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#21:1018年6月 傀儡子

 道が整備されている間は、旅は快適そのものだった。荷物を全部馬車の荷台に積むと、身軽にどこまでも歩けた。馬車は行く先々で注目を引いた。

 二日で不破関を超え、三日目には長良川と木曽川らしき分流たちを渡りきった。墨俣の渡しでは馬車は分解して馬とは別に二度に分けて川を渡した。木曽川の河口に広がる干潟の砂の表面は堅くなめらかで、二人乗りで馬車を走らせるのは気持ち良かった。


 都から離れたことで、ようやくアキラに惜しむ気持ちが湧いてきた。あまりにも急ぎ過ぎた旅だった。もっと色々観ておくのだった。いろんな人がいた筈だ。しかし今、皆置きざりにして東国に帰っている。

 都へ行く次の機会はあるだろうか。


 浜名湖と海の間には結構な大きさの橋がかかっていた。瀬田の唐橋ほどではないが、この時代として破格なのではないだろうか。ただ板橋だし手摺も無い。幅は充分にあるのだがボロい。おかげで結構渡るのが怖い。


 海岸にはひたすら砂浜が広がっていた。ここを突っ走ったら早いのではないだろうか。もちろん貞松には反対された。民家も無い寂しい砂浜だ。

 だが、干潟を走ったときの気持ちよさが二人の背中を押した。


 波打ち際を二人とも馬車に乗り、ひたすらに走っていく。ヘタって来ていた竹サスペンションを予備に交換したから、サスは堅い筈だが砂浜はひたすら滑らかだ。

 貞松はとにかく怖い怖いとしか言わない。そういう速度だ。勿論馬の背に乗るよりは遅いのだろうが、転がり抵抗を減らすことがこれほど効いてくるとは。


 やがて馬車は大河の河口に阻まれた。まさか今日のうちに辿りつくとは思っていなかった河、天竜川だ。これを渡るには舟が要る。

 だが、ここは道ではないのだから当然渡しもない。道も無い。最悪元来た海岸線を逆戻りかと思った頃、漁師の舟を浜に上げているところ見つけた。

 交渉の結果、ようやく二人と馬車は渡してもらうことが出来た。漁師は嫌がったが、そもそも漁師は渡しでは無いし、馬や馬車を載せろというのだからそれも当然である。アキラたちは麻布一反を渡してようやく渡してもらうことができた。

 実に高くついた渡しだった。

 河を渡った向こう側も砂浜だったが、早々にアキラたちは内陸への道を探すことにした。幸い漁師に道のあることは聞いていた。


 ここまでずっと宿に泊まることができて夜露とは無縁の旅だったが、その日夜露は旅の供となった。まったく、暖かい気候の頃で良かった。


 翌日には小夜の中山という峠を越え、大井川についた。渡しには大勢の客が渡し舟を待っていた。しばらく前の雨で増えた水量が渡しを不可能にしていたからだ。しかしちょうど明日より渡しを再開するという。

 アキラたちは翌日一日を先着が川を渡るのを眺めて過ごした。夕方には大井川を渡ることが出来た。


 それから暫く、山がちの細い道を雨の中アキラたちは進んだ。

 ここにきて川にかかる橋はいきなり細くなった。板三枚の幅があれば馬車はそのまま通れたのだが、この道では大抵橋は板二枚の幅しかない。

 アキラたちは馬車の車軸を外して、代わりに急造の橇をつけてそういう隘路を突破する方法を編み出した。本業の大工が一緒だとこういう時に心強い。ついでに竹も橇の材料と一緒に地元の住民にいくらか分けてもらって、サスペンションの予備も幾つか作ることも出来た。


 道の交通量は思ったより多いかもしれない。

 東海道は海に面しているにもかかわらず、舟による交通が無い。沖に出ると海流につかまるからだ。強い流れがあっというまに房総半島まで舟を連れて行ってくれる。

 もし房総半島から舟が帰る方法があったなら、洋上交通の大動脈がそこに成立していただろう。しかし、その方法は今のところ見つかっていないようだ。海の道は一方通行だった。

 勿論、舟に帆があれば、それも風上に向かって走れる帆があれば話は全く違ってくるだろう。だがこの時代、まともな帆が存在しないらしい。

 従って交通は陸路が主となる。しかし、険所が次々にその道筋に立ちふさがってくる。


 まずは宇津の谷という峠がとにかく細くて険しく、ここでアキラたちは馬車を分解して雨の中峠を往復して少しづつ運び超え、ここでまる一日が潰れた。泥まみれだ。

 次が薩垂。ここは再び海岸線だ。見た目は険しい崖の続く海岸線だが、引き潮になると崖と海の間に狭い浜辺が現れる。これを見計らって駆け抜ける。問題は海岸が全部砂浜では無いという点だ。

 アキラたちは岩場では荷物を背負い、さらに馬車の前後を持ち上げて越えた。幸い荒れた岩場ではなかったが、タイミング的にはギリギリとなった。アキラたちは膝まで波に洗われながらこの険所を突破した。

 そして最後に立ちふさがるのは足柄峠だ。

 なんてこった。東海道も東山道も、険しさで言えばたいして変わらないじゃないか。


 富士山の眺めに貞松は感心することしきりである。富士川の細かい流れを全て渡ると、道はなだらかに内陸へと続く。

 恐らく御殿場の辺りだろうか、諏訪神社の祭りに出くわして、アキラたちはここに宿を取ることとした。


             ・


 一本調子な笛の音が聞こえてくる。あとは太鼓、いやこの時代に太鼓は無い。あのポンポンと鳴っているのは鼓だ。

 アキラは貞松に好きに遊ばせることにして、馬車の番をしてくつろいでいた。

 しばらく子供たちが馬車に群がるのを追い払うのに忙しかったが、やがて向こうで旅芸人たちが竹馬の芸を披露し始めると子供達は一人残らず向こうへ行ってしまった。

 本殿の前、階段で何やら準備をしていると思ったら、大きな箱と幕が組み立てられた。竹馬の芸人が器用に一本を肩に担いでもう一本で飛び跳ねると、大人たちも集まって囃した。

 それが終わったと思ったら鼓の音が響き、箱と幕の辺りから口上が響く。


「傀儡子舞、平の将門の子等の仇討つ話、皆々ご覧あれ」


 箱の前に掛かっていた幕が引き揚げられる。箱の中には小さな人形と模型の木と家、そして人形が動く。どうやら人形劇のようだ。

 場面は豪華な屋敷に武士二人。どうやら一人は将門らしい。

 

「そこまで俵の藤太がきておるぞ、常陸太夫よ、弓馬の用意せい」


「しばし待たれよ」


 剣を捧げ持つのは常陸太夫と呼ばれた男。


「今ここに、あたらしき御みかどの三宝を奉らん。

 あずま御みかどの命となれば、俵の藤太と言えど身を伏して従うことでしょう」


「よし、ならば三宝うけとらん。ちかう寄れ」


 常陸太夫は将門に近づき、そこで剣で将門を突き殺してしまう。


「おのれ常陸、おのれ常陸、この恨み呪いしかと受けよ」


 ここで将門の人形の頭が外れ、くるりと回転してざんばら髪が広がる。新たに現れたのは血を流す怨霊の顔だ。


「わが恨み、思い知るがよいぞ」


 頭だけ舞台の端へと飛んでいく。ここで背後の屋敷の書き割りがぱっと倒れ、新しい情景ではさっきの常陸太夫という武士が血まみれの刀を持って、荒れ野を子供の手を引っ張っていく。


「将門よ見るが良い、もしや吾に害せしめた時は、この将門の子も害ある時ぞ。さてこれに何をやして進ぜようか。決して吾に害なすでないぞ」


 手を引かれるのは少年で、それを姉が追いかける。


「小太郎や」


「お逃げ落ちくだされ姉上」


 荒れ野を引きずられる少年に追いつき、姉は少年を武士から引き剥がすことに成功する。


「逃げ落ちよ小太郎、父の仇をうつのです」


 逃げる少年。武士は娘を突き飛ばすと、剣をぶんぶんと振るって怒りをあらわにする。が、やがて笑い出す。


「おのれ小娘、いずれ吾が腹とせん。そうしたら、その子をあずま御みかどとしようぞ。さすれば吾が関白よ。その子傀儡子としてよく操らん」


 おい、とアキラは内心ツッコむ。そんなメタな台詞入れんな。

 そこで幕がいったん下ろされ、そしてまた上る。舞台は再び豪華な屋敷だ。部屋には蓄財したらしき宝物が山と積まれている。


「さてもう5年、娘よ、今宵月食の時こそ、吾子の術が破るる時ぞ。

 嫁ぎて吾と寝よ。馴れ睦み、盛大に淫を発せようぞ」


 舞台には金銀をちりばめた鎧姿の武士と、単衣を重ねたきらびやかな衣装の娘の二人。


「黙られよ下衆。そこより一歩でも近寄られるなよ常陸太夫」


 娘の背後から、守るように巨大な骸骨姿が現れる。


「その髑髏首ももはや見飽きた。今日ぞその首ともお別れよ」


 常陸太夫は少し怯えたが、再び威勢を張る。


「常陸大将軍と呼べ、そうして寝屋に参れ。時は来た、来たぞ」


 巨大な骸骨の姿が薄く消えてゆく。見間違いかと思ったが、ああ、骸骨は黒く塗った紙のスリットから見えていたのか。その背後の絵がずらされ、骸骨の絵は黒い紙に隠される。精巧なやりかただ。

 だがそこに若侍が乱入する。


「あれに見ゆるは常陸太夫か。吾は平の小太郎、骨の武者どもの導きでいざ参った。

 ああ、骨武者どもよ、あれは八幡菩薩の変わり身であったか。ありがたや。

 今日この日が父の仇を討つ、満願成就の日なり」


 刀をかざして二人の間に割って入る。


「おのれ将門のせがれ、邪法の贄となるがよい」


 舞台に突如、大きな赤い腕が現れる。長い爪を生やしているが、あれは人の腕を赤く塗っただけではないか。その腕が姉弟のほうへと伸ばされる。


「百万鬼神よ、あの武者面したる童を食ってしまえ」


 若武者は必死に赤い鬼の腕から逃げるが、遂に捕まってしまう。


「さぁ食らうてしまえ、うわ、うわははははは」


 いい感じに笑う常陸太夫。しかし鬼の腕は若侍をぽいと捨てると、代わりに常陸太夫を掴む。


「常陸太夫よ、吾は鬼神となりし将門よ。わが恨み今こそ思い知れ」


 腕は常陸太夫を掴んだまま舞台から去る。すると常陸太夫のものと思しき叫びが上がり、血にまみれた腕、足、そして常陸太夫の血だらけの頭の付いた胴体が舞台へと投げ込まれる。

 観衆はここで手を打ち叩き野次を飛ばして大興奮だ。


 残った姉弟二人の周りで屋敷が崩れ、しかし財物は残ったままだ。

 残った姉弟は手を取り合う。


「お達者なりや姉上」


「小太郎はいさましくなられた。立派な大将軍ぞ」


 周りで切り花が咲き乱れ、シャンシャンと鳴る鉦が最後を盛り上げ、そして幕が下りる。


「かくして目出度く、あずま大将軍小太郎は、国一番の長者となり永く暮らしました」


            ・


 アキラたちは翌日には足柄峠を越え、相模国に入った。

 相模国の側のほうが道は険しかったかも知れない。水量の増えた激流にかかる、板二枚の幅しかない橋を三つ渡り、そのたびにアキラたちは車軸を橇に付け替えた。

 夕方には相模川の渡しを超え、翌日鎌倉に到着した。頼義殿に鎌倉への用事を言い付かっていたのだ。

#21 東海道について


 東国への道として、東海道は11世紀に入って急激に主街道としての地位を確定させていきます。これは恐らく騎馬交通の便を改善することによって起きました。

 従来の東海道の最大の問題は大河であったと思われます。中世に東海道で見られた変化は古代からの官道ではなく山側の道を使うことでした。これにより渡河は容易になります。

 この時代の東海道は、既に鈴鹿超えの道はありましたが、これは主に伊勢への道として使われ、東国への道としては使われませんでした。問題は揖斐川、木曽川、そして長良川です。これらを超えるには上流が望ましかったのです。そのためこの時代の東海道は関が原を超えて岐阜県を横切ることになります。渡河地点として有名なのは墨俣ですが、この近辺の様子は時代によって河道は変遷し様々に変わります。

 熱田神宮から南は干潮時に干潟を通ったことが知られています。砂地の干潟は堅く平坦で歩きやすい道を提供しました。

 浜名湖にかかっていた橋は、この数年後には焼け落ちている様子が更級日記に描かれています。

 天竜川の流れは速く、河口で渡るのもひとつの方法でした。逆に大井川は時期次第ですがおおむね流れは緩く幅広い大河だったと伝えられています。ここでは中流域扇状地の枝分かれした支流をひとつづつ渡った様子を想像してください。富士川もおおむねそういう様子でした。

 この時代、薩埵はまだ関所が形式的にも存在していた時代で、山超えの道は封鎖されていたでしょう。これが鎌倉時代になると山越えは満潮時のコースとして代替選択肢に上がるようになります。

 東海道の最後の難所は足柄峠、この時代はまだ箱根は通りません。更級日記では足柄峠の麓で遊女達と出合った話が出ています。

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