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#40:1019年1月 舟上

「アキラよ、聞けば聞くほど事の次第、まこと愚物ぞ」


 松戸のはずれの信田小太郎の知り合いらしき者の家に、信田小太郎とアキラは温かく迎えられていた。

 焚き火のそばで暖かい粥を振舞われたが、家の初老のあるじは信田小太郎の友人というよりは使用人のような振る舞いをしていた。

 ついでにアキラは革袋の裂け目を家のあるじに繕って貰った。中身のほうは硯が割れていたほかは無事だ。


「平の忠常は武者、侍ぞ。塩の値の事なぞ気にしおるまい。奴が気にするは、葛飾の塩作りの物言いよ」


 信田小太郎はそう言うが、


「平の忠常とて財物は気にしようぞ。在庁でもあるのだろう、ならば勘定気にする筈」


 アキラはそう言って反論する。


「勿論財物は気にしおろう。だがな、売り代は気にしておらぬよ。気にせずとも、数があれば良いのだからな」


 武者の多くは、代を払うという考えが薄いと信田小太郎は言う。押し入って物取るのとあまり違いがわかっておらぬ、と。まさか。


「武者には与えねばならぬ。払うのではなく」


 そこが判らんと、また今日の愚を繰り返すぞ、と。


「では如何にすれば良いか、何ぞ手立ては」


 アキラはちょっと投げ出したい気分になってきた。


「抛り捨ておけ。いつまでも川を封じてなどおけぬ。そもそも葛飾の塩売り共も川塞げば困るだろうて」


 暫く放置するというのはちょっと魅力的に聞こえた。となると川の封鎖は春まで続いて、そこでうやむやになるまで待つのか。

 いや、それでは栗橋の宿は全滅だ。そしてそれまでに北関東の経済は冷え切ってしまうだろう。


「とにかく、平の忠常に会う、会うと決めた」


 アキラはやる気を奮い起こして、答える。

 皮袋の中の、藤原の定輔殿が書いてくれた書状は、端が鏃で切れていたがおおむね無事だ。これで行ける筈だ。


 とにかく、会ってみる、言ってみる、できることはやる。


「無駄だろうが、もはや止めはせぬ。勝手にいたせ。

 ……ついでに、吾の馬返してはくれぬか。この宅の主人に頼もうと思っておったが、余計な手間をかけさせる事も無い」


 信田小太郎は火鉢のそばで寝返りを打つと、自分の乗ってきた馬を布施の渡しの北はずれに居る、多聞という男に返してくれ、と言った。


「その男に舟出すよう頼め。鬼怒川を遡り、多聞の言うところで降りよ。さすれば馬貸す男がおるゆえ借りよ。

 吾の名は出しても良いが、他の者には聞かせるな」


 何とも有り難い話だが、そもそも信田小太郎、こいつ何者で、何で今こいつがここにいるのだ?


 その疑問の答えは、最後のものだけが返ってきた。


「祖霊を(まつ)るためよ」


 吾が祖霊は良く奉らぬと面倒だからなぁ、その語尾はもう眠そうで、背を向けた信田小太郎への質問はそれ以上ははばかられた。


    ・


 翌朝起きると信田小太郎は既に出払った後だった。

 家の主人から馬の手綱を受け取ると、アキラはそこで、どこへ行けば平の忠常に会えるのか、全く知らないことに気がついた。


「相馬へ行かれよ」


 家の主人は聞かれて、そう答えた。


「平の忠常めの香取の屋敷へは、馬で三日。なれど舟使えば一日ゆえ」



 松戸から北上する道には蹄のあとが数限りなく残されていた。普段から馬の通行が多いのだろう。


 陽が高く昇るころにアキラは相馬、布施の渡しに着いた。

 目の前に広がるのは大河、か。対岸まで3キロくらいはありそうだ。

 いや、鬼怒川がここまで水量が多い訳が無い。東西に広がる湖のような広大な水面だが、実際これはほとんど湖か沼のようなものだろう。


 まずは馬を返さねば。

 考えてみると、信田小太郎はここで馬を借りて、松戸で馬を降りた。つまりは奴は鬼怒川を舟でやってきて馬に乗り、松戸で降りて太日川を足利へ帰るのだ。

 渡しは河岸の小さな湾に幾つもの舟が繋がれ、背後には宿や市で谷地のどこもかしもが埋まっていた。台地の上にも建物が見えるが、寺か神社だろうか。

 渡しの北端までいくと、外れに一隻の舟と、その脇で釣り糸を垂らす若い男がいた。


「布施の渡しの多聞か」


 アキラが声を掛けると、男の訝し気な目はすぐに背後の馬に向いた。


「その馬はいかがした」


「信田小太郎から馬返せと預かった」


 アキラは香取まで舟に乗せてくれと頼み込んだが、男は釣竿を片付けて手綱を受け取るまでの間、アキラの言葉を取り合わないようだった。しかし、


「香取までは二日かかろうぞ」


 アキラは袋から布半反を取り出した。男はそれを受け取ると、待てと言って馬を連れてどこかに行ってしまった。

 30分ほど手持無沙汰に待っているとようやく男は戻ってきて、乗れと促した。


 舟は細く、ゆらゆらと安定せず揺れて、アキラは最初から酔いそうになった。多聞は岸からアキラにどんどん荷物を渡して積ませてゆく。

 やがて乗り込んだ多聞はもやいを素早く解くと、舟を出した。


 すぐに気が付いたが、これは渡し舟ではない。竿で川底を突くのではなく、()でどんどん漕いでゆく。

 広い水面は思ったより波があり、アキラはすぐに気分が悪くなった。


 しばらくして気が付くと多聞は艪を漕いでいない。何かと思えば火を起こしていた。

 木箱に砂で固定された素焼きの容器に炭が熾され、そして竹籠から魚が取りだされた。

 その場で魚はさばかれて、うろこや内臓が舟から捨てられた。鉄の串を魚の身に刺して火にかける。


「悪気はもう止まったか」


 多聞が水を渡してくれるのを飲む。魚の身を良く火であぶったものを受け取ると、かすかに食欲が沸くのを感じた。体力はかなり落ちている筈なのだ。


「ゆっくりしていろ。流されていれば明日朝には着く」


 アキラは言われた通りのんびりしていたが、寒風に震えながら、なるほど舟の上で火を熾すというのは正しいと思った。


「鬼怒川がこれほど太いとは知らなかった」


 アキラの独り言を捉えて多聞が言う。


「ここは常陸川ぞ」


 何だその川は。本当に関東の川は江戸時代とかその辺りに色々改造されたんだな。


「帆は使わぬのか」


 アキラは意外に思って聞いた。この風は朝と夕で風向きが反対に変わるという。川を帆で上下するのにちょうど良さそうな風である。


「前に試したが、帆は良くない」


 帆柱に横木を付けて蓆の帆を垂らしたそうだが、風が変わるまでは結構良かったという。


「艪ではなく舵が要るが、飛ぶように走った。それは良かったのだが、風が変わるともう手がつけられん」


 帆をあやつる手段が要するに無いのだ。帆の下端に結んだ縄を舟の両舷に結んで、それを引っ張ったり伸ばしたりしてある程度は操れたが、風の方が常に強くて大して操れないのだという。


「あれでは海を渡る大船も、風のままにどこに行くやらという物であったろう」


「三角の帆ならいかがであろうか」


 アキラも暇なので、うろおぼえの知識を手繰って適当なことを言ってみた。

 確か、三角帆は風上にも進めたんだよな。理屈はまったくわからないが。


「四角が三角になったところで、……うむ、紐一つで手繰れるか。しかし帆が小さくなるぞ」


 予想外に多聞が乗ってくる。この男も要するに今ちょっと暇なのだ。


 舟は岸からあまり離れすぎないあたりを目安に、川下へとゆっくりと流されていた。帰りに川を遡るときに多く漕がねばならぬのだから、今は休むと言う。

 帰りはアキラも漕ぐというと、当たり前だと返された。下野までの料に足りぬ分は漕いで払えとの事だ。


 さて、帆について考えてみよう。

 考えてみれば、三角帆の代表、ヨットではどうだったか。

 帆が受ける力のうち舵が舟に強制する進行方向のみを、その力のベクトル分解として取り出すのが帆船の理屈の筈だ。しかし自信が無い。

 ちょっと実験が要るなぁ。

 しかし今実験ができる訳でもなく、静かな水面でできるのは考えることだけだ。


 夕方になると、アキラも魚釣りに駆り出された。

 ミミズを針につけるのを失敗して、手を川で洗いながら、考え続ける。


 イメージは湧かないものの理屈に従えば、帆船は進行方向の力のベクトルさえ得られれば、たとえほぼ風上でも運動できる。

 具体的には風上に向かって斜めに運動し適当なところで折り返せば、ギザギザに全くの風上にでも運動できる筈だ。

 帆は三角の必要は無い。自由に方向を変えられれば良い。但し、多分広い舵が要る。舵だけに任せるのも大変に思えるから、船体にも工夫が要るかも知れない。


 結局アキラは一匹も釣れず、帰りも釣れねば飯は無しぞと脅されたが、結局ちゃんと食わせてくれた。多聞のつくる焼き魚はまたしても美味く、アキラは今度こそ本物の食欲でまたたくまに平らげてしまった。


      ・


「着いたぞ」


 陽の出る前にアキラは起こされた。既に岸だ。


「早く用を済ませて来い」


 岸に降りてちょっと後ろを振り返ると、舟も釣り糸を垂れる多聞も、岸に生える葦に隠れてほとんど見えなくなる。帰るときに困らないよう、付近の地形を必死で頭に叩き込む。


 自然堤防らしき丘を登ると、二里ばかり先に大きな萱葺屋根の連なる大きな屋敷が見える。校倉もその向こうに土筆でも生えているかのように林立していた。

 さて向かうかと歩き出したアキラだったが、屋敷にたどり着くはるか前に、周辺を巡回警備しているらしき武者に掴まってしまった。


 騎馬武者二人は、畑を迂回して歩いていた変な奴を扱いあぐねて、屋敷へと連行することにしたようだった。

 

「源足利三郎頼季の目代、藤永内匠大允である」


 名乗ってはみたが、薄汚れた水干姿の大男はいかにも怪しかろう。アキラは革袋から書状を取り出し、平の忠常殿に渡してくれるよう郎党に頼んだ。

 書状が出てくると流石に弓を向けられることは無くなったが、座る場所も与えられぬままアキラは待たされることになった。

 糞がしたいと言って便所に案内され、戻って更に待たされた。

 腹が減った。


 やがて来たのは、平の忠常ではなく、葛飾の郡司だった。

#40 帆走について


 作中の時代、帆と言えば削った薄竹板を連結した網代帆しかありませんでした。蓆帆が使えてもおかしくない筈ですが利用は知られていません。麻は水を吸って重くなることから帆の材料としては用いられませんでした。棕櫚で帆を作ることがあったのが後世には知られています。

 帆は宋との交易を契機として、まずは西日本から普及していきます。多くの場合、長く帆材として使われたのは藁や萱などを材料とした蓆でした。弁才船などの後世の和船では17世紀より木綿が使われるようになります。弁才船は同時期には風上への帆走が可能であったことが知られています。


 風上への帆走とは、つまり風に対する帆の角度を制御できるという事です。帆が完全に風をはらむと人の手でこれに逆らって制御することは難しく、これが海外では滑車などの発達に繋がってゆきます。

 三角帆は横帆に比べて制御すべき点がひとつ減って取り回しやすくなりましたが、帆の面積は減ります。

 宋船では外見上は横帆であるものを横桁の支持箇所を変えて、三角帆と同じ、操作性の良い横帆として用いていました。12世紀の中国での木綿栽培の普及から、以降は帆にも木綿が使われるようになったと思われます。宋船のこのジャンク帆装では、帆に横桁が多数通されて帆面を保つと同時に帆の巻上げを容易にしていました。


 帆走についてよくある誤解は、帆は風に対して正対した時が最も速力が得られるという直感的な考えです。帆が受け取る力のベクトルは進行方向に一致するため、その進行方向への力はその向きで最大化されます。しかし帆に力を与えた後の風はまっすぐ後流と衝突して乱流を生じ、帆の受ける力は小さくなります。風に対して角度をつけて風の流れを滑らかにしたほうが速力が得られるのです。

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