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#36:1018年12月 日光 (地図有)

足尾と中禅寺の位置関係についての地図です。

挿絵(By みてみん)

 寒い。


 脛の半ばまで埋まる雪を踏んで、アキラは冬山を登っていた。

 革靴はブーツと呼んで良い長さで、ただ底の厚みが足りないため、上から藁沓を履き結んでいた。この革靴はアキラのちょっとした自慢で、さて性能をためしてやるか、という気分がこの大失敗に繋がっていた。

 アキラは既に八甲田山に遭難する兵士の気分だった。


 下半身がとにかく寒い。

 新しく誂えた革服は絶大な性能を今も発揮していた。革の内側に麻布を縫い付けて二重構造にし、その間に水鳥の柔毛をたっぷり入れていた。


 矢羽根を採るために水鳥を狩る季節になっていたが、水鳥の胸羽根などの柔毛はこれまで使い道なく捨てられていたのだ。アキラはこれをとにかく集めた。もっと集めて羽根布団も作りたい。


 革服のほうはお陰で絶好調だ。前はダッフルコートでよく使うタイプのボタンで止められるようにしていた。襟に当たる部分はボタンを外して折れるようにしていたが、今はボタンを上まで留めている。首筋の防寒はこれで万全だ。


 万全でないのは下半身だった。麻の袴の上から編み藁を巻いていたが、これは濡らすと保温性がほとんど無くなる。アキラは雪の中で数度盛大にこけて、その度に雪まみれになっていた。そして今とにかく尻が凍りそうだ。

 里の方には雪は全然積もっていなかったのに。


 見上げると男体山、いやこの時代は二荒山だ。

 雄大と言うより荒涼、無残な傷跡のような山崩れのあとが無数に縦に走っていて、そしてその頂部は白く雪雲の中だ。

 見下ろせば左右にぞっとするような剥き出しの砂利肌の谷間、そして坂と言うより急斜面と言うべき、これまで昇ってきた道程があった。

 この時代はいろは坂とはまだ呼ばれていない。当然だ。数えられるようなカーブが存在しない。ほぼ真っ直ぐ、階段らしいものも無い尾根筋を登るだけなのだ。


 遭難する前に、体力が尽きる前に登ってしまわなくては。


      ・


 ことの始まりは、河内郡の検田のついでに、以前あがっていた訴訟事を片付けてしまおうとした事だった。

 日光の山岳密教寺院、中禅寺の訴えに関して、所轄である河内郡司に確認するように命じたのは確か夏頃だった。昔の合意文書の写しも添えた筈だ。

 しかしその後の郡司の返事は全く要領を得ないものだった。


 直接出向いて聞いた郡司の話は、更にまったく訳のわからないものだった。

 河内郡の住人は誰も中禅寺とは揉めていないというのだ。関係は良好だという。

 となると、訴状を書いた本人に問い合わせるしかない。

 その本人は当然、中禅寺にいる。日光の奥、中禅寺湖のほとりにだ。


 日光の麓の四本龍寺で測量班とアキラは別れた。

 測量班は人手不足を補うために近郷の子供たちを多く雇っていた。ただ棒を持って立っているだけの仕事だ。だが飲み込みの良いものは測量盤の手伝いもできるようになっていた。

 しかしその手際は手馴れているとは言い難い。測量班はスケジュール二日遅れで広大な河内郡の測量を急いでいた。河内郡は藤原兼光の勢力圏だから、測量は多少手抜きできる。

 中禅寺への道の途中までは馬でいけるという。そこに小屋があって寺の関係者が馬を管理してくれる。そこから先は歩きだ。


      ・


 陽が落ちる前にアキラは中禅寺湖の湖畔、中禅寺に辿りついた。

 華厳の滝は見事なしぶきを飛ばし、中禅寺湖の湖面は静かで、夕日は実に美しかった。だが景色などどうでも良い。とにかく疲れた。寒い。寒い。

 しかしここ中禅寺は修行のためのストイックな寺だった。だから大衆への施しなどの機能、例えば風呂はここには存在しなかった。この冷水で行水するのだそうだ。

 アキラは寺院雑舎の竈の火の傍で震えながら、誰か人の来るのを待った。


 寝こけたところを起こされた。


「目代殿、遅参かたじけない」


 高位の僧と思しき人物が傍に立っていた。


 薦を脱ぎ、編み藁を外し、靴と革服も脱いで寺院の奥へと歩く。

 袴はほぼ乾いたがとにかく寒い。足の裏が痛いほど床板が冷たい。陽が落ちた後だ。気温は氷点下何度まで下がるのだろうか。


 灯台一つきりの室内にアキラは案内された。


 僧は秀道と名乗った。ここ中禅寺の別当職だという。


「夏頃にお知らせあった山地の入合い沙汰の件について、よく判らぬので直に聞きに参りました。一体、どこの誰と揉めておられるか」


 アキラが切り出すと、


「安蘇郡の杣人です」


 別当は即座にそう答えた。


「御寺は安蘇郡に土地をお持ちか」


「いや……、いや、そうに相違ありませぬ。されど」


 別当は込み入った話を説明しはじめた。


    ・


 中禅寺は河内郡の奥地に位置している。河内郡とは大体宇都宮のあたりで、南は薬師寺の更に南まで、そして北は日光とその奥地、ここ中禅寺湖まで広がっている。耕作面積は多いほうだが、しかし郡の大半は山だ。

 中禅寺が建立したとき、河内郡の山地から木材は採られた。その山地は麓の住人も入ることのできる入合い地だ。


 だが、中禅寺の修行僧たちは麓の住民達が入ってこられない修行場を欲しがった。そのために採られた方法が、隣接する山地である足尾の谷を、全く隣接していない安蘇郡の土地とする事だったのだ。

 他の郡なら麓の住人は入れない。隣接していないから安蘇郡の住人も入ることができない。

 完璧な侵入者封じの筈だった。


 そう別当は言う。


「されどここ暫く、絶えて無き事なれど、杣人が足尾谷に立ち入るようになりました」


 アキラのほうは、足尾という言葉に意識を奪われていた。


 一年以上前、いや、千年後か、アキラは足尾から中禅寺湖へと山歩きをしていた。

 記憶は曖昧だが、直前の記憶を繋げばそうなる。わたらせ渓谷鉄道、山歩きの装備、そして調べておいた路線バス時刻表。


 しかし、とアキラはちょっとした違和感に気づいた。


 足尾って、群馬じゃなかったのか。渡良瀬川のいちばん奥なのに。

 栃木の一番西の端が足利で、そして渡良瀬川は更に西から、群馬側から流れていた。そのいちばん上流が足尾だ。上流の先端はまた栃木に舞い戻ったことになる。


 足尾がもし安蘇郡ではなく足利郡だったなら。アキラは思った。

 足尾と言えば銅山。銅が採れれば銅貨が作れる。貨幣流通を復活できる。


「杣人どもの言うには、鬼の居なくなったゆえ入ることが出来たと」


 鬼という単語にアキラの意識は会話に引き戻された。


「鬼、と」


「古い話であります。足尾谷の奥に鬼が棲むというのは」


 杣人が安蘇郡の住人だと言うのも多分は口だけ、彼らはそもそも普段から山奥を住処と定める、所属不定の山の民だ。

 寺では足尾谷はもう修行の場から外れているため実害は無いものの、杣人の炭焼きがこれ以上盛んになるようなら、争いも仕方ないと別当は言う。

 争いとは勿論、実力行使だ。


     ・


 アキラの体力はその辺りで尽きてしまったらしい。

 翌朝起きると、アキラは風邪をひいていた。

 頭痛がひどい。寒気が全身を震わせる。


 寝たままほおっておかずに、衣をかけるとか、火鉢を傍に寄せてくれるとか、それくらいはして欲しかった。勿論勝手に寝落ちしたアキラが悪いのだが。


 頭がくらくらする。


 僧坊で粥を頂き食べると、帰らねば、と朧ろな頭で考える。

 その前に、足尾を見たい。


 だが、革服を着て革靴を履き、その上から藁沓を履いて、立ち上がったところでアキラは足をもつれさせた。


     ・


 朦朧とした記憶にあるのは、誰かの背中に負ぶわれて、ひたすら揺られていたことだ。静かに寝かせて欲しかった。


     ・


 次に気がつくと、薄暗く暖かい部屋でアキラは寝かされていた。体の下には畳、上には絹らしき衣が重ねられている。傍には火鉢と、そして子供が一人。

 子供はアキラが目を覚ましたの見て、人を呼びに行ってしまった。

 声が出ない。

 咳き込み、出てきた声はしわがれていた。


 いつのまにか麓の四本龍寺に運ばれていたらしい。アキラはどうも丸二日、目を覚まさなかったようだ。

 薬僧の見立てではアキラの症状は傷寒、もちろん風邪のことだ。


 この時代、インフルエンザはあるのだろうか。あってもおかしくはない。いや、あったら大変じゃなかろうか。スペイン風邪だったっけ、ヨーロッパで何百万人も死んだのは。

 咳が酷くないのは良い徴だと薬僧は言い、苦い湯を飲ませてくれた。少しとろみのある液体で、聞けば葛根(くずね)の湯だと言う。



 足尾か。


 渡良瀬川を遡ればたどり着ける。しかし麓は上野国だ。アキラはその山奥も上野国だと思っていた。

 もし上野国の土地なら、たっぷりと受領、藤原の定輔殿に欲望を吹き込まなければ銅山の採掘は無理だったろう。実際アキラは、その方向で足尾銅山の採掘がどうにか実現できないか、考えたことがある。

 ただ、それでちゃんと、良い事になるかどうかあまり自信が無かった。多分アキラの出る幕はその後一切無くなるだろう。それで鉱害や下流域の氾濫が起きるなら、やらないほうが良い。


 足尾は事実上の禁足地だった訳だ。それなら銅山が見つかっていないのもわかる。

 足尾だけでも下野国だというのは朗報だ。それは現場をコントロールできるという事だ。多分最初は、試験的に小さな坑道と精錬所を作らないといけないだろう。


 とすると、足尾までの道が問題となる。

 これは上野国司である藤原の定輔殿に話を通しておく必要があるだろう。それと、足利に隣接する、上野国山田郡の郡司にもだ。

 それに藤原の兼光殿にも。


 権利関係だけでも面倒くさい話だ。



 翌日には立ち上がれるようになり、稚児に手伝って貰って風呂に入った。


 翌日にはほぼ回復したと思ったが、薬僧の勧めであと一日だけ身体を休めて、翌日帰途に着いた。


    ・


 思ったより帰路ははかどらなかった。

 日光から田地を横切り広い森を横断し、次の郷に辿りつく手前で、アキラは一軒家に宿を求めた。

 一軒家の主人は石工だった。


 この辺りの石は軽く削りやすいと石工は言う。

 確かに石は気泡のような空洞だらけで加工しやすいようだ。白くそして軽い。


「この石、竈に使うと良かろうな」


「うまく使わぬと割れるがのう」


 少しでも湿りがあると割れると、家の奥を石工は指し示す。竈の下部に確かに石が使われている。

 この石は是非とも持って帰りたい。しかし、荷物にするには重過ぎる。

 アキラは石工に頼んで、五寸四方程度の石のごく小さな板を作ってもらった。とりあえずはこれで我慢だ。



 翌日は国庁屋敷に顔を出し、中禅寺の件を報告した。

 光衡殿はアキラの報告を聞くと、藤原の兼光に話せねばならぬな、と唸った。


「兼光に当たらせるしかあるまい」


 その日は国庁屋敷に泊まり、翌日足利へ帰りついた。


 思わぬ長旅となった。

 驚いたのは、清水川に橋がもう架かっていた事だ。


 いや、部材は作りはじめていたから、スケジュール通りならこうなる事は判っていた筈だ。トラスの一部は完成させていたから、あとはそれを複数連結するだけだ。

 模型はあったし、貞松は構造をよく理解していた。アキラの図面も読めるようになっていたのだ。驚く事はない。


 いや、まだ橋は完成していなかった。床板がまだ張られていない。

 しかし橋の構造材には既に、床板を固定するためのダボ穴が整然と開けられている。


 ダボ穴は、屋根を板で葺いた後に思いついた改良だった。

 楔を打ち込むための穴を鑿で四角に彫るより、大き目の錐、つまり木工用ドリルで丸く空けたほうが楽になる。そのためにアキラは、径二分の一寸の大錐を鍛冶屋に注文した。

 錐は木のフレームで垂直に支えられ、錐の長い柄には廻しやすいよう水平に飛び出したハンドルを持っていた。更に柄の頂部には壊れた馬車の車輪が取り付けられていた。これで慣性モーメントが増して錐がスムーズに廻るようになる。

 この車輪には誰もがびっくりした。こんな変なまじないものは聞いたことが無い、と見るもの皆言いあった。

 試運転はまぁまあ巧くいった。しかし二人がかりでよっぽど息を合わせないと、ちゃんと穴を開けるのは難しいだろう。



 橋の部材に綺麗に並んだ穴を見る限り、よっぽどダボ穴あけに習熟したらしい。

 トラスフレームはしっかり組み立てられ、その端は石の土台にちゃんと乗っていた。

 橋の幅は一間、トラスの高さも一間、実物を見るとこれはかなり大きい。


「今帰ったか。何ぞ遅れておるのかと心配しておったぞ」


 君子部三郎だ。この寒空に何をしているのか。


「それは吾の言う事ぞ」


 さっさと帰れ、クワメがこの5日えらく機嫌が悪くてな、屋敷の衆が、そう言うのをアキラは聞き流していた。

 アキラ抜きで、橋はここまで出来ていた。



 オレがいなくても、ちゃんと造れるんだな。

 オレがいなくても、ちゃんと廻っていくんだ。



 ……当たり前の話だ。

 アキラは正気づいた。アキラ様の活躍ひとつに皆がやんやと喝采するような事は無いのだ。

 大活躍を褒められて褒められて褒められる、そういう願望を持たない訳ではないが、アキラが願ったのは、アキラの知識が社会全体に受容されることだ。


 だから、目の前の光景は、完全に正しい。


 アキラはただ、自分の願望がどういう結果になるのか、判っていなかったのだ。

#36 土地相論について


 律令や格式はその解釈を法律の専門家である明法家がおこない、その事例を集令解や令義解、政事要略や法曹類林といった記録に蓄積していくことで様々な事例に対応していくようになりました。

 やがて時代が移り、律令が時代に合わなくなると、事例集のほうが事実上の法基準として適用されることになります。例えば土地の売り買いがされるようになると、それを禁じている筈の律令とは正反対の解釈をどこからか引き出して、現実に合う適用を明法家たちはするようになりました。そうして所有権は売買できなくとも、領掌、土地の利用権は取引できるようになったのです。

 山野を共有地とした律令も、その解釈では実際には住民が隣接する山野を占有利用することを許しており、土地利用において例えば近郷の住人が占有地を犯して資源を採ったということになれば、過去の占有利用を根拠として法解釈が下されることになりました。

 こういった争い、いわゆる相論はまず水源利用での争いが目立ちますが、十一世紀半ばになると、炭焼きにともなう伐採での資源枯渇や山野荒廃での相論が現れるようになります。

 資源枯渇は特に近畿では問題になりました。初期には共有地として使い分ける解釈も現実的なものでしたが、やがて明確な占有を認める解釈に変わってゆきます。

 これに伴い、荘園もその境界を山野に伸ばすことになり、国司への毎年の免税申請も廃れて、広大な自由管理農園へと変貌していきます。

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