#45:1019年3月 春雨
田起こしの後、アキラは猫車に箱を積んで、北郷の新しい田に灰を撒いて廻った。
必死に交渉して足利に運びこんだ海藻の灰だったが、アキラ以外のこの様子を見るものは皆、これを豊作のまじないか何かだとしか思っていなかった。いつもの事である。
「ほれ、稲よく生えよ、稲重うなれ」
いつもの調子じゃないのが、クワメだ。
アキラが猫車を押すのにあわせて、角升で灰を掬っては田に撒いてくれる。
どうした事か。
「もう吾子が愚かなのは諦めたゆえ、愚かしき事も共働きすれば面白いやも知れぬし」
面白いか?
「暇ゆえ」
済まぬ。
考えてみれば、アキラは本当にあちこち出歩き過ぎではなかろうか。おいてきぼりのクワメにしてみれば面白くなかろう。
という訳で、奥山の畑仕事、山仕事も一緒にやったのだが、畑仕事は見違えるようによく働く。いや、屋敷でもちゃんと働くのだが、畑だと手を動かすのが早い。考えてみればクワメも実家では農作業を手伝っていたのだ。
アキラの土地の野焼きと田起こしの面倒は上名草の小金部岩丸に頼んでやってもらっていたが、新たに掘った用水路や畑はほったらかしになっていた。
用水路は粘土の具合を丁寧にチェックし、新たに建てる小屋の基礎を固めると、小正月に焼いてしまった小屋の跡地で昼飯にした。
小川の水を汲んでクワメの手を洗ってやる。ほっそいなぁ。
曲げ物で作った弁当箱から取り出した握り飯をクワメに渡す。
「昼の飯はよそではやらんと聞いた」
「よそと違うというのは、うちが勝っておるという事ぞ」
クワメはふぅん、と聞き流して握り飯にかぶりついた。
農繁期の昼飯はアキラが尼女御を説得して始めた事だったが、基本的に常に腹を減らしている北郷党には評判が良かったし、その成果も納得してもらえたと思っている。
何しろ畑仕事の素人どもが、新田の開墾も借りた田の手入れも、両方同時にやってのけたのだ。
だが、これが他にも広がるかといえば、それは収穫の収量が増えなければ無理だろう。元手が無ければ出せないのは当然だ。
労働量に対する収穫量を増さなければならない。
梅干し、欲しいなぁ。自分で作るしか無いが、梅の実の収穫は梅雨の頃だという。
「明日は邑楽へ行くが、すぐ帰るゆえ」
最近、アキラは出かける前には必ず予定をクワメに告げるようになっていた。
「待っておれと?」
「然り」
「吾も付き行く」
クワメは握り飯を食べ終え、指を舐めながらそう言う。
「来てもつまらぬぞ。鍛冶屋に行くだけぞ」
「吾も付き行く」
クワメは頑なに繰り返す。
まぁ良いか。舟で行くのだから、馬や歩きで予想されるような困難は無い筈だ。
「わかった。付いてきて良い。
……ん、どうした」
クワメは空を見上げて手を差し上げていたが、
「雨ぞ」
ぽつぽつと、雨が降り始めた。
アキラも空を見上げる。これは切り上げる潮時だろう。
「戻るか」
「まだ山菜採っておらぬ」
「雨止んでから採りに来よう」
クワメの手を取って立ち上がらせ、膝の土を叩いて落としてやる。
さて、どのくらい降るだろうか。
・
雨は翌日になっても止まず、しとつく雨の中、アキラとクワメは舟の上にいた。
舟は21世紀の公園の池で見る様な奴だ。勿論あくまでもアキラのうろ覚えの記憶に沿ったものだが。
船底には竜骨が走り、肋材がそこから左右に張り出していた。板は蒸して曲げられ、見た目は21世紀の人間が良く見るスタイルのボートになっていた。
渡し舟でない舟を一隻試しに作るというのは明らかに緊急性のない話だったが、これも鎌倉の利のためと言うと、頼季様はあっさりと許可してくれた。
最近は鎌倉の為と言えばやり放題である。ただモノには優先度があって、機織り機を揃えるほうが優先されるし、更に今は、弩弓つまりクロスボウを大至急揃えることが要求されていた。
とりあえず40台作れという無理難題だったが、アキラは流れ作業を導入しようと考えていた。
だが問題は引き金だ。できるだけ引き金が軽いほうが命中率が上がる。二台作って撃ち比べをした者は皆そう言うし、アキラも同意見だった。今はちょっと、いやすごく力が要る。
引き金を軽くするのと強度を両立させるために、どうしても引き金を鉄にしたい。
量産を考えるなら、鋳造だ。
ボートは二人が乗るのが精いっぱいの大きさしかない。一人が両腕でオールを漕ぎ、もう一人が舵を動かす。舵が無くても最悪一人でも漕いで動かせるが、進行方向は背中の方向になるから動かすのは難しいだろう。
だからアキラは漕ぎ手でクワメが舵取り、しかし川を流されるだけの今、アキラはクワメの尻の下だ。
クワメがアキラの膝の上、とも言う。
「帰りは吾子の舵次第ゆえ、良く廻り見ておれよ」
太日川の両岸はこの辺りでは灌木がよく茂って川面に枝を張り出していた。
川は屈曲してゆったりと流れている。この辺りには簗、つまり魚取りの定置式の大掛かりな罠が設けられるため、夏になると川を舟で上下できなくなる。
ちなみに、この辺りを簗田と呼ぶのはやはりここに簗があるかららしい。
雨はまだ強くないが、まだ続くようなら川も濁って水量が増えるだろう。だが今はまだ静かなものだ。
「そう言われるなら、なぜ手を吾が懐に忍ばすか」
「乳触るためよ」
「ならん。これより乳大きくすることならん」
クワメは身をよじって逃れた。ちぇーっ。
「目代殿は淫行巧みなれど、子はよう作らぬのは何ぞ」
そりゃ出産時期を北郷党の嫁たちとかち合わせない為である。
とは言わず、
「こうしておるのが楽しきからよ」
と言うが、
「吾が子孕みおらぬのを知って、言い寄りおる男共ある。奴ら我が妻孕みてまぐわえぬゆえ、吾に目付けたる事よ。
あれら退けるのがいかほど面倒か。何かせよ」
我が妻孕みてって、つまり言い寄っているのは郎党だけじゃなくて北郷党もかよ。くそっ。
「夫が何もせぬゆえ、妻が色々やらねばならぬ。特にしつこいのは一人二人、マラ消ししておいた」
何だマラ消しとは。
「陸奥流れのおばば秘伝の術ぞ」
男のチンコを自由自在に消すことができる術だという。何でも短時間ならキノコのように手にもぎ取ってしまえるそうな。そんなばかな。
「吾が夫のものは立派ゆえ、もいで見せびらかそうかとも思うがいかがか。
……いや、可哀そうゆえやめおく」
有難うございます。
と、馬鹿なやりとりをしていて気づかず通り過ぎてしまうところだったが、柳の生えた中州の手前、ここだ。教えてもらっていた水路だ。
アキラは舟を揺らしながら漕ぎ手の位置に戻った。さて、漕かねば。
・
上野国邑楽郡の沼のほとりに最近住み着いたという鍛冶屋は、知った顔だった。
以前寺岡にいた鍛冶屋の一人だ。
「足利屋敷のなんとか、アキラであったか」
ここに鍛冶屋がいるという話は、上野の炭団子販売網経由の情報だった。
「佐野へ行ったのではなかったのか」
「佐野は鎧の札ばかりしか作らせぬゆえ」
話付けて逃れてきた、という。で、以前鉄があると聞いていたこの場所に来たのだという。
「上手い事良い炭売りも来たゆえ、炭にも困らぬ」
なるほど、山から遠い平地のど真ん中、広い沼のほとりで、これは炭の仕入れは普通期待できない。炭団子があって良かったな。
ところで、鉄はどこにある?
「沼の泥が鉄含みおるゆえ。
器に掬ってかき混ぜ、少し置いて泥水捨てると、底に鉄が溜まりおる」
なるほど、板は使わないのか。ならば、桶はどうか。
アキラは桶を売り込み、試して良ければ考えてよい、との反応を得た。
「ところで、そもそも何用ぞ」
そうそう、忘れるところだった。
「吾子は鋳物はできるか」
「鋳物は吾の得手よ」
男は胸を張って答えた。
寺岡のいつもの鍛冶屋はアキラの相談に、鋳物は苦手ゆえと言って、他を探せとしか言わなかったが、他に得意な奴がいたか。
「こんなものは作れるか」
アキラは木で作った引き金の機構を掌に置いた。更にばらして、
「これは木型にしてよい。どうか、使えるか」
アキラはばらした部品を男に渡す。
アキラの思いついた構造は、大きく二つの鉄の部品で出来ていた。
片方は弦をひっかけておく部分、もう一つは引き金だ。二つの部品は直交するように配置され、引き金は弦をひっかけた金具に対して突っかい棒のように働く。この突っかい棒が引き金動作で外れたら、弦をひっかけた金具は倒れ、弦は金具から外れて自由になる。
男は部品を一つひとつよく観察したあと、
「幾つ作る」
「四十」
「……これは預かる。ひとつ試しに作りておく。
吾子は代わりに桶持って来られよ。桶の出来で四十の代決めよう。
ところで、後ろの女子は何ぞ」
「我が妻よ」
「……道具触らぬよう言ってくれ」
帰りの舟上は、次第に強くなる雨の勢いに煽られながらのものになった。
ざぁざあと音立てて降る雨の中、アキラは必死にオールを漕いだ。必死になると判るが、このオール、あんまりちゃんとオールになっていない。左右で少しパドルの角度と面積が違う。こういうところ気をつけないと。
渡ら瀬の岸を二人して舟を高く押し上げて、草地に突っ込ませる。まさかここまで水嵩が増えることはあるまい。
しかし堤防のない所では、そんな見積もりは当てにならないことをアキラは知っていた。つまり、運任せだ。
・
翌日、池原殿と一緒に、灌漑用の水車を見に行った。
祭りの際に作った公衆便所の片づけを終えた後である。祭りのあと、神社の境内に糞を貯めおく事ならぬという当然の話があり、アキラは少し離れた荒田の跡の藪に穴を掘って、そこに中身を全て移した。
糞まみれのきつい仕事だった。烏帽子を脱ぎ、服も脱ぎ、古藁薦を素肌に巻き付けた惨めなスタイルで仕事にかかった。
新しい穴はローム土を練って張って水漏れをしないようにしていたが、限度はあるだろう。草葺きの屋根も一応差し掛けておいた。
境内の公衆便所は夏に予定している放生会でも使うという話だったので、空にした穴の底に砂を撒いて、穴には板の蓋をして更に屋根をかぶせた。
仕事を終えると太日川で水浴びし、冷たいのを我慢してしばらく泳いだが、それでもちょっと、気になるくらいは匂いは残る。
みじめな気分で、池原殿から少し離れてついていったが、水車を見ると気分が高揚した。
貞松が仕上げた水車は実に立派に見える。水を汲み上げる部分は全て、耐久性の無い竹から柿渋塗りした木の箱組みに作りなおされていた。
小川には既に結構な水量がある。アキラは水車にかかる水路の経路を切り替えた。
水が水車にかかる。しばらく待ったが、水車はなかなか動き出さない。
焦れてアキラは水車を少し動かしてみた。少しの勢いで水車は廻りだし、やがてそのまま廻り続けた。
静止摩擦力って結構あるよね。
細い水の流れが樋に注がれていく。樋を流れた水は用水路に注がれるが、今はまだその底土に吸われるだけだ。
「これは、しばらくはかかろう」
雨は翌日止んだが、水車は廻り続けた。
用水路の底には、ごく低いが、確かに水面が見えるようになっていた。
#45 鋳鉄について
鋳鉄は鉄の完全溶解を必要とするため、単なる鍛冶よりずっと難しいものとなります。特にたたらによって得られたズク、ケラは炭素量、ケイ素量共に少なく、溶融温度はその分高くなりました。これはたたらではケイ酸を還元できるほどの炉の温度を達成できなかったためでした。
従ってたたらを使う限り国産で得られたのは脆いセメンタイト、白鋳鉄でした。鉄砲鍛冶が南蛮鉄を用いたのはここに理由があります。
鋳鉄には1300度近い温度を必要としましたが、東日本ではそれでも良好な鋳鉄製造は保証されませんでした。チタンを含むことから来る湯流れの悪さからです。鋳鉄鋳物の本格化は輸入鉄の普及を待たねばなりませんでしたが、それでも作中時期、様々な鉄鋳物が作られたことが知られています。鋳型は真土と呼ばれる目の細かい砂と粘土を混ぜて固めたものが使われました。鋳型は乾燥後焼成され、繰り返し利用されました。
鉄製品、鉄釜の普及は鋳鉄あってこそのものでした。京の三条は鉄製品を供給し、郊外の白川でも鋳物が製造されました。銅の欠乏は鋳鉄による仏像や鐘の製造を促しましたが、大型鋳鉄製品はこの時代まだ難しいものでした。
良好なねずみ鋳鉄は近代に入って高炉が導入されてからようやく得られるようになります。