#39:1019年1月 塩 (地図有)
久しぶりの上野の国司屋敷だ。
下野のように国庁を兼ねてなどいない純粋な国司の住まいだ。そういう目で見ると贅沢な話だが、実際には公務もこちらで行なうことが多いと聞く。
今回は頼義殿はいない。アキラ一人きりである。
アキラは頬を叩いて気合を入れたが、その様子を門の雑色に見られてしまった。怪訝な表情をしている。ちくしょう知ったことか。
奥へと案内されるが、これは年始の挨拶の客だと思われているのだろうか。まぁ正月早々であるから、まずは挨拶だ。
聞こえてくる声は酔っているらしき調子はずれのもので、歌らしきものが詠まれていたが、すぐに笑い声と手を叩いて囃す声で中断してしまうようだ。
廊下に転がる瓶子と、寝こける直垂姿が一人。
さらに進むと、足元に転がる直垂姿がまた一人。
母屋の奥に酔っぱらいの集団が居た。
藤原の定輔殿はその真ん中だ。絹の打衣を着た女の、あ、袴を脱がそうとしているのか。こんな大勢の前で。
「新年目出度きを源三郎の目代、藤永のアキラが言上いたす」
アキラは定輔殿に座り、挨拶を済ませると、
「急ぎ用事があるゆえ」
にじり寄って近くでアキラが囁くと、定輔殿は、
「風当たりにゆく」
付いて参れと言う。
廊下を曲がり曲がって、庭に面したところで、
「何ぞ」
「浅間川を平の忠常の兵が封じおりました」
浅間川というのは利根川の上流での呼び名だ。
怪訝な顔をする定輔殿に向かってアキラは続ける。
「この頃塩が安くなりし事、これは鎌倉の平の直方殿で作られる塩によるもの。
この塩作りに上野の富豪の輩、池原の貞忠が絡みおります。
鎌倉は炭乏しければ、貞忠より炭を仕入れて塩を安く作れば、これが平の忠常の勘気に触れました。
知っての通り、平の忠常は葛飾で塩を作りしものの、これが鎌倉の塩のため売れなくなりました」
知っての通り、か。
アキラは知らなかった。いや、東京湾の奥の奥、ディズニーランドの辺りか、その辺りで塩を作っているとは聞いたような聞かなかったような。
少なくとも、他の製塩業者については考えるべきだった。
房総半島の主、平の忠常が関わるとは。大きな争い事になる可能性がある。いや、既に大きな争い事だ。そして相手は戦争に慣れている。
忠常の領地の塩が売れなくなったのに気が付いたのだろう。鎌倉の塩の流通量が大きくなり過ぎたのだ。
それで事情を調べて、利根川を封鎖するというのは素早いし正しい。
まずは塩の荷物が止められたという。次いで鎌倉からの荷全てが止められ、更に鎌倉への荷も止められた。これで粉炭も止められてしまった訳だ。
「平の忠常は兵を出して川を封じ、塩と炭を止めました。今はまだ安い塩も、すぐに元の値に戻るでしょう」
「それが何ぞしたか」
「塩高くなれば、飯もまた塩気を無くすでしょう」
「知らぬ」
ああ、塩を贅沢に使える身ならば、塩の値段なんてわからないのかも知れない。
「碓氷の関料も、近頃の儲けを失う事でしょう」
「……いかな事ぞ」
ようやく食いついてきた。
「これほど塩が安くなっておれば、多くの塩が信濃へと運ばれたでしょう。
その分、関料も増えたのではないかと。
……安いうちに関料を上げておけば、信濃では塩の値が安くなった事を気づかれることなく、関料分の収が増えましたものを。惜しうあります」
「ふむ
……さて藤永のアキラよ。用は何ぞ」
「平の忠常に会おうかと。
つきましては、紹介書きを頂きたく」
「会って如何にする」
「炭を売りまする。安い炭あれば平の忠常の塩も安くなり、売れるかと。
されば川停めることも要りますまい」
アキラは秘策を披露した。
「鎌倉殿は如何にする」
「荒川を使おうと。ために道を直したく、そこで定輔殿の令があれば」
「どこに道作る」
「古い武蔵道を少し直すだけです。
平の忠常も鎌倉殿も塩作らば、更に塩は安くなりましょう」
定輔殿はアキラを少し見つめた後、くるりと背を向けた。
「では明日参れ」
歩き去りながら、
「令は良いとして忠常宛の状となれば、酒抜かねばな」
・
屋敷から出てきたアキラに二人ばかり駆け寄る。
池原殿とその父、池原の貞忠殿だ。
「如何にあった!」
アキラは屋敷から去る歩みを止めず、二人はそれについてゆく。
屋敷から十分離れたところでアキラは歩みを止めた。
「全てうまく運びました。
道のことも国司の令状がとれましょう」
「そうか、そうなれば」
池原殿が胸をなでおろす。
「道の辺りだけでも、地図作りして杭打ちしましょう」
三人の念頭にあったのは、春先に舟に乗ったとき、アキラが降りたあたりだ。
封鎖された栗橋から上流に六十里、流石にそこまで下総介平忠常の権力は及ばない。
そこからまっすぐ南に二十里の、かつては東海道と東山道を繋ぐ武蔵道があったという。
近隣住民を大動員するための令状は手に入れた。人員も期限も、無制限の権力がそこに保障されていた。
これを使って、農繁期の前、田起こし前に道路工事は済ませなければならない。
かつての道をそのまま復元できれば一番だが、なくても、田を潰しても道は作る。馬車が離合できれば良い幅、つまり一間も幅はあれば充分だろう。
利根川を運んだ荷を馬車に積み替え、二十里南下して今度は荒川で舟に積み替え、そして下流武蔵竹芝で海に出る。下総は目と鼻の先だが、海は平忠常の権力から絶縁してくれる。
勿論もっと道を使ってもいい。幸い武蔵はかなり道が良い。橋に板を足すだけで馬車が通ることの出来る道も多いだろう。
そしてその道の中には、甲斐へと続く道もある。
碓氷の関所で塩の税を取るアイディアは、ただ定輔殿の強欲を刺激するためだけのものではない。極めて効率的に、塩の運搬路としての碓氷峠を封鎖するのがその狙いだ。
平忠常の領地の作る塩は安く関東一円に流通するだろう。しかしその塩は碓氷峠を超えることは出来ない。高い関料のせいで経済的に割に合わなくなるからだ。
そして碓氷峠の向こうの国信濃に塩を、鎌倉は独占的に供給する訳だ。甲斐の国を経由して。
つまり甲州街道経由だ。
……この時代に甲州街道ってあるのだろうか。
これで鎌倉のダメージは最小限に抑えることができる。
勿論それでもダメージは大きい筈だ。埋め合わせが必要になるだろう。
・
翌日、国司屋敷で書状を受け取ると、道路造営の令状を池原殿に渡してアキラは舟に乗った。
冬の利根川は静かで、船頭も寒そうに手をすり合わせながら竿を取っていた。アキラは薦を被って舟の上で縮こまっていた。
陽の傾くのも早い夕方、舟は栗橋に着いた。
なるほど、郎党の乗った舟が何隻か出ている。アキラたちの舟も、舟上の郎党の命令に従って栗橋の岸に舟を着けた。
岸は舟でごった返していた。船頭はもやいを繋ぐべき処を探した挙句、岸に渡ったアキラにそのままもやいを持っておくよう言った。
郎党二名がやってきて、弓の郎党が岸に残り、刀抜いた郎党が舟に乗り込む。薦を捲って、荷物が無く乗客がアキラだけだと納得すると、郎党はアキラを尋問にかかった。
船頭の、もやいを返せと言う手ぶりに、まずアキラは舟にもやいを投げ返して、郎党に向き直る。
「源足利三郎の目代、下総国庁への官使なるぞ」
アキラは腰に佩いた刀に触れさせることなく、その場を切り抜けた。
ようし、更に大きく出てみるか。
アキラは、郎党の頭に会いたいと言ってみた。
「栗橋のこの様子、事情を明らかとしたい。平の忠常殿の郎党と見えるが、いかがか」
案内されるようでもなかったので、アキラは勝手に歩いて陣所に突っ込んだ。
我ながら大胆だが、戦時ではないのだから大丈夫だろう。ここでちょっと色々聞いておきたい。
陣所の前には焚火があって、蓑姿の雑色姿が交代で暖を取っている。思ったより緊張感は無い。まぁ相手は武者ではなく民間人ならばこんなものだろう。
陣幕を潜ると、中でもやはり焚火があって、こちらは幕のおかげか少し余計に暖かい。
「誰ぞ」
アキラは名乗りを繰り返し、この新年祭礼の時に何事ぞ、などと付け加えて言ってみる。新年早々の騒ぎなんて誰にとっても嬉しくない。まったくこんなに寒いのに。
「これは下総の事なれば、申し入れ事は国庁になされよ」
一番偉そうな武者は、手を焚火にかざしながらアキラにそう言った。ふむ、その通りにするつもりだ。
陣を退去すると宿を探すが、栗橋の宿は商売あがったりという風情だ。
泊まった宿には忠常の郎党たちが雑魚寝していたが、宿代は払わないらしいと宿の主人に聞いた。
アキラは宿代をその場で布で渡し、宿の主人は自分の長火鉢のもとにアキラを招いた。
「どのくらい郎党共は来ておるのか」
「初めはざっと百、今は五十というところでしょうか。騎馬どもは既に帰りおります」
「いつまで居るか聞いているか」
「吾らも知りたい事です」
宿の主人も、奴らもしや春まで居るやも知れぬ、とこぼす。となれば専業でやっている宿の大半は廃業だろう。
・
翌朝、宿の主人に推薦された舟に乗って、太日川を下った。夕方には松戸に着き、そこで降りる。乗るときに渡された笠をそのまま貰ってしまった。笠地蔵の気分だ。
下総国庁は松戸の南の太日川の東岸の高台、目と鼻の先だ。しかし歩くうちに日が暮れ、アキラは右も左もわからぬ真っ暗な荒れ野で道に迷った。
なんとか道の見当はついたので、それらしい屋敷に辿りついたが、門には物忌みの札が下がっていた。木の枝もなんか飾られているが何だろう。死者が出たのか。
とはいえ急ぎの用事だし、何より寒い。アキラは門を潜ったが誰もいないので、人を探して母屋の蔀の隙間を探し、裏手に出て、下屋を覗き込んだ。
「誰もおら……!」
胸に強い衝撃。息が詰まる。
暗い足元に、矢らしきものが転がる。射られたのだ。
やばい。
アキラはとりあえず、走って逃げることにした。
しかし何で助かったのか。肩からたすき架けした革袋の中の硯にでも当たったのか。硯、割れていないだろうな。
川に面した崖の上に出て呼吸を整えるが、ああ、ここはやはり武者の国だ、というのがアキラのまずは感想だった。
そりゃ勝手に屋敷の中に入る怪しい人物は殺されても仕方ない。だが、誰も人の気配が無かったのだ。
物忌みだったからだろうか。
というか、そもそも国司の屋敷だったのだろうか。考えてみれば東殿に相当する建物は見えなかった。
別の屋敷だったとすると間抜けな話だ。
あまりに寒いので、塔の見える方へ行ってみることにした。寺があるなら泊めてくれるだろう。
しかし、寺の門は閉ざされていた。
門を叩こうかとも考えたが、やめた。柴でも拾って火でも起こしたほうが幾らかマシだろう。
革服を着てくるのだった、と思ったが、そもそも正月から一張羅の水干を着たきりである。着替える暇など全く無かった。
松戸に戻ろう。
考えてみるとここらは川の下流の海のそば、平地ばかりで山は無く、従ってそこら辺に柴木が落ちていたりしないのだ。足利を基準にモノを考えるべきではない。
まったく俺はどうしてこうアホなのだろうか、そんなことを考えながら、松戸の谷地へと降りていく道すがら、
「アキラよ、なぜここに居る?」
通りがかった騎馬の上、
なぜか、信田小太郎がいた。
#39 動滑車について
動滑車は海外のSFなどではよく内政チートに用いられるガジェットですが、日本ではあまり見かけないように思います。動滑車はただの滑車と言うより梃子や減速歯車に近い道具で、引っ張り距離を大きくとって必要な力を減らすことができます。
梃子より良いのは、動滑車を複数組み合わせることが容易で力の増幅倍率を上げやすい点です。減速歯車より加工が容易であることも利点です。液圧ポンプには圧力に耐える配管が必要になりますが、動滑車にはこれも必要ありません。
ヨーロッパでは紀元前一世紀には登場したと思われる動滑車ですが、日本に入るのはずっと遅れた15世紀以降になると思われます。天工開物には動滑車は出ておらず、東洋では関心が低い仕組みであったことが判ります。
ヨーロッパではウインチや踏み車、人間が中に入って巨大なハムスターの回し車のような代物を廻して動力を得る仕組みが、動滑車と共に中世を通じて利用されましたが、これは主にクレーンへの使用のためでした。石造建築は増幅倍率の大きなクレーンを必要としていたのです。
動滑車に対する東西の関心の違いが如実に現れたのは、第二次世界大戦における航空母艦用カタパルトででしょう。
開戦前夜、日米ともにカタパルトの基礎技術は同じ物を持っていました。着艦時のアレスティングワイヤの衝撃を吸収する油圧ダンパー機構としてです。
米軍は空母にカタパルトを搭載するに当たり、この機構を逆転しました。そして動滑車を普通とは逆に用いて、油圧機構の動程を数十倍に延長したのです。結果としてこの油圧カタパルトは護衛空母にも搭載可能なほどコンパクトなものになりました。
工学の手札を多く揃えておく事は、このように国家の死命を制することもあるのです。