#27:1018年8月 堤防
「川が荒れるのは、山から砂が運ばれ来て川の底に溜まるからです。
これで川より周りが低いことになれば、川の水は低きに流れて荒れることになります。
例えば下名草の荒田は、堀が名草の川より水を取れなくなったゆえに荒れたのでしょう。川が変わり、水が取れなくなったのです」
嵐の中、いい機会だからとアキラは頼季様らに治水の概念を説明した。
尼女御や池原殿、信田小太郎らがアキラの周りを囲む。
「では、川の底を攫い、砂を取ってしまえば良いのか」
「そうです。しかしもう一つ、やり方があります。
川の脇に土を高く盛るのです。さすれば川の周りが高いのですから、川の水は低きに流れるという事がありません。
これは、川の底を攫った砂で行なえば都合よかろうと」
「ふむ」
頼季様は頷くと、池原殿に意見を求める。
「要するに川を堤とするのですな。
川の長きを全て堤なすのは難しいでしょうが、荒れるのが常のところに堤置くのは良い考えでしょう」
池原殿は要領よく現実の工事の規模に翻訳してくれた。
「糧の乏しき時期ゆえ、百姓どもは喜んで集まるでしょう。もし二箇所でも堤置ければ、流れる田が半町守られて、支払いと収の割が合うでしょう」
米があればやりたい所なのですが……と池原殿。
一同は互いに顔を見合わせた。足利荘の食糧問題はまだ解決していない。
「鹿をとって食うという話なら、諦めたほうが良いな」
信田小太郎は、俘囚たちの弓の腕前のほどを、そう表現した。
アキラが作った弓を使って、俘囚たちの弓の稽古が始まっていたが、なかなかうまいことは行かない。
今は山の鹿を狙わせているそうだが、その標的はなかなか難しいのではないだろうか。
「作らせておる猫車、売るアテは出来たのか」
頼季様にそう聞かれて、アキラは正直なところを答えた。売って食糧を調達しようと余計に作った猫車だが、全く買い手は見つかっていなかった。
そもそも販路が無い。足利の北は山で西は大河、東隣の安蘇郡は藤原の兼光の本拠、南の簗田郡は兼光の息子の拠点、ちょっと訪れていって売り込むという訳にはいかない。頼義殿は武の備えがあればと言っていたが、武力を背景にしてにこやかに売り込むというのも変だ。
土木工事の当事者にしか売れないのも問題だ。要するに権力者にしか売れない。しかし権力者は治水工事に興味を持っていない。
春先に、食糧問題に何とかなると答えて以来、アキラの最大の焦りは大きくなるばかりだった。
アキラはこれまでに色々作ったが、大いに役に立ったと言えるのは板ぐらい、だが都からは食糧問題を解決できるようなモノは持ち帰れなかった。頼季様も尼女御も気にしていない風だったが、アキラは気にしていた。
秋の収穫の時期にお披露目する予定だった農機具を、先に出してしまおうかとも考えた。材料は揃うし作るのも比較的楽だ。しかしデモンストレーションが無ければ絶対に売れないだろう。そしてそれは収穫の時にしか出来ないのだ。
となると猫車しか無いし、デモンストレーションするしかない。
一つアイディアはある。
やるしかない。
・
「川に堤をして更なる洪水の害から田を守る、その話の筋はわかりましたが、その上なお目代の仕事がありますかな」
寒川の郡司がアキラにぶつくさ言うが、無視だ。
下野国寒川郡は足利から離れた小さな郡だ。わずか4郷しか無いが郡域全体が豊かな水田だった。
その豊かさの源はすぐ傍を流れる思川だ。
先日の雨で破れかけた思川の自然堤防を盛り土して直し強化する、そのために地元の寒川郡の百姓たちが駆り出されていた。
もちろんタダではない。日当一升は刈り入れ前のこの時期に是非とも欲しい稼ぎだ。二百人の募集人員はあっという間に埋まってしまった。
これは郡の負担だった。郡司には洪水による減産の可能性を言い含めて、ようやく納得させることができた。
そもそもこの時期には、食糧の乏しくなった百姓たちに何らかの労役をさせるのが普通であり、国司の命令の書類もあって説得に障害は少なかった。
ただ、アキラが作業現場に張り付くのは、それは全く別の話だ。
「見てみよ。猫車があればこの労役も容易きというものよ」
アキラは郡司に眼下の光景を見るよう促す。
アキラが貸与した猫車三台が朝から大活躍している。猫車の数が労働者よりずっと少ないから、土砂を運ぶのに猫車を使うグループと、使わずもっこを担ぐグループの作業効率の比較は容易だった。
明らかに倍以上作業が早い。そして更に作業の工夫が進むにつれて作業効率が上がってゆく。ゆるいスロープがつくられ、運搬路の穴ぼこに小石が詰められる。
国司に報告するためと作らせた作業者名簿の作成時間のロスも、またたく間に取りかえされる。
その日の作業が終わる頃には猫車は引っ張りだこになった。もっこを担ぐよりずっと良いのは使わずとも見れば判る。
猫というのが判らないから説明しろと言う奴もいたが、小さな虎だと説明するととりあえずは納得してくれた。虎も皆良く知らない訳だが、流石に虎について教えてくれと言う奴はいない。
作業は3日を予定していたが2日で終わりそうだった。
アキラはその間に付近の測量を済ませた。いつも測量を手伝わせている俘囚、上名草の小金部岩丸に棒を持たせて手伝わせて、川と道沿いだけやってしまった。
ここは思川を渡る浅瀬に近く、渡河を阻止する際には防衛線にできるかも知れない。
アキラは武蔵で紛争の可能性について言われて以来、そういうことを良く考えるようになっていた。
作業者名簿は寒川の郡司が持っておくことで決着した。そもそも作業者への支払いの為に必要な名簿だ。名簿は郡司の手から離れることは無かった。それでいい。
名簿から、各郷からの作業者の人数だけを数えて記憶する。寒川には4郷しかない。
測量をまだ続けている小金部岩丸のところへ行き、測量盤の上で予備の紙に、記憶した人数を書き出しておく。
寒川の郡司の得意技は書類改ざんだった。
アキラは国庁の過去の書類でその辺りをたっぷり研究する事が出来た。
郡司には自分専用の田んぼ、職分田が与えられることになっていた。それが律令制における給料代わりだったのだ。普通、郡司の強い権力からすれば取るに足らない規模のものだ。だが免税である点に注目すると、強欲な奴には職分田は魅力的になる。
どうやら寒川の郡司は職分田を拡張したようだ。そこで働かせるための労役が他の雑役名義から流用されていた。
推測だが、郡司は思川の氾濫原を開墾したのではないだろうか。狭い寒川郡では開墾できる箇所は限られる。
氾濫原では、洪水は怖いだろう。
アキラは猫車を工事現場に放置した。勿論、盗る奴は厳罰に処すると宣言してのことだ。
翌日、案の定一台盗まれていた。
盗まれたのが一台だったのは意外な気がした。一台減った現場は盗んだ奴に対して不満タラタラだ。
寒川の郡司の作業者名簿では今日も全員が揃っていたが、昨日作ったメモの人数合計からは一人減っていた。持ち逃げは手っ取り早い盗みの方法だ。
作業者たちに訊いてどの郷の誰が居なくなっているか確認すると、寒川の郡司をアキラは一瞥し、その作業者の出身郷へ向かうと宣言した。
そこにちょうど、5騎ばかりの直垂姿がやってくる。鎧こそ着込んで居ないが、刀を帯びて背中には弓と矢筒がある。
5騎は刀を与えた俘囚頭たちだ。猫車の盗みが発覚するであろう朝方にやってくる手筈だった。アキラは彼らと合流すると、郡司を連れて目的の郷へ向かった。
見るからに豊かな郷だった。
大きな、あれは楠だろうか、茂るのが遠くからでも見えた。
郷の周りには堀のような水路が巡っている。いや、堀なのだろうなぁ。
周囲の田は既に水を落とし、まだ青い稲穂は重く垂れていた。
アキラは郷に入ると、賊よ出て来いと叫んだ。
「国府の財物を盗みし賊はどこか。隠し立てする者も同じ賊ぞ」
やがて消えた作業者は郷へ帰っていないことが判った。隠れているか、それとも別のところに売りに行ったか。
アキラは長い刀を抜いてその研ぎ上げた刃を必要以上にぎらぎらと光らせ、十分に郷の住人達が震え上がったと見たところで、弁償すれば当座の罰は免じてやると発言した。
「五十斗だ」
あることは判っている。
良田の多い寒川郡でも、更に良田の多い郷である。
強制押収だ。
長くて切れそうな刀を振り回すアキラはちょっと気分が良くなってきた。
「差し押さえよ!」
郷司の校倉を開けて、俘囚たちは馬車に手早く米俵を積んでいく。馬車には一度に全部は積みきれず、これは数回は往復することになるだろう。
「そもそも、この堤仕事が終わればあの猫車、五十斗で下げ渡す筈だったのだがな」
罪人が出てつまらぬ話になった、とアキラが言うのを聞いて郡司が、それは今でも、でございますか、と聞いてきた。
アキラの思う壺だ。
寒川の郡司がこの盗みに一枚噛んでいる事は明白だ。多分猫車を盗んだ奴は今頃郡司の屋敷にでもいる筈だ。
このまま猫車がどこからか見つかれば、それは盗品に間違いない訳で、それは面倒なことになる。
だが正規に購入したものが別にあって、それかもしれないという話になれば違ってくる。
もしアキラがその気になれば、郡司の屋敷に今から押しかけることも出来る。郡司はアキラの言葉の意味をどこまでも深読みすることができた。
郡司はどうしても、盗品をごまかすために追加の猫車を手に入れたいだろう。
まぁ、いくらで買っても元は取れる筈だ。米五十斗は適価だと思う。
なんと郷司は残り2台の猫車も買ってくれた。
足利荘の食糧問題を解決しておつりがたっぷりくる売り上げだ。
・
支払いの原資を得て、足利荘の堤防工事は急ピッチで進行した。
国司による工事の命令書類は予め手配していた。猫車の在庫が全部はけたお陰で、手持ちの猫車は新造したものを合わせて2台しかなかったが、次の台風には間に合った。
鍛冶屋への米の貸付も無事できたし、俘囚たちの嫁予定者の実家に渡す米も準備できた。その上蓄えもできた。
屋敷の校倉に余りを収めると、これは新しい倉を作らねば今年の収穫を収める場所が無い。
・
台風の風雨吹きすさぶ中、屋敷の母屋でアキラは池原殿と用水路案を練り上げた。
十町の田を潤す二筋の用水路案は、その工事の日数の見積もりまで終えていた。
そこでアキラはもう一つの案を見せた。あと三尺高いところから水が引ければ、灌漑できる田の面積は倍になる。用水路の工事量はさほど変わらない。
「しかしその三尺の高さ、どうする。人手で汲み上げるのか」
「水車を使いましょう」
その言葉に池原殿の顔は渋くなる。
この時代、水車の名前だけはある程度は知れていた。失敗の顛末としてだ。なんでも宇治のほうで水車を作ったが廻らなかったそうな。
「これは、作ってみよと言うしかあるまい。うまく動けば考える」
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水車は丸く作る必要が無い分、馬車の車輪よりはずっと簡単だ。
量産されている猫車用の端材で材料の半分は賄えた。残り半分をアキラはヨシツグと作っていく。貞松には軸の加工を頼んでいた。
屋敷で仮組みして、軸周りを調整する。雑に作った分軸周りのバランスが適当だ。アキラはあちこちを削ってバランスを整えた。
水車を据え付ける目的地は、小川が谷間から平地へと出て行く、ちょうど境の辺りだ。小川の横に、水車の幅と同じ幅の溝を掘り、そこに水車を据え付ける。
水車の片側の側面には小さな箱が幾つも突き出していた。箱の中は水車の側面を貫通した穴で水車の羽根側と繋がっていた。
水車の側面に木の樋が設置され、水を流す準備が整うと、溝の上流を掘って小川に繋ぐ。小川の増水した水が溝に殺到し、水車に勢い良く当たる。
しばらくして水車はゆっくりと廻り始めた。
水車の水流を受ける板の反対側はショベル状になっていて、水車が回転して上部まで来たところでショベル内の水が側面に空いた穴から箱へとこぼれる仕組みだった。
水車の上辺あたりで箱から細い水の筋がこぼれ流れ落ち、木の樋に注がれた。次々に箱から水が迸る。
これまで車輪を幾つも作ってきたアキラだったが、水車の一発成功は流石に嬉しい。
今水車で汲み上げた水は、流すべき用水路が無い現在、木の樋から再び小川に戻されていた。
さて、このまま動かして、どのくらい不具合が出てくるか。
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アキラの水車は10日もしないうちに各所に破損を生じてしまったが、水車というアイディアの有効性は証明できたのだ。春の本稼働までにちゃんとしたバージョンを作れればよい。
アキラの水車は近隣の百姓たちの注目を浴びたが、だが、もう刈り入れ時だ。
誰も彼もが忙しくなる季節がやってきたのだ。
順調に中世の蛮習に染まってきています。
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#27 治水について
日本における河川治水は、伝承によれば四世紀末~五世紀初頭、仁徳天皇の11年に淀川東岸に築堤された茨田堤に遡ります。全長20キロのこの長大な堤防のほか、この時期から河川堤防が主に淀川流域で作られるようになります。
その後山城、摂津、河内といった淀川流域では他の河川にも堤防が施工されるようになります。他の地域でも河川堤防は、例えば遠江国荒玉川の堤防が修理された記録などがあり、存在はした筈ですが、記録は多くありません。
やがて記録に出てくる新規の河川治水は、新水路開削だけになります。堤防は修築だけ、あとは閉塞した河口の再開削が出てくるのみです。
関東では、例えば8世紀に藤原久須麻呂が鬼怒川に全長3キロの新水路を掘って二千町分の水害被害を防ぐべく報告しています。この河道付け替えの成果は劇的で、これが鳥羽の淡海と呼ばれた沼沢の水位低下、更に低湿地の開発に繋がる事になります。
その後9世紀になると堤防の修繕も減っていきます。治水の主体となるべき国司の受領化に伴い、治水事業は任期四年の受領に益の無いものとして無視されることになります。
結果として河川治水は自然堤防に頼るのみとなり、上流の山林の伐採の進行に伴って河川はその氾濫と蛇行を激しくしていきます。河川は周囲の農地を侵食し、周囲に幅広い潅木の茂る荒地を持つようになったと思われます。
洪水のあとの復興も、貯水池や用水路の修復が記されるのみで、河堤の修築は現れることがありません。ただ、例えば茨田堤は鎌倉時代の修築があったことが発掘によって確認されています。
作品の時代、関東において治水は遠い昔の話であり、記憶するものもいません。
次に本格的な治水工事が行なわれるようになるのは戦国時代、戦国領主が領地に統合された権力を振るい、利害関係を統合調整できるようになったことが大きかったことでしょう。石高制への移行も関係あったかも知れません。