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#エピローグ:1037年1月 百合若 7

「佐渡は(ぬく)うある」


 膝まで埋まる雪に、津軽小太郎はじめ北に住む者たちはそんな事を言う。秩父小三郎の言うには佐渡では冬に一度か二度、この位の雪が降るという。


 ぱらぱらと降る雪の向こう、真っ白な風景の向こうに、茶色の築地塀を四角に巡らせて佐渡目代橘俊孝(たちばなのとしたか)の館がみえた。流罪人らしくその館の大きさは十間四方ほどでしかないが、築地塀の前には更に堀が巡らせてあり、佐渡目代を守って二十名ほどの武者が常に詰めていた。


 しかし今、新年元旦は違う。流罪人の身とはいえ目代として権力を行使する身として、橘俊孝は国庁で元旦の儀式を司り、郡司たちを饗応しなければならない。そもそも目代として働くことが黙認されているのは、元国司で儀式を熟知しているからというのが大きい。


 おかげで今日の屋敷のほうには留守の武者共が十名ほど詰めているだけに過ぎない。他の者は国庁で酒の振る舞いに与っているだろうことを考えると、彼らの士気は高くはあるまい。いや、彼らで勝手に飲んでいるかも知れない。何しろ今日は元旦なのだから。


  ・


 橘俊孝は殺し、その代役の偽物を立てる。代役が見知らぬ顔であろうと給を払う者、食わせてくれる者に武者共は付き従うしかない。これが津軽小太郎の策であった。


 百合若と津軽小太郎は藁蓑の上に藁笠を被り、山のように荷物を担いだ雑色の姿で佐渡目代の館の門の前に立った。門の扉を叩き、現れた武者に元旦の挨拶をぼそぼそと呟くと、二人は館の中に通された。


「酒はいくら持ってきたか」


 問われて百合若は、へぇ、持って来ております、とだけ答えた。こういう身分の者がどういう喋り方をするか、百合若は子供の頃によく見知っていた。


 荷物を担いだまま二人は母屋の裏、下屋へと歩く。


「武者のあちこちにおる」


 津軽小太郎がつぶやく。しかしそれは予期されていた事だ。


「まずはめでたい まずまずめでたや 」


 通りの良い声が聞こえてきた。


(かど)付けの来おる」


 武者の誰かが言うに答えて、


祝言人(ほかい)か。ちと入れるか」


 元旦に各戸を廻り、祝い事の口上を述べ芸を見せて祝儀を貰う。それが門付けだ。

 武者たちが門の方へ向かい、辺りに誰もいなくなる。これで二人は勝手に動くことができる。

 向こうから鼓に笛の音が響いてくる。


「千秋万歳は 喜びの舞なればよ」


 門付けを演じているのは百合若の郎党だ。沙阿は猿楽だけでなく芸事万事に通じており、こういう役にはぴったりであった。良照は明らかに高い教養を持った人物であり、祝詞の声明など立派なものである。

 これに混じって獅子の面を被った秩父小三郎が踊っている筈だ。秩父小三郎はここ佐渡では顔が割れているから仮面が要るのだ。


「さて、何処に仕込もうか」


 津軽小太郎が荷の中から取り出したのは、火薬と鉄片を詰めた小さな壺、鉄火だ。火薬は渤海から取り寄せた硝石に硫黄と木炭をあわせて作ったものだ。壺の口は板を詰め樽油で隙間を埋め油をひいた紙で塞がれていたが、そこから火縄が一本飛び出している。


 百合若には考えがあった。


「寒い所から帰ってくれば、火の欲しく思うもの、つまり」


 長火鉢の灰を掬い鉄火の壺を埋め、そして灰を被せて跡形も無いようにした。


「ふむ、では」


 津軽小太郎は竈の灰の中に鉄火を埋めた。残りの長火鉢全てにも仕込む。


 百合若は更に荷物から細長いものを取り出した。猪のはらわたを洗って、そこに臭水油を詰めて端を縛ったものだ。

 長火鉢の灰入れの中に一本づつ、燈明の台の下に一本づつ、薪の中と母屋の床下にも投げ入れる。

 津軽小太郎も同じものを仕掛け終わったことを確認すると、蓑と笠を被って、二人は門へと向かう。


「よっ、萬歳延年、萬歳豊年っ」


 偽門付けたちは芸達者なところを見せつけていた。二人は門番の武者に挨拶するとそそくさと屋敷の門を出た。


 とぼとぼと二人雪道を歩き、森に入ったところで、背後にいきなり羽黒九郎が現れた。


「橘俊孝と郎党の戻り来おる」


 空でも飛ばねばわからぬような事を羽黒九郎は告げた。


「丁度良い」


 雪道の向こう館の方を見ると、偽門付けたちは芸を終え門から出てきたところだった。


 森のはずれに津軽の武者が使う陣幕が設けてあり、館から火が見えないように折り畳みの鉄台は風除けに隠されていた。鉄台の下で赤く燃える石炭からほとんど煙が出ていないことに百合若は気づいた。


「唐渤海の煙無し炭ぞ」


 津軽小太郎は言う。


 偽門付けたちも戻ってくると、彼らに暖かい汁を振舞う。

 橘俊孝たちは屋敷に戻ったように見える。皆でしばらく待っていると、


 突如として轟音が響いた。

 首を廻すと、雪野原の向こう、館に火柱が立つのが見えた。そして轟音がもう一つ。

 母屋の檜皮屋根に火が付くとあとは早かった。


「よき元旦の火祭りぞ」


   ・


 橘俊孝は大やけどを負い、数日ののちに死んだと伝わった。

 越後国庁への使いを乗せた舟は、冬の海をついて出かけて行った。


 百合若らはそれを追い、海の上でたやすく皆殺しにした。

 彼らの船の方が大きく、速い。長さ五間ほどの小さな船であったが、十五名乗せれば丁度良いほどになる。百合若らが集めた郎党らは夏の間、十三湊の内海で船乗りとしての技能によくよく上達していた。

 使いの舟は曳いて佐渡の北側の隠し湊に泊めた。佐渡の北の方はほとんど人もおらず、目代の郎党の目もここまでは届かない。


 半月ほど待って、偽の使いの舟を仕立てた。津軽小太郎の郎党らが舟を漕ぐ。ひときわ立派な身なりをした武者が乗っている。安東安方(うとうやすかた)だ。


「迎は誰ぞ。吾は越後様の佐渡目代に任ぜられたゆえ来し」


 威張るのに慣れた口上に、湊の者たち、郎党たちが頭を下げる。

 安東安方は手紙を取り出し、読む。勿論偽物だ。ミドリマルらの手で越後国司の発給する文書を集められるだけ集め、その筆跡を真似て書いたものである。少なくとも一目見て偽物と見破られることは無かろう。


 「散位安東次郎安方、これを目代職に補し、発遣のこと件の如し。在庁官人等よろしく承知すべし。

 一事以上勤むる所に従うべし。違失すべからず」

 

 安東安方と村岡将恒の郎党が国庁を掌握すると、さっそく書類が捏造され辻褄が合わされた。

 元々、武者たちの給は佐渡の国庁に集められた税から捻出されていた。だから変わらずに武者どもに給は払える。但し払う主人がいつのまにか入れ替わっている訳だ。


 ただ、これだけでは武者共を全てその掌中に収めてしまえる訳ではない。どうやっても信頼できる郎党たちを、武者どもの侍大将として据えねばならぬ。

 村岡将恒の信頼できる郎党は皆、武蔵秩父にいる。

 呼び寄せるには、坂東の全てを掌握する佐伯兄弟をどうにかせねばならない。


「秋までには、稲刈りの頃までには全てを済ませる」


 その頃まではどうにかして越後国司をごまかさねばならない。ミドリマルが直江の津の周りに潜み、越後国司の動き謀り事を一つ一つ調べ知らせてくれるお陰で常に先手を取ることが出来る。

 しかし稲刈りが終わり、税を納める頃には誤魔化せなくなる。越後国司への貢物がなければ流石に全て露見するだろう。


 だからその前に、佐伯兄弟を討たなくてはならない。


   ・


 夏の風が吹き始めると、百合若らは佐渡を出発した。

 まずは猫の島に寄る。持って行きたいものがある。


「天女の如き」


 秩父小三郎は姉を見てからおかしくなった。あれを天女とはいかがか。目の病か何かか。

 姉は一匹の猫を船に乗せた。名をまやと言う。猫は一人前の船乗りとして認められた印だった。これと検疫の話は、津軽での船乗り修行では何度も強調されたことだった。


 鎌倉への海路は大別して二つある。

 ひとつは西廻り。遠く門司の速戸を通る長い海路だ。もう一つは東廻り。津軽と渡島の間を東に出て、陸奥の東岸を南下するより短い海路だ。

 百合若らは東廻りを採った。


 北上し津軽で様々なものを積み込む。それともう一人。


「寧子の頼みとあらば」


 津軽小太郎の姉、将子(まさこ)様だ。

 姉と同じ年頃の筈だが、比べるのもおかしいくらい、美しいお方だ。

 あんまり見ていると頭がくらくらしてくる。鼻の辺りがムズムズしてくる。何か歌でも詠んで献じるべきやも知れない。


 東廻りの船は普通、外の海から常陸と上総の境を香住の海に進み、印旛運河を通って葛飾の海に出る。そうすれば鎌倉はすぐだ。

 だが彼らはその路を採ることが出来ない。印旛運河は佐伯兄弟の息がかかっている。通ればそれと知れてしまう。

 代わりに百合若らは鹿島の沖で遥かに東に、大海のなかに船の舳先を向けた。黒潮と親潮のぶつかる危うき海を避けて遠回りするのだ。


「野比太郎多聞という者を知っておるか」


 船が岸から遠く離れて海が違う匂いに満ちる頃、津軽小太郎は百合若らに次のような話をしてくれた。


   ・


 野比太郎多聞は三浦の先に領地を持ったが、元々は平将門の末孫信太小太郎に従っていた者だという。

 信太郡は香住海に面し、古くよりその住人は舟を操るに巧みであったが、信太小太郎は坂東別当を遣わせて三角帆の秘法と大船作りの技を野比太郎多聞に与えたときく。信太船とはそもそも野比太郎多聞がはじめて作ったものである。


 野比太郎多聞と坂東別当は信太船をわずか二人で操り、鎌倉から摂津九品津まで渡ったことがあった。このとき坂東別当は、黒潮は鹿島の沖から東にまっすぐ一万五千里続いておると語ったという。


 この時のことを野比太郎多聞は、坂東別当が姿を消した万寿の末年に思い出した。

 既に野比の郎党の多くは津軽へと住みかを移し、領地に残っていたのは屋敷住みの二十名ほどと船一隻、十五間の信太船のみとなっていた。

 この十五間の信太船は印旛の運河を通れぬ。そして船が鹿島の沖を渡る事の出来ぬのはよく知れた事。試した船はことごとく失われおる。つまるところ、十五間の船では津軽へ行けぬ。


 この頃には野比の領地は小さく小さく減らされていた。全ては三浦三崎の荘園代であった佐伯太郎景通が奪いしゆえ。この頃には三浦と三崎の荘園は国司不入の別府(べっぷ)となっており、もはや国司の手も出せぬ権勢を誇っていた。ましてや小領主に過ぎぬ野比太郎多聞に何ができようか。


 ふと思いついた野比太郎多聞は鎌倉の別院に赴き、そこの僧に聞いたという。この海の向こうにはなにがあろうか、と。

 一万五千里先に唐天竺の如き大島、雨の島があると坂東別当は語っていたという。


 野比太郎多聞は一同を集め、おのが企みを話し、ついてくるものを募った。

 このとき郎党から五名が抜け、代わりに別院から五名が加わったという。船には三か月分の糧を積んだという話であった。

 牛馬は積んでいなかったという。それら畜生に食わせる糧を惜しんだという事であったが、海の向こうに牛馬がおるか、渡島のようにいない事も有り得る訳で、これは恐らく間違いであったろう。


 長元二年の春頃、船は東へと渡ってゆき、それきり何の音沙汰も無い。恐らくは皆、海の真ん中で死んだのであろう。いや、三か月分もの食い物を積んでおったのだから、どこかに辿り着いたのやも知れぬ。

 誰も戻らぬ故、その後の事は誰も知らぬ。


   ・


「もう、東へ向かう者はおらぬのか」


 良照はその野比太郎多聞の船の詳細を知りたがった。意外な食いつきぶりだ。


 他の皆は落ち着いて茶を飲んでいる。茶は船乗りには欠かせない飲み物だった。水を沸かして茶を入れることで、腹を壊すことなく水気を摂ることが出来る。

 問題は、茶の葉が東国では著しく高価であることだった。茶の木が育てられているのは相模より西に限られていた。しかし坂東では何処の関でも茶の葉には多額の関銭がかけられていた。勿論、印旛運河でもだ。


 この、海を東に大廻りする航路には印旛運河の関銭を避ける狙いがあった。茶を運ぶだけでこの航路は元が取れるだろう。


 船を一日東に走らせたのち、南に舵を切った。三日南に走って西に戻る。この先に島が幾つか並んでいるという。

 翌日には島影を見た。八丈島だ。鎌倉の別院がここに砂糖黍なるもの植え育てるのを試したというが、別院が廃されると共にここも捨てられたという。


 島伝いに北へと向かう。相模の沖に着くと船を江の島の裏側に隠し、百合若と津軽小太郎、秩父小三郎らは小舟で岸に上がった。

 少し歩くと相模の村岡に出る。ここに建つ屋敷に三人は向かい津軽からの手紙を渡すと、暫くして中へと迎えられた。

 百合若の父を悪しく思っていない人物として、姉が頼るよう指示したのがここだったのだ。


 屋敷の主は大庭行光という。祖父はかつて鎮守府将軍藤原正頼に謀り殺された藤原文行、父はかつて佐渡国司を務め数年前に死んだ藤原公行である。

 大庭行光は平貞道に養子として入り相模村岡の所領を任されると共に、村岡の西に広がる大庭荘の開墾をおこなっているという。平貞道もまた数年前に死んでおり、鎌倉の人間は多くが入れ替わっていた。

 要職を外され、領地を奪われ、未開拓地を宛がわれる。そんな人々の荘園開発を纏めているのが大庭行光だった。


 入れ替えられた者たちには不満が高まっていた。彼らの暴発を抑えるのが今や大庭行光の大きな役目であった。勿論、本人も不満が無い訳ではない。

 そこに、火種が投じられたのである。


 大庭行光は覚悟を決めた。

 坂東の各地に人が使わされる。ちょうど鎌倉、若宮八幡の放生会(ほうじょうえ)を前にした頃である。

#110 アイヌの文化について


 北海道の土着文化は縄文文化から擦文文化を経て、恐らくは更にオホーツク系の影響を受けた道東のトビニタイ文化の影響を受け、13世紀から15世紀頃にかけてアイヌの文化が成立します。

 アイヌ文化の成立に先立つ擦文文化は13世紀半ばまで存続しましたが、本州最北部の各地にも10世紀半ばまでみられました。その末期には高地性の環濠集落を築き、北方に伸張する本州文化圏、あるいは同じ文化の諸族との衝突があったものと考えられます。作中の本州最北部および渡島の民と呼ばれているのはこの擦文文化の民です。


 アイヌ文化の画期は鉄の使用にあります。鉄の刃物や道具類は擦文文化から使われてはいましたが、アイヌ文化では使用規模がほぼ10倍に増えます。鉄器使用の文化は元々オホーツク文化が大陸から輸入した鉄を利用していたのをトビニタイ文化が継承し、これを更にアイヌ文化が継承したものと思われます。但しトビニタイ文化成立の段階で既に大陸との交易は途絶え、鉄は本州から手に入れるものとなりました。アイヌは鉄の加工はおこないましたが製鉄をおこなわず、従って鉄を本州からの輸入に頼っていました。少なくとも現在、アイヌの製鉄遺跡は見つかっていません。

 漆器は本州の文化からの影響によるものだと思われます。鉄鍋は14世紀に一気に普及しました。これら道具は土器の使用を廃れさせ、アイヌの遺物が後世にあまり残らない一因ともなります。交易で入手した陶器の使用は18世紀からとなります。


 アイヌの住居は初期には擦文文化や当時の平安期の農民住宅と同じく、夏の家と冬の竪穴式住居から構成されていましたが、14世紀に住居はチセに一本化されます。立地は擦文文化とは違う、サケの漁労に特化したトビニタイ文化に近いものとなります。

 農耕は擦文文化期と同じく棒で畝を掘り焼畑をして粟、稗、黍、豆類などを育てていました。畜力による掘り返しを行なえなかったこと、また家畜が見られなかったこと等から見ても、女真等のツングース系文化の影響は見られなかったようです。人糞にしか見られない寄生虫の卵が土壌から確認されており、人糞肥料の使用もあったものと思われています。

 ただ、和人との交易が記録に残る頃になると、農耕に対する忌避が存在したことが判っています。農耕面積は縮小し、居住地の近くの菜園レベルにまで小さくなります。これは和人が交易産品を多く得るために猟と労働で競合する農耕を忌避するデマを流したのだというような説もありますが、恐らくは人糞肥料の導入とその気候との不適合による寄生虫駆除の失敗によるものではないかと思われます。まだ凍らせた方がマシだったのではないでしょうか。

 熊を祭る文化はトビニタイ文化からの移入を指摘される最たるものです。熊を狩るには毒はなくてはならないものでした。アイヌ文化の初期から毒の利用はあったものと思われます。

 服装には平安期の本州の文化の影響がみられます。しかし装身具の文化はアイヌが独自に獲得したものであると思われます。当時本州以南では装身具の文化は存在しませんでした。

 鉄と酒はアイヌの文化に欠かせないにも関わらず、和人との交易にその入手を全面的に依存していました。そしてその為の交易用の毛皮などを得るため狩猟を重視することに繋がっていきます。


 その後もアイヌの文化は少しづつ変化を続けていきました。和人の記録に残るチャシは堀と土塁の上に柵が構築され、その名も柵に由来する城址ですが、古くは13世紀まで遡る極めて小さな、砦としての利用も難しい規模のものでした。チャシは元々何を目的としていたのかは判っていません。

 アイヌの喫煙の習慣は和人によってもたらされたものとされ、17世紀には北海道でもタバコの栽培は小規模ながら行われたようですが気候から難しく、酒と同じくほとんどは本州からの輸入だったと思われます。

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