#37:1018年12月 年越し
その後体調が回復しなかった事もあって、アキラは頼季様より屋敷にしばらく居る様言い渡された。クワメの機嫌がそれで少しでも良くなるならそれに越したことは無い。これは屋敷の衆の一致した意見だった。
そういえば、と、アキラは以前やろうとして忘れていた計画を思い出していた。
舟作りだ。
竜骨のあるボートから始めるべきだろうか。いや、とりあえず河川に最適化した平底舟からだろう。
舟が箱なら簡単なのだが、では船首と船尾はどうしようか。
板が使える今、船の構造はかなり自由が利く。過去の舟(いや、未来の舟か)の構造に倣うべきなのだろうが、生憎アキラには知識が無い。
知っている理屈で考えてみよう。
まず大事なのは水漏れしないことだ。
これはただ単に板をくっつけて並べるだけでは駄目だ。板は膠で貼り合わせるつもりだが、板の端を漏れぬよう工夫すべきだろう。
溝と出っ張りで嵌め込む構造にしたい。タールのような防水材があれば話は別だし面倒だが、水漏れ防止の為なら価値がある。加工のための専用工具が欲しいところだ。
次は構造だ。平底だとフレームは並行して底に二本貫く構造になるか。これにはしご状に補強材を入れたい。
板はフレームに沿って湾曲させることになる。つまり板は曲げなければならない。
板の固定は今度こそ釘を使わなければいけない。薄い板を細いフレームに固定する必要から、ダボ穴を使った木楔による結合では難しいだろう。
釘を何本使わなければならないか、それだけで頭が痛くなる。
まずは全長一間のボートからだ。そしてその前に、やはり模型を作ろう。
「よくわからん」
膝の間に座ったクワメに、舟の図面を示して説明したのだが、答えはいつもと同じだった。
そのくせ、説明しないと怒るのだ。まぁ、そのうち判るようになるかも知れない。
「それより、琵琶弾きたまわれよ」
クワメは立ち上がり、琵琶と呼んだそれを持って来ては再び膝の間に座った。
それは琵琶というより、ウクレレに近い代物だった。
試作二号機にしては良く出来たとアキラは思っていた。
板に弦を張っただけの代物で結構鳴ったのだから、共鳴胴を付ければもっと鳴るだろうとまず箱を付けてみたのが試作一号機だったのだが、どうも音が汚い。
よくよく考えてみたが、ギターも三味線も、共鳴胴の側面はなめらかに湾曲している。つまりは箱の角が元凶ではないかとアキラは考えた。
箱の方が作りやすいのに何故そうなっているのか。共鳴振動の節が変なところに出来ないようにする工夫なのか。
アキラは焦がしてしまった燻蒸用蒸篭を再度持ち出した。
水鳥の柔羽根を燻して防虫するために使っていたのだ。アキラは試作した羽根布団一号と二号を頼季様と尼女御に差し上げたのだが、寒い季節にこの珍品、大褥はすぐに評判となった。
この時代に布団は存在しない。専用の寝具は無いのだ。ただ実際には寝るときに体の上に重ねる服はあるので、シンプルな布の袋で同様の効果を、いやそれ以上の効果が出るなら素晴らしい。
という訳で、なぜアキラが水鳥の柔羽根を集めているのか訝しがっていた北郷党の連中が、一斉に自分の羽根布団作りに邁進する結果となった。おかげでアキラには自分の分もクワメの分も、羽根布団を作る余地が無くなってしまった。
勿論クワメには散々罵倒された。クワメは主従関係を意に介さない。尼女御もただのうるさい尼婆だ。
・
蒸篭に薄く削った木の板を入れた。まず水を入れて古い下駄をスペーサー代わりに底に置き、その上に置くのだ。
蒸篭から蒸気が吹き出すと水を足し、およそ三時間ほど経ってから板を中から取り出した。
曲げるための型として用意していた木に当てて力を入れると、驚くほどすんなりと板は曲がった。アキラは木の型に板をぐるり巻き付けると麻糸でぐるぐる巻きにして固定した。 冷えて麻糸を解いても、板は曲がったままだ。
聞いたとおりだ。思ったよりずっと、薄いと木を曲げるのは簡単だった。
知る人はいたが作れる者はいなかった。薄板を得るのが大変なのだ。杉の木の表皮近いところの節など無い部分を丁寧に剥ぐ様に割るのだという。
だがアキラはその点比較的容易に薄板を得ることができる。板をひたすら鉋で薄く削ればいい。
曲げて輪っかになった板の側面に薄板を膠で貼り付けて、共鳴胴の出来上がりだ。
弦は3本しか張られていない。テンションを調節するための糸巻きを作るのが面倒で3本で止めたのだ。
そもそもアキラはギターを弾いたことも無いし何か曲を覚えているわけでも音楽の知識がある訳でもない。指板の柱、指で押さえる部分は適当な位置を探して膠付けした。作ってから悟ったが、和音もこれでは難しい。
だからアキラも、演奏というより、ただポロンポロンと鳴らすだけだ。
クワメはこんなものでも手を叩いて喜ぶ。やがて判ってきたが、この時代の庶民というのは何か変な音がしただけで喜ぶのだ。
だから鼓のポンポンという音だけで喜んでしまう。太鼓も作ろうか。底の漏るできそこないの桶を使おう。底を抜いて鹿革を張れば良いか。
この琵琶の音階を上下に順に鳴らすだけで、もう一度弾けとせがむのだ。
・
膝の上でクワメが身じろぎする。寒いのか、身を寄せてくる。アキラは長火鉢をかき混ぜると、小さく割った薪を一つ火に追加した。
少女の柔らかな身体と体温を感じて、性欲とは別に、アキラは妙な感慨にふけっていた。
雪が降っている。
新殿の三分の一ほどをアキラとクワメはとりあえず寝所として使っていた。
几帳と大きな棚で仕切った奥に畳を置いて、そこに今二人で、服を重ね着して座っていた。
格子に紙を張った障子は、新殿に追加した新趣向だったが、雨風は防いでも思ったより暖かくならんと不評気味である。
そもそも寒いのだ。アキラたちが新殿を占有できているのも、板張りの屋根のせいで断熱性が皆無なせいである。三分の一に区切って使っているのも、狭い範囲だけを暖かく過ごすためだった。
残りの場所はガラクタが占めていた。貞松の新しい作業場に収まらなかった、紐による送り機構を付けた木轆轤や、改良中の機織り機、時々いじりまわす作りかけの振り子時計などが寒々と横たわっている。
でも、女の子の体温を感じながら睦言めいた事を言い合っていると、そんなに寒くない気もしてくるのだ。
幸せ、なのだろうか。アキラには実感が無い。
多分、冬季うつか何かのせいだろう。セロトニンが足りていないのだろう。
夢にかつての生活を見ることがある。
羽田発の飛行機から眺めた富士山。真夏のお台場。陽炎の立ち昇るアスファルト。
クーラのよく効いたカフェラウンジ。残業帰りに眺める夜景の遠望。
すべて幻だ。そんな幻は忘れてしまうに限る。
クワメの肩を揺らすと、むにゃむにゃと言ってぐずる。だが寝かせてやろうとすると起きてしまった。
クワメは自分の上に掛けてあった革服を肩に掛けて、アキラの後ろをついてくる。寄縁から下駄を履き、屋敷の池へと向かう。地面にはうっすらと白い雪が積もっていた。
舟の模型はひっくり返っていた。
細部の加工手法を検証するための模型だった。だから縮尺五分の一ではなく長さ五分の一、そのため寸詰まりの全長はもう箱である。
その箱が水上で横倒しになっている。浮かべてすぐにわかったことだが、重心が高過ぎた。
「水漏れは無いな」
アキラは箱を立て直すと、箱の中に新たに石をいくつか加え、池の中に送り出した。
3キロぐらい石を入れた筈だが、ほとんど喫水に変化が無い。
箱の表面には柿渋のほか、灯心油が塗られていた。
柿渋を大量に使うのは秋ごろに建物を作る際には分かっていたことだが、灯心油の消費がこういうかたちで増えることは予想されていなかった。夜の明かりは切り詰めないといけないだろう。
だがおかげで、板の表面はよく水を弾いているように見えた。本当のところは塗装したいところだが仕方がない。
さて、ひっくり返らないようにするにはどうすべきか。
重りをもっと入れるというのは一つの方法だろう。しかしそれはつまらない。竜骨を持つ舟の構造を検討してみると発見があるかもしれない。
クワメが袖を引く。
「これは舟でなく箱ぞ」
「これはな、長さが五分の一の立派な舟だぞ」
アキラは下駄の歯で、地面に線を描いていく。白い地面に黒く地面の色が現れる。
「これがそこの舟、そしてこれが次作る舟になる」
スケールの違いだけだ、と言っても首をひねるばかりだ。
抽象的な物の見方が本当に無いのだ。
抽象化こそが想像力の源泉だと書いていた本を読んだことがある。
恐らくそれは本当のことだ。この時代の人たちの想像力の方向性が限られていることは本当に驚くばかりだ。
例えば陰陽道が都で盛んなのは、都に条里の道があって時刻の鐘が鳴らされる、その時刻と空間の把握が容易なせいだ。南北の感覚、方向を気にすることは都ではごく自然な事だ。
しかし東国では方向を気にするのは難しい。
馬に乗る武者たちと百姓とでは距離の感覚も違う。百姓たちにとっては、足利荘の外はのっぺりとした"遠きところ"だ。武者たちも遠くなると距離は日数に変換される。
ただ、クワメには見込みがあるとアキラは思っていた。
以前クワメに蛸について説明したことがある。
「海に棲み、魚ではなく、赤く柔らかく、八本の足を持つ」
足も柔らかいのかと聞かれて、蛇のようにうねるとアキラは答えた。
「それは足ではなく、尻尾ではないか」
「ふむ、そもそも蛇のあれが尻尾だというのが間違いだな」
あれは足ぞ、とアキラは真面目くさった顔で言った。
犬の尻尾は動く役には立たぬ。役に立つのは足ぞ。あれはああ見えて足なのだ。
「そらぞらしき。屁のごとき事言われる。頭一つに尾が八つの蛇などおるものか」
おお、タコを具体的にイメージしたのか。それができるなら見込みがある。
具体的に新しいイメージが作れるというのはこの時代、それだけで結構な才能だとアキラは悟るようになっていた。
例えばおととい、風車が飛んでしまった時のこと。
びゅうびゅうと吹く強い風を何とか使えないかと、アキラは直径2メートルほどの風車を作ってみた。風車には回転軸とは別に、風上を向くための軸が要る。この強度が持たなかった。
作って半日、軸の抵抗が大きいのか、全く廻ろうとしなかった風車は、夕方になって吹き荒れた突風に狂ったように廻り、そして吹き飛ばされた。
風見の軸からぽっきり折れた風車はそのまま舞い上がり、屋敷の母屋の屋根をかすめて、更にどこかに飛んでいってしまった。
物の怪が夕闇迫る申刻に出没する図の完成だ。
足利荘に出没した物の怪の跡を辿ってアキラは様々な目撃証言を聞いたが、皆コピペでもしたように、恐ろしき物の怪ぞ、としか言わない。
具体的にどのように見えたのか、言わない。いや、言えないのだ。
これまでに見たもの、知っている語彙が少なすぎるのだろう。
イメージが作れないのだ。
・
回収してきた壊れた風車を視界の隅に一瞥して、アキラは元々の会話に戻る。
「大きさ一間の舟作ったら、次は十倍の大きさの船をつくるぞ」
クワメは十倍と聞いて、一間の十倍はと、少し考えて、
「十間の舟など、またおかしな事言われる」
「筋交い橋に板付ければ、すぐに六間の船ぞ」
筋交い橋とは、トラス橋に対する貞松の命名だ。また良い名前を付ける。
貞松はようやく筋交いの機能に目覚めて、いまや熱烈な筋交いの信奉者になっていた。
毎度の事だが、筋交い橋も都の名工貞松の作という話になっていた。しかし当の貞松はと言うと、筋交いについて誰も理解を示してくれないと、かつてのアキラのように嘆くばかりだった。
クワメが反応するまで、少し時間がかかった。
「まことに、十間のフネ、できるのか。されどどこに浮かべるか。太日川で使うか」
「海だよ。広い広い、海だ」
アキラはさりげない調子で、そう答えた。
「船ができたら、一緒に海にいこう。
船に乗って、暖かな南に行こう。そうだな、都にも一緒に行こう」
まことにはとらぬぞ、とクワメは小声で呟く。
その声は小さくアキラにも聞こえたが、
「海では蛸もとって食おう」
「……食えるのか」
「ゆでると美味い」
今は色々想像させておこう。
クワメの頭を撫でると、少女はアキラにしがみついてきた。
雪の上の足跡を踏んで、二人は暖かい建物へと戻っていった。
#37 舟について
平安時代において外洋航海可能な大型船、つまり遣唐使船が国産建造されたことは間違いありませんが、その構造の詳細がどのようなものであったのかは知られていません。
外見は横帆を張る帆柱を持つ300トンクラスの木造船で、一隻に最大160人が乗ることがありました。横帆は削った薄竹板を連結した網代帆で、その帆は順風に沿った航海しかできませんでした。船体は複数の木材フレームの組み合わせだった筈です。
しかしこの技術は国内に伝播伝承されることはありませんでした。往復航海可能な安定した季節風が無いため、その帆では商業航路を確立できませんでした。強い潮流は人力で逆らうことも困難でした。
和船の構造は丸木舟からの発展であり、構造化はその祖の構造を色濃く残しています。刳り舟と呼ばれるその構造は埴輪などにも見て取ることが出来ます。巨木を刳り抜き、船首船尾の凌波性を高めるために堅板と呼ばれる波切板を斜めに突き出し、舷側に板を足して高くしました。
しかし使える巨木は少なくなり、やがて丸木舟を底にのみ使用して板で舷側を構成する、一見構造を持っているようにも見える、丸木舟に見えない舟が主流となります。このような船が刳り船と呼ばれました。
東北にはムダマハギと呼ばれる、このような構造の舟が最近まで残っていました。舟底の刳り抜かれたムダマに板を合わせて舟は構成されます。ムダマは更に二つを平行に結合する蝶合わせになり、更に3つ4つと結合し、アバラと呼ばれる肋材で補強されていきます。船首にはミヨシと呼ばれる鋭角な水切り先端が付けられます。
ムダマはやがて板になり、構造船となった和船の主構造材となります。このような船は強い海流が沿岸に無い日本海側で発達していくことになります。
作中の時代ではムダマは一枚、舷側にタナイタを張り、船首は板で鋭角ではないでしょう。船の大きさはムダマに使った木の大きさ次第で、帆はまず用いられなかったものと思われます。