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18/111

#18:1018年閏4月 刀

 それからはアキラの都行きの計画が詰められた。

 ここから都まで馬で半月かかるらしい。アキラは最短二ヶ月、最長三ヶ月で舞い戻ることに決まった。

 供を付けようという話だったが、どうしても人選がうまくいかない。頼義殿が馬を曳かせるのに相当な人数を連れて行ったのが痛い。結局アキラは一人で行くと宣言して、それで話にケリが付いた。

 するとアキラに刀を持たせるという話になった。

 屋敷に余っている刀は無かった。誰もアキラに貸そうと言い出す者もいなかった。頼季様が貸そうと言い出したが、アキラと尼女御が思い止まらせた。

 そもそもアキラは、自分の好みの長さで刀は作りたいと思っていた。みなの持っている刀はちょっと短い。


「では、仕立てて参れ」


 代はこちらで出す、とまで言われた。そして旅費として絹一反まで出る模様。


 優先順位は刀の仕立てだった。何せ、そのあと拵えと鞘をどうかしなくてはならない。鍛冶屋に板を持っていき、その流れで刀の注文になった。


            ・


「以前言っておった金棒、あれを刀にできないか」


 金棒と言うのは、井戸を掘るために考えたもので、先端に板を巻いて円筒になるようできないかと相談していたものだ。既に金棒は円筒を巻く前のところまで作ったと聞いていた。


「良いが、長さは何尺にするのだ」


 刀はあまり作った事が無いゆえ難しいぞ、と言うのに構わずアキラは言う。


「三尺二寸」


 おいおいおいおい、と鍛冶屋は唸った。普通の刀は二尺三寸から五寸、刃先から中子の先まで70センチ程度、刃渡りで60センチ程度しかない。アキラはそこを全長1メートルと言ったのである。


「それでは太刀であろう」


 いや、長いだけの打ち刀だ。アキラはとにかくそう言いくるめて急ぐよう頼んだ。代は屋敷から出ると聞いて鍛冶屋はやる気を出した。


           ・


 翌日国府屋敷に向かう。思わぬ日の訪問に屋敷の家人には驚かれたが、都に行く用が出来たと告げると更に驚かれた。

 平光衡殿に挨拶し、使いの用事を承る旨を告げたところ、頼まれものがあるゆえ一日泊まってゆけとの仰せだ。

 丁度良い。以前言伝を頼んだ女房に、あずさ殿に渡してくれるよう新品の墨を託した。墨には短冊も付けている。やはりここは和歌しかないだろう。


 栃木野の月もいくつか過ぎ行けば このしのぶ身も春の夢 薫り残らぬことぞ惜し


 はい、ちゃっかり薫の一字をぶち込んでみました。浮舟殿への歌ですからね。

 翌日、アキラはそれぞれ宛先の違う三通の手紙を受け取ることになる。


         ・


 鍛冶屋から奪うようにして持ち帰ってきた刀は、流石に重かった。

 刃は粗研ぎすら完全には終わっていない。焼きを入れたところまでしか出来ておらず、アキラは都までの道すがらこの刃を研ぎあげる積りだった。鍛冶屋はそれを聞くと呆れて、銘は吾子が勝手に入れよと言い捨てて渡してくれた。

 そもそも、アキラにはこの刀で人を切るという考えは無い。人を殺すなど自分には出来まいとアキラは考えている。そういう点、刃が研ぎあがっておらず、ただの鉄棒に等しいというこの状況は好ましいといえた。

 思いっきりぶん回して、それで十分脅しになる筈だ。

 そもそもこの刀の長さは、長さで威嚇するのが目的のようなものだ。


 刀はまだ刃だけで、これに柄と鞘、いわゆる拵えを揃えなければいけない。

 しかし今回既製品の流用は望めない。ただ鍔だけは手に入れることが出来た。

 事前に用意したのが杉の曲がった枝。刃の曲がりの曲率とほとんど等しい部分を切り落とすと皮を削ぎ、鑿で半分に割る。

 鋸で柄になる部分を切り落とすと、中子を収める部分を掘り込んでいく。半分に割った柄が中子を挟んでおおよそ収まるようになると、目釘を立てる部分に錐で穴を開ける。

 うまく目釘が刺さる事を確認すると柄をばらして、手の収まりが良くなるまで削っていく。

 おおよそ出来たら組み立てなおす。膠で接着して紐で縛ってしばらく置いておく。あとで鍔を打ち込んで柄を固定しなければならない。


 次は鞘だ。

 刃を納める部分を削り込んでいく。刃の厚みにあわせたゲージを作り、それで削った深さを逐次確かめる。

 ……流石に長いと、全長に渡ってきちんと噛み合うという訳にはいかないか。鞘と言うより二枚の板で挟んでいるだけのような有様だが、そもそも最初の試作でよくやったほうではなかろうか。

 鞘と柄の仕上げに、奥山の地所を整理して旅立つ準備とあわせて5日かけた。

 柄に藤を巻くつもりだったが、柄が手から滑りそうな気がする。考えを変えて麻紐を巻く。手のひらに繊維が刺さって痛いが、滑るよりはマシだ。出来上がったものはえらくみすぼらしく見えた。やはり素人の手作りには限界がある。

 鞘から刀を抜くのは今のところかなり難しい。鞘と鍔まわりの噛み合わせがかなりキツイ。おかげで片手でさらりと抜くという訳には今のところいかない。


 その他の旅の支度はまず干し飯が5日分、これが結構な量になる。鉄碗と板の蓋、水筒、大工道具一式、菰、手紙と下野国司の公使状。そして塩が小さな袋一つ分。これから歩く山中ではこれが通貨代わりだ。

 公使状は見せれば駅屋にタダで泊まれるという素晴らしいアイテムだったが、惜しむらくは今の時代、駅屋がもう無いのだ。とはいえ渡しは無条件で渡れるし、お寺にも泊まれるそうだ。

 手紙は尼女御と頼季様の分も結構あった。全部まとめて鹿革で作った袋に収める。



 田に水が入る頃、アキラは旅立った。

 春先に上野へ向かったのと同じ道を行く。アキラはもう馬にも慣れたもので、以前よりも随分と早く利根川を渡ることができた。

 夕方には池原殿の実家に着き、そこで歓待された。

 アキラが足利の事情など話す途中、池原の郷長は板間に置かれた火桶に、別の箱から黒い粉末を入れてみせた。それはいつぞやの粉炭か。


「籾殻を摺ったものを混ぜておりましてな、火の付きはこれで随分と良くなりました。

 ただ、これを方々に運び商おうとすれば、袋が要りますれば、しかしこれは粉より袋のほうが高くついてしまいます」


 何か安く固める方法が要るな。アキラは色々考えたが良い案は思いつかず、代わりに全く違う事を思い出した。


「さて違うことなれど、舟は欲しくはあらんや」


 今や板を作る手間は昔の数分の一まで簡単になったと思う。以前乗った舟は丸木舟の側面に板を打ち付けたものに過ぎなかったが、今や板だけで舟を作れると思う。


「勿論。然れども……」


 そこでアキラは土間に置いた荷物から鋸を取り出して見せた。これで木を縦に挽くのだと説明したが、どうもあまり信じてくれていない。だが、安く板が作れるならばという仮定の上で、郷長は話に乗ってくれた。

 アキラはその舟で海まで炭を持って行く構想を喋った。


「例えば海の水を煮れば塩が出来まする。藻草を焼けば肥ができまする」


 取引を通じて商業活動を促進し、荒田に肥料を施して農地を生き返らせる。様々なものを造り、社会を豊かにし、ゆくゆくは大衆教育や医療を実現する。これらはアキラのひそかな野望だったが、足利屋敷のものには秘密にしてある。

 頼季様には理屈を説明したことがあったが、理解してもらえなかった。

 己や主家の富貴ではなく、社会全体を富ませるという発想はこの世界には無いし、結局、佛心でも湧いて喜捨でも施す気にでもなったのか、という辺りでどうも頼季様は理解されたようだ。

 もしかするとその線に沿って、尼女御と相談しても良かったかも知れない。

 しかし、できれば経済的功利の見方で理解して欲しい。できれば社会全体が、アキラが起こすことを見て理解して欲しい。


「藻草を焼いても出来るのは灰でありましょう」


「野焼きが田に力を与えるのはその灰を通してであります。藻草の灰は、更に強く効きましょう」


 肥料として必要なのは窒素とリン。

 アキラの持っている農業や肥料の知識はたかが知れていたが、演繹でいろいろと推測は出来る。

 確か入手が難しいのはリンで、例えば水鳥のフンが肥料として使われたりしたが、それは他の方法では手に入らなかったからだ。

 水鳥のフンにリンが含まれるのは生物濃縮のせいである筈だ。つまり食物連鎖の底辺である海藻にはリンが含まれているんじゃなかろうか。

 あとは焼いて体積を減らして運びやすくすればいい。


「おもむき深き話であります。

 ……ふむ、そして箱で運ぶ訳ですな。板が易く作れるならば箱も然り」


 しかし、と郷長は言う。海には海のものが居りますれば。

 海の者に同じ話をしてくだされば、あとその鋸がなければ。

 アキラは都から帰り次第海のものに話を通す事を約束した。


 翌日は碓氷峠の登りを、馬から降りねば通れぬところまで行って、火を起こして沢の水で干し飯をうるかして食事にした。ほんの僅か入れた塩が強く効く。塩は良いな。

 火はそのままに野宿だ。


 次の日は早々に峠を越えた。峠の向こうは一面の草原が広がっていた。馬を飼う牧があるのだ。馬に乗って進める道を順調に進むが、水が無い。

 日が高く昇ったところで休憩を取った。荒れ果てた家はかつての駅家のあとらしい。ちいさな沢で食事を作り、休む。少し刀の刃を研ぐ。

 夕方には川のそばの亘理という土地の布施屋に泊まった。これは寺の山門のすぐそばにある小屋で、旅人はここで寝ることができると教えられた。要するに寺が管理する簡易宿泊所だ。

 食事の付け合せにと汁を振舞ってもらえたのは嬉しかった。


 信濃国府に着くと手紙をひとつ在庁に託した。平光衡殿からのもので、減省解文を書くに当たって過去の例が知りたいので写しを送って欲しいという内容のものだ。

 頼義殿がいつ通りがかったか聞いたが、来ていないと言う。そこでアキラは、頼義殿が馬を連れて通った道が、この東山道ではなく東海道であることに気がついた。

 うわ、下手をするとアキラのほうが先に都に着いてしまったりしないだろうか。

 先に着くと面倒なことになる。頼義殿以外に、都でアキラを知るものはいないのだ。


 その日は国府屋敷で泊めてもらい、翌日からは伊那谷をひたすら南下する道を辿った。

 伊那谷の一番端までまる二日。ここでも田に水が入り始めていた。

 道沿いの農家はどこも喜んで屋根を貸してくれた。そのうち一軒は飯に汁も付けてくれた。汁に浮かぶ菜は野草と区別がつかない苦いものだが、それでも有り難い。


 しかしそこから美濃に抜けるのにまた二日かかった。

 とんでもない難所だった。峠というより山登りだ。そしてガレ場の続く岩の谷は馬に歩かせるのは難しい。アキラは一度麓まで戻って、廻り道が無いか聞きもした。

 廻り道は無かったが、けものみちを教えてもらい、最後は馬の尻を押して峠を昇りきった。

 帰りは東海道にしよう。そうアキラは心に堅く誓った。


 美濃の国に入ると駅家が機能していて、国司の手紙で食事もタダでありつけた。ただし、やはり内容は飯と汁ひとつだけだ。

 道はよく整備されており、不破の関、つまり関が原まで4日。


 アキラはここで山賊に襲われた。


         ・


 良く整備された山道を馬で進んでいると、前方の藪と思しき辺りから、弓に矢をつがえた男が一人現れた。


「死にたくなければ、馬を置いて去れ」


 なるほど、弓のリーチは強い。アキラの持つのは刀だけだ。盗賊は今アキラに一方的に攻撃できる。

 しかしそれも、矢が当たらなければ意味が無い。アキラは自分の矢の腕を思い出していた。こんなところで独り盗賊をやっているのだから、矢の腕は半端と考えていいだろう。もし巧ければとっくに郎党をやっている筈だ。

 アキラは馬を降りたが、それは馬を挟んで盗賊の反対側にだ。

 馬がアキラの身を隠す。盗賊の死角でアキラは刀を抜いた。


「さぁ、疾く去れ!」


 盗賊の言葉に構わずアキラは刀をかざし飛び出した。大きく盗賊の右手側に廻り込む。弓と云うのは身体の左側には向け易いが、右側には身体ごと向けなくてはならない。

 思わず叫びがアキラの口から溢れた。


「おぉぉおおおおおおお!」


 盗賊の放った矢はアキラを掠めて飛び去った。

 頭二つ分くらい向こうだ。風切り音が耳に響く。

 予想よりも遠い。しかし、

 あれは、死ぬ。当たれば、死ぬ。

 頭の芯が恐怖に縮み上がる。

 だが身体は構わず動く。

 麻痺した心に構わず、アキラの身体は両手で構えた刀を盗賊の腕に振り降ろす。


 手応えがあった。盗賊は悲鳴と供にその場にへたり込んだ。


 盗賊の利き腕は折れたか。これからどうする。自分はこの男に殺されかけたのだとアキラは改めて意識する。

 放置して背中から攻撃されるのは嫌だ。盗賊の取り落とした弓の弦を切る。

 しかしどうする。

 この怪我でこの山中で。殺すのも慈悲かも知れない。治療なんてやる義理も無ければ手段も無い。殺したほうが面倒がないかもしれない。


 結局アキラはそのまま、考えるのを放棄した。

 道の真ん中でうめく盗賊を放置してその場を立ち去ったのだ。

 


 あの盗賊はその後どうなったのだろうか、アキラはその後も時々、思い返してはくよくよと考えることがあった。

#18 東山道について


 東山道は関東や東北への道として長いこと使用されていましたが、11世紀頃から関東へは東海道を使うことが多くなっていきます。

 京都からは不破の関つまり関が原を越えて、木曽川沿いに可児、土岐、恵那と大体中央自動車道と同じルートを通ります。違うのは恵那山トンネルが無く、神坂峠を越えたことです。ここが最大の難所、御坂です。今昔物語集第二十八巻の三十八、受領藤原陳忠がここの架け橋から足を滑らせて転落し谷底で平茸を見つける、有名なエピソードの舞台です。

 ここがあまりにも険しかったために木曽ルートが開かれることになります。ただ、まだ木曽道の交通量が増えるまでは時間がかかります。問題は木曽道の人家の少なさだったのでしょうか。

 その後は伊那谷を突き当りまで北上すると塩尻に出ます、塩尻の北に信濃国府があったと推測されています。上田のほうに出て、軽井沢から碓井峠を越えると東国です。


 11世紀には駅馬の制度はほぼ維持されなくなり、古代の官道もそのまま使われるところが少なくなります。近畿だと宿場が発達しますが、遠国では駅の代わりを果たしたのは郡衙や寺院であったと思われます。唯の旅人だと寺院の布施屋やただの農家に宿を求めることになったでしょう。

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[一言] うるかすは東北以北の方言だそうです。 当時は使ってたのかな。
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