#12:1018年3月 愛馬 (関東地図有)
翌朝、綺麗に仕上げた小刀で髭を当たると、アキラは久しぶりに屋敷に出向いた。
屋敷までの十里の道のりのほとんどは山道、木々の間や草むらを切り開いた、ついおとといまで存在しなかった細い道に過ぎない。
正直、けものみちのほうがなんぼか整っているのではなかろうか。
心細い道のりを歩きながらアキラは考える。
そもそもいったい、なんで俺生きているんだろう?
これまで半年間、生きることに夢中で、深く考えることが無かった、いや、考えまいとしていた事柄だったが、今ようやく向き合うことができる時が得られた気がする。
この半年、時々考えそうになる事はあったのだ。
でも、つらいときに考えることじゃ絶対にない。ぜっったいに駄目な考えになってしまう。
さて、この先、良いことはあるのだろうか。
短期的に見て、山奥の暮らしは屋敷の暮らしから大幅に後退したと言える。
だが、長期的に見れば、暮らし向きを大幅に向上できる可能性がある。
この時代の最高権力者である藤原道長に繋がる、かなり偉い武士に見込まれたという感触がある。要人と会ったり管理仕事をやったり、結構暮らし向きは楽になりそうな気がする。
しかしそれは、今のところ可能性だけで、そして当分は苦しいことばかりだろう。
そんな事で、これから生きていく事を肯定できるだろうか。
もうちょっと嬉しいことが無いとつらいよな。
それがアキラの結論だった。
昼前には屋敷に着いた。
「どこをさ迷っておった!」
頼義殿はいう事が勝手である。更に、明日は朝から下野国府へ行くので付いて来いという。
「馬を与える。今後よくよく屋敷に詰めて諸事おこなうように」
どういう成り行きかと思っていると、信田小太郎が教えてくれたが、アキラがいなくては管理の仕事が廻らないと、尼女御が頼義殿に強く言われたとの事。
アキラを充てにしていたのに、遠くに置くなど何をお考えか、尼はこの半年アキラに仕事を仕込むためにどれだけ骨を折ったか。
「この春より田も畑も作付けが増えて諸々変わるのに、そういう雑掌仕事のことはちっともお考えないのですね。
もしや頼義様は、信濃の目代仕事もそのような具合であられたのですか?」
ここまで強く言われては、屋敷仕事をさせない訳にはいかない。
「そのつもりで精進せよ」
とは信田小太郎の弁。
アキラが更に連れて行かれたのは馬小屋で、おお、俺の馬が!と思ったのだが、どうも馬が多い。
「頼義様が都に曳いていかれる馬が繋いである。面倒を見よ」
はいはいそうですか。早速雑用かよ。
「実際このように用事が増えて困っておったのだ。
そうだ、吾子の馬は一番右だ」
そう言われて見ると、一番貧相そうな馬がいた。
この時代、馬はかなり小さい。競馬などで見る馬とは全く違い、アキラにも容易に跨れそうな大きさである。それらと比べてもこれは小さい。
まぁ、ロバよりは大きいだろう。だが、その程度でしかない。
「よしよい、今日より吾が其の方の主人ぞ」
そう言って撫でたが、この馬は明らかに不機嫌そうにアキラから目をそらした。
ちくしょう。
馬の世話を終えて屋敷に上がる。馬の糞も処理したからせっかく洗ったのに臭くなった気がする。手足はしっかりと洗った。
「忙しい時期だというのに、いったいどこを遊びまわっていたのです」
尼女御はいう事が勝手である。
仕事と云うのは、二十人増えた分食料が足りるのかの概算だった。
母屋に几帳で仕切った場所に、尼女御のために畳を半分に切ったものを敷き、二階棚という棚と文書の入った櫃を持って来て、中の文書を広げる。
去年の記録を元に考えるのだ。
俘囚たちが畑につくる分はアテには出来ないと尼女御と意見は一致した。しかし最低限マージンくらいにはなってくれるだろう。
ざっくり見積もる。
「足りるのでは?」
しかし尼女御は、秋から七分増やしなさい、と言う。俘囚たちの食糧消費が、秋から70パーセント増加するという事だが、何故です?
「聞いていないのですか?」
俘囚と、それにアキラに嫁をあてがう話はもう、秋に実行されることで調整が進んでいる模様。秋からというのは、その頃なら農民も娘を手放しやすいだろうという事らしかった。
なるほど、アキラが屋敷で仕事ができる背景には、こういう話が進んだこともあるのだろう。
「家族のいない男を家に迎えるというのは、どの家でも躊躇するものですが、人減らしと考えれば喜んで娘を嫁に送り出すでしょう」
「……男が女の家に行くものだとばかり」
確か尼女御にそう教わった気がする。
「それは互いの家がある時に限る話です。
よく考えてみなさい。子が生まれれば妻には親の助けが要りますが、その時男の親が助けになると思いますか?
だから娘は我が親を当てにしますし、それを考えて男を婿取りするのです」
しかし、嫁が婿の家に行く新迎えの例が無い訳ではありません。そう尼女御は言う。
「そしてこの頃は婿も嫁も貧しく、現実には口減らしと変わらぬものです。
秋の収穫を食わせる余分な口が一つなくなるなら、娘の家は喜んで差し出すことでしょう」
「わかりました。しかし……それだと難しくなりますな」
「どれほどぞ」
「およそ五十斗は足りぬかと」
ほぼひと月分の食料に当たるだろうか。これはそれなりの水田が耕せて、来年の秋に収穫があることが前提の計算だ。その水田は来年の春にようやく使えるようになる。
それ以前である今年の秋に見込まれる収穫では、一年分の必要分に全く足りないと思われた。
「各郷に出させるのはどうでしょうか。娘を食わせないで済む分を少しだけ」
「食い分を負担させるのなら百姓は娘を手放さないでしょう。その分で娘を働かせたほうが百姓にとっては得になります」
足りぬなら借りるか買うしか無いでしょうね、と尼女御は呟いた。
「要するに俘囚どもに、足りぬ分を別の働きで稼かせれば良い訳ですね」
アキラはつとめて明るい声で言った。
手っ取り早いのは労役だ。ほかにも、炭やら売ってもいい。
「それで考えることにしましょう。アキラや、つつがなく事を運びなさい」
・
夕方には俘囚たちが屋敷に戻ってきた。馬鋤を使って田を掘り起こしていたらしい。
彼らが今田起こしをしているのは近郊の郷の耕作放棄された田で、あわせて3町ほどでしかないから、20人がかりでは多すぎるので8人でやったそうだ。
鍬もまともに通らない硬い土も、馬を使えば掘り返せる。今ちょうど厩に馬が増えているので、頼義殿の許しを得て馬を使ったのだそうだ。
ただ、流石に耕作放棄されていただけあって土の質が悪く、恐らく水の廻りも大して期待できないし、収穫もそれなりだろうという話だった。
これを計算に入れても足りないのが五十斗だ。
しかし俘囚たち、自分の村に家を建てたにも関わらず、夕方には屋敷に戻っているらしい。朝晩の食事は屋敷で出されるものを食っているとか。寝るのも屋敷だ。
どこで寝るのかというと置き場だという。狭いだろうに。
自分だけ馬鹿を見た思いがする。
屋敷の雑色たちの間に肩幅をなるだけ狭めて身体を押し込み、塩粥を食べながらアキラは考える。
嫁。
千年後とはその意味合いがかなり違うとはいえ、大まかには同じものである。つまり、女だ。
つまりおっぱいでありセックスでもある訳なのだが、真面目に考えると赤の他人であり、プライベート終了のお知らせでもある。
そもそもこの時代にプライベートの概念は無い。好きなタイミングで孤独を確保するなんて考え方は無い。独りになりたければ山に篭るしかない。
ちょっと嫌になってきた。
明るいほうを見てみよう。
美少女が良いなぁ。
美少女ゲット、できるかな。
ちょっと考えてみよう。近郊の郷から年頃の娘を集めて、俘囚たちと一緒に夫婦となる相手を決める。マッチングの手段は聞いていないが、合コンではないことだけは確かだ。
そうだ、まず、娘たちにまず夫を選ばせてはどうかと提案してみよう。
そうなると、俘囚たちと比べればアキラは良く見えるのではなかろうか。
顔はともかく威丈夫で目代という役持ちだ。稼ぎも良いに違いないと見られるだろう。比較優位は確実である。
で、もしアキラに人気が集中したらどうするか?
その時はアキラが選ぶのである。
たとえ近郊の一山幾らの里芋たちでも、20人もいればそこそこ見れる娘もいるに違いない。
完璧なシナリオだ。
良し。
「ほれアキラよ、この膾取って食え」
火を囲む野郎どもの手で、膾の乗った皿がまわってくる。
狭苦しく騒がしい下働きたちが火を囲む夕食も、これはこれで悪くない。
・
翌朝は水干を出して着込むと、自分の馬に乗って、頼義殿とお出かけである。
朝霧は急速に晴れてゆく。道の周りの菜の花は今が盛りと咲いている。
歩くと遠かった寺岡の鍛冶屋も、馬だとあっという間だ。
川を渡るが、ここには橋がかかっていた。
アキラはこれまで、橋なんて丸太を渡せば簡単だろ、などと思っていたが、馬で橋を渡ってみると、これは丸太では駄目だ、と気づいた。
丸太では、馬が足を滑らせる可能性がある。だから板を上に渡すなどして平らにしないと駄目なのだ。
ここの橋は、厚みのある板を三枚、川の真ん中に柱を建てて支えて差し渡していた。
橋を渡るとそこはもう足利荘の外、藤原兼光の支配地だ。
でも、だからといって戦争をしている訳では無いので、勿論大手を振って通行できるし、多分屋敷を訪問すればちゃんと歓待もしてくれるだろう、と頼義殿は言う。
「そのうち嫌でも顔を合わせることになるだろうが、当分はできるならば避けることだ。吾子に武の備えができれば、いつでも顔を合わせてよいが、それまでは避けよ」
それほど危うき奴なのですか、とアキラが問うと、武者が足利に詰めているという事がどういう事か、よく考えてみよと頼義殿は答えた。
「この東国では、盗賊も押領使もやることは変わらぬ。富む良民から財物を取り上げるのをどう呼ぼうとそれは悪の筈だが、国庁の許しを得て税を取り立てるという建前が成り立ってしまえば、それを表立って悪しくは言えなくなる。
あやつらの一族はそれをやる」
田んぼの中の道を二人馬を歩かせ、会話は続く。
「この北十里ほどに奴らの屋敷がある。
奴らの祖先、俵の藤太秀郷は偉い武者だった。元々はこの地の在庁の一人に過ぎなかったのが、平将門の乱で名を挙げて、下野国司、更には鎮守府将軍にまで昇った
藤太はいくさで荒れ果てた下野の田を直し、都より様々な職人を呼んで財物を作らせ、寺を立てた。
それまでは梓の枝一本から作っていた弓に竹を張り合わせたのも藤太だったと伝わっているが、恐らく藤太の抱えた職人に才のあるものがいたのだろう。
そういう才を大事にする事も、良き国司のあり方と言うものだ」
へぇえ、強い上に内政頑張ったんだなぁ、とアキラは感心する。
「そもそも下野の国司の役は忌み役だったのだ。
国司の仕事はその終わりに、次の国司によって詳しく厳しく調べられる。そこに間違いがあってはならないし、もし仕事の結果が悪ければ、悪政を敷いたという事で出世栄達に大きく響く。
下野は荒れ果てて、誰が国司になったとしても悪い結果しか出ないことは判りきっていた。
そこで俵の藤太秀郷は下野の窮状を正しく朝廷に訴えて税の減免を勝ち取り、世情の不安定を訴えて鎮守府将軍となった。
だがな」
ここで頼義殿の声は少しだけ低くなる。
「都の官人どもは俵の藤太秀郷を誉めそやしこそすれ、与えた官位は一代きりで、栄達もやはり一代きりとなった。
その子等は再び東国の田舎者に逆戻りよ。代々、鎮守府将軍の役職だけは貰えたが、これは在庁仕事を長年勤めたことへのおよそ褒美のようなもので、これを餌に官人どもは奴らを従わせているわけだ。
奴らが本当に欲しいのは国司の職だが、これが与えられることは無い。
そういう訳で、奴ら一族は当時の扱いを深く恨んでおる。そして常に権勢のある長者に従い、汚い仕事でも何でもやって栄達を得ようとしておる」
二人は森の中の道に入ると、馬を下りて休んだ。
馬に水を飲ませて草を食ませる。
「対して国司は権勢のある者であるとは限らぬ。大抵は長年の勤めを果たした褒美に受領として富を得ようという、五位程度の都の官人に過ぎん。
地縁があり郎党もいる藤原の兼光のような在庁に決して強く出ることが出来ん」
アキラは頼義殿の言葉を熱心に聞く。
これは源頼義によるマンツーマンの速成教育だと、アキラは理解するようになっていた。
「ほおっておけば、やがて下野は藤原の兼光の一族のものとなるだろう。平将門は国庁を焼いて朝廷から賊と呼ばれたが、兼光は決して将門の真似はすまい。
あくまで国司を立て、しかしその実は下野の主として振舞うだろう」
二人は再び馬に跨り、出発する。
「これは常陸でも下総でも同じようになっておる。
常陸は真壁の平維幹に牛耳られておる。奴ら一族は誰に任じられた訳でもないのに大掾を名乗っておる」
大掾は国府に勤める在庁官人の職名で、朝廷の任命によるものだそうだ。
国府は国司が都から連れてくる官人と、地元の在庁官人から構成されている。国司と言うのは守がトップだが、上野や常陸、そして上総の三国はその下の職位である介がトップとなる。
つまり普通の国には守の下に介がいる。掾はその介の下で、常陸のような介がトップになるような国では大掾と小掾がいるという。
更にその下に目という職位があって、ここまでが広義の国司、朝廷によって任命されて都から赴任してくるのだという。
つまり自分で大掾を名乗るのは間違いだ。
ただ、広義の国司が全員揃って赴任してくるかと言うとそうではなく、国司で一番美味しいのは一番上の守だけで、その下に旨みはない。
赴任する守、いわゆる受領は一族の中から能力のあるものや郎党を引き連れてくるのだという。それら一族で国庁を廻していく訳だ。
そして、介や掾のような職位は任命されても赴任せず、代理人を雇って、守に任命されたものに貸すのだという。
勿論、都からやってきたよそ者だけで国庁を運営できるかと言えば、違う。
代理人に地元のものを任命することで仕事は廻るようになる。最初からそういう取り決めにしておくと在庁官人の出来上がりだ。
つまり平維幹は常陸の大掾の代理人というのが正確なところとなる。
つまるところ、平維幹は常陸の大掾と同じ権限を持っている。
そして藤原兼光は、下野の介の代理人だ。つまり下野介と自称してもそこそこ正しいのだ。
「連中のその職位の委任は、代々の慣習によるものとはいえ正式なものだ。だから代理としての権限も正式なものだ。
対してお前には今のところ何の権限も無い。忘れるな。訴えられれば、どんなつまらぬ難癖であろうと負けるのはアキラ、吾子になる」
ここまで東に真っ直ぐ続いてきた道が北東に転じた。道はまだ真っ直ぐ続いている。
直線道路ばかりだ。かつては幅の広い道だったのだろうが、良く見れば微妙に曲がりうねっているのが見て取れる。そして路面は最悪だった。道と言うより小川に近い所すらある。
「今の下野の国司、下野の守は従五位平光衡殿、郎党も連れずの任官であったが、御堂関白様のお目掛けによって、我等が助けることになった。
この国で起きておることは、うまく逃げ隠れしておるが朝廷への謀反と同じもの。
御堂関白様は、在庁が権勢を握りつつある東国の情勢を憂いておられるのだ」
かつて国庁があったという荒れ野で道は北に転じて、細くなる。
ここが平将門によって焼かれた跡か。
北へ向かううら寂しい小道の先に、森と沼、そして屋敷があった。
屋敷は土壁の塀に囲まれていたが、堀は無い。
屋敷の内容は、およそ足利の屋敷と同じ程度か。上野の国府屋敷よりずっと規模は小さかった。
かつての国府屋敷は国庁と共に焼けて、ここに代わりの屋敷を建てた訳か。
沼からは森を隔てていたが、とにかく立地が陰気だ。
「アキラよ、吾子はこれより月に三日、国司平光衡殿のもとで仕事をせよ」
そういう肝心な事を、どうしてこういう最後のタイミングで言い出しますか。
尼女御には事前に話を通しているのですかコレ。
「帰ったら吾がよく説くゆえ案ずるな。なに、屋敷に戻れば人の三倍の仕事をこなせば良いだろう。それで何の問題も無い」
無茶を言わないでください。
頼義の話には多少嘘が混入しています。
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#12 牧場について
東国の武蔵、上野、信濃、甲斐、そして陸奥は馬の産地として有名でした。
特に武蔵、上野、信濃、甲斐には国営の牧場である御牧が開かれ、東北の戦地に馬を供給していました。この頃、11世紀に入ると東北の戦争は治まって軍馬の需要は減りますが、武者郎党の勢力拡大に従って細々と各地で馬の生産は続くことになります。関東では他にも下野や下総でも馬の飼育が盛んになります。平将門は下総の牧場の管理者でした。
牧場は、農耕に不向きな土地の有効利用の方法でした。溶岩地形の草原などが牧場とされました。武蔵だと荒川や利根川の上流の山間に多くの牧場が開かれました。
後の絵巻には家に上げて飼育する絵なども見られますが、この時代の馬の飼育は基本的には放牧だったと思われます。この時代の垣根は放牧した牛馬を家に入れない為のものでした。去勢は行われず、蹄鉄も付けられていません。この時代以降も都への馬の供給、貢馬は少しづつ続きますが、有力者への献上品としてです。