のところ木工と測量だけだが、開校趣意書には陶工と算術、舟も学科として挙げるという。
お陰でアキラの肩書きには、測量博士、陶工博士、算術博士、舟博士、木工講師と凄いものが並ぶことになった。指導者不足ゆえに仕方が無いことだがインチキ臭さが半端無く凄い。
特に陶工博士を名乗るのは恥ずかしい。水車と蹴りろくろを導入し、大谷石を導入したが、益子ではまだ満足いくものは出来ていない。割れると一目瞭然だが粘土に問題がある。土をつくる工程を考え直さないといけないだろう。
窯も石造りは難しいという結論に至った。熱効率を考えると多分、煉瓦を使って窯はもっと大きくした方が良いだろう。つまりまず煉瓦焼きだ。
釉薬の方がかなり良くなってきていた。白灰色の釉薬が奇麗にかかるようになっていた。
もう少し頑張らないと、人に教える立場にはなれそうにない。
しかし、田植えが終わればこの大学制度、本格的に始める予定だ。時間はもうあまり無い。
見習いの受け入れとは別に、最近増えた子供たちの教育もどうにかすることになっていた。
こちらは小学と呼ばれるが、実際のところは学校でもなんでもない。手伝いに集まった子供たちを朝の30分ほど、ちょっとした授業をするだけだ。
子供たちは従来から測量で使っていた10名ほどと、貞松の作業場で使うようになった10名ほど、そして新たに産院で働かせるために集めた女の子20名ほどが対象となる。計40名、年齢はバラバラだし、既に教育の進んだ者もいる。だからこれは年限は特に設けない。
しかし今時は田植えの時期なので、目の前には10人ほどしかいない。
まずは言葉や身の振る舞いを教えよとは前々から散々言われていた。
とりあえす挨拶や礼させておけばいいというアキラの安易な考えは、今のところ圧倒的な不評で迎えられていた。挨拶なんてそんな習慣はどこにも無いのだ。
最近になってようやく合意が取れたのが、じっとさせる、声を出す(または出さない)、説明をする、報告をする、そして約束を守るという事柄を身に着けさせる事。
特に約束を守らせるのは大事だと皆言うが、実際にその辺り身に着けさせるのは大変だろう。とりあえず道徳物語でも語って聞かせるか。
朝はまず整列をさせる。班長を決めて5名づつ、揃えば班長が手を挙げ、アキラが良しと言えば座ることが出来る。座るのは屋敷の母屋の前、地べただ。
教育の最初の目標は、文字を読めるようにすることだった。文字が読めれば教科書が読める。
勿論教科書を書き、それを複製する手間が掛かるが、同じ内容を繰り返し使用できるのは良い。対象人数が多くなってくると、これが効いてくる筈だ。
という訳で、かな文字を教える事になったのだが、尼女御に聞いたところまずはあめつちより、という話となった。何やらそういう教育法があるらしい。しかし聞いてみるとこれは漢字の発音を覚えさせるものらしく、こういうものはないかと聞いてようやく、いろは歌に辿り着いたのだった。
とにかくまずは、いろは歌を暗唱させ、板に書いた仮名文字と対応させ、やがて文字を指して発音させる、こういうやり方で行くことにしたのだが、まずは暗唱が難しい。
明らかに数人しかちゃんと声を出していない。
アキラは意地になって、一人づつに付いて、自分が声を出すのに合わせて暗唱させた。聞こえないと拳骨、声が小さいと拳骨、女の子にも拳骨。この時代、男女の別なんて教育は無いし、そもそも教育そのものが無い。
やがて子供たちはやけのような大声でいろは歌を暗唱するようになった。
まぁ、良いか。
「フタマルこれを読め」
指さした文字"ほ"を読ませる。
「い、ろ、は、に、ほ、ほ、ほぞ」
「よし、よく読めた」
読めたというより暗唱した内容と文字の並びの順を突き合わせているだけだが、まずはこんなものだ。
「次、タヅコ、これ読め」 "か"だ。
「い、ろ、は、に…… 読めませぬ」
「か、ぞ。いいか、皆読め、か!」
「か!」
子供たちが声を揃えて発音する。
タヅコならそろそろ出来るかと思っていたのだが、なかなかむつかしい。
カンカンカン、と板を叩く音が響いてくる。
これは8時の合図、ではない。そろそろ製材所を空けるぞ、という合図である。これは貞松が起きて身支度を済ませたあたり、彼の気分次第でタイミングが決まっていた。
こういう仕事のしかたはアキラが時計を作ろうと思う最大の理由だったが、なかなか時計作りに割く時間は取れなかった。
さて、頃合いか。
「では結びに、付いて言え。
行いし事は言う、言いし事はおこなう」
「おこないしことはいう、いいしことはおこなう」
「よし、朝講終わり!」
挨拶もなく、子供たちは蜘蛛の子を散らすように駆けていく。
いや本当にリアル蜘蛛の子、感じがまったく同じだったな。
一人残っていると思ったら、クワメだった。
クワメも文字を学ばせるために朝講に参加させていた。最近ようやくいろは歌は全部言えるようになったが、文字のほうはまだ全然読めない。いとりを混同するし、ろとるの区別も怪しい。
一番年長なので、女子のまとめをさせている。この朝講に参加させるのには随分と苦労したが、いざとなるとなかなか気分良くやってくれていた。
が、
「いかがしたか」
最近は織機の試作にもつき合わせていたが、今はちょっと織るための糸が無い。もうすぐ麻を刈って繊維を糸に仕立てるから、それまではちょっと暇なのだ。
そしてこの時代、暇なのは普通である。
「腹痛きゆえ、この後は」
顔色が悪い。
「誰かおるか!」
抱き抱えて母屋の裏手に向かう。とりあえず寝かせねば、
・
「孕みおるな」
尼女御がそう言う。
アキラの子である。
「種無しかと思うておった」
言うに事欠いてそういう事言うかクワメよ。
「これより山働きなどは控えさせよ」
つまるところ今と待遇はあまり変わるところは無い。夏頃までは田畑仕事も出来ようが、田植えの後で良かったとの事。
暫くすると出産ラッシュが始まる。それをクワメは間近で見ることになるだろう。
「そろそろ家持たせる頃合であろうな」
池原二郎の屋敷並みであってよかろう、と頼季様が言う。
最近、池原殿の家が建てられたのだが、まだ独身であるのに垣を巡らせた立派な家で、屋敷の者からは池原屋敷であるとやっかみ声で揶揄されていた。
ややこしいな。これまでずっと、屋敷と言えば足利屋敷、この荘司屋敷のみであったのだ。それが貞松の作業場と産屋の二つの建物が増え、更に家屋が増えていた。学校も専門の建物が要るかと言う話になっていた。
郎党の屋敷もそろそろ揃ってきてもいい頃合いかも知れない。藤原兼光の屋敷前の家屋をアキラは思い浮かべた。
ならば都市計画が要るだろう。
となると必要なのはまずは水だが、そこで早速アキラの都市計画は頓挫した。
水が足りないのだ。
「奥山に家建てるか」
吾子の収で雑色雇いて家仕事させておれば、屋敷勤めできよう、と頼季様は言う。
しかし子供が生まれるというタイミングで、クワメから目を離しているという選択肢は無いだろう。
しかし、
「それはそうとアキラよ、会津に用事あるゆえ行かれよ」
そんな訳にもいかないのかも知れない。
#49 国学について
律令国の各国に学校を設立して行政に必要な人員および有望な人士の教育をおこなうことを趣旨とした学校、いわゆる国学が存在したことが知られています。養老律令には学令のなかに大学と同様内容として併記される機関で、郡司の子弟を教育するためのものでした。教育内容は基本的には儒教で、書経と算経のコースがありました。
しかし、国学は幾つかの律令国に存在したことが知られているものの、その位置も経緯も不明と言う場合が多く、そもそも輩出した筈の人員に著名な者がおらず、どの程度のものだったのか疑わしいのが実情です。
永続して存在したのが間違いないのは大宰府の学校院で、学校院は発掘から11世紀末まで存続していたことはほぼ間違いのないところでしょう。尾張の国学は一度廃絶したのち平安時代中期、大江匡衡によって復興したとされています。
国学の伝承があるのは甲斐、発掘から国学があったことが間違いないと見られるのは下総、上野国は地名に学校院神社の名があり存在したのは確からしいのですが、上野国交替実録帳には存在を匂わせるものは何も出てきません。かなり早期のうちに国学は存在しなくなっていたものと思われます。
どの時代に廃れたかと言うと、大宰府と並ぶ東の要、陸奥の多賀城に存在しなかったらしい点からみて、平安時代初期にはもう存在しなかったのではないかと思われます。
下野国の国学は、足利学校の開設年度の議論にのみ出てくる存在で、記録等には一切出てきません。恐らくは栃木市の国府に併設されて早期に消滅し、足利学校の創設とは何ら関連の無いものと思われます。