#41:1019年1月 平忠常
「どうせ裏事が有るのであろう」
葛飾の郡司はアキラの説明を聞いて、まずそう言った。
「鎌倉がさほどにうまい話を手放すものか」
「うまい話も、うまく事進めばこそ」
どうしても納得してくれないので仕方なく、アキラは甲斐信濃に塩を売る構想を葛飾の郡司に説明した。
「ほう、巧き事考えたことよ」
それで葛飾の郡司の雰囲気はコロリと変わった。生産だけではなく、塩売りたちもまとめているのか。
「さて、いかに炭粉を使うぞ」
どうもアキラを信用すると決めたらしい。現場を知る人間らしく、塩作りの細部を訊いてくる。アキラは細かいことは上野の池原殿と打ち合わせよと言って、細かいところは説明を省いた。
「その池原殿とはいつ会える」
「足利に帰りせばすぐに。しかして川止め破るよう申される事、なにとぞ」
「話は上野に通しておるのだな。よし、参れ」
葛飾の郡司に案内されて、屋敷の中を歩く。母屋などの普通の屋敷の建物ではなく、これは都の検非違使の建物に似ていると考えていると、
「こは上総下総のまことの国庁ぞ」
葛飾の郡司は誇らしげに言う。
「受領共の欲深きを排し、百姓のための勧農を受領の任期、四年勤めより長く良く行うがために上総太夫殿はここを作られたのよ」
上総太夫とは文脈からすると平の忠常のことだろう。そういえば上総介だったっけ。
母屋に繋がる廊下と思しきところに上がる段になって、葛飾の郡司はアキラに、よく叩頭して詫び入れねばならん、と言い出した。
「詫び、と」
「ああ、吾子はただ頭を下げておれ、残りは吾が引き受ける。
安心いたせ。難しい方だが良き方ぞ」
母屋に入ると、周り縁の向こうに海が見えた。勿論海のはずが無い。霞ヶ浦か。
つまり母屋の正面は外に向けて解放されていて、これは寒かろうと思ったが、あちこちに長火鉢があるようだ。そして郎党たちの向こうに、いかにも狷介な壮年の男がいた。
平の忠常だ。
白髪混じり頭に短い烏帽子、外を眺めている。
40歳くらいか。貴族とは思えないほど、深い皺の刻まれた、日に焼けた顔だった。
横顔は厳しい表情で、そしてこちらを向く。
着ているものが一見ちょっと判らなかった。白っぽい、斑点の浮いた毛皮の服だ。こんな毛皮の動物がいただろうか。
どういう風に仕立ているかはちょっとわからない。これを見ていると、アキラの革服も普通じゃないかという気がしてくる。
葛飾の郡司はアキラの手を引いて郎党をかきわけ前に出ると、そこに座り頭を下げた。
アキラも急ぎそれに倣う。まさか本当に叩頭が要求されている訳ではあるまい。
叩頭は膝を揃えて膝立ちになり、頭が地面に着くまで頭を下げる礼の一種だ。膝を折ったままやれば土下座になる。正座のない時代ではほぼ土下座と考えてよい。
「塩の事、話つきました」
葛飾の郡司が言う。
「ふむ、それで、もう良いのか」
思ったよりドスの効いた声だった。だが、興味が無いというような声の調子だ。
「全て良きように事運ばせます」
そこで少し間があって、
「ならば兵引かせよう。与一郎、兵を猿島へ廻せ。
葛飾三郎よ、ここでその目代殴りて、それで遺恨なきとせよ」
「いや、遺恨など……」
アキラは頭を上げた。殴ると聞いたが、本気だろうか。
あ、本気だ。
葛飾の郡司の顔が、申し訳ないとかやるしかないとか、無言でめっちゅ訴えてくるのを見る。
そうか、言い出したら絶対やめないタイプなのか。
まぁ、良い情報を得たと考えよう。
「遠慮なく打擲されよ」
アキラは小さな声で囁いた。
「すまぬ」
これも小さな声がして、そしてアキラは殴り倒された。
・
屋敷の者は鼻血を止めるのに半紙ひとつも寄こさなかった。
葛飾の郡司が自分の直垂の袖を裂いて、鼻血の詰め物にせよと寄こしてくれたのを鼻に詰めるが、少し大きい。
「相済まぬ事となった」
葛飾の郡司が手を膝に揃えて頭を下げる。
「貸しとするゆえ、気にするな」
アキラは手を振ってその場を後にした。
屋敷を出たところで、布を小さく切って鼻に詰め直した。
・
岸に戻ると、多聞に鼻血を垂らした顔を笑われた。
帰りは多聞と交代で艫を漕ぐ。
多聞が焼いてくれた魚を食ったのは陽が落ちる頃で、すきっ腹だったこともあってやたらと美味かった。鼻血の栓を捨ててもう一匹食べる。
陽が落ちてもしばらく漕いだのち、碇石を落として二人とも寝た。
また翌日も漕いで、昼頃布施の渡しに戻った。多聞は水など少量を補給すると舟に戻った。一緒に長い竿が積み込まれる。
渡しを出発し、一度少しだけ下流へと戻る。常陸川を出て東の鬼怒川に入るのだ。しばらく漕ぐとようやく周囲が川らしくなってきた。それでも堂々たる大河という感じだ。
だが日の傾く頃には別の川との合流点を過ぎて、川は急に狭くなる。
ここからは艫ではなく竿の出番だ。川底を押す竿はぐいぐいと舟を進め、やがて多聞は岸に舟を停めた。
上陸すると河原に流木を探して、日の落ちる前に焚火をして鉄鍋を火にかけていた。
「川も上の方になると薪に困らぬから、こうして焚き物ができる」
そう言って多聞は汁物の椀を寄こした。
「そういえば、吾子は小太郎の御方の何なのだ」
多聞は今更な話を聞いてきた。
「何も無きよ。吾は足利荘代源の頼季様の目代、それだけゆえ。
そもそも、信田小太郎とは、何者ぞ」
そう聞き返すと、多聞は、
「もう寝るぞ」
と話を打ち切った。
・
翌朝は久々に冷え込んだ。マイナス何度くらいまで下がったのか。川の周りの水溜まりも凍結している。
薪は大量に用意していたのだが、明け方に二人はあまりの寒さに起きて、焚火の火勢を強くして暖かくなるのを待った。ちょっとこの寒さでは舟の上はつらい。
湯を沸かして干飯をうるかして、二人ちびりちびりと食べる。
陽が昇ると二人はようやく出発の支度を始めた。
川の流れが結構強いので、遡るのはゆっくりしたものになる。
アキラは竿の操作を代ろうかと申し出たが、川底をよく知らぬと危なきゆえ、と代わらせてもらえなかった。
しばらくして、
「烏帽子とりて笠被られよ。薦も着よ」
アキラは指示に従いながら、
「如何に」
訊くと、多聞は指差して、
「常陸の武者共が行きおる」
見ると、向こう岸、東岸の自然堤防の上と思しき辺りを騎馬の列が進むのが見えた。
総勢10騎、いや30騎以上か。間隔をあけて一列に並び、その先頭はよく見えないほど向こうだ。
騎馬は北へ向かっている。そしてそろそろ下野の国境だ。
「なぜ常陸の武者とわかる」
「こんな所を面目あって歩んでおるのは常陸の武者しかおるまい。
やつばら、田起こし前にひとつ悪行すると決めたらしいな」
多聞は更に説明する。
「後ろに徒歩の兵共がおる筈。それらがどこかで揃っていくさの用意ができる。ゆえに戦まで、まだ二日三日は暇がある筈」
三日となると、足利荘まで戻って引き返すだけでそれくらいはかかる。
二人の小舟はゆっくりと騎馬の列を追い越していった。数えた騎馬の数は70騎に及んだ。
アキラは全ての騎馬武者が鎧を身に着けていることにショックを受けていた。
色鮮やかとはいかないらしく、肩の大袖の札を結ぶ紐を白の千鳥にするぐらいが精いっぱい、あとは黄色と赤が少々混じるくらいで華やかさには欠けるが、しかし皆れっきとした大鎧だ。
これに弓を射掛けても、少々のものなら意に介すまい。
これはまずいのではないだろうか。
「堀越で渡らぬなら、奴等渡るは長沼か真岡か、いずれにしても北へ行くほど渡りやすくなる」
真岡はもはや下野ど真ん中だ。そこまで下野に入り込まれては困る。
「どうせ戦は結城のあたりであろうが、長沼で渡っては企みが見え透くゆえ、別の所で渡ることが幾度かあった。その度に郷のいくつかが焼かれることとなる」
「常陸の兵の狙いは何だ」
多聞は器用に竿を指しながらアキラに説明した。
「奴ばらの望みは猿島を焼くことよ。それだけゆえ。
将門公の由緒ある地であるが、下総の他の地とは地続きが細い。それが奴等の付け目でな。猿島を奪えば自然その北の結城も獲らる。
猿島は栗橋に続く道も脅すことされるゆえ、ここが常陸の手に渡らば下総は北の半ば分を失うこととなる。
だが奴等も鬼怒川渡らねば攻め寄せることできぬ。川で守るは容易きが、陸で守るは難しき故、北の陸伝いに奴等攻め入る訳よ」
地続きが細い、と。
ここらへんは一体どういう地理になっているのだろうか。
騎馬の列を全て追い越して暫くすると、多聞は舟を岸につけた。
間を置かず、岸の枯れた葦の茂みから男が一人現れた。
「藤永のアキラか」
アキラが然り、と返すと、着いて参れ、馬があるという。
「何事ぞ」
多聞が言うが、アキラも同じ気持ちだ。
・
二人騎馬で進むのは、広い荒れ野だ。
冬枯れた草がどこまで広がっている。草の中に稲が混じっている気がするが、気のせいだろうか。
いや、足元の真っ直ぐな道は畦の跡で、この草原は田の跡なのだ。
潅木までは生えていないところを見ると、結構最近までこの田は使用されていたのだろう。でも、これはもう10年くらいは利用されていない風情だ。
「ここは田であったのか」
先を行く男に聞く。
「勿論とも。およそ一千町、常陸どもの荒らすがままにこうなりおった」
吐き捨てるように男が言う。更に東を指差す。
指差す先、台地の上に小さな森のような場所が見える。
「あれに雑木が見ゆるか。あれは財部郷の跡よ。
何度も何度も、何度も焼かれ、遂に皆郷を捨てて逃散しおった」
台地の中の道を行く。財部郷の跡に差し掛かるが、これはもう雑木に埋没してしまっている。
「北の氏家郷も似たような有様よ。まだ逃散しておらぬが、そろそろ難しき頃であろう」
台地を抜けると、北に幾つか騎馬が見える。
「あれに小太郎様おられるゆえ、馬より降り行け」
・
台地の外れにいたのは、頼季様と信田小太郎、騎馬の郎党十騎、そして北郷党のうちの騎馬五騎という陣容の軍勢だった。
陣幕が張られ、かまどが設けられ、騎馬の郎党たちは大鎧を着けてあちらこちらで座り込んでいた。
北郷党たちは竹の盾も竹槍も無しだ。あれらは歩兵用の装備だったのだから当たり前だが、代わりにクロスボウを弓の腕の劣る二人が持っていた。
クロスボウのうち一つは、鹿の腱を混ぜて使って最近作ったものだ。鹿の腱は思ったとおり弾力に富むが、その分強度が竹で間に合わなくなった気がする。そういう訳で威力は前に造ったものと大差ない出来でしかない。
薄汚れておるな、とは頼季様の言葉だ。はい。10日ばかり着たきりでした。
聞いた所では、この足利勢は下野の東の端、芳賀郡を常陸の平維幹や平為幹の軍勢が北上するのを牽制するために展開しているのだという。
展開とな。いや、自分なりの理解のために使った用語だが、わずか十七騎では展開とはちょっと言えないだろう。牽制にすらなるか判らない。
他に平の兼光の手勢が下野の西南、薬師寺の東辺りに展開しているという。
十七騎というのは、先ほどに見た騎馬武者の大群が殺到すれば一蹴されてしまう規模でしかないが、かつて関東で大いに威のあった源の頼信の子と衝突するというのは、これは明らかな政治的リスクだろう。
その効果を期待して頼季様はここにいる訳だが、勿論相手がそんなもの意に介さなければ、即座に踏み潰されるのは間違いない。
対して平の兼光は三百騎は動員できるという。差があるなぁ。うち大鎧完全装備はどのくらいいるのだろうか。
「香取で聞いた事、委細残らず全て言うてみよ」
ちょっとした取調べが始まった。アキラは粉炭の取引に関して一同が理解するまで詳細の説明を繰り返した。
「ようやく飲み込めたわ。アキラよ、何をしておるか。
平の忠常は鎌倉殿の敵ぞ。敵を利して如何にする。ああ、まこと申し訳なき事をしたぞ」
頼季様は厳しくアキラを難詰した。
アキラとしては、粉炭と塩の話は以前からしていたのに聞き流されていたではないか、という不満の思いがどうしても拭えない。
武者というのは、戦が関わらないと何事も理解しようとしないものなのか。
「平の忠常を利する話、さほど気にする事ではありますまい。アキラの申すとおり、忠常は売り代も取引もわからぬ男、奴を利したとは限りますまい」
信田小太郎に庇われるとは思っていなかった。
頼季様はしばらく考えられた後、よかろう、と言った。
「但し、鎌倉殿への詫び、代わりの融通よくいたせよ。
鎌倉殿の為ならば吾にも言え。吾も何事か手貸そう」
アキラは改めて頭を下げた。
「アキラよ、栗橋の兵は何処に向かわせると言っておったか。ちと気になりまする」
信田小太郎の質問に、香取の屋敷での平忠常の言葉を思い返す。
「確か、与一郎という奴に、兵を猿島へ廻せと」
それを聞くと信田小太郎、
「これは思ったより、早く終わるやも知れませぬな」
如何な事ぞ、と言いかけて頼季様は少し黙考され、やがて頷く。
「そうか、結城でなく、猿島か。ならば今頃、常陸は大変であろうな」
怪訝な顔のアキラに信田小太郎が説明してくれる。
「平の忠常は結城で戦に付き合う心積もり初めより無く、そして常陸の兵が揃いて北に向かうのも知っておったのよ。
つまり、猿島より鬼怒川渡れば、空き巣に兵馬をいくらでも進められるというもの。
今日あたり、堀越を渡っておるだろうよ」
常陸の軍勢の背後を小集団で荒らすというのか。
どのくらい村郷が焼かれるか。今は野焼きの頃ゆえ、周囲も良く燃え逃げ場も無い、と信田小太郎は言う。
「となると、明日辺りはっきりしようぞ」
頼季様の言葉で尋問は終了したが、
「待て、アキラよ、あとで信田小太郎と郡司の所行け」
アキラは何を、と聞き返した。
「戦終われば逃散散所、流人の出るゆえ、扱いを決めよ。足利に幾人か迎える故、その心積りでおれ」
常陸の国で家を焼かれた住人達が、流れてこの辺りにやってくるというのだ。
そして彼らを足利荘の開墾地に迎えようというのか。
悲しい人口増加だ。
#41 塩売りについて
狩猟生活なら特に意識する必要も無い塩分補給も、農産物では必須塩分の補充ができないため農耕文明では命綱となります。内陸部の開墾は塩の交易が支えて実現されていました。
日本海からの塩が信州へ供給されるルートは古く起源も判りません。太平洋からのルートは逆に少なく、古くは足柄峠西の籠峠から甲斐に抜けるルートと富士川を遡上するルートが知られています。これも中世も半ばになると太平洋からの他のルートも多く開拓されるようになります。
平安時代、各地の塩は貢調品として都に運ばれましたが、東国の塩は運ばれることはありませんでした。延喜式に塩の名前は見えません。これは馬の飼育に多くの塩を要したからだという説があります。馬は人の5倍、牛は10倍の塩を消費しました。
作中時代の頃まで、東国の物資移動はほぼ税の運搬に限られていました。
安寿と厨子王の物語は、地方官である父を讒言で流され没落した家の姉弟の物語です。安寿と厨子王の姉弟は父に会いに旅する最中に人買いにだまされ、山椒大夫のもとに売られて働かせられます。姉は藻塩を焼き、弟は柴を刈る生活です。平安時代半ばまでの塩の生産は、柴を浜辺にうず高く積んで藻塩を焼くものでした。
やがて製塩法が変わると燃料消費も増え、木炭を使うようになったと思われます。恐らく塩の交易ルートは木炭の仕入れルートとほぼ同一だったでしょう。塩売りは馬借や車借の副業で、馬借はそもそも塩の消費者でした。中世の新たな交易網は、塩と馬、そして燃料を主軸として構築されたのです。
やがて換金経済が発達するにつれて、塩の生産量を増すために人が強制的に集められるようになります。荒廃した田地を捨て逃散した人々を集めて労働させたのです。山椒大夫は元々は散所太夫、つまり逃散した人を使役したことに語源があるものと思われています。時代的には作中年代よりちょっと後の話になる筈ですが、製塩技術で劣っていても人件費で優位にあれば話は違っていたのかも知れません。
古くから藻塩作りをしていたのは漁民でした。漁民は田のような動かせない資本を持たず、好きなときに逃散して別の浦に生活拠点を築きなおすことができました。恐らく最初の散所労働者は彼らだったのでしょう。