#17:1018年4月 板
幅1尺、長さ3尺。そして表面はまったいら。指で表面をなぞっても全く凹凸を感じない。つるっつるである。
とうとう満足のいく板が出来た。それは同時に、台鉋三号が実用水準に達したという事でもある。アキラはもう鑿の扱いにも慣れて、杉材ならほぼ思い通りの精度の穴が仕上げられるようになっていた。
鋸も一応完成した。この板は鋸を使って切り出したものだ。ただちょっと仕上げが足りていない。鋸ももう一度作り直したい。
でもそれは先のことになる。田作りも放置して鋸の目立てに二ヶ月を費やしている。多分冬までそんな暇は無いだろうし、冬になれば暇はいっぱいあるから色々できるだろう。
田作りは考えたくない。どうせ今年は田植えはできないのだと考えると作業量の多さに逃避してしまっていたが、来年春までに田をどうにかするのは全ての前提条件だった。
先に作った2枚の板と比べる。やはりこれが一番だ。
作っておいた三脚の上に板を置いてみる。さて、どうやってこれを水平にするか。
この時代にネジは無い。三脚も無いのだが作ろうと思えば作れる。アキラが作った三脚は一応畳めるようになっており、足を開いた後、三角の板の角に作ったほぞを、それぞれのほぞ穴に叩き込む面倒があったがガタは少ない。
水平を出すための道具も作った。竹の節ひとつ分30センチほど、横にして置いたときに座りが良いよう削ったあとで、両端の置いて上を向くほうに穴が開けてある。穴には白木の切れ端が入っている。入っているだけなので落として無くさないように気をつけないといけない。
この竹棒の中に水を入れ、白木が浮くのをその高さで水平を判定するのだ。
校正はまだ済ませていない。
あとは三脚と板の間に、水平を調整するための機構が必要になる。三脚を置いた地面が水平であるとは限らないからだ。
やっぱ楔かなぁ。ネジはネジ穴を作るのが難しい。
色々考えたが正攻法でネジ穴を掘る方式はタップを作るという、つまり無理な話になる。代案として現実的なのはスプリングみたいなものを穴に嵌めて接着固定する方法だろうか。ネジ穴の山だけを穴に移植してやるのだ。麻紐を膠で固めて作るのが現実的だろうが、それでは精度は出まい。
……ネジは駄目だ。板と三脚の間に楔を入れて調整するのが現実的だろう。あとは楔の位置をどうやって固定するかが問題だ。
考えが煮詰まってしまった。前よりの約束どおり板を鍛冶屋に持って行くことにする。
馬でしばらく行くと上名草と名づけられた村に差し掛かる。谷間は切り開かれ、そしてどうやら新しい家を建てる準備が進んでいるようだ。
まぁ、狭い家に男4人というのはやはり問題だ。別の村では男色関係に発展しているという話まである。
もしかすると、それも原因の一つだったのかも知れんな、と思う。
この上名草から一人、大物部季通が逃げ出したのだ。
アキラが薬師寺に向かった翌日から姿が見えないという。
おそらく矢傷を負っているはずだ。どのような傷かは判らないが、少なくとも死んではおるまい。死んでいれば奥山のどこかで死体を見つけた筈だ。
アキラは家を留守にするさい、家に仕掛け矢の罠をしかけた。家の真ん中に敷いた茣蓙の下に、紐を張っておいたのだ。もし茣蓙を踏んで紐を弾けば、掛け金が外れて矢が飛ぶという仕掛けだ。
奥山には仕掛け罠を置いたゆえ、アキラと共連れでなければ奥山に入るな、とは随分以前に皆に言ってある。家のうちも奥山には違いない。……家中を荒らす獣がおらぬとも限るまい。
帰ってみると、先に血の付いた矢が落ちていて、ちょっと何かが暴れたような跡があった。本格的な破壊活動って程ではないが、試作品だった灰釉の壷が割られたのは痛い。
大物部季通は元々村のほかの3人とも仲が悪く、開墾仕事もさぼりがちで、最近ではまったく仕事を手伝わなかったという。
そう言うわけでこの上名草村は今、人手不足だ。アキラが馬をちょっと使って助けても誰からも文句は言われまい。
田んぼとなる筈の原野から既に木の根は全て引っこ抜かれていた。
仕事中の三人が見える。一人はアキラが作った猫車を使っている。アキラが使っていない間は貸しているのだ。
猫車の車輪は径一尺四寸、斧と鑿でひたすら削って作ったものだ。二本の棒に車軸を通して車輪を挟み、その棒をそのままハンドルにする。棒の間に棒を差し渡して、そしてその上に土砂を積める籠を作る。西洋のガーデニングで見るタイプだ。
予想していなかったのは、猫とは何だと聞かれたことだろうか。
そういえばアキラはこの半年猫を見かけていない。ただ、話には聞いたことがあると俘囚の一人が言い出した。虎のようなものではないかと。勿論虎も見た事が無いだろうが、虎の名は誰でも知っている。
アキラは、まぁ大きさは違うが虎の様なものだと答えた。虎って猫科だよね……。
猫車によって土砂運搬の効率は大きく改善されていた。もっこを担ぐよりずっと良い。他の俘囚村の分もそのうち作ろう。
アキラは上名草村の三人にそこそこ感謝されるようになっていた。
アキラは仕事中の三人に手を振って先に進む。そのうち家作りのほうも手伝ったほうがいいだろう。
さらに下流、下名草では炭焼きが試されていた。探して連れてきた炭焼きの助言に従って、石を組んだ炭焼き窯が作られていた。
炭焼きの原理は蒸し焼きだ。つまり実際に焼いているわけじゃない。そもそも焼いてしまっては燃料にならない。
木材を高温で変質させるのがその窯の目的だ。高温を得るために多少は焼けもするが、それは本質ではない。
だから窯は石組みの上から土で隙間を埋められ、不完全燃焼するように閉ざされる。
もわもわと白い煙が辺りに漂う。窯の回りは煙でもう全く見えない。
近づくのは遠慮しとこう。
屋敷には寄らずに山を越えて鍛冶屋へ向かう。かつては山賊も出たという山道だが、足利に郎党が詰めるようになってからは見なくなったという。
川沿いに進むと鍛冶屋の集落だ。
・
「ああ、めずらしき人を見る」
鍛冶屋に、こないだ薬師寺で会ったばかりの武者、平良衡がいた。
薬師寺のときと同じ直垂姿に、腰から刀を提げている。いや太刀か。対してこちらはいつもの作業着、小袖に脛を縛った袴姿だ。雑色の格好とも言える。勿論刀など持っていない。
アキラは今、かなりばつが悪い。
「これは良衡殿、いかがいたした」
ここはなんでもない風に行くしかない。
「兼光様の用事にて。それより、その格好は」
くそっ、やっぱり駄目か。こうなれば全力で話題をそらそう。
「この板か。よくぞ目を付けたるぞ、よく見られよ。触られよ」
板の表面を触らせる。平良衡の目の色が変わる。
「おっ、おほぉう、ほーぉ、つるつる、つるつるではないか」
手のひらを滑らせ、しまいには頬を当てて頬ずる始末。この人物がここまで興奮するとは思っていなかった。
そういえば、兼光様の用事と言っていたな。藤原の兼光の郎党だったのか。
勿論そうだろうとも。
「いやはや凄いな。ところでこれは如何するのだ」
如何も何も、とアキラは応える。そこの鍛冶屋に渡すのだ。
「は?鍛冶屋に?何でぞ」
平良衡は鍛冶屋本人を引っ張ってきて、譲れと言い出した。鍛冶屋のほうは最初何がなんだか判らないようだったが、押し付けられた板を触ってみてようやく何事か合点がいったようだった。
最初はやはり板の滑らかさに驚いていた鍛冶屋だったが、平良衡のしつこさに閉口してアキラのほうを見てくる。
アキラは手を大きく広げて持ち上げるジェスチャーをする。それを見て鍛冶屋は、
「炭10石」
1石は10斗、つまり炭100斗だ。炭俵20個と言ってもよい。
「よしそれで決まりな。確かに決まりな。譲り受けるぞ。払うゆえ心配せず待て」
平良衡は板を奪うように持っていってしまった。
あっけにとられて、アキラと鍛冶屋、二人はしばし平良衡の去っていった方向を眺めていた。
「……惜しうございましたな」
鍛冶屋は言う。しかしアキラが代わりをすぐ持って来ると言うと、驚かれるより呆れられた。
「それほどホイホイと作れるものなのですか?
……大鋸と、台鉋でしたか。是非ともひと目見せてくだされ」
「その代わりちょっと作ってくれないか」
アキラは錐と針を注文した。これから革を加工するのにちょっと欲しい。
・
翌日、板を鍛冶屋に持っていく前に屋敷の仕事を片付けようと寄ったが、板は早速頼季様をはじめ屋敷の者達に見つかってしまった。
「まぁ、磨けばかようにも作れよう」
尼女御はそう言うが、この板の作りの容易である事を聞いて頼季様は、
「もしや、床を全てつるつるに出来るか」
勿論でございます。やっぱ聡明な人間は良い。
「藤原の兼光は板を得て、おそらくは文机でも作るであろう。都に、御堂関白様の土御門の屋敷に寄せて差し上げようとの心積もりであろうよ。
アキラよ、大工に、ヨシツグだったか、かやつにその鉋の術を授けよ。さすればヨシツグに鉋持たせて都に送らん。あとは兄背がうまくやられるであらう。
考えてみよ。材木一本たりとも送らずとも良い。床を少し削るだけじゃ。それだけで御堂屋敷のあらゆる細工物より床が秀でることだろう。その床の有様は都のあらゆる人の口に上るだろうよ。
さすれば、文机の一つなどいかほどのものであろうよ」
アキラも名案だと思うが、しかし、俘囚の家を作るものがいなくなってしまう。
「アキラよ、あなたが行きませんか」
尼女御はそう言うのを頼季様が慌てて説得しようとする。
「アキラは受領殿の目代仕事がありますゆえ、それは」
アキラはもっか頼季様の唯一の家来である。その家来が離れてしまうのは嫌だろう。
「目代仕事など忙しいのは刈り入れ時くらいでしょうよ。それに京に行ってはかどる目代仕事もございましょう」
そう言われるとアキラもその通りだと認めざるを得ない。
「頼季様も一緒にいかがですか」
アキラがそう水を向けると頼季様の目が輝き、しかし、
「なりません。この荘園の荘司仕事、今が最も忙しい頃合ですよ」
わたしに俘囚どもをどうこうできると思っているのですか、それで話は決まってしまった。
#17 橋について
日本において本格的な橋の建造の端緒とされているのは、西暦642年に架けられたと伝えられる宇治橋で、この橋の架橋を記念して建てられた日本最古の石碑、宇治橋断碑と共に知られています。
この橋は260年後の延喜式の記載によれば、長さ9メートル幅40センチ、厚さ24センチの板18枚で構成されていたことになります。
この時代の橋は基本的に皆、板を長手方向に渡しかけて構成していました。宇治橋なら5つ橋脚を建てて板を三枚づつ渡し架けた、幅1.2メートル長さ54メートルの橋だったと思われます。三枚橋という奴です。普通は板橋は横1枚か2枚で、3枚は立派なほうでした。
この時代、伝統的に橋は皆この形式でした。橋脚があっという間に流されるので、長くて厚い板が橋の必須条件でした。橋とは板で、そして板は貴重でした。
今でも板橋は流れ橋として山間部などで細々と利用されています。
橋脚を持たない短い橋でも、例えば八つ橋のような、大河が支流を網目のようになっているのに渡し掛けたものは、いずれ大河の洪水によって流され、河道の変遷によって消滅する運命にありました。この時代の歌に詠われた橋の殆どは元の場所もわからなくなっています。
例外は瀬田の唐橋で、これは柱を橋脚の上に渡し架けた上に、板を横に敷いて床板を作っていました。橋脚もしっかり工事を行なったので、その後橋が焼け落ちても、橋桁の跡が発掘されて当時の様子を知ることが出来ます。
他にも、舟を連ねた船橋や浮橋といった種類の橋も存在、利用されていました。