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#22:1018年6月 鎌倉

 鎌倉の郡司屋敷は大きなものだった。母屋こそ足利の屋敷と同じくらいであったが、とにかく建物の数が多い。谷間に並び立つ倉がとにかく圧巻だ。敷地の広さだけなら都の道長邸ほどもあるのではなかろうか。

 雑色だけで20人、郎党の頭数は100を越す。郡内に散ったものを集めると総勢300になるという。

 その郡司屋敷の隅、新築の家屋に目的の人物はいた。


 新築の屋敷の主、平の直方にアキラたちは盛大な歓待を受けた。すこし太めで、武者らしくない。40歳程か。そして新婚ホヤホヤである。

 どうやら届けた手紙の内容がかなり良かったらしい。


「これでようやく都暮らし、秋より都ぐらし!

 それでどうじゃ、都はどうじゃった」


 泊まって行け、舟を都合してやると言われ、気がつくと酒宴が始まっていた。貞松は裏で馳走が別にあるらしい。

 で、アキラは頼義殿の腹心で平の光衡殿のもとで国府仕事を仕切る目代で、そして都から来たばかりの、つまり都会人と思われているらしい。


 アキラは都の様子を付け焼刃の知識で説明した。ああ、女でございますか。遊女は遊びに行くところにおります。都では寺も社も皆都の外にありますから、寺詣りがすなわちそれ遊びになるのでございます。


 勿論聞きかじりである。


 実際に見てきたものはもうちょっとだけ説明を盛ることができた。御堂関白様の屋敷には広さ三段の池を掘って作っておりました。各地から集めた石や木を置いて、湖のごとき有様になりましょうや。

 瓦屋根が連なる伽藍や広い大路の説明に直方殿は目を輝かせたが、風流事の話となると途端に顔を曇らせた。


「歌か……難しき事よのぉ……」


 アキラ殿は歌は詠みなさるか、と問われて、可哀想になったアキラは尼女御直伝の訓練法を伝授してやる気になった。


 要は組み合わせでございますれば、かな5字、7字の句を予め色々備え揃えておくのでございます。好まれる句は決まっております。例えば悲しきは4字でございますから3字と合わせることができます。

 おおかたのものは2字で詠めますから、例えば、鳥、山、海、その時々にその場にあるものを2字で詠み、あとは繋げば、鳥ぞ悲しき、ほら良い感じでございましょう。


 めっちゃ感謝された。

 直方殿はよき事を聞いた、と言いながらこちらの杯に濁り酒を注いでくる。あっ、しまった、先方の杯にちゃんと注がないと。社畜時代の貴重な経験を活かさないと。


「東海道はどうであったか」


 たびたびここ鎌倉には戻らねばならぬが、道が長く険しきは難よのぉ、と直方殿はこぼす。アキラも同じ気分でいっぱいだ。片道なりとも舟が使えればよいのでしょうが。


「そうよのぉ。都とまではいかぬとも、せめて伊勢まで行ければのぉ。

 ここ鎌倉は舟があっても伊豆や上総安房に行くがせいぜい、沖の島なぞ何も無い」


 所領を任されたからには郎党をまとめて戦に備えなければならない。

 父君が常陸の国で養っていた武者たちを、都に帰るときに連れて帰れないからここ鎌倉で養わせているらしい。でもその武者たちが直方殿のいう事を素直に聞くかどうかは、それは全く別の話だ。

 そして都に連れて行けるのはせいぜいが30人。こちらで養う300人の郎党を纏めるには、たびたびここ鎌倉を訪れねばならない。


「遠河か飛騨あたりなら良かったのだが」


 しかし武者の国はいずれも険所の先である。


 ちなみに直方殿は通い婚で妻方に住み込み、妻方の所領を伝領するという形式の婚姻なのだが、これはつまるところ鎌倉郡司が、平氏の長者で常陸介である父君、平の維時殿へ領地と娘を寄進して一族となったという話である。

 そして息子の直方殿はこの新領地を早速管理しないといけない訳だが、実際には婿入りみたいなものなので、肩身が狭い筈だ。

 まぁアレだ、本心は、はやく都に逃げ出したいというところだろう。


「ところで、あれは何じゃ。馬に曳かせておったものじゃ」


 いや、見ての通り、馬に曳かせる車です。


 見れば何故誰も作って使わんのか不思議な代物じゃな。牛よりも早かろう。

 ところが大変でございました。アキラは正直にこの都からの旅の面倒事の数々を語って聞かせた。


「なるほど、道さえよければ一日百里はおろか百五十里はいけると」


「浜を走るのは素晴らしうございましたが、川がいけませぬ。舟に乗せるのが大変ですし、橋も二枚橋ではそのまま渡れませぬ」


 つまるところ道じゃな。直方殿が頷く。この方はえらく飲み込みが良い。あ、もしかして頼義殿の好むタイプの性格やも知れない。


「好きな処に向かうには向いておらぬが、決まった道で使う分には良いな」


 そう聞くと、ああこれは鉄道なのだとアキラは思った。なぜこのアナロジーが思い浮かばなかったのか不思議なくらいしっくりくる。


「欲しいな。あの馬車。吾に譲ってくれぬか」


 馬車が無ければ荷物を持ち帰れない。


「これから足利まで先々使うものゆえ、ご勘弁を。その代わり、新しいものをお作りいたしましょう」


 ここから舟で送ってくれる代金だと思うことにしよう。それに、頼義殿からは直方殿に良くするようくれぐれも頼まれていた。


「秋までに作られよ。秋には検非違使ゆえ」


 なるほど、手紙の内容はそれか。要するに頼義殿は猟官の支援をしたのだ。


「鎌倉は財物が乏しいゆえ、唐物があれば大いに助かる」


 ああ、乗りたいんじゃなくて献上品か寄進品にしてしまうのか。ちょっとがっかりもしたが、まぁそうだろうなぁ。


 鎌倉の田んぼの広さは足利の半分ほどに思える。未来の鎌倉の姿からするとちょっと不思議な気もするが、いま鎌倉に広がるのは水田だ。

 収穫に見劣りがあるのは判るが、その分は漁業で補えるのではないだろうか。


「いや、そういうのは三浦が専らにしておる。鎌倉でやっておるのは塩づくりよ」


 しかし薪が乏しゅうてな、という話に思い出したのが、上野の練炭だ。


「上野に、土の炭を掘り出しておるところがございます。木から作る炭と違いまして、掘り出すだけで火が付く炭となりませば、役立つ所に売りたいという話を受けておりまして」


 利根川を遡って舟に練炭を積み、練炭を使って作った塩を舟で売るプランを披露する。


「塩長者か。よき名ぞ」


 秋までに話を纏めなければならない。

 

        ・


 山を越えて、恐らくは東京湾側の漁村から舟に乗った。これまでに乗ったなかで一番大きな舟かもしれない。分解した馬車と荷物と4人乗ったのだから大したものだ。

 馬はここ鎌倉に置いていく事になった。秋に取りに戻ることになる。


 アキラと貞松は凪いだ東京湾で早速船酔いし、盛大に吐いた。

 苦しさと吐き気を抑えながら、沿岸を眺める。横浜がどの辺りなどと言うのは全く見当もつかない。

 海の水が茶色にかわって、丘が幾つか見えるようになって、ああ、あの辺りが東京かと見当をつける。遠かったので上野の方か東京タワーの方かはちょっと判らない。

 葛飾の津で太日川を遡る舟に乗り換える。鎌倉から付いてきてくれた直方殿の家人とはここでお別れだ。


 この太日川というのはまったくの謎だ。この河口付近は木曽川の河口を思わせる入り混じった河道になっていて、西側にある利根川の河口と混じっているらしい。

 利根川が昔東京湾に注いでいたと言うのは聞いたことがある。たしか江戸時代に川の流れを変えたんだっけ。

 つまり江戸時代には利根川はすごく東に捻じ曲げられる。

 では、その更に東側にあるこの太日川とは何なのか。鬼怒川の流路もどこへ行ったのか、あわせて調べておきたいところだ。


 その日は松戸に上陸して宿を取った。宿と言っても布施屋と大差無い。違うのは食事が出るのと宿代の貸しを作ることだけだ。しかし、松戸ってあの松戸だよなぁ。

 太日川を遡る旅は流れに逆らうためどうしてもゆっくりしたものになる。なにしろ人力だ。夕方に舟は栗橋の渡しに着いた。

 栗橋は交通の要衝だった。ここで少し陸地を移動すると、すぐ向こうに流れる利根川に辿りつく。つまり乗り換えポイントだ。ここでも上陸して宿を求める。

 寝床でアキラたちは一晩中、蚊の群れに悩まされることになる。河が近いとこうなるのか。

 ほとんど眠れず、手足首など露出したところは真っ赤な痕だらけになってしまった。


 翌日は北へ、太日川を遡れる限界まで遡った。ちょうど船着場がある。そこから北に伸びる良く整備された道があって、突き当たりに良く知った道があった。

 ここは下野国安蘇郡、この道は足利から藤原の兼光の所領を経て国府へと向かう、いつもの道だ。どうやらここから更に北へ行くと藤原の兼光の屋敷らしい。

 つまり藤原の秀郷が整備した船着場という事らしい。水運まで考慮済みとか、すげえな内政。比べると足利は水運で見劣りがする。


 アキラたちは馬の代わりに交代で馬車を曳いた。足利の屋敷までほぼ半日がかり、日もとっぷりと落ちた頃の到着となった。

 東海道の道のりは合計19日、足利に着いた時、暦では7月の初めになっていた。

#22 製塩について


 製塩の基本は濃縮です。古式の製塩法である藻塩は、海藻を引き揚げて、その上に海水を注いで乾かすのをまず繰り返します。塩の結晶が充分に海藻に付着したところでこの海藻をどうしたのかは諸説あり、例えば海藻を焼いて残存物を土器に入れて水を注ぎ、灰が沈んだところで上澄みを取り出して煮詰めて塩を得る説、海藻を洗い塩分を溶かした濃いかん水を作って煮詰め塩を得た説などがあります。藻塩焼きという言葉の焼くと言う部分をどれだけストレートにとるか、ですね。

 本作品では海藻は焼いています。しかしこの時代あたりから先進的なところでは海藻の代わりに浜の砂を使うようになっています。浜に海水をかけたあと砂を回収し、それを土器に入れて水を注ぎ、濃い塩水を作ったらそれを別の容器に移して煮詰めます。単純に砂が海藻から置き換わっただけです。

 これが更に洗練されたのが揚浜式、平坦に粘土を敷いて海水が地下に漏れない場所を用意して砂を敷き詰めます。砂に付いた塩を砂ごと回収してかん水を作るのは同じですが、砂の表面が乾き次第、砂浜の中央に置いた容器に溜めておいた海水をかけることで海水運搬と砂浜での蒸発効率を上げる工夫がありました。こういう工夫が確立したのは鎌倉時代から室町時代にかけてです。

 潮汐の満干を利用して海水を塩田に導入して、海水運搬を自動化するようになるのは、江戸時代初期の赤穂などの瀬戸内海沿岸からになります。それまで浜での海水運搬は重労働でした。

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