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#エピローグ:1037年7月 百合若 8 (完)

 由比が浜の湊、船着きでは幾らかの男たちが、折からの雨で濡れた服を乾かしていた。

 彼らは船からの荷揚げ降ろしの者たちだ。船便の多くなったこの頃、馬借から湊の荷運びに生業を変える者も多かった。

 百合若の体つきはそろそろ男たちの中でも少し小さなくらい、混ざってしまえば特にわからぬ程になっていた。下帯一つで男たちと下らぬ話をしていると、


「ほれ、者共の幾らか来よ」


 武者がやってきて働かせようとする。荷運びたちは幾らか交渉すると、武者たちが思ったよりけちであることを知った。しかし弓矢や打刀には勝てぬ。素直に従おうという事になった。


 鎌倉の町大路に出ると武者から仕事の割り振りがあった。

 明日の放生会、流鏑馬(やぶさめ)のための馬場の屑拾いと荷物運びだ。由比若宮八幡宮のすぐ前あたりに陣幕を張り巡らせるらしい。


 鎌倉の町は由比が浜の湊と共に栄えるようになっていた。つまり海に近い。

 町大路は東西に延びており、西で滑川を渡る橋の辺りで街並みは途切れている。

 南北には町大路と交差して小路が伸びている。これは南へは湊の船着きまで、北はまた滑川を渡り六浦へと続く山間へと伸びていた。

 この南への小路は、町大路から由比八幡宮の辺りまでは大路のように太くなっている。これは馬場であった。放生会の流鏑馬の奉納される時にここに馬を走らせるのだ。


 この八幡宮の前の馬場は長さ三町ほど、いまや増え続ける鎌倉の町屋の中に埋もれつつあり、佐伯兄弟の郎党六百騎が勢ぞろいするとなれば狭いだろう。

 この馬場が作られた頃は町外れであったのだろうが、町の栄えることを見誤っていたと言うしかない。ただ、おかげでこの流鏑馬は見物の者がやたらと多く集まると聞く。都の祇園のごとき様と言う人さえいる。


 鎌倉の町からずっと離れた西、鎌倉郡の真ん中に南北に延びる新しい大路が作られつつあった。この大路の左右に小路が、また東西に区切るように小路がこれから作られるという。まるで新しき都のようだ。

 この坂東の都の内裏のあたりに佐伯太郎景通の大きな屋敷が造営されていた。

 下野から取り寄せた瓦を屋根に乗せた古様な屋敷で、使う瓦の数があまりに多いためにその屋根は一度潰れかけたと聞いた。足利作りの三角屋根なら何のことはなかったのが、古い造りでは桧や桧の皮で葺くためそのあたり算ができなかったらしい。

 その屋敷からまっすぐ海に向かう大路には、これも上野下野から取り寄せる白い丸石を敷き詰めるのだという。

 ただ大路はまだ出来上がっておらず、来年には佐伯太郎景通の屋敷の前で行われるであろう流鏑馬も、今年までは由比若宮八幡の宮前で行うことになる。


    ・


 馬場を掃き清め、太夫大身のお偉方の見物用にと設えられた壇の上も洗い清めると、皆で壇の廻りに陣幕を張る。それが終わると大仕事は終わりだ。

 百合若は陣幕の裏側に廻ると、墨で印を付けていった。陣幕をめくり、その向こう壇上に席が設えてあるのを確認すると、ちょうどその後ろに付けるのだ。

 それが終わると百合若は少し姿をくらませた。しばらくして現れると町屋の影に隠してあった木箱を担いで陣幕の中に入っていった。


「何ぞその箱は」


 郎党に見つかったが百合若は、いやただ運べと言われただけにて、とのらりくらりと話をそらす。中を見せろと言われて、仕方なく開ける。


「坂東別当の鉄弓と言われております」


  ・


 相模武蔵そして安房、遠くは伊豆より多くの人々が鎌倉の放生会に集まっていた。浜辺に張られた幕に寝起きして、夜は焚き木して酒を飲み詠い踊り、祭りの始まるのを待っていた。

 朝早くから人々は八幡宮前の馬場に詰めかけていた。見物人を乗せる櫓もいくつか建てられ、銭を取っていた。ひときわ大きな櫓が馬場の北端と南端に建てられていたが、貴人でも座るのか朝のうちはまだ誰もひと気が無いようだった。


 まだ陽の昇らぬうちに、八幡宮境内では神事が始まっていた。

 朝日の昇る頃、鎌倉を支配する別府太夫、佐伯太郎景通とその弟佐伯次郎景成を先頭に、郎党たちが現れると壇上にそれぞれ座る。


「歩き巫女の美しきことよ」


 幕の奥、誰かが言うと別府太夫もそれに応え、


「あれこそ吾によく侍らせようぞ」


 笑い声が上がる。下卑た事を考えおるのであろう。

 歩き巫女に扮するは津軽小太郎の姉、将子様である。それと小太郎と五名の者たち、疫座を通じ呼び寄せた本職の傀儡子が神前にて傀儡子芸を披露したのだ。

 警護の兵が立ち、壇上の隅にそれぞれ侍る。


「あの巫女、鉄弓が何ぞ言うておったな」


 別府太夫が何か言っている。

 と、どこか向こうが騒がしくなったと思うと、綾の威しも鮮やかな大鎧姿の騎馬武者たちが列をなしてやってきた。その数は圧巻である。

 三列の騎馬武者の列がどこまでも伸びる。武者たちは壇の前で弓を脇に抱えて礼の構えを取る。列は進んでゆく。

 この騎馬武者たちは別府太夫の郎党で、総勢三百、そこで列はようやく終わった。

 しかし、すぐ後ろから別の騎馬武者の列がやってくる。これも総勢三百、別府太夫の弟、佐伯次郎の郎党だ。足利をはじめ坂東全土より郎党全員が今日ここに呼び寄せられていた。


 馬場は騎馬武者たちで満ちていた。大鎧姿の総勢六百騎、これは大軍であると同時に富の誇示でもあった。

 大鎧一領誂えるだけでどれだけの富が要るか、それを坂東に目代としてやってきてわずか10年ほどでこれだけ揃えた事からも、その日頃からの苛政は窺えるというものだ。


「坂東別当の鉄弓の弦鳴らさば、御身の栄えおること間違いなし、とな」


 幕内から誰かが言う。


「先の巫女の言か。戯れ言、そら言よ」


 さて一騎目が矢を射ようかという頃になって、幕内で何やら騒がしくなった。


「怪しき木箱にて」


 その酒壺の前に細長い木箱が置かれているのを誰かが見つけたのだ。酒は射手に振る舞い酒をするためのものだ。木箱が開けられ、郎党たちが中を覗く。

 何かと問い合わせる声に、坂東別当の鉄弓と聞きし、という答えが返る。


「用意のあったのか」


「弓には見えぬ。まじない物かと」


 百合若は武者に腕を掴まれて壇上に上げられた。刀も何も、つぶて一つすら身に持たぬ事を確かめられた上での事だ。


「これが鉄弓知りおると言う」


 ただ、火付け筒(ふぁいあぴすとん)を武者は見落とした。小さな竹筒で、これは父のほか誰も使う事のなかったと聞いていた。


 百合若は木箱の中を一瞥する。全て揃っている。


「これは粉薬に火を使うものにて」


 壇上の一同を見渡し、言う。へい、そういう事であります。

 今の百合若の格好は下帯の上に草木染の袖無し姿、帯の代わりに麻縄を巻いただけであった。烏帽子も皺の寄ってずれかけている。


 木箱の中の、ほぐした麻の屑を取り出す。火付け筒を奥まで叩き込み、素早くその先を麻屑に近づける。ここが一番難しい。火が付く。

 火縄を取り出し、先に火をつける。火が付いたのを確認すると、


「ひとつご覧に入れようかと」


 やめよ、という声もあるが意に介さず続ける。

 黒く長い鉄の棒、鉄弓、あるいは火縄銃を取り出し、鉄の小さな蓋を開いて火薬の入っていることを確かめる。火薬も弾も、昨日のうちに予め込めてある。

 しかるべき所に火縄を挟む。カチン、という音を確かめる。からくりが正しい位置についたのだ。


「早うせい。やはり弓引けぬか」


「いや、もう手間は済んだ」


 百合若は火縄銃を、別府太夫、佐伯太郎景通に向けた。


「はよう弓引かれよ」


 別府太夫は銃を知らない。まだ弓も構えていないと思っているのだ。

 自分に銃を向けられていると気づきようもない。


「されば」


 引き金と同時に轟音が響いた。


 黒い煙が百合若を一瞬包み込む。

 今度こそ骨折ることなく、先に試した通りに撃つことができた。


 驚いた鳥たちが八幡宮の境内から羽ばたき飛び立つ音がする。

 別府太夫は丸太のように倒れた。

 取り囲む者たちは、凍りついたかのように立ち竦んだ。


「坂東別当藤永修理権亮の子、藤永小次郎季明、今吾が母の仇討ったり!」


 百合若は堂々叫ぶ。一拍おいて壇上は蜂の巣を突いたような騒ぎになる。

 百合若に幾人か郎党が弓を引いてみせる。


「よし、歯向かうな」


 百合若以外の誰もが思ってもいないその時、再び轟音が響いた。

 さっきの火縄銃のものと明らかに同じ音が、重なって幾つも聞こえた。

 幕の奥、別府太夫に並び座っていた、或いは立ち上がっていた者たちが、弾き飛ばされるように倒れる。


 八幡宮の境内に、津軽屋敷が持っていた鉄弓、火縄銃五丁を構えた渡島勢、津軽小太郎の手勢たちがいる。彼らは百合若が幕につけた印を目当てに背後から撃ったのだ。


 それら轟音に構わず百合若は火縄銃から火縄を取り、火縄銃を足元に落とす。


 小路の南の端辺りか、見物の櫓が引き倒されるのが見えた。反対の方角からも音がする。

 馬場の北端と南端で櫓を引き倒し、道を塞いだのだ。これで佐伯兄弟の騎馬武者は全てがこの馬場に閉じ込められる。

 つまり、これから鎌倉は佐伯兄弟を憎む数多の勢力で溢れるだろうという事でもあった。


 背後の騎馬武者たちも流石に騒ぐのが背中に感じられるが、構わず足元の木箱を漁る。


「おとなしくせよ」


 背後から声がする。百合若は構わず、しゃがみ込んだまま油紙の封をした焼き物の壺、鉄火を手に取る。弦の引き絞られる音が直ぐ背後から聞こえる。構わず鉄火の短い火縄に火を点ける。

 だが、弓を射られたのは百合若では無かった。呻き声が背後から聞こえる。向かいの町屋の屋根に人影が見える。百合若の郎党、猿楽法師の沙阿か。町屋の屋根から煙を発する弾が幾つも、百合若の周りに投げ込まれた。

 百合若は、手の鉄火を陣内に投げる。駄目押しだ。


 百合若は足元の火縄銃の銃身を掴むと身を翻して逃げる。

 騎馬武者たちは百合若を敵と見定め、矢を放ってくる。矢が風切り音を立てて足を掠め、何か熱いものを足の甲に感じる。矢じりが身を切ったのだ。


 だがそこで再び轟音が響いた。鉄火が炸裂したのだ。

 鉄片を浴びたらしい騎馬武者たちは大鎧が大半を防いでいたようだったが、しかし馬の方は違う。鎧で覆われている訳ではなく、そもそも耳慣れぬ轟音だ。馬たちは武者たちを振り落とし暴れる。

 更にまた轟音が響く。先ほどの火縄銃五丁が弾込めを終えて再び撃ったのだ。


 百合若は背を低くして走る。沙阿の弓の援護が有難い。観衆の多くは既に逃げ出しているが、何事か大きい音ばかりでよくわかっていない者たちがまだ多く残っている。

 騎馬武者の数騎に追われていることを百合若は悟った。観衆に飛び込む。矢が構わず降り注ぐ。


 町屋の路地に入る。頭上を掠めて矢が追い抜いてゆく。後ろから騎馬武者が追ってくるのを感じる。頭の傍を矢が掠める。構わず走る。

 逆から矢が掠めて、いや違う、味方の矢だ。

 振り返ると、騎馬武者は顔の真ん中に矢を受けていた。


「御身は無事か」


 百合若の郎党、良照だ。頭を剃っていることを除けば立派な武者振りだった。弩に次の矢をつがえている。百合若は良照に告げる。


「馬を射よ。それで道が塞がる」


   ・


 鎌倉の街路のあちこちに、朱に染めた流し旗が掲げられた。武者たちは秩父自由党の者だと名乗った。武士団という奴か。

 彼らの若君、つまり秩父三郎は鎌倉の郡衙に向かったという。


 津軽小太郎らとも落ち合って状況を知る。佐伯兄弟の一族はことごとく捕まり、その日のうちに長子はじめ十名近くが首を落されたと聞いた。

 佐伯兄弟はいずれも若宮八幡前の馬場の幕の中で死んだらしい。


 その日のうちに百合若らは船で鎌倉を出た。夷隅自由党の武者共が抑えた印旛運河を抜けて、陸奥へと雲隠れするのだ。


   ・

   ・

   ・


 おおまかには、百合若の仇討ちはそういう物語となる。


 目の前の若者に語り聞かせながら、藤永右小弁季明は遠い昔の日々を思い返していた。

 百合若らはその後船で陸奥に逃れ、陸奥国司源頼清の庇護するところとなった。源頼季の兄、源頼義の弟に当たる人物である。


 そもそも鎌倉で起きた騒乱、佐伯兄弟を排する動きは、元はと言えば源頼義の統率の弱さが原因でもあった。坂東に送った郎党が勝手にその権勢を増していることに手出しも出来なかったのだ。

 平直方の娘を嫁にとったが都の務めが忙しく、ようやく相模国司の除目を受け九月に赴任することになっていた、その直前の事件だった。


 事の次第を飲み込むと源頼義は予定を前倒しして鎌倉に乗り込み、新たに荘代、目代を任命すると、源頼清と話し合い、百合若らの処置を決めた。

 まず、津軽小太郎を主たる罪人とし渡島に流すと決めた。勿論正式には朝廷で決められる事ではあるが、結局、関白藤原頼通へ送った長文の手紙通りの処置となった。

 他には罪状無しとされ、秩父三郎武基は秩父と千葉の旧領安堵となった。


 そして百合若は小一条院の院仕に放り込まれた。それは下働きに過ぎない地位であり、源頼義の目が届く場所でもあった。


 小一条院は翌年出家し、そのまま百合若は皇太弟尊仁親王に仕えることとなった。家司として藤原能信に才を見出されると蔵人として五位までは位階を進めた。だが、そこまでだ。

 百合若は実務に優れるが門閥の無い官人として、出世の道から取り残されていた。


 ただ、権能はそれなりにあるのだ。

 地方の様々な細かな情勢に通じ、諸政策を纏めて奏上できるものにまとめる、そういう仕事をこのところずっとやっている。


 都の誰にも評価されない、誰もその価値に気づかない仕事は、官位に関わらずいくらでも出来る。勿論それは明白な禁令のある場合を除いた話だ。いらいらするような禁令、例えば車輌の利用の禁令などはいくらでもあったが、他にも出来ることは色々とある。


 父の残した偽法令を本物たちの中にこっそり混ぜるのは大事業だった。清水寺に実証派の僧を受け入れさせ別院を開くのを助けたのも、石清水八幡に低利の金貸しを勧めて坂東との為替を扱わせたのも、勿論骨折り仕事だった。


 足尾の銅産出の維持も頭の痛い問題だった。商業の発達は近畿西国にまで広がり、通貨の必要は一段と増していた。必要とされる通貨の発行総量は銀貨や紙幣の発行で補うことが出来たが、小額貨幣はどうしても要る。必要分の銅貨が必要だった。しかし必要分を知るにはこの日本全土の商業規模の推測が必要だった。

 そんな事をするのは、百合若ぐらいのものである。


 百合若の最近の骨折りは、安倍頼時の一族の胡国、契丹への脱出行を助けた事だった。新たな陸奥の国司となった源頼義に疎まれていることに不安を覚えた陸奥の奥六郡の主、安倍頼時は、弟の安倍良照、そう、郎党であった良照だ、これを通じて百合若に助けを求めたのだ。

 船の手配も契丹側の受入れも百合若と疫座の者で万事整えると、安倍頼時とその一族は職を辞して、遥か海の向こうへと旅立っていった。


 次の百合若の骨折りは恐らく仙北三郡の主、清原の一族をどうするか、という話になるだろう。例によってかつて郎党であった沙阿は、清原の先祖に排された俘囚長吉美侯部の一族、平群将軍の庶子であったという。

 津軽の郎党のうちに元は沙阿の祖父の下に付いていた俘囚がいて、この頃は津軽を主として話が勝手に進んでいるようだ。

 紗阿本人は最近は清原一族の近臣として潜り込み仕え、最近は碁の師匠をしているという。一体何を企んでいるのやら。


 これら骨折りの目的は、姉を助ける事だ。

 姉の目指すものはこの歳になってようやく、おぼろげにわかるようになってきた、と思う。


 百合若は機会があれば欠かさず、疫座に関わる人間を海の向こうに送り続けていた。

 西に海を越えて契丹へ、南へ、そして東へ。猫と検疫も一緒に。

 先の世に暗い影が有ることを百合若は知っていた。黒き死の病が待っているのだ。


 父が成し遂げた事柄のうち姉が大事と定めたこの一つ、疫座をこの世に広める事、それが姉の願いだった。遥か天竺まで、黒き病よりさきに疫座の者とその技を届ける。それが出来れば、先の世は全く変わるだろうという。


 これは、父にさよならを言う仕事だ。


 遠く父に達する未来に背を向けて、百合若は自らの手で望む先の世を作らねばならない。

 そしてそれは、長い仕事になる。

 百合若の、そして姉の跡継ぎを育てなければならない。


「まこと面白き話ぞ」


 目の前の若者、小一条院の庶子、三世皇族であるに関わらずその出目を隠して育てられた若者は目を輝かして百合若の話をせがんだ。

 若者は幼き頃に既に出家させられていた。小一条院の出家後の子であり露見は体裁が悪かったのだ。出目を隠したのもその為である。しかし、若者の運命は百合若によって少しだけ歪められていた。

 出家先は清水寺の末寺たる別院、薬師院であったのだ。

 清水の坂と言えば今や薬師院の別名、医院坂である。更に近く八坂神社には牛頭の者たちが密かに青銅の筒を奉納し続けていた。

 おかげで若者は、僧にあるまじき学問をたっぷりと修めていた。


「猫の島か。そこに行けば良いのか」


 勢い込んで聞く若者、(もも)若に、百合若は答えた。


「いかにも。

 但し、能登の者には猫の島では通じぬ。鬼が島へ行くと言われよ」


 若者は髪を伸ばしており童形にしていたが、髪を結い烏帽子を被れば誰も法師であるとは思わないであろう。表向きは遙か遠くの寺に配されることになる。

 百合若は若者の前に、一振りの太刀を置いた。父の物だと伝わる品だ。


 いと長きことよ、そう言って太刀を受け取ると若者は脇に置く。直垂と、津軽製の小陣幕と野営道具は既に渡してある。

 元服させてやれぬのが心残りであった。そう言うと若者は言う。


「元服の出来ぬは残念なれど、渾名を名乗らんと思う。

 百太郎(ももたろう)、と」

#111 黒死病について


 ペストは黒死病と呼ばれ、中世ヨーロッパをはじめ世界各地、様々な時代で猛威を振るいました。ペストは複数の感染経路を持ち別種の症状を持ちますが、病原は単一の、ペスト菌によるものです。但し、現在知られるペスト菌による症状と一致しない記録も見られることから、別の病原によるものであるという説も存在しています。また実際にはペスト菌も大流行の時代に対応して三つの型があることが知られています。


 もっとも古いペスト流行の記録は6世紀にシルクロードから東ローマ帝国にもたらされたものです。これによりローマ帝国の住人の半分が死んだとされています。

 紀元前430年にエチオピアからアテネにもたらされた”アテネの疫病”もペストであるという説もあります。四千人の軍隊のうち千人がこれで死んだと記録されています。但し古い疫病はみなペストと呼ばれていた可能性もあり、症状そのものはエボラ熱に近いため、恐らくは違うでしょう。


 ペストはげっ歯類に寄生するノミを介して感染する腺ペストが最も多い症状で、これが全症状の9割を占めます。症状が進むと敗血症を呈します。敗血症による皮膚黒化が黒死病の名の由来です。空気感染する場合は肺ペストとして感染を広げます。腺ペストの症状が進んだ場合も肺に症状が出るため、これにより空気感染することがあります。ただ、基本的には感染経路はノミからのものが圧倒的に多数となります。

 ペスト菌はウイルスでは無く菌であるため治療には抗生物質が効きます。菌であるため大きさも約1マイクロメートルと大きく、千倍の倍率があれば顕微鏡で充分観察できる大きさです。ペストからの回復者は免疫を持ちますが、しかしペストに有効なワクチンは存在しません。


 ペストの宿主はノミとげっ歯類の特定のペアによって成立しています。

 14世紀のペストは、元は南ロシアから満州まで広がるユーラシアの草原地帯の穴居性げっ歯類とノミのペアを新たな保菌者として広がったものと思われます。

 更にこれは13世紀半ばに中国雲南省及びビルマにモンゴル帝国の兵士が侵入したことが契機とするのではないかと、19世紀のペスト流行の根源地との共通性から、「疫病と世界史」でウィリアム・H・マクニールは考察しています。

 以降ペストはモンゴル帝国によって東西に大きく運ばれ広がることになります。


 14世紀にイタリアで発生したペストは3年でヨーロッパを制圧し、その半数を死亡させました。フィレンツェ人口九万のうち四万人が死に、シエナでは九万人のうち実に八万人が死んでいます。これは恐らくは中央アジア起源で、交易によってイタリアにもたらされたものと思われています。イングランドでは黒死病によって人口の30~35%が死に、それに引き続いた疫病によって人口の半数が失われたと推測されています。ペストはクマネズミの繁殖地の拡大と共に広がりました。


 中国でもこの時期にペストの大流行があったものと推測されていますが記録に残っていません。1331年、クビライ亡き後の元朝の河北、つまり北京一帯では全人口の十分の九が死にました。中国の人口は13世紀初頭の一億二千万を越えた頃から、明朝が人口統計を出せるようになった1393年の六千五百万へと半減しましたが、この主因はペストではないかと考えられています。ただ、疫病と症状に関しての記録は残っていません。

 日本へはこの時期ペストの流行の記録は残っていません。またインドにおいても同様です。


 17世紀のペストは隊商によって中央アジアからオスマン帝国の港湾都市スミルナに運ばれ、ここを経て地中海全域に広がりました。このときの流行ではロンドンでは一日に六千人が死亡しました。

 19世紀末には極東で大流行がありました。1894年には香港で腺ペストが大流行し、この時にペスト菌が発見されました。1910年には満州で肺ペストが流行しました。インドでは死亡者は千二百万人に及んだとみられています。日本への記録に残るペストの上陸はこれが最初の時となります。


 ペストに対するには公衆衛生と隔離、宿主の駆除が有効でしょう。そして抗生物質の発明はペストを危険な病気ではないものにしました。

 但し、宿主の完全駆除は難しい仕事になるでしょう。20世紀以降アメリカ大陸に広がったペストは草原地帯のげっ歯類に広く広がってしまい、もはや駆除は不可能となってしまいました。

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