#23:1018年7月 仕事
「遅かったな」
頼季様は不貞腐れておいでだ。
「急ぎましたが、色々ありましたゆえ……」
都で預かった手紙は前日、帰ってすぐに渡してある。その後アキラは疲れからか急に身体がだるくなって、夕餉も取らぬままそこらで横になってしまっていた。
ほとんど一日アキラは寝続けて、ようやく起きて身支度を整えたところになる。今はもう既に夏の陽が傾く頃だ。
とりあえずまずはコレを、と。第一のお土産は刀五振りだ。
「これで奴らめに刀を渡せる」
今の世、武者の通貨代わりとなるのは刀だ。この刀五本は、俘囚のかしら5人に渡すことになる。この刀が、それぞれの村の指導者の地位を磐石にするだろう。
もちろん後々には俘囚全員を武装することになるだろうが、象徴は常に大事だ。
次に取り出した箱に入っているのは、色とりどりの綾紐だ。着色された糸はそれだけで財物である。着色が高度技術なので、東国ではこういうものは作れない。
尼女御が品質を確かめる。検品は問題なく終わったが、箱の底には服が入っていた。頼季様へのお土産だ。
浅黄に綾の入った狩衣だ。これに似合う靴と太刀を身につければ、立派な若貴族だ。
「良い品です」
尼女御のお墨付きが出て安堵する。なにせ用立てたのが都の出立前日、幸い頼清殿のツテでいいものが手に入った。まぁ、つまるところこれは兄である頼清殿からの頼季様へのプレゼントである。
狩衣を抱いて嬉しそうな頼季様には、まだ少年と言って良い幼さがあった。しかし二ヶ月ほど離れただけであったが、頼季様ちょっと背が伸びたのではなかろうか。
そう言うと、吾子が言うなと言われた。自分の身長を忘れていた。もっともである。
あとの土産は針、仏具、そして仏像だ。都の仏師の作による仏像はたとえ手のひらサイズであっても、薬師寺の門前で売っているような代物とはクオリティに天地の差があった。こけしと美少女フィギュアほども違う。
てのひらサイズのガチフィギュアだよコレ。
尼女御もこのクオリティには思わずにっこりされた。
「どのような如来仏なのですか」
「阿弥陀如来と聞いております」
どういうものかはさっぱりだが、アレだ、ナムアミダブツって唱える奴だろうとアキラは見当をつけていた。ただ、これまでそんな風に唱える人間に出合ったことが無い。
まぁ自分向けの仏様だろう。ナムアミダブツと唱えるだけってのが手軽でよい。本当にそれで良いのかは知らないが。
残りは屋敷のものへの土産だ。錦の帯、組み紐、刀の鍔、それらを検分するうちに、頼季様はぽつりと言った。
「アキラよ、よくぞ戻った」
「……はい」
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翌日は国府屋敷に顔を出した。
馬は借りることができた。はやく鎌倉に行って自分の馬を取り戻してこい、という話はもっともだが、今は馬が無くては仕事が出来ない。
お土産は錦の布地一反だ。しばらく出向き仕事できなかった事を平伏して詫びる。
「大過なく幸いであったな。大事であったろう」
光衡殿は先に渡した手紙を読んでいる。
「直方はアキラ殿をえらく褒めておるのぉ。」
平直方殿は光衡殿の甥に当たる。つまり光衡殿は常陸介、平維時殿の兄弟だ。光衡殿の親戚はこの関東に多い。
遡れば一人、平の将門の頃の人、平貞盛に辿りつく。この人が養子を多く取ったのが初めらしい。
平将門の乱について、昨日慌てて尼女御に経緯のレクチャーをお願いしたのだ。
御殿場の傀儡子の人形劇が気になったのだ。平将門は伝説の類になったのかも知れないが、ディティールがどうも気にかかる。常陸太夫とは何者なのだろうか。
・
平将門は基本的には下級貴族に過ぎなかった。血筋は常陸に降りてきた親王の血筋であったが、それを言うなら後に対立する叔父のほうが血が濃い。
都での出世の望みが無い事を悟った将門は故郷に帰ったが、常陸の国の実質支配者となった叔父、平国香と対立することになる。対立の理由は色々言われているが、当の本人たちが皆死んだ今となっては本当の事はわからないと尼女御は言う。
ここで知っておかねばならないのは、将門が下総の人だったという事だ。そして下総には内陸を北に延びる土地がある。
利根川、太日川と、鬼怒川に挟まれた細長い土地は、東西の常陸、武蔵や下野から断絶して房総半島と一体となった土地だった。
下総のこの細長い土地は関東平野に打ち込まれた楔だ。大河とこの楔で関東平野は東西に分割され、行き来が困難になっている。
この土地は基本的に農業に向かない荒地で、だから上野や下野と同じように馬が飼われているし、養蚕も盛んだ。
アキラはそれまで上総下総と千葉県とをぼんやりと同一視していたが、全くの間違いだったと気づいた。
常陸の平国香と下総の将門の争いのしょっぱなで下野が巻き込まれたのは、この地理的条件のせいだ。
下総からは大河で東西の移動が封じられているから、いちど下総の北の端まで移動して、そこから東西に移動するというルートになる。北の端とは下野だ。
逆の端もある。南端は東京湾の一番奥で、舟に一度乗れば関東平野どこへでも行ける。ただ舟だから騎馬の大軍の移動には向かない。
将門の強さは馬にあったと考えるべきだろう。このあと将門は叔父や親類達と戦い、いずれも勝利している。
アキラは考えるのだが、将門の強さは騎馬のみの部隊編成にあったのではなかろうか。
根拠は無い。ただ、俘囚を戦力として編成する計画では、やはり全員を馬に乗せたいと言う話が出てくる。歩兵ではいけないのかと聞くと、昔は歩兵が普通であったが、今はあまり良くないとされているという。
いつから良くないとされるようになったのか。未だに屋敷には盾が準備されているから、そう昔のことではあるまい。
平貞盛は平国香の子である。貞盛らは将門に負け続けるが、最後に下野の在庁である藤原秀郷と連合して将門を討ち果たす。つまり藤原秀郷による勝利である。
とはいえ貞盛の手柄も確かである。勝った二人はその後受領を歴任し鎮守府将軍となる。
違いが現れるのはその子たちの世代だ。藤原秀郷の子等が元の在庁や低級官人に留まるのに対して、貞盛の子と養子たちは受領を歴任する。貞盛が親王の血筋だからだ。
血筋の差は絶対だった。
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常陸太夫が誰なのか、平国香なら先に死んでしまっているし、平貞盛は将門とは敵対していた。裏切り者と表現されている常陸太夫に相当する人物はいないようだ。
いや、現在の人物の比喩である場合もある。過去の話だという建前で、今民衆に恨まれている人物をやっつける話をやれば、それは評判を取るだろう。
過去の因縁は確実に今もドロドロと煮えたぎっている。
平和のうちにも、静かに恨みや野望を持つものたちのゲームは続いている。平直方殿の鎌倉への通い婚も勿論そのうちの一つだ。
まぁ、争うにしても、平和な方法でやってほしいものだ。
この頃はアキラはまだそう思っていた。
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仕事はそれほど溜まっていた訳ではない。それぞれの郡司の種籾貸し出しの書類は出発前に処理していたから、収穫まで大きな仕事は無い。
種籾貸し出しとは要するに単なる強制的な貸し付けだ。
大昔は田植えは直接種籾を水田に撒いていたのらしいが、田堵が農業を指導するようになると、苗代を作ってまず種籾から苗を育てた後、水田に苗を植えるようになる。苗は農民が各自作るようになり、種籾の貸し出しは不要になる。
まぁ、ひもじさに種籾食べちゃうような貧農もいないことは無いが、種籾を借りる方法は他にもいくらでもあるだろう。
不要なものを何故やっているかといえば、昔から決まっているからだし、貸し出しで利子を取るから、少しだけ増収にもなる。だからこの無意味な風習は未だに続いている。
止めさせる方法はまだ見つかっていない。
河川の氾濫の報告があった。北の那須のほうだ。田が流されたために収穫が減るむねを報告している。報告を受領したことを返事を書く。筆は苦手だ。
墨と硯は自分のものを使っている。筆も収める箱を作って使っている。硯は石を鏨とやすりで削って作ってみた。もとから窪みのある石を加工したのだ。良い感じだが重い。しかしコンパクトになったので気に入ってはいる。
日光のほうだろうか、郷の住人が山に立ち入るとして寺社から訴えがあった。入り合いを決めていなかったのだろうか。これは要するに利用権だ。
律令では山は公共資源とされてきた。郷の住人は昔から山の資源を使っている訳だが、寺社にはしかし政治力がある。山岳の密教寺院が自分の寺社の周りの木を自分たちの財産として扱いたいと思うのは判る。
だから、寺院を設立する際には地元の住人との話し合いは必須だ。
話し合いの結果は書面に残して第三者である国司が預かる。国庁に保管されていた書面は平将門の乱のさいに焼かれて消滅している筈だが、考えてみるとこれは近年突然に出てきた訴訟事とは限らない。もしかすると乱後の訴訟の書面が見つかるかも知れない。
アキラはほぼ二日がかりでその書面を発掘した。
境界を決めて立ち入りを規制している。この通りにしていれば何の問題も無かった筈だ。どちらが合意にそむいたのか、確かめる必要がある。
要点をまとめた文書を、合意文書の写しも添えて担当の郡司宛に書いた。郡司は確認して報告せよ。
都賀郡のとある郷に賊が押し寄せたという報告があった。騎馬の武者30騎がやってきて、食事を要求したので与えたというものだ。
30騎では拒否するのは難しいだろう。軍勢と言うには小さいが、手勢として動かしやすい単位で、いざというとき盗賊だと言い逃れもしやすい規模だ。
この郷は通過地点に過ぎない。こいつらはどこから来て、どこに向かって何をしたのだ?
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国府屋敷からの帰り際に寺岡の鍛冶屋に寄る。行きがけ見た時に、ちょっと様子が違っていて気になっていたのだ。
「ああ、そこの二軒は佐野に行ったぞ。鉄の採れるところがあるのだそうだ」
いつもの鍛冶屋がそう説明してくれる。藤原の兼光の家来の誘いが余り熱心なので、ほだされて言うとおり移住したのだそうだ。
そうか、空き家になっていたのか。ということは、残る鍛冶屋は吾子だけか?
「砂鉄の取り分が増えて言う事はないよ」
おお。これからも末永くご愛顧よろしくお願いします。勝手にどこかに行ってくれるなよ。アキラは重ねて念を押す。
ところで板の調子はどうだろうか。
「ああ、ちょっと見ていけ」
二人川に歩いていくと、葦原の向こう、川原に子供達がいた。
子供達は手に砂を攫って、水の中に斜めに半分沈めた板の上に砂を落とす。板を持つ子供は軽く揺すって、砂煙が水の中に散る。
更に板が揺すられて、しばらくすると、板の上に黒い線が残る。これが砂鉄か。
水から引き出された板から、砂鉄が布で丁寧に拭い取られる。拭われた砂鉄は土器の碗を満たす水で洗われ、砂鉄は碗の下に沈む。
碗の下のほうは真っ黒だ。
「砂鉄は前の何倍かよく取れるようになった。子供にも出来る仕事だから人手にも困らん。難があるとすれば子供の働きの払いだな。米がもうあまり無い」
貸してはくれないか、との事。利子が高いぞと言ってみたが、問題ないとの事。
米を貸すのは郡庁の仕事の一つだ。必要な分だけ用立てようと約束した。
夏の暑い盛り、水しぶきを立てて子供達は実に楽しげだ。
子供たちの半分は遊んでいるように見える。交代で作業しているのか。作業の効率は良くないだろうが、こんなものだろう。
「ところで、作ったぞ」
何を? 振り向いたアキラに、鍛冶屋は鉄の棒を見せた。
「これは一体どう使うつもりなのだ?」
#23 下総国について
下総国は律令国の等級で田地面積26432町(和名類聚抄)の大国でした。隣の上総と違って親王任国ではありません。本来は葛飾郡や海上郡などの豊かな田地を持った国であり、鉄の産地、馬の産地、絹の産地でもあったのですが、平将門の乱以降、大国という評価は下総権介平忠常の権勢の増大によって変化していきます。
1012年以前の源頼信が常陸国司だった頃に、既に平忠常の勢力は上総と下総をカバーし、常陸国となんらかの係争状態に陥っていました。この時に平忠常は源頼信に名符を差し出して臣従を誓ったと伝えられています。
実際の係争相手は常陸大掾平維幹です。平忠常と平維幹は将門の乱以来の一族の仇敵として対立し続けます。
1016年から下総国司は惟宗貴重でしたが、3年で切り上げて辞任してしまいました。その上2年分の官物を納めたという理由で位階を上げてもらっています。要するに平忠常から官物を貰った上で、帰れと言われた訳ですね。国司がいなくなれば好き勝手が出来ます。
やがて平忠常は武蔵押領使を自称して武蔵にもちょっかいをかけるようになります。関東は戦乱で荒れ、1023年に下総国司に任命された惟宗博愛は、不堪つまり荒廃によって税を納められないとの申告をしています。惟宗博愛は検非違使の経験もある武官でしたが明法家つまり法律が専門で武者ではありません。良い国を周旋してもらえる有力者の家司でもなく、これは貧乏くじ任命でした。
戦乱のせいで、となりの常陸国は1025年には荒廃しきって、まともな田が300町しかないと報告されています。最終的に1028年、安房国司を焼き殺して平忠常の朝敵認定が確定し、更に4年に渡って戦乱が関東で続きました。
そうして下総国はペンペン草も生えない荒廃した国となります。院政期も下総国は不人気国のままでした。




