#3 :1018年2月 風景
アキラは今年が西暦1018年だと考えている。
今年は寛仁二年だと聞いた。しかしこういう元号を聞いてもさっぱり判らない。
干支のほうが役に立った。今年は戌午だという。
十二支なら知っていたが、六十干支というのはこの過去に来て初めて知った。いやなんとなく言葉は知っていたが、どういうものか知ったのはこの半年のことだ。
六十干支とは十二支かける五、なのだが、実際には十二支を甲乙丙丁戌己庚辛壬癸の十種と足し合わせる、というよくわからない代物だった。
ネズミに甲、牛に乙、虎に丙、そんな具合に漢字を組み合わせるのだが、甲乙のほうは10種しかないから干支の最後、犬と猪は余ってしまう。だから犬には再び甲を、猪には乙を組み合わせる。
そうすると甲乙の一周ごとに2つづつずれが生じる。このずれが元に戻るのは12割るの2、つまり6周後になる。
この六十干支とは10かけるの6なのだ。
六十干支での年表現は60年で一周するから、歴史として前後60年しか意識することができない。しかし人の意識と言うのはおおよそそれ位だろうから、便利と言えば便利なのかもしれない。
勿論アキラにとっては不便きわまりない。
西暦2017年はトリ年だった。それだけは憶えている。六十干支までは判らない。
しかし六十干支で2017年が何だったか判れば、今年が何年か推定できる。
ひのえうま、という言葉を覚えていた。たしかひのえうま生まれは忌まれて、その年の出生数が減ったとか。たしか1960年代だったか。
ひのえうまとは丙午のことだ。戌午は丙午の10年後になる。
丙午はウマ年だからトリ年とは3年違いだ。ひのえうまは2017引く(12かける X 足す3)になる。 X に1を代入すると2002年、これは違う。X が2だと1990年、これも違う。
X が3で1978年、これも違う。X が4で1966年。これだ。
干支が丙午から4周違うと甲午、この3年後は丁酉だ。
さて2017からおよそ1000年を引こう。手掛かりは平将門の乱から六十干支ひとまわり以上経っていること、それくらいしかない。
2017年の960年前も六十干支は丁酉に違いない。1020年前もだ。
2017年の960年前は1057年、戌午とは21年離れている。1057年の21年後は1078年、これはちょっと平将門の乱から離れすぎている。
2017年の1020年前は997年、その21年後は1018年だ。こちらなら平将門の乱から離れすぎない。そしてその半年前は当然1017年になる。
ちょうど千年前。
これが偶然などであるものか。
ただ、単に千年前かというと、ちょっと怪しいとアキラは思っていた。
問題は渡良瀬川だ。
確か、足利の街のど真ん中を渡良瀬川は流れていた筈だ。
アキラは21世紀の足利には行ったことは無い。ただ、館林や太田にあるメーカーを廻るときに、電車の窓から眺める景色に過ぎなかった。
会社勤めをしていた頃は、大学在学中に車の免許をとっておくべきだったか、今から取るべきかと、電車の中でよく悩んだが、その悩みはこの千年前の世界に来ることで自動的に解決された。目下のアキラの悩みは馬の乗り方である。
さて、確かにここは足利だと聞いた。
だが渡良瀬川は今存在していない。渡良瀬川に当たる所を流れているのは清水川と呼ばれていた。水量も随分と少ない。更に南に太日川という、聞いた事の無い結構な大河が流れていた。
そういう訳で、平行世界か何かではなかろうかとアキラは内心疑っていた。
千年前の風景で印象的なのは、田んぼの少なさだ。
21世紀の日本は多くが宅地や他の用地に転用されてはいたが、基本的に農地に出来る場所は全て農地にした事のある世界である。
山奥には棚田が続き、平地は一面に田んぼで、山のほう残りが畑になっているというのが印象だった。
千年前に来て判るのは、それらは後世、江戸時代とかその辺りの開墾によるものだという事だ。
関東平野は沼と森だった。
そこは決して田んぼの広がる沃野では無かった。
足利の田んぼも、その規則的に区切られた様子は印象的だったが、それは平地全体を覆っている訳では無かった。しかもその半分は荒れ果てて沼か藪か、潅木が茂る有様だった。
三百年前、条里制の施工は本当に巨大事業だったに違いない。しかし以降、大規模な農地開発は行なわれていないのだろう。
アキラは日本史はあまり知識として憶えているわけではない。
墾田永年私財法は結構しっかり覚えているとか、そんな程度である。確かもうかなり荘園が広がっている頃合で、でもまだ院政期ではない、そんな時期のはずだ。
意外だったのは、この時代、未だに律令制のあれこれが結構頑強に残っていることだ。
律令制の執行官である国司は、4年ごとに選任されて都から地方へやってくる。国司の治める国はおよそ千年後の県に相当する。ここ下野国は栃木県とだいたい同じだ。
耕地の大半は国司の元に税を納める。荘園でも国司に税を納めるのだ。
ただ今は農民一人ひとりに田を割り当てる口分田ではなく、集落ごとに税収を請け負う名主が税をまとめて納入する、名田という制度らしい。
荘園足利荘は足利郡まるごとを含んでいたが、その中に集落は5つしか無い。集落人口を600人とすると、3000人ちょっとしかいない事になる。
下野国に郡は足利郡を含めて9つ、郡ひとつあたり人口を3000人と仮定するなら、この地方の人口は三万人ほどしかいないことになる。
21世紀の栃木県の人口がどの程度かは判らないが、ざっくり百万人と仮定しよう。
21世紀の日本の食料自給率は確か40パーセントほどだったか、つまり乱暴に言って21世紀の耕地面積は40万人くらいは養える筈だ。
今耕地面積が3万人しか養えないなら、耕地面積は21世紀の13分の1という事になる。
流石にこれは乱暴に過ぎる推論だ。肥料や品種改良を考慮していない。
しかしざっくり、耕地面積が十分の一くらいと見積もるのは間違っていないだろう。
この荒廃の原因は、17年前にあったという流行病、恐らくは天然痘のせいだ。
子供と大人たちを分ける最大の違い、それが顔や手足に残るあばたの醜い痕だった。酷いものになると本当に目を背けたくなるような醜さで、よく生き残ったと言いたくなる。子供たちにはそれが無い。
子供たちの数の多さは驚くほどだが、それ以上に大人が少なく感じるのは、17年前に相当数が死んだせいだろう。どのくらい死んだのか、推定するのも恐ろしいくらい死んだ筈だ。なにせ聞いた分をざっくり推計すると、人口の半分になる。
アキラは天然痘が撲滅された世界からやってきた。
天然痘の予防接種を受けた覚えはない。おそらく、アキラの生まれた頃は天然痘の予防接種なんて完全に不要になったと判断されていた筈だ。
アキラは自分がどのくらい予防接種を受けていたか、覚えていない。
風疹は受けていたような気がする。あとジフテリアとか。水ぼうそうはどうだっただろうか。
アキラは、自分がこの世界の疫病に無防備に晒されている事を意識していた。
確実にまた、天然痘は襲ってくるだろう。
大人たちの肌の醜いあばたを見る度に、アキラは背筋が凍る思いがした。なんとかしなければ。
とりあえず牛が飼いたい。種痘は確か牛を使うんだったっけ。
牛が買いたい理由は他にもある。最大の理由は動物性タンパク質源としてだ。
この時代、肉食は殺生につながるからとよく思われていない。勿論武者たちは肉食をしていたし、狩りで殺生をしていたが、だからといって肉食を常食と出来る訳ではなかった。
食用牛など飼われていないし、そもそもいかなる食用家畜も飼われていない。
アキラは既に動物性タンパク質の欠乏に晒されていた。明らかに筋肉の量が減っているように思う。
川魚の分量で補えるものではない。たまに屋敷のものが狩ってくる兎や鳥肉では足りない。
だが山野は鹿で一杯のように思えた。足利の後背地の山々が炭焼きの為に丸裸になったのは結構昔の筈だったが、今まで山林の復活が遅れている理由のひとつは間違いなく、鹿が樹木の若芽を食べてしまうからだろう。
そういう訳でアキラは主に鹿目当てで罠を設置していたが、未だうまく罠が働いたことが無かった。
肉が駄目なら、あとは牛乳だ。牛が飼われているのだから、牛乳も得られる筈だ。
残念ながら屋敷で牛は飼われていなかったから、今はまだ牛乳を得ることはできない。しかし近いうちにアキラは牝牛を買うことを強く決意していた。
他に勝手にやってることと言えば、屋敷の裏手の山に煉瓦を焼くための窯を作りかけている事くらいだ。
欲しいのは釉薬のかかった器だ。
屋敷で使われているのは素焼きの陶器ばかりで、防水はあまり良いとは言えない。釉薬のガラス質は防水を提供してくれる。そうすれば水や液体を長期間保存することができるようになる。
ちゃんと栓をすれば密閉もできるだろう。食物の保存性は飛躍的に上がるはずだ。
この時代既に釉薬のかかった陶器はあるが高級品で、下働きが食品の保存に使うという訳にはいかない。それに売ることが出来れば収入になる筈だ。
だがその為には高温で陶器を焼ける窯が必要で、それは土を掘っただけの素焼き用の窯では不十分だ。
窯の為に煉瓦が必要だったが、煉瓦の為にそれを焼くための窯が必要だった。これをアキラは日干し煉瓦で作ってみた。
山の赤土とばらした藁束を窪地で混ぜて水でこねて、適当な大きさに固めた塊をひたすら作り、数が出来たら窪地に積み上げて柴で覆って火を掛ける。素焼きの土器の作り方だがこれで最低限の煉瓦ができたと思う。
これを積んで、隙間に粘土を詰めて、炉を作った。今悩んでいるのは通風孔のつくりだ。この時代の窯には通風孔なんて見当たらなかった。
実はロケットストーブも試してみたのだが、火勢はまったく勢いの無いものしか作れなかった。この低温素焼き煉瓦では断熱材として性能不足なのだ。
ちょっとアキラは自分の設計に自信が無かった。通風孔はきっと要るに違いない。しかしどうしたらいいのか。ふいごでも作るべきか。
それ以前に、陶器を作るためのろくろでアキラは躓いていた。
できれば蹴りろくろが欲しかった。座った状態でろくろの軸を蹴ってまわす蹴りろくろは是非とも欲しかったが、この時代には蹴りろくろは無かった。ろくろは手で廻すものだった。
じゃあ作ってやろうと思ったまでは良かったが、どう実現したものか。
そんな事を考えながら、足利の山野を巡っていたら、仕掛けていた罠のひとつに、小鹿が掛かっていた。
はじめての成果である。
屋敷からたっぷり5キロ、柴木の林を抜けて、立木としてようやく蘇りつつある林を更に抜け、荒涼たる土砂崩れにずたずたにされた草原に出るあたりだった。
丁度そこに弓矢の罠を仕掛けていたのだが、矢の後ろに細い麻縄を結わえておく改良は上手く働いたようだ。
矢は小鹿の胸を射抜いていたが、まだ息はあった。
厄介だな、そう思った。矢傷は深く、刺さった矢を抜いても、暫くすればこの小鹿は息絶えるだろう。
これでは「もう罠にかかるなよ」等と言いながら逃がしてやる、なんて事はできない。小鹿の死は既に定まっていた。
しかし、今はまだ生きている。
つまりアキラは自らの手でこの小鹿を絶命せしめねばならない。
アキラはとりあえず矢を抜き、弱々しく暴れる小鹿の足を麻縄で縛った。小鹿は軽く、たやすく運べそうだ。
罠を再び仕掛け直すと、小鹿を担いで歩き出した。目指すは屋敷裏山の隠れ作業場だ。
背中で小鹿は弱々しくあがく。それは本当に痙攣程度にまで弱くなっていって、アキラに強烈な罪悪感をもたらし続けた。しかしもうアキラはやってしまったのだ。
作業場に小鹿を吊るし、首を落とそうとして上手く行かず一度降ろして首を切り落とし、再び吊るして血抜きと称してしばらく呆ける。
ここまでアキラはちょっと離人症めいた現実感の喪失を体験した。
午後の陽がゆっくりと翳る中、アキラは正気づいた。このまま小鹿を吊るして放置しておく訳にはいかない。
血の匂いは何を呼ぶかわからない。小刀を使って皮を剥ぎ、肉を切り分ける。
藁筵の上で肉に麻縄を巻いて縛り、棒から吊るす。作りかけの煉瓦焼きの炉のてっぺんに棒を差し渡して、炉の中に縛られた肉を吊るす。
これは炉のとりあえずの使い方として一応考えておいたものだ。
炉の中に柴と細工カスの木片を盛って、その上にぼろ麻布をばらした物を載せる。更にそのばらした麻布の小片を、小さな筒から取り出した棒の先に盛る。
小さな筒はファイヤピストンだ。
外側の筒は竹、ピストンは樫の枝を竹の穴に綺麗に嵌るまで削ったもの。更にピストンの先のほうには麻糸を巻いて軽く膠で固めている。
冬の間に自作したファイヤピストンは、着火を実演してもあまり皆には感心してもらえなかった。火打石のほうが確実とはまぁ道理だろう。
実はアキラはあまり確実に着火に成功したことが無い。ただ今回は一発で上手く行った。
手のひらでピストンを奥まで叩き込み、即座にピストンを抜く。
ピストンの先を小枝の先でほじって麻布クズを引き出し、軽く息を吹きかける。
小さく火が付いているのを見る。手のひらで囲ったまま炉の中の麻布クズの上に落とす。再び息を吹く。そううっと。
そうして火は着いた。火は襤褸を燃やし、柴を燃やし、木片に火をつける。
倒木を解体して作った薪を炉に組み積んでいく。やがて煙がもくもくと上がり、もう大丈夫だろう。
しばらくこれで煙で蒸せば、きっと燻製が出来るに違いない。ただ、どの程度やればいいのかはアキラには全く見当がつかない。
そう、やはりこの時代誰にも燻製なんて知識そのものが無いのだ。問題はアキラにもイメージ以上の知識が無い事だ。
まぁ試行錯誤は仕方ないと諦めている。
さて、日が落ちてしまう前に皮と骨をどうにかしないと。と言ってももう時間が無い。窪地に埋めて土を被せる。あとは後日だ。
炉の焚口を煉瓦と石で塞ぐ。動物に炉に入られるのは嫌だ。炉の上も枝を被せて塞ぐ。
屋敷にたどり着いたのは陽がとっぷりと暮れた後だった。
今日のような日の為に作業場に常備していた薪を背負っての帰還だ。薪置き場に薪をいて、下屋で手足を洗っているところに尼女御に出くわす。
彼女は衣の裾で自分の鼻を押さえる素振りをした。
「生臭が匂いますよ」
「……駄目ですか」
尼女御は尼なのだから勿論殺生を嫌う。輪廻転生を信じるこの時代の熱心な仏教徒と同じく、彼女も殺生を穢れとして強く嫌った。
ただ、彼女も武者の家に仕える身である。人の殺生には目をつぶるそうだ。
「ちょっと河に行ってきなさい」
どういう意味だ。そこに尼女御は意味ありげに微笑んだ。
「生臭を誤魔化すには別の生臭ですよ」
#3 耕作面積について
アキラはフェルミ推定を行なうにあたって、間違った数字を採用しています。
21世紀の栃木県人口はおよそ200万人、対して当時の下野国の人口はおよそ四万人程度はあったと考えられます。但し、大疫病から17年しか経っていない事を考慮する必要があるでしょう。長徳四(西暦998)年から長保三(西暦1001)年の天然痘の大流行は人口動態に大きな影響を与えた筈です。
筆者は「和名類聚抄」に見えた郷名が消え、代わりに中世以降の農村の姿が現れるのを、疫病のせいだと考えています。人口減によって各郷に課せられた税を納めることが困難となり、郷民全てが逃散する事態が頻発したのではないかと思っています。
大疫病の時期が過ぎ、院政期に大々的に行なわれるようになった荘園開拓は実質、旧来の農村の再編成に過ぎない物だったでしょう。
「和名類聚抄」によると全国の水田耕作面積は86万町、これが20世紀、第二次世界大戦後の値でおよそ600万町と、千年でおよそ7倍に耕作面積は増えたことになります。
更に田の多くは荒廃していました。荒廃した田地を申請すると税をまけてもらえる制度を悪用して、田の七割が荒廃しているとした受領もいたほどです。
アキラの推定は間違った数字を用いていましたが、おおよそ近い値を出していたと言えるでしょう。