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#16:1018年4月 薬師寺

 国府屋敷に行く予定の前日から出発して、向かったのは薬師寺、この東国で最も大きな寺らしい。

 国庁跡の荒れ野を横切って更に川を渡り、雑木のなかに畑がまばらに散らばる土地を横切ると大きな寺の門前町に出る。

 寺の塔は実に遠くから見えた。よっぽど大きいのだろう。これはいい測量基準点ではないだろうか。

 門前町の入り口で馬を下りる。石碑と松の木の向こう、道の両側に様々な宿や店が並んでいる。実のところ、常設の店を持つ町をこの時代初めて見た。

 

 しかしこの商店街、あまり繁盛していない。通りに見かけるのも一人か二人ほど、それも子供に過ぎない。店も半分は閉まっている。そもそも店と呼べるような立派な建物でもない。

 それでも、掘っ立て小屋の中に素焼きの壷が詰まった店や、木を削って作った器などの店は、暇そうな店番がいて、品物を眺めることが出来た。

 開いている店の共通点は、売り物が腐らないものだと気がついた。恐らく食料品の店などは、寺の行事のときなど、市が立つ時だけに開くのだろう。


 店と店の間は広く、もしかすると繁盛するときはここにも茣蓙(ござ)でも広げて商売する奴が出るのかも知れないが、今はまばらな松の森のなかに過ぎない。

 森の中には緞帳(どんちょう)のようなものが張り巡らせているようなところもある。後で聞くと、それは芝居がかかる場所なのだという。あと市には傀儡子(くぐつ)も来るとか琵琶弾きも来るとか色々教えてもらった。

 聞けば5日ほど前に仏生祭(ぶっしょうえ)という行事があって、そのときは盛大に市が立ったという。

 ああ、お釈迦様の誕生日って奴か。次は盂蘭盆会(うらぼんえ)つまりお盆と聞いて、それがまだ当分先であることにかなりがっかりきた。


 寺に近づくと道の左右の様子がちょっと変わる。左右はもう店ではない。

 大きな松の木が道の左右に立ち並ぶ。

 髪を短く切り揃えた子供が出てきて、何用かと聞く。アキラは馬の背に積んだ荷を示して、寄進の品を持参したと言った。

 子供は、では、と言って馬の手綱を取って案内してゆく。僧形ではないがいわゆる小僧か。別の子供が出てきて、(うまや)らしき所に馬は繋がれる。

 帰りの際に又お寄り給えと言われ、更に別の子供に案内されて寺の門をくぐる。荷物は子供たち数人が抱えて後ろについてくる。

 寺の広い伽藍は、松の巨木が手入れされている風景に点在していた。どの建物もえらく年季が入っており、最近朱が塗り直された建物とのコントラストが目立つ。

 塔はちょっと離れて立っているようで、森の向こうで見えない。

 どこからか鐘か何かのよく通る金属音が響いてくる。


 今度はちゃんとした僧衣僧形の僧に案内される。用向きを改めて伝えると、奥へと案内される。

 土地の老人らしき、金堂の前で土下座をする人を見る。いや、足が土下座では無い。もしやあれが話に聞く、額づいての礼拝という奴か。

 古びた回廊を歩き、裏手の大きな建物に上がり、待たされる。

 お香の濃密な匂いが漂う、薄暗い空間で待つ。

 やがて出てきたのはこの寺で一番偉い人物だ。


「いや、わたくしよりありがたき方がちゃんとおられますから」


 そう言うのはこの寺の別当、明空殿だ。

 聞けば、僧希望者を正式に僧にする受戒をする資格を持つ、講師という位が一番偉いのだと言う。明空殿は経営系の裏方をやっているという話だが、でもそりゃ一番偉いのはやっぱり明空殿だろと思ってしまう訳だ。

 しかし、どの世界でも建前は尊重しなければならない。

 特にこの薬師寺、受戒をする戒壇院を持つ東国唯一の寺というのをウリにしているのだから。


 以前より陸奥では勝手に受戒ごっこをする破戒僧どもがいるのですが、最近では密教の者共がここ下野でも蔓延るようになって……と明空殿の愚痴を聞き流す。


 実際、下野の宗教的権威は、藤原の兼光が庇護する密教寺院、天台宗大慈寺に移っているのが実情だ。

 藤原の兼光は都の天台宗、更に日光の密教寺院とも繋がりを確保していた。これは強い。

 従って足利方としては、対抗として薬師寺に肩入れせざるを得ない。たとえ最近落ち目であってもだ。


 今仏教界は都でも、そしてこの地方でも、薬師寺のような従来のいわゆる顕教は密教に完全に押されているのが実情のようだ。

 特に地方では密教は、土着信仰の神々も仏教に帰依して菩薩になっているとの超理論で民間信仰をも取り込んでしまっており、単純に強い。


 この辺りは尼女御に説明されたが、アキラはまだちゃんと把握しきれた気がしていなかった。特に八幡大菩薩のくだりなど、よくわからない。

 この下野薬師寺はかのデカチンコ怪僧、道鏡ゆかりの寺であり、八幡大菩薩、つまり宇佐神宮と縁浅からぬどころではない関係にあるのだという。なんでも道鏡は、宇佐神宮のお告げを偽造して自分が天皇になろうとしたんだそうな。


 頼季様やその一族は宗教としては八幡大菩薩信仰を選択していた。八幡大菩薩は仏ではあるが信仰の主体は寺院ではなく神社だ。

 だから頼季様の一族は、仏教とは大して関わりを持っていないものの遠からぬ縁として、下野薬師寺を助けるという事になっているらしい。

 理屈としては全く逆に、薬師寺を目の仇にしそうな気もするが、疑っても仕方が無い。

 

「源の頼季様の名代として、こちらを奉納いたします。なかをお確かめください」


 包みを開けて、紙に包まれた絹の布地、一反分と聞いたそれを明空殿のほうへ押しやる。

 明空殿はそれを一拝して取り上げ、重さを確認するように持ち上げると、脇においてこちらに頭を下げた。


「このたびは仏生節の御奉納、ありがたく受け取らせて頂きました。

 足利の御殿においては年来の供養の孝心めでたき限りにございます。仏法の庇護厚からん事を」


 ああ、これ仏生祭に奉納するという建前のモノだったんだな。

 頼季様と二人、尼女御のレクチャーを受けた時に聞き落としたか。


「で、尼女御の病はいかほどか」


「快方に向かってはおるのですが、まだ癒えたとは。

 仏生祭にお参りできぬことを悲しんでおられましたが、供物をとりあえずは持ち行けと申されまして」


 勿論、尼女御の病気のくだりは全くの嘘、仮病である。

 頼義殿と尼女御による宗教対応戦略では、薬師寺は恩を売るが一定の距離を置く相手である。手を結ぶべきは陸奥の大寺、慧日寺だ。

 これは将来の陸奥攻略を睨んだものだと頼義殿は言っていた。頼義殿の家からそのうち必ず陸奥国司が出るだろう。もしかすると秋の除目で頼義殿の父、頼信殿が国司となってもおかしくは無いのだ。

 頼義殿が都に上がられた後も、この戦略は着実に実施されていた。


 と言う訳で、さして偉くもない代理人であるアキラがこの任を仰せつかった訳である。で、この後は有り難いお経を聞いて、その後お土産を貰って帰る事になる。

 お土産とは墨や筆、紙といった文具である。要するにこういう大きな寺は文具屋でもあるのだ。

 大きな寺は墨や筆をつくる職人を雇い住まわせ、紙を買って自分たちの消費分を賄うほか、余りを地方の行政官庁に売っているらしい。写経が修行の大きな要素である寺院は、やはり最大の文具消費者であると同時に生産者なのだ。

 で、絹などの換金商品を寄付と称して渡して文具を貰うという取引なのだが、この部分から商業的な要素を糊塗するために、ありがたいお経を聞かせるコースが組み込まれている。

 

 アキラは金堂へと案内する僧へ、今晩どこかに泊めてもらえないかと聞いた。寺は旅人を泊めると聞いていたからだ。

 国府屋敷へ行く前日に寺へ来たのは、余裕を持って屋敷に行きたかったからだ。ここ薬師寺からだと国府屋敷はすぐだ。


 アキラは予想するべきだった。

 恐るべき説法漬けコースになることを。


        ・


 幸いにも、と言うべきか。被害者はアキラ一人だけではなかった。

 平良衡(たいらのよしひら)と名乗ったその男はアキラとほぼ同じ年齢だろうか、明らかに武者である。

 手のひらに変な胼胝(たこ)があるのが見えたが、よくよく考えてみるとアレは弓を引きすぎて出来るという奴だ。

 で、話してみると良衡殿は明らかにお経の内容を理解している。


「アキラ殿、さっきのはお経では無きゆえ」


 えっ、そっから理解違っていたのか。アキラは話の内容を整理してみようとする。


「すぐに判らずとも嘆くには及びません」


 講師のお坊さんはそう言う。


「お経とはそもそもが天竺のもの、言葉が違うのをまず唐言葉に、更にそれを国言葉に直したものを我等は学び、その功徳を説いておるのですが、これは仏門を長く修めたものでも難しいものでございます。

 僧都仏師が問答を盛んに行なうのも、この難しさゆえ。密法や専修念仏も難しさゆえの過ちにて」


 お坊さんは木魚のようなものを、ポンと叩いて、


「さて仏門にあるものが道を思わず違えてしまっていた、周りのものも皆立派な僧都そうずであったと誉めそやす者が、実はそうではなかった、このようなこともございます。


 かつてこの近くに金光寺という、とても大きな寺がありました。瓦屋根の大伽藍と五重塔を持ち、僧も百を超えておった寺が昔はあったのです。

 そこの僧に見龍という名のものがおったそうです。修法よくして聖人なりとされておったのですが、病を得て滅してしまわれました。


 さて墓に葬らんと言う時、寺のものが亡骸の背中に金光寺と大きく墨書いたしました。もし転生してもその赤子に文字のかたちの痣が浮かんで、それと知れるだろう、寺に知らせあるだろうと思うてのことです。

 そんな痣が赤子に有っては後々困るだろうと思われるやもしれませぬが、こういう痣は葬った墓の土で拭けば、綺麗に拭われ消えるものでございます」


 聞いていてアキラは改めて思い知るのだが、この時代この社会は、全員が転生を信じている世界なのだ。


「さて暫く待っても、痣のある赤子が見つかったという話は一向に聞きません。

 そうこうして幾年か過ぎて、金光寺の僧都が用事を得て伊勢の国を通りかかったところ、道端で黒牛と出くわしましたが、黒牛は僧都を見るや身を寄せ、離れようとしなくなりました。

 して見てみると、黒牛の背中に金光寺という痣があります。

 さてはこれ、見龍聖人の転生せし姿なりと、驚いた僧都はこの黒牛を買い取り、寺に連れて帰りましたが、しばらくして牛は死んでしまったそうです。

 これは確かにあった事として伝わった話であります」


 お坊さんは再び木魚をポンと叩く。


「聖人と云われし者であっても、知らずに畜生道に堕ちているという事がある由。

 経文を間違った解釈でそれを善人に説くならば、これは善人を迷わせた咎にて罪業でありましょう。

 しかし我ら仏門のものは、解脱への道を今だ迷い、相論しておりますれば、つまり大方のものは正道にあらず、畜生道に堕ちることでしょう。

 拙僧は思うのです。死んだらこの身体に薬師寺弁徴と墨書して欲しいと。さすれば己の信じた論解釈が果たして正しかったか、残りし者には判ることでしょう」

#16 寺院について


 地方で教育機関として機能したのは唯一、寺院しかありません。国庁近くに国分寺が設立されたのもこれで理解できます。教育を受けさせたい家は子供を寺院に送り込み、子供は剃髪しない少年修行僧、稚児として労働しながら教育を受けました。あとは得度の前に家に呼び戻せば良い訳です。

 入寺が11~12歳、得度が15~16歳ですから、中学校みたいなものですね。

 稚児と言えば男色ばかりがクローズアップされますが、教育の場であったことは強調したいと思います。

 有力な家は独力で寺院を勧請して教育の受け皿を大きくすることができました。

 寺院は作中では文房具の供給元であることが強調されていますが、薬の供給も寺院の独占するところでした。また寺院の維持の為に周囲に集められた職人達も、寺院の周囲に技能を供給しました。

 寺院の行事には様々な芸人が集まりましたし、寺社そのものも行事に延年などの芸を披露しました。また寺院はその奉仕の一環として風呂を振舞うことがありました。大寺の高僧たちは蒸し風呂ではなく漬かるタイプの風呂を楽しみました。

 同様に寺院はその奉仕の一環として旅人に宿を提供していました。古代駅制が衰退したあとの中世においては、寺院とその周辺は宿場の役割も持つようになっていきます。

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