#26:1018年8月 南行
上野の朝はまた霧だった。
池原殿の実家を訪れた翌日の朝、河の渡しで舟に分解した馬車の部品を積み込む手伝いをしてくれると、池原殿は馬に乗って帰ってしまった。
本当は鎌倉までついてきて欲しかったのだが仕方ない。この時期の田堵は忙しい。足利の田んぼは水周りで今ちょっと大変なのだ。でも池原殿の実家の話なのだからちょっと誰か付いてきて欲しかった。
代わりにアキラは手紙と大きな重い箱を受け取っていた。箱の中身は粉炭だ。
鎌倉に届ける新しい馬車は貞松の手で完璧に仕上げられていた。
車軸の構造は以前作ったものとは全く別物になっていた。新しい馬車の車軸は回転しない。車輪のハブが直接軸受けになっていた。
車軸は、これは軸というのはもう違うだろう。角棒の端だけが丸棒状に加工されて、ここに車輪のハブが刺さることになる。
角棒からは肋材が飛び出して、竹サスペンション改め車弓がそれを抑えて荷重は分散される。サスペンションの構造は簡単かつより大きな荷重に耐えられるようになり、作るのも容易になる。
車弓という名前は貞松がつけた。簡潔な良い名前だ。
分解も楽になったし組み立ての精度も良い。細い板橋を渡るための橇も最初から装備できるようになっている。消耗品である車弓の替えまで付いてきていた。
今回渡しには船賃として特別に布を奮発していた。利根川の河口、葛飾まで客はアキラだけだ。
春先に舟に乗った時に降りた地点を昼頃過ぎる。夕方に舟は栗橋の渡しに着いた。
先月やってきたのと同じ場所だが、あの時は太日川の側だった。今回は利根川の側からの利用になる。荷物を舟に置いたまま上陸して宿を求める。
今回アキラは蚊対策として、足を突っ込む袋と、頭を突っ込む袋、双方とも麻の粗いものだが用意していた。足の袋に注目されることは無かったが、流石に頭に変な袋を被ると宿の同じ部屋の者たちが少し騒がしくなった。
構うものか。
アキラは手の対策を忘れていた。
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この時代の利根川は東京湾に流れ込んでいる。それまで川は氾濫を繰り返し、川道をうねらせてきた。アキラはそのうねり、屈曲を身をもって体感していた。
とにかく川がくねっている。川のS字カーブがいつ終わるとも知れず続いている。
ここはどの辺りだろうか。もしかすると千年後に自分の住んでいた埼玉県南部あたりではなかろうか。しかし周囲に山は無く、地形はまったく見当もつかない。
葛飾に着くとアキラは鎌倉近くまで乗せてくれる船を探し始めた。だが、そんな船便は存在しないという。その日は徒労に終わり、翌日も徒労に終わるかという頃、アキラは漁民の舟に乗せてもらうことに成功した。代償は布一反だった。
翌日一日かけて、見覚えのある海岸に降ろしてもらうことができた。
そこで荷物を下ろして、とりあえずアキラは人を呼ぶべく歩き始めた。
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鎌倉の屋敷で歓待されながら、粉炭を使った塩作りの成果報告をアキラは待った。
今回、上野のほうでは粉炭を、箱一杯布半反という価値付けをしていた。運搬コストを将来はざっくり布半反に押さえるのが理想で、そのために舟にはあの箱を複数積むことになるだろう。
つまり箱一杯の粉炭の原価はここ鎌倉では運搬コストを足して布一反程度となる。これが薪より安くつくかが話の成立するかどうかの要点となる。そのためには実地に試すしかない。
また、それで採れた塩の量も問題となる。布一反よりも価値が大きくなるような量が取れなければお話にならない。
実際には布二反が取引成立のラインだとアキラは考えていた。それなりの利幅が取れなければ働くだけ損になる。
馬車の扱い方、整備の仕方のレクチャーは思ったよりスムーズに事は進んだ。
相手が雑色数人がかりだったこともあり、試しに馬車を走らせに行った連中を待つ間に、馬車の作り方の議論にまで話は進んだ。
問題はやはり車輪の製造だ。アキラは蒸気で木を曲げる方法について説明した。
そう、湯で木を蒸して、少しづつ、一日一日少しづつ曲げていけば。しかし、アキラがまだ自分では試したことが無いと自供すると、そこで話はお開きと言う雰囲気になってしまった。
丸一日経っても、海岸のほうからは知らせは無く、アキラは周囲の散歩に出かけた。
千年後の鎌倉と違い、ここには古都という雰囲気は全く無い。ただの田舎である。寺の数も少ない。千年前から存在する数少ない寺の一つ、長谷寺にはこの時期当然ながら大仏は見当たらない。
松とすすきの生える山に登ると鎌倉の全景が一望できる。浜には塩田らしい区切りが見える。
鎌倉の田の面積は足利の半分ほどだろうか。平地面積もだが水の量がきつい。半島の根元で海が近く、灌漑は湧き水と溜め池が頼りだ。
山を越えた向こうは荒地だった。低い窪地にも田は無い。農業で今後豊かになろうと言うのは難しいだろう。
塩作りに真剣になる訳だ。
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屋敷に帰ると、直方殿が待っていた。
「浜へ来賜れよ」
訊けば粉炭の扱いに困っているらしい。
浜の大勢は粉炭の着火に手こずった挙句、粉炭は使えないという事で一致したらしいのだが、ただ直方殿がアキラを呼んでこようと主張したらしい。
浜には海岸線に垂直に溝が掘られ、溝で区切られた浜辺には黒っぽい砂が盛られていた。ここの砂は鉄を含むのか。これまで砂浜の砂の色なんてアキラは気にしたことも無かった。
砂を集めて素焼きの壷に入れている。底の尖った、弥生式土器みたいな壷だ。ひととおり砂を入れると上から海水を入れ、棒で中をかき混ぜる。
しばらく置いたものを、その上澄みを鉄釜に注ぐ。注ぎ終わった壷は中身の砂をもとの浜辺に戻し、薄く浜辺に広げると、海水を上からかける。
どうも何度も海水をかけるようだ。海水はすぐに蒸発して、塩が砂につく。この塩を砂ごと集めて海水に溶かして、濃い塩水を作っていた訳だ。
釜の下、かまどの中を見ればすぐに判った。粉炭の熱量の大きさに見合った空気量が供給されていない。ふいごを使うべきだ。
それを告げると、やはりそうかと一部で声が上がった。流石にふいごの存在については知っていたか。しかしどうも製塩ではふいごを使わないらしい。どこからふいごを用立てるかで彼らは揉め始めた。
寺岡の鍛冶屋で見た箱型のふいごを思い返す。あれなら作れそうだとアキラは考えたが、だが即座にできる方法があるのではないかと思いついた。
「これくらいの竹を。端の節ひとつ残して節は全て抜き、残った節の底に小さき穴を」
時代劇などで見ることのある、かまどに息を吹きかけるための筒、火吹き竹だ。なんとこの時代にはまだ無いのだ。
アキラはそう知って足利では早速作ってみたのだが、最初はうまく行かなかった。棒の端から息が噴き出す穴を小さくするのがコツだと知ったのは、数度の試作を繰り返した後のことだった。
ただの筒にえらく苦労したが、理屈は考えてみれば判りやすい。
要するに、息のつくる速い空気の流れに、周りの空気を巻き込むのだ。息のほうは吹き込まれる空気量的には副次的なものに過ぎない。そして速い空気の流れを作るために、穴を小さくして圧力をあげるのが正しかったのだ。
出来上がってきた竹筒をアキラは実演してみせる。
息を吹き込むと、竈の中の暗く赤い光が強くなる。ごぉと小さく音が鳴る。
背後に、息を呑む声が聞こえる。
「言うたろう、よき智恵ある者ぞと」
直方殿のそんな言葉が聞こえた。
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塩が出来上がってきたのは翌日のことだった。
取引条件はすぐにまとまった。
粉炭箱一杯、一斗に対して塩三合。それが取引のレートとなる。粉炭を持って来たら、そのレートで塩と交換すると言うのだ。今のレートで塩一合で布一反なので、思っていたよりずっと良いレートだ。
つまりこの鎌倉の浜で、粉炭一斗から塩は三合以上取れたという事になる。直方殿は詳細をぼかして教えてくれなかったが、かなり良い量だったのだろう。
直方殿は上機嫌だ。鎌倉を離れるに当たって大きな、大きな置き土産を用意できたのだ。鎌倉の支配権はこれで磐石となるだろう。
誰もが幸せになる取引だ。アキラはこの道を選ぶと改めて誓った。
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アキラの荷物には池原殿の実家宛の手紙と塩三合、そして灰が鹿革の袋に詰めた物が積まれていた。
藻塩焼きしなくなったので蔓延っているという藻を刈ってもらい、それを川でよく洗ったものを焼いてもらった灰だ。奇異に思われたのは間違いない。
藻塩焼きの残りの灰ならいくらでもあるぞと言われたが、見るに沈殿行程で水溶性の成分が全部抜ける筈。灰になった後で水に漬けるのは避けたい。
アキラの愛馬はしっかりと肥えていた。おい、主人を忘れてはいまいな。
帰りは陸路だ。鎌倉からくねくねと北を目指す道が続いていた。
川沿いの狭い田の脇の道を、川沿いに北上すると、東海道の本道と思しきよく整備された道に合流した。幅は狭いが荒れたところが無い。
ただ、道は真っ直ぐではなく、地形に沿ってくねくねと曲がっている。結構新しい道なのかも知れない。
川にはどれにも板橋がかかっていて、相模の国の統治が行き届いているのが見て取れた。こういう部分の維持に注意を払っているというのはポイントが高い。
山道を抜けたところで一度休憩する。ここが何処なのか見当もつかない。あまり神奈川県とか横浜のほうには注意を向けていなかったせいだ。町田とかこの辺りのような気がするが、勿論確かめる方法は無い。
夕方には多摩川を渡しで超え、武蔵国府に宿を取ることができた。
武蔵国の国司は源の頼貞殿。源頼信様の兄頼光殿の養子、つまりあるじの親類筋である。頼季様と尼女御の手紙は用意して来ていたので、きちんと歓待された。直々に酒席に呼ばれて、足利の様子を聞かれるのをアキラは答えた。
はい、郎党が十、俘囚が二十、はい、それだけでございます。はい、弓も馬もまだ、はい、その通りであります。
兼光の武者の動きは大きなものはありませぬが、下野の南を窺う騎馬野盗が30騎ほど見えております。
ひととおり質問を終えると、頼貞殿は酒盃を傾け、そして言う。
「常陸と下総、平の維幹と平の忠常の間に争いの気配がある。表立った動きはないが、小勢が動いている筈だ。
気づいておるとは思うが、こやつらが争うとき、踏み潰されるは下野やぞ」
これは純粋な忠告と受け取ってよいのだろうか。
「大乱になればいずれ武蔵にも火が及ぼう。合戦がなくとも、互いに誰を朝敵と訴える讒訴の合戦となれば、思わぬ文の矢が飛ぶのも常のこと。
事に乗じて讒訴する奴に対するのも大事ぞ。事々の書き取りを残し証とするのもそれゆえ大事。意をよく用いよ」
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武蔵の国司屋敷は武者の家らしく郎党が大勢いて、流石だと思ったが、実のところは源の頼光殿から派遣されて来ているのが大半らしい。
そういう武者たちは東国でどこか所領が持てないかと、酒の席でアキラにも下野の様子を聞いたりするが、アキラも開拓できそうな土地などそう詳しいわけではなく、せいぜいが足利の売り込み程度しか出来ない。
ただ、実際にやろうとすると、足利の場合は頼光殿から頼信殿に主君替えする必要があるだろう。
武者の受領の、光衡殿のような蔵人上がりの受領と違うところは、郎党たちに所領の機会を与えなければならない点だろう。
郷よりちいさな、村程度でいい、荒田や開墾の見込みのある原野を与えることができれば良い。
そういう土地にも、度重なる疫病や戦乱で郷から逃散して住み着いた住民が大抵はいるものだ。そういう住民を領民として組織して所領とする。そして更に発展させ豊かになる。
そんな可能性を武者たちは切望していた。勿論武功があればそれに越したことは無い。だがいくさが無ければ、武功を得られる機会が無ければ、郎党はただの暴力を提供する単純労働者の境遇のままだ。
平時に領主に成り上がる機会が、東国には、受領に付いて東国で働く仕事にはあった。
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翌朝アキラは武蔵国府を立ち、北へと馬を向けた。
道の左右に狭い水田と牧草地が交互に現れ、過ぎてゆく。国府が多分府中か調布あたりだと思うから、たぶん所沢あたりで、教えられた山寄りの道をとる。
風景は牧草地と雑木林とばかりになり、道は狭くくねり続く。
空はどこまでも蒼く、天突く様に巨大な白い入道雲が聳えている。これはどこで夕立に逢うかもわからない。
ゆるい峠を越えたところで、牧司に宿を求めた。夏草の草原の真ん中の寂しい小屋で、武者の家らしき牧司夫婦はアキラを歓待してくれた。
武者らしい、と言うのは弓と馬、刀一振りのほかは武者らしいものを持っていないようだからだ。鎧は重くて騎馬には向かん、とは牧司の言だ。
夏など臭くてかなわぬ、と。なるほど。
翌日は更に深い山道となった。すれ違う者もいない。道がちゃんと整備されているのが不思議なほどだ。
考えてみれば、上野と武蔵の間には、利根川を使った船の交通がある。民間交通は舟を使っており、陸道は使われていないのだろう。
と思うと、大きな川に出くわした。田の草をむしる百姓にここはどこかと聞くと、どうやら秩父らしい。ということはこの川は荒川か。忘れていたが荒川を使う交通もある筈だ。
浅瀬を教えてもらうと荒川を渡る。道は急に荒れて、ちょっと広い畦道程度のものになってしまう。なるほど上野に入ったのか。
草原に風が強い。
池原殿の実家には夕方辿りついた。預かった手紙と塩を渡す。
翌日、アキラは足利に帰還した。関東をちょっと南北に移動しただけなのに、こんなに日数がかかるのは不思議な気がする。
翌日は嵐だった。どうやら台風らしい。
#26 相続について
妻方の財産を相続させることが狙いの場合の具体例としては、ここでは平直方の鎌倉郡司の家への通い婚がそれに当たります。妻の実家が住宅を夫婦のために用意しています。この場合子供が郡司を継ぎ、その強い権力、特に徴税権を得ることになります。ただ、実際には後年平直方は源頼義に娘を嫁がせています。平直方は貞盛流桓武平氏の嫡流でしたから、更にその子、源義家の得たものは絶大なものでした。
これは例えば藤原兼光の息子である藤原正頼が簗田郡司となる方法でもありました。郡司というのは在地の血縁のものしかなれない決まりだったのです。郡司の家への通い婚は、受領などの権力者が郡単位で所領を獲得する早道でした。この時代、息子を武者として育てられて古くからの郡司は次々と家を乗っ取られていきます。
そして武者たちは嫡子の一子相続を取り入れていきます。源頼頼の、頼義を武者にする、つまり後継者とする発言はこの流れに沿ったものです。開拓出資者である武者たちの子が開拓地を継ぐというのは自然な考えでした。
実際には土地所有は曖昧だったものと思われます。律令には相続に関する法はありません。そしてかつて山地は共有地でした。土地の争いの多くは、そもそも誰が最初に所有していたかでほぼ決まりました。中世以降、縁起書などの偽文書が作られるようになるのは、こういう理由からだったと思われます。