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#42:1019年2月 祭り

「田楽と言うのはな、まず牛馬入れて田起こし、水入れたら継いで腰屈め田植えをし、草を取り鳥を追い、良く茂るを奉じて猿楽舞い、しかして刈り取るまで演ずることになる。

 演ずる事多くて難儀であろうが、神事ゆえ手抜かりなきようせよ」


 田堵というのは、こんな踊りの指導までするのか。

 神妙な顔で座る北郷党の前で池原殿は腰をかがめると、器用にその場で足踏みをしながら廻り、手振りしてみせた。


「最初は足踏みだけでよい。良く見よ」

 

 笛と鼓が一人づつ、あとは残り18人で交代で演じるが、牛役は鳥役と二役を兼ねることとなっていた。つまりアキラだ。

 アキラは背が高いので、皆の中に混じると目立ってしまうから仕方ないのだが、せめて笛か鼓の役に廻りたかった。


 アキラには牛の面と鳥の面が用意されていた。牛の面には角が生えており、一見鬼の面のようでもあるが、この時代テンプレート的な鬼の格好というのは存在していないようだ。怪異は基本的にみな鬼呼ばわりで、それが角が生えていたり赤かったり青かったり虎皮のふんどしをしていたりという事は無いのだ。

 問題は鳥の面で、これはペスト医師か烏天狗かという代物で、実際、羽生やせば天狗ぞとは見た人ごとに言われる事になった。


 踊りと言ってもその内容は、アキラの場合がに股でひょこひょこと動きながら左右に身体を揺するだけである。田楽は基本的には農作業の格好をするのだが、牛の動作なんて本当に真似ていては踊りにならない。

 鳥の動作といえば、こちらは首のほうをひょこひょこ動かしながら歩き、農夫を演じる連中が鳥を追うと逃げるように手をばたつかせるというものだ。

 もうちょっと、踊って楽しいものにならないものだろうか。


 せめて賑やかしが欲しいと思って、アキラは板の端材に穴を開け始めた。


「アキラよ、それは何ぞ」


「これはな、こう」


 しゃもじ状に作った板に、先ほど作った板切れを紐で結びつける。紐は板切れの穴に通してあり、しゃもじを振ると板がシャカシャカと鳴る。要するに、よさこいの鳴子だ。

 気に入ったら使ってくれと、アキラは鳴子を北郷党の連中に渡した。


 八幡宮の春祭りを行なうにあたって、まだやることは幾らでもあった。


 八幡宮の前に立てた小屋の中で、渡し舟が組み立てられていた。

 貞松の製材所で部品を製作し、それを指図通りに組み立てている。渡し舟は当初の1間の大きさの舟を作る設計を倍に拡充したものだった。馬車がそのまま載るようにしたのだ。

 その為に渡し舟には船首と船尾に板によるスロープが設けられていた。馬車は船尾から渡し舟に乗り込んで、向こう岸で船首から降りることができた。


 板をぴったりと合わせるために、今回は鉄釘を多用せざるを得なかったが、更にその釘を錆から守るための手間も大変なものになった。この辺りは模型からのフィードバックだ。

 板の端は少しづつ削って突き合せる丁寧な作業が要求されたが、それでも元の加工精度が良かったので、そろそろ完成といったところだ。

 流石に全て図面通りに出来るという訳にはいかないが、それでも従来のやり方とは大違いだ。見るものはその出来上がっていく速度に一様に驚いた。


 製材所では近郷の子供たちを下働きに使うようになっていた。農閑期の余剰労働力を受け入れている格好だが、単純作業のみとはいえ居るのと居ないのとでは作業のスピードが全く違う。まぁそれも農繁期までだ。

 アキラが作業小屋に持って行ったのは壷に入った灯明油だ。これを塗って防水対策は終わりである。しかしほとんど半年分の照明用を消費してしまうとは。何とか補填をしないと。


 祭りの市の地割りを確認する。杭を打って地面に溝を掘り書いておいただけの代物だが、おろそかには出来ない。


 公衆便所を確認する。その辺で糞を垂れ流されては叶わない、ということでアキラが用意を推進したものだ。というかおよそ半分ほどはアキラが作った。

 深い穴に足を下ろすための板を差し渡し、周囲を莚で目隠ししただけだが、あるのと無いのとでは全く違うだろう。


 水場の確認をする。境内に井戸を掘って手洗い場を設けていた。参拝者にはまず手を洗わせるのだ。祭りの当日は手動ポンプ改め水ふいごには、誰か人を貼り付けておくべきだろう。


 境内の端に祠が立っているが、これには丑寅の方角を塞ぐ意味があった。要するに陰陽のアレコレである。

 祠の中には都の八坂神社で頂いたというお札が納められている。つまりこれは八坂神社だ。


 陰陽の方角のアレコレには長い事悩まされてきたが、これでケリがついたとアキラは考えていた。

 八坂神社の祭神は牛頭天王、こいつが金神やら大将軍やら、ちょろちょろした陰陽の神々のボスであるという。

 これを突き止めるまでにはアキラも長い事かかったが、分かってしまえばしめたものである。都への年始の手紙でちょっと頼んだら、お札が早速送られてきた。

 理屈から言えば、これさえ祭っていれば陰陽は万事問題無い筈だ。あとはお札をコピーして無限勧請、無限分社で全ての需要に応えることが理論上は可能になる。

 アキラはお札を木版で刷ることも考えていた。そうすればあとはお札をペタンと貼るだけで陰陽方角フリーだ。


 傀儡子舞の一行は祭りの期日より前に足利入りしていた。彼らには祭りの正確な期日など知る由も無い筈で、頼季様がどこぞの伝手で頼んだのか、それがちゃんと来てくれたというのは正直驚きだ。

 10人ばかりの一行は屋敷の新殿に寝泊りしていた。

 確か連中、社の前に舞台の幕を張ったりしていたな、と思って社に近づくと、人の気配がする。

 さて誰か作業でもしているか、とアキラは社を覗いた。


 美しい女だった。


 美人の定義は文化による、そうかも知れない。だが、文化によらず、圧倒的な、息を呑むような美人は存在し得る。

 圧倒的な美人は、文化など必要としない。


 アキラは己のマラが固くなるのを感じた。もし、もしあの目で見つめられたら、アキラはそれだけで堅く勃起させてしまうだろう。

 それだけで頭の芯が痺れ、溶けてしまうに違いない。


 女の白く細い手足が、男の身体に絡む。

 長い髪が、乱れた白い衣に映える。

 男は見た顔だった。信田小太郎だった。

 二人は明らかに情愛で結びつき、そして今烈しく性愛を追及していた。

 社の正面、蔀を開いたその奥で、二人は脇目も振らずまぐわっていた。

 

「こたろうぎみ、っ」


 男の胸で美女が切れ切れに口にする、その声でアキラはまた堅く勃起した。


「きぬめを、きぬめをっ、はなさないで」


 すすり泣くような哀願に、男は優しく抱き締めて答える。


 アキラはできるだけ静かに、その場を離れた。


      ・


 しばらく何も考えが浮かばなかった。見たものがちょっと刺激的過ぎた。

 歩いていて、ようやく出てきた考えが、ああ、自分は主人公ではなかったのだな、というようなものだった。


 あれこそがメインヒロインだろう。

 誰にも文句の出ることの無い、圧倒的な美人だ。

 そして明らかにその美人に主従関係で慕われているらしき信田小太郎、もしかして奴こそがこの物語の主人公ではなかろうか。


 だいたい、この寒空をひたすら歩いたり畑仕事したり、しらみに食われたり毎日の飯が塩粥ばかり、そんな生活が物語の筈が無い。

 アキラは今の生活が奇妙なことから始まったから、これは何やら一大事に関わるに違いなどとも時々思ったりもしたが、そういう妄想も最初の半年のうちに摩滅してしまった、筈だった。


 ちょっと最近、自分は調子に乗っていたに違いない。

 アキラの出した結論はこうだった。


 

 屋敷に戻ってみると、アキラの作った鳴子は謎の代物に変貌していた。

 鳴子二つの間に、作っておいた板をあるだけ並べて繋げたらしい。


「見よこれを、長虫が如きぞ」


 北郷党の連中は両手にその板の連結の両端を持ち、くねらせて遊んでいた。


「何だそのふにゃふにゃは」


「ふにゃふにゃとな、ああ、いかにもふにゃふにゃという心持ちよな」


 連中があんまり面白そうなので、アキラは結局、その新案ふにゃふにゃはそのままにしておくことにした。動かすとちょっとは音もするし、良いだろう。

 クワメも手に取ってみて、ささら音のするぞ、と言う。

 ささらと言うのは、食器を洗うのに使う茶筅のような道具だ。確かにささらで洗うときのような音がする。


 北郷党が新しいおもちゃで遊んでいるのを、アキラはクワメを後ろから抱きかかえて眺める。

 クワメだって可愛いのだ。そりゃ結構可愛いのだ。

 だがそれは完全にアキラの欲目だろう。あのヒロイン系美人に比べれば、公平に言っても明らかに見劣りする。

 しかし、良いのだ。

 アキラは主人公ではないのだから。


 そんな事を思っていると、信田小太郎と美人が戻ってきた。傀儡子舞の一行が起き出して迎えに出るのを見ると、連中の、ああこの美人こそ歩き巫女だったのか。

 よくよく観察すると、信田小太郎と傀儡子舞の一人二人がこそこそと会話を交わすのが見えた。何やら縁があるのか。


「何とも、うつくしき女御ぞ」


 クワメがぽつりと言う。


「クワメはかわいいなぁ」


 クワメは居心地悪げに身を竦めるが、構わない。これで良いのだ。


      ・


 祭りは、巫女が祝詞を奉じて始まった。

 

 祭りの日は、驚くほどの人出があった。

 千や二千ではきかなかったかも知れない。千年後の水準からすれば勿論少人数もいいところだが、この時代では圧倒的な数字である。

 この人数は近郷の住人がほぼ全員集まってきたと言っても良い。


 境内には傀儡子舞の一行が設置した稲荷の小さな祠もあって、これも非常に繁盛しているようだった。

 猫のいないこの時代この地方、狐は鼠を追う存在として信仰の対象となっていた。それほど鼠の害があるのだ。稲荷の御符は特に人気があるようだ。連中こういう収入があるのか。


 出店は10軒ほど、うち2軒は足利屋敷と北郷党によるものだったが、客たちの殺到ぶりは全くの予想外だった。


 屋敷の出店では、猫車の車輪だけを売りに出していた。

 最近ではコピー品もちらほら見られる猫車だったが、生産のネックはやはり車輪だった。だから、車輪だけを安く調達できれば話は全く違ってくる。

 貞松たちが木工旋盤を使って効率的に車輪を仕上げるのに対して、よそでは手作業の削り出しになる。よそにも小さな椀程度なら作れる木工用の木曳き轆轤はあるが、大きなものは作れない。対して貞松の新しい木工旋盤は軸周りの剛性と慣性モーメントが全く違う。

 車輪一つ米五斗、明らかに割安だがただの参拝客に手が出るものではない。だが、初日にこれを見た山田郡の郡司は、即座に二つくれ、代は翌日持ってくると約束した。

 やがて近郷に話は伝わり、車輪は三日で全部はけてしまった。


 北郷党では板を組み合わせた木桶や杉の薄板を曲げた器を売ったが、値付けが高かったか、飛ぶように売れるという訳にはいかなかった。しかし値の張る大桶から売れていったのは面白い。一斗サイズの木桶はバックオーダーを抱えることになった。

 漆を塗っていればもっと違ったかもしれない。これは客から何度か言われた。しかし最後にはあらかた売れてしまったのだから、勢いは余り関係の無かったのかもしれない。

 出店二軒で売り上げあわせて米俵四十一俵、全くこんな出店があってたまるかという売り上げだ。この売り上げが、新規入植者を迎える原資となる。


 清水川の筋交い橋は新たな観光名所だった。近隣の住人たちは何も用事が無いのに橋を渡ってはまた戻ってくるのだった。

 近郷の住人たちは出店で餅を売りまくった。近郷の住人が貞松の製材所を使って作った板製品も出店に出品され、残らず売れていった。

 味噌売りは二日目には在庫を空にしていた。塩漬け食品が驚くほど売られているが、うち半分ほどはアキラは食べたことが無いものだった。干し大根は春を前にして叩き売りだ。

 単なる古道具の出店すら、つられたようにガラクタを売りまくっていた。


 祭りでは北郷党、勿論アキラも一緒に、田楽舞を披露した。

 例の新おもちゃは正式な楽器として踊りに組み込まれ、そして大きなウケを取った。

 ただ、次の傀儡子舞に比べれば明らかに見劣りした。


 傀儡子たちは訓練された専門家だった。

 笛にしても鼓にしても全く違う。そして巫女装束の舞いはあでやかで、見るものを例外なく魅了した。

 舞は神事の一部らしく、振り付けは複雑な儀式を成しているようだった。


 気がつくと舞は終わっていた。

 アキラは気がつくと拍手をしていた。

 釣られて拍手をするものをいる。

 この時代に賞賛の意味での拍手は無い。しかし、これは何か賞賛の意を示すべきものだろう。暗黙の同意がそこにはあった。


 渡ら瀬の渡し賃は祭りの期間中は無料としたが、間違ったかもしれない。

 新しい渡し舟はその珍奇な格好を見咎められることもなく運用を始めた。驚かれたのは川の両岸に造られた中途半端な板橋、桟橋のほうだった。

 渡し舟が桟橋に付けるのは容易だった。岸に付けるための難しい竿さばきはもう要らず、客は足を濡らすこともない。桟橋の利点は明らかだった。

 渡し守は交代で北郷党が勤めたが、最終日になると疲労困憊の程度が酷く、屋敷の女房や近郷の住人も渡し守として駆り出されることとなった。


 渡し舟はその業務ごと、祭りが終わったら希望者に適価で下げ渡すと決められた。

 それが伝わると多くの人間が渡し守を志願してきた。足利荘内の居住が条件だったのだが、移住すると言ってきたものも多数いた。祭りの人出に当てられ過ぎだろう。

 結局、一番多い額を提示したものに渡しは下げ渡すことになった。

 簗田の田堵の子、なるほど富豪の輩らしい。


「二年で元取れるでしょう」


 渡し賃の半分は足利屋敷に入れることになるにも関わらず、彼はそう豪語した。そのまま彼は八幡宮前に家を建て、後に言う新町の最初の住人となった。


時期的には初午の祭りです

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#42 稲荷信仰について


 稲荷信仰は元々は伏見稲荷をその発祥として、秦氏が祭った農耕と養蚕の神だったとされています。神道上は祭神はウカノミタマ、スサノオノミコトの娘となっていますが、これは元の祭神と同一視したためと思われます。赤い鳥居はもともとは稲荷の社のものでした。

 神仏習合の時代においてはダキニと同一視され、仏教のもとでも信仰されるようになります。これは東寺の木材が伏見の稲荷山から調達されたことに顕著ですが、空海そして真言密教との経済的結びつきが背景の一つにありました。この時期に東寺のもとで稲荷信仰はその宗教としての体裁を整えることになります。

 初期の稲荷信仰は農業の神として信仰され、狐は稲荷神の使いとされましたが、これは猫のいない時代、農作物を食べる鼠を捕食する狐は益獣とされたためと考えられています。ただ、今昔物語集などの逸話集を参考にする限り、平安中期には稲荷と狐は特につながりを持たなかったように見えます。

 平安時代は伏見稲荷は都の近郊の参拝遊行の名所として人気を博しますが、それが全国に広まったかというと、この時期に顕著な勧請は無く、民間に信仰が受容される記録が現れるのは16世紀以降になります。

 狐は今昔物語集には人を化かし騙す怪異として複数のエピソードに登場します。女人に化け人と交わる伝承は例えば日本異霊記にも存在し、この延長線上に阿部晴明の母が狐であったとする葛の葉伝承がありますが、これも稲荷信仰の民間受容と同一時期のものだと思われます。

 稲荷信仰は陰陽道、飯綱信仰とも合流し、民間信仰の基本的な形態となって江戸時代に隆盛を見せることになります。やがて稲荷は商業神になり、稲荷行者の行脚が信仰を担うようになります。また多くの稲荷社がこの時期に勧請されました。


 以下は余談です。

 上記に基づけば作中のような稲荷信仰の形態は時代的に合っていないのですが、実際には農耕神としてもっと早期に受容されていたのではないかと思っています。それに東国の稲荷社にみられる源頼義の勧請を由来とする縁起伝承を考えると、この時代ここに稲荷信仰は嵌め込んでみたい所でした。

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