#11:1018年2月 独居
静かに、二月の霧雨が降りそぼる。
……ややこしいが要するに太陽暦の三月末だ。まだ気温は寒い。
雨のお陰で空気から、しばらく漂っていた野焼きの煙の匂いはすっかり消えていた。
アキラは一人、我が知行地、足利の山奥のあばらやにいた。
いや、あばらやではない。どんなに見栄えが悪く惨めでも、これは新築ぴっかぴかの我が家である。
……まだ竪穴式住居のほうが立派だろう。
一間、つまり3メートル四方の4隅に一尺ほども穴を掘って、高さ一間の柱を立てた。柱は生木の丸太で、一応頂部にほぞをつくって、横木に開けたほぞ穴に刺さっている。更に横木の上に直角に横木が溝に噛むように差し渡されていた。
ほぞ同士はちょっと噛み合っているだけで、嵌っているとはとても言えない。噛み合わせがズレないという程度のものでしかない。
大工のヨシツグが半日もかけずに丸太を加工して、あとは他の俘囚の家と同じく、俘囚たち全員で柱をさっと組んでしまったのだ。
俘囚たちが手伝ってくれたのは、この柱を組み立てるところまでだった。
細かい部分は麻縄で縛っただけである。
「あとは長い枝を横木に渡し掛けて縄で結び、屋根を葺け」
ということで、あとはアキラが一人で屋根を葺いた。一応他の家の屋根を作るところも見ていたのでなんとかなった。
細い雑木を百本ばかり切ってきて藁縄で横木に結わえ付け、薄野原を刈ってその茶色の葉の束で葺くと、見た目は立派な竪穴式住居だ。
いや、竪穴が掘れていないから、竪穴式住居以下だ。
一応家の周りには溝を掘ったから、水は入ってこないだろう。
……入ってこないと思う。
家の正面は大きく開口させたから、日中はまだ室内は明るい。寒くなったらそこに、戸代わりに枝を編んだものを立てかけるつもりだ。
……まだ完成していないが。
家の中央では焚き火をしている。寒いのだ。
竈を据えるとしたら家の端になる筈だが、どういう風にしたらいいものか、今ちょっと考えている。
静かだ。
諸々の材料にと屋敷から運び込んだ藁束に埋もれて目を覚まして、もう昼時になる筈だが、今日はまだ一言も喋っていない。
久しぶりだ。
ここ半年ずっと、屋敷の狭い身廊で郎党たちと雑魚寝の日々で、起きれば屋敷の雑事に追われる生活だった。
この時代に日曜とかそういう定期的な休みの概念は存在しない。
尼女御は、物忌みの日を屋敷の休みの日にしようとしていたが、不定期な陰陽道の暦に基づく物忌みは予定に入れづらかったし、アキラのような下々のものには物忌みなど最初から関係ないのだ。
薪拾いや芝刈りに山を歩くのが、かけがえの無い息抜きだった。
いまここで、この半年のストレスを実感する。
ここでは、足を延ばして、大の字になって寝ても良いのだ。
身の丈六尺のアキラは、身体を縮めてできるだけ小さくなって寝るのが常だった。それでも郎党どもからは寝床塞ぎ呼ばわりされるのだ。
「うーぅるわあわらぁひゅふぇへへぷぐわはぁー!!!」
いきなり奇声を上げても良いのだ。
「ガキの癖に偉ぶるなよクソがぁ!」
このガキとは源頼季のことを差す。ここではあえて敬称を外そう。
暗黒未開の千年前の世において、自由だとか平等だとか人権だとか、そんなものはハナクソほども価値が無い事をアキラは早々に悟った。
足利の屋敷の前で倒れていたのを助けられてひと月ほどは、ただ尼女御の好意と自分の身長の高さ体格の良さだけがアキラのすがる命綱だった。
多少は屋敷の助けになるようになって、ようやく存在することが認められ、人の二倍の働きを誰もが認めるようになって、ようやくアキラは一人前として認められた。
その一人前と言うのも、飯が食えて寝床がある、という程度のものでしかない。
そんな中、自分のポジションとして選んだのが、屋敷の名目上の長でありながら何の権限も持たない少年、源頼季の部下となる事だった。
何の権限も無いのなら実益は無い。だから他の郎党は少年をほぼ無視していた。
対してアキラは郎党が考えるような明らかな実益が無くても、少年の部下になる事は利益になると考えた。
少年は自分に出来た唯一の部下を心強く思うだろうし、アキラはいざと言うときに少年の名目上の権限がモノをいう事もあるだろうと考えていた。
何より、郎党どもが言いつける雑用から解放される。
源頼季少年は部下を得て以前よりも屋敷の者に大きく出ることが出来るようになったし、実際出来ることも増えた。
二人の主従関係は、その実、暗黙の同盟関係といったものに近かった。
だが、全人格の奉仕を要求する主従関係は、21世紀人であるアキラの人格に対してそれだけでストレスとなった。
勿論、全人格の奉仕なんて建前に過ぎない。主従関係は実際には郎党共の振る舞いのようにドライな代物で、食わせてくれる分働くという契約関係に近い。
だが、建前はちゃんと存在して、そして主人を気持ちよくさせておくほうが従者にとって大事なことも確かなのだ。
今一時的にアキラは主従関係から開放されていた。
しかし、罵倒の中に頼季の名を結局声に出さないのだからヘタレというか、結局一線をアキラは踏み超えられないのだった。
「そうだ、オナニーしよう!」
天啓がいかづちのようにアキラの脳に轟いた!
半年間の禁欲、禁オナの箍が外れる。
足利の屋敷ではオナニーなど思いもよらぬ事だった。ずっと気を張った生活を続けてきたのが今ようやく終わったのを実感し、アキラは身体の中が今にも自由に爆発しそうな気分になった。
とにかく爆発したい。もはや性欲というより、どろりとした膿だった。
それを出し切る。
・
最初の数度は何をネタにしたという事も無く、とにかく出た。
その後は、アキラの大学時代の彼女をネタにした。
その彼女というのはアキラと同じような面倒くさいひねくれた女オタで、互いに相手の面倒くささに付き合いきれなくなって別れたのだが、決して美人ではなかった。眼鏡を外すとやたら目つきが悪くなるのだ。
そもそも面倒くささに惹かれて付き合い始めたという経緯からいって、決して燃え上がるような体験とも無縁だった相手である。
それでも、この平安時代の女どもより遥かに興奮できた。
何より、くさくない。清潔な思い出のなんと素晴らしいことか。
比べるに、屋敷の女房どもは、これはもう動く大根としか言いようが無い。郷の女は動く里芋だ。大根と言えば、二股大根でオナホでも作ろうか。
この時代なら、大根に穴を開けた代物でも立派にオナホとして通用するだろう。
大根のほうが、臭くない分現実の女よりマシなのではなかろうか。
・
そうしてアキラは雨の昼間を、自らのものをしごいて無為に費やした。
驚くほど出たが、しかし今、くさい。
「風呂に入りたい……」
アキラは自分が垢まみれで汚く、髪も髭も伸び放題であることを強く意識した。
「風呂が欲しい」
風呂は絶対に作ろう。アキラは今のあばらやに隣接して新築する予定の、真の我が家の構想に改めて風呂を加えた。
真の我が家構想の根幹を成すのは、暖かさの確保だ。
この半年の屋敷の寒さにアキラが文字通り骨身に沁みて感じたのが、暖かい家の必要性だ。
何せ暖かい服を手に入れる当てがない。この時代、木綿が無いのだ。
麻をどう重ね着しても、その荒い繊維の隙間から冷たい空気が漏れ入ってくる。
我が家には煉瓦の多用と柱に筋交いを入れることは既に決めていた。
ヨシツグは筋交いなど知らないと言っていた。
「そんなもの柱に縛り付けて何の足しになる?」
柱のあいだに入れて突っ張らせるという説明をどうしても飲み込んでくれなかった。
風呂はできればタイルを使いたい。流しもタイルで作りたい。
タイルとは要するに平らな釉薬のかかった陶器だ。タイルの隙間を埋める方法を考えなければいけないが、まぁそのうち思いつくだろう。
そんなのはまだ当分は無理だ。まだ作れない。
まず作るのは木で出来た湯船になる。つまり大きな桶で、鉄鍋で沸かした湯を流し入れて使うことになる。これは他の用途にも使うことを想定したい。
直径2尺高さ3尺の木の桶を作る。
この時代そんな大きさの桶は無い。しかし板さえ作れれば、板を組んで桶は作れる筈だ。そういう意味でアキラは鋸を強く望んでいた。
そういえば弓も作らないといけなかった。
木炭も作ることになっていた。
アキラは既に古い炭焼きのあとを見つけていた。しかしこれはただの窪地でしかなく、石組みのものを期待していたアキラはがっかりしたのだった。
砥石は実はあっさり見つかった。
奥山を越えると、馬を放牧する牧があった。藤原兼光の持ち牧であったが、老いた牧司はアキラが足利屋敷の人間とは気づかなかった。二人は色々と世間話に花を咲かせ、牧司はその中で砥石のありかを教えてくれたのだ。
「牧の真ん中の川原の石がちょうど良い」
ただ、寺岡の鍛冶屋には持って行くことならんと言われておるんだよ。そう老牧司は教えてくれた。
寺岡の鍛冶屋が砥石を手に入れられなくなったのは、藤原兼光のせいだったのか。
そのときに拾った石が家の中に数個転がっている。
ほとんど平らに自然と割れる性質の粘土岩で、でもそれから更に平らにしたほうがいいだろう。
二つの砥石を擦り合わせれば、二つとも平らになる筈だ。
だがそれは水仕事になるだろうし、それは今ちょっとやりたくない。
来年春までには水田が作れるくらい開墾したいし、この春からでも何か植えられるのなら植えたい。
問題は水田だ。水を張るからには水平でなければならないし、水も引かないといけない。
色々考えると、測量みたいなことが出来たほうがいい。土地の高さを広い面積で管理したい。水を引くルートもそこで割り出したい。
肥溜めを作る場所も決めないと。実際に肥料に使うかは別として、肥溜めは作って研究することに決めている。それと別として便所はどうにかしたい。今朝はそこらの草むらでしてしまった。あれはいけない。
水というところで思いついたが、井戸はどうだろうか。上流から水を生活用水を引いてくるとしても、所詮山水である。井戸があれば便利だろう。
だけどどうやって掘るか。鋤で掘っていくか。スコップでも作るか。
考えてみれば水が出てくればいいのだから、人が入れるような穴は要らない。ボーリングできればなぁ。
アキラはしばらく、鉄の棒をドリルのように地面を廻し掘るところを想像した。
……考えてみれば、鉄の棒が十分細ければ、地面に勢いをつけて突き込んでいけば穴が開くのではなかろうか。地面は所詮土だ。鉄には適わない。
しかしそんな長さの鉄の棒は手に入るとは思えない。アキラはこの考えを頭の中から追い出した。
鉄と言えば、武器が要るかもしれない。
盗賊が出るのだ。
この時代、盗賊は頻繁に出没しては様々に荒らしまわっていた。
この時代の家は戸締りもへったくれも無いのだから簡単に入れるし、警察力も無いのだから自力で財産を守るしかない。
都には検非違使だったっけ、警察力は存在しているというから違うらしいが、少なくともこの東国では警察は期待できない。そもそも法の支配と保護が、そういう方面にあんまり及んでいない気がする。
そういえば、この時代出回っているどの刀も、ちょっと短い気がする。
刃渡りが60センチくらいしか無い気がするし、柄の部分も短い。
使っているところを見た事が無いので想像だが、多分片手で振り回すことを想定したものではないだろうか。
だったら、両手で持つような奴が欲しい、とも思う。そうすれば身体の大きさと合わせてリーチで圧倒できるだろう。勿論槍が出てきたらおしまいだが。
だがアキラはこの時代で槍を見ていない。
この時代のメインウェポンはあくまで弓だ。
と云う訳で、とりあえずアキラは自作のクロスボウを持ってくる事を優先することにした。
あとは、山の各地から引き揚げてきた罠の弓だ。
以前罠を仕掛けていた場所は新たに近隣の住民が入れる入会地として公開されたため、急遽罠を取り払わなければならなくなっていた。
代わりにこの奥山への住民の立ち入りが禁止となったが、流石にここまでの奥山に住民が来ることは以前から無かったようだ。
と言う訳で、山には野生動物でいっぱいである。
奥山の北の牧の老牧司の云うには、冬には狼も出るという。だから冬は馬は皆平地のほうへ連れて行くのだそうだ。
しかしまずは薪の確保が優先される。ちょっと拾ってきた枯れ枝程度では長期的には足りないだろう。枯れ木や倒木を薪に加工したい。その上で、薪を濡れないように保管する場所が要る。
あと、生木を伐った後、しばらく乾燥させるための屋根も欲しい。
適当な枝と草ででっちあげなければならない。
これは急いだほうがいい。
……そろそろ考えることが尽きてきた。
対して、身体を洗いたい欲求が増してくる。臭い。洗いたい。
石鹸が欲しい。どうやれば作れるのかも判らないが、欲しい。
しかし、石鹸が無くとも何とかしなければ。
雨は止んで、雲はあるがしばらく前ほど寒さは感じない。
アキラは立ち上がると、川を堰止めるために石を運び始めた。
水を使う仕事は今後その水辺を使うことにしよう。ちょうど平たい岩のある傍に、アキラは小さな堰を作った。岩の上を綺麗に掃いて、洗った服を岩の上に並べて干す。
多分服にはシラミの卵があるはずだ。あとで確実に石で潰さないと。
アキラは裸の身体を藁の束でこすりながら、堰で水嵩の増えた川の流れに漬かった。といっても水量は全く足りない。頭を水に突っ込んで髪をすすぐ。
髪をちょっと切りたくて、アキラは裸のまま家に戻って、小刀を持って戻ってきた。
堰の水面が歪んだ水鏡を作っている。
伸びすぎた髪をざっくり、五寸ほども切る。はさみが切実に欲しいし、櫛も欲しい。櫛は作るか手に入れるかしよう。
もし鋸が上手くできれば、櫛は作ってみたい。
髭の手入れもする。剃ってしまっても良いか。しかし今の小刀の刃の具合ではちょっと避けたい。刃を研いでからだ。
そうだった、ちょっと砥石をどうにかしよう。
拾ってきた石のうち、一番平坦なもの2つを向きあわせて水に沈め、引き揚げると2つを互いに擦り合わせる。
最初はあまり摺れず、仕方が無いから平たい岩の表面に擦り付けて削ったりして、二つの接触面を増やしてやって摺れるようになった。
手に摩擦を感じる。ときどき水をかけながら続ける。
身体が冷えてきたので、服を着ようとしたがまだ乾いていない。家まで戻って火に当てる。
火のお陰で身体も温まって、服を着られるようになる。
水辺の岩に戻って砥石作りを再開する。
良い感じになったと思ったところで、小刀を研いでみる。
研げているようだ。刃がガタガタなのは変わらないが、輝きが戻ってきた。
鎌を研いでみる。
砥石はこれで良いのではないだろうか。あとはひたすら研ぐだけだ。
アキラはその日、砥石を6個仕上げた。
シラミの卵を潰すのは、その日は忘れていた。
#11 砥石について
砥石は古い時代から粗砥や仕上げ砥など、荒さ別に使い分けが行なわれていました。
粗砥は大抵砂岩が用いられました。中砥は頁岩などの堆積岩、安山岩や凝灰岩でも粒子の細かいものが用いられます。仕上げ砥となると同じ頁岩でも粒子の細かさの要求は厳しくなります。
良質の仕上げ砥の産地は京都周辺に偏って存在しています。殆どの産地は京の西側の山中で、青みを帯びた頁岩の砥石が有名です。