#エピローグ:1036年7月 百合若 6
「橘俊孝とやら、流罪なれば討ち取っても罪には問われまい。無位無官ぞ」
佐渡の村岡将恒の子、若竹丸は百合若とは歳同じほど、しかしずっと言う事が乱暴であった。
ただ、郎党も居ない身であり口先ばかりとも思われている様子で、しかしそこに百合若という格好の仲間を得て若竹丸はここに盛大に吹き上がっていた。
橘俊孝というのは元は受領で任地の出雲大社神人と争い、本殿が神罰で倒れたと嘘をついたのが露見して罰せられ流されたという、なかなか愚かしい経歴の持ち主だった。
それだけなら可愛げもあるが元より悪受領として名高く任国の百姓たちとも争っており、郎党を使って色々に乱暴なこともしたらしい。
こいつが事実上の佐渡の目代、越後国司の手下であった。
「しかし橘俊孝にも郎党のおろう。数のいずこばかりあろうか」
「二百はおらぬ」
これらは坂東の佐伯兄弟の送り込んだもので、元は常陸あたりの食い詰めた武者たちであるという。村岡将恒ら武蔵の武者と意を通じる事の無い者をわざわざ選んだとみえる。
「で、こちらは」
百合若は知っているが、村岡将恒の許には武者働きの出来そうなのは二十ほどもおらぬ。元々の郎党はみな武蔵秩父に置き残されていた。
「少なくとも五十は郎党集めねばなるまい。その上で険しき所に誘い込み皆殺しにせねばならぬ」
百合若はそう論じた。若竹丸は反論する。
「橘俊孝のみを殺さばよかろう」
いや、頭だけ殺しても代わりが来るだけだ。橘俊孝がよっぽどの大人物ならともかく、金銀目当てに越後国司の手下となっているだけの小人である。
この佐渡支配の柱は二百の郎党だ。これが有る限り村岡将恒の方には自由が無い。
自由という考え方は、ここ佐渡では誰もが口にする考え方だった。
牛頭の本ではよく出てくる言葉であったが、他の人が使うのはまず聞いたことが無い。
そもそも難しい言葉である。それが指す物が何ぞある訳でも無い。それは人のありようの言葉であって、仏典から飛び出してきたようなふわふわした意味しか持っていない。
だがここ佐渡では、自由とは単に好きにやる事ではない。橘俊孝が押し付け無理やり遣らせるあれこれから逃れ、うち倒し、更には越後国司の権令をも拒む、そういうありかたを打ち立てることを意味していた。
「自由とは何ぞ」
そう聞くと若竹丸は次のように答えた。
人と人の間には契りというものがある。親子、友、そして主従にも互いに結ぶものがある。だからこそ従者は命かけて仕え、主人はそれに応える。契約、約を契ることこそ奉公の本願である。
その契りの無い人と人の間には、自由がある。何の約もなく、それゆえ何の役も負わぬ。主従でもなく勝手言いたるに従う事はなき。官人なれば国の役にも従おうが、無位無官無職の身で従う事が要ろうか。
そういうものであろうか。
一方で、母の仇討ちに佐伯兄弟を討つというのは果たして良いのか、そういう不安を百合若が漏らすと、若竹丸は構うことは無き、母の仇は討たねばならぬのだから、それらしきを討っておけばよい、とまた乱暴な事を言う。
要するに、武蔵秩父の武者連中の不満を晴らす機会だから百合若の仇討ち話に乗ってきているのだ。これで良い大義の出来たと喜んでいるのだから、百合若はあまり不安や理屈っぽいことは漏らせない。
さて、郎党を集めるとすれば佐渡の外になる。村岡将恒は津軽の源頼季を頼る事を薦めた。
「まず、相応しき方に加冠のお願い頂く事が先であろう。何事も元服が先ぞ。
その後はそのまま陸奥押領使のもとで働くも良い」
村岡将恒の考えはわかる。わが子若竹丸を島の外に出したいのだ。
しかし百合若と若竹丸は、必ず佐渡に戻ると決めていた。
・
新月の夜の遠渡し船で二人は旅立った。
「船も欲しいな」
遠渡し船はただの船ではない。この暗闇を磁石と星を読むことで難なく渡ってゆく。夜のうちに雲が出ると、縄を船から垂らして水底までの深さを測る。浅瀬を避けるためだ。
このような技能は三角帆の驚くべき働きとあわせてこの海を我が物としていた。しかしこれら高い技能技術があっても、冬の海は厳しいという。
「風の強すぎるは帆にとって良いことではない。船の揺れれば風の当たり方も変わる。その変わり具合が帆を引き裂く。
宋の船は木の綿で帆布作りおると聞く。強き帆があればいくらか変わろう」
船頭は平良衡の若い郎党で、いまはなき鎌倉の別院で船造り、算術と測量、航海術を学んだという。
「船が欲しくば、まず諸々学ばれよ」
船頭は若竹丸の船が欲しいという言葉にそう答えた。
船頭は二人を船士見習という臨時官職に任命した。
船の上には、船頭を大将としたひとつの武者所がつくられていた。船頭の下に副頭がつき、その下に武者たちが船士として船子たちを従わせる。
船を動かすには多くの人手が要る。帆を広げて張り、綱を引いて、そしてまた綱を緩めたり引いたりして帆の向きを変え、そしてまた畳む。
全てが一斉の合図で行なわれる。息を合わせなければ張り詰めた綱はすぐに暴れる。
船子たちは歌を歌う。若狭で嫁を貰い、津軽で馬を貰い、塩州で革衣を貰い、佐渡で金を貰い、泉州で館を貰う。
百合若と若竹丸も声を合わせて歌った。声を合わせて綱を引いた。
船には一匹の猫が一緒に乗っていた。若竹丸は猫を見るのが初めてだったからしきりに構おうとしたが、必ず逃げられた。猫は虎丸といい、畜生の分際で船士の身分が与えられていた。
鼠を獲らせる為に乗せているというが、船に鼠など棲むのであろうか。魚を食わせるので餌に苦労しないのは良いのだが。
二人には更に別々の仕事が与えられた。時計が鐘を打つ毎に若竹丸は船の速さを測る。船の後ろから綱を降ろして、それがどのくらいの速さで引っ張られるか測るのだ。
百合若は六分儀を使い陽の高さを測る。揺れる船の上ではとてつもなく難しい作業だが、慣れるとなんとかこなせるようになる。
日が出ていて揺れが少ない時は磁石とあわせて陽の一番高く昇る刻を割り出し、時計のずれを直す。
船頭は二人を呼ぶと紙を広げ、二人のもたらした値に従って紙の上に竹筆で線を描いてゆく。その線が津軽に近づいていくことに二人は気づかずにはいられなかった。
翌々日には船は津軽、十三湊の前に辿りついていた。
・
船を下りた二人は十三湊の屋敷でそれぞれ名乗ると、そのまま屋敷に留め置かれた。
源頼季の屋敷へ迎える使いが来たのは二日後だった。二人は小舟に迎えられた。小舟は広い内海を横断し、沼の連なる中へと入ってゆく。
朝霧の向こうに大きな船の影が見えた。船の上では人が忙しく動いているようだ。これは内海の中で船の扱いを稽古するための船だと聞いた。
季節は既に梅雨の頃の筈だが、昼もまだ肌寒いほどだ。その日は沼地の中の島で寝起きした。宿らしく小屋はあるものの、他には何も無く寂れたものである。
更に舟の進むと、辺りは次第に川らしくなってゆく。
突然川は堰で行き止まりとなった。一行はここで舟を降りて馬に乗り継ぐ。
百合若は馬に乗ったことがない。恥ずかしい思いをしながら、一人歩くと告げた。
原野はまだ切り開かれている最中に見えた。田は水路の傍に規則正しく並んでいたが、その外側にもすぐにでも広げることができそうに見えた。恐らく、田を耕す人手があまりに少ないのだ。
ところどころ、原野のあとであろう藪が線状に残されているのも奇妙に見えた。その藪に沿って木が植えられていた。聞くと風避けだという。これが育つまでどのくらいかかるだろうか。
大きな山が次第に近くなってきた。岩木山だという。
津軽の野の奥に源頼季の屋敷と、小さな町があった。
小さな寺と社もある。この辺りまで来ると田は平地を覆って広がり、人々の往来もある。
屋敷で二人は源頼季に迎えられた。
「よく生きておった」
百合若は源頼季に抱きしめられた。その後から多くの人が途切れずに百合若の手を握りに来る。
「百合若様や、覚えておられるか知らぬが、吾は」
年老いた雑色に手を取られる。
「国庁におった」
「はい、よく遊びに来られておりましたな」
泣く雑色に抱き竦められていると、次の者が無理やり割って入った。
「吾は厩にいた」
別業の武者だ。覚えている。百合若と同じほどの娘がおった筈だ。
もみくちゃにされ、ようやくひと息つくと、屋敷の奥に通された。
老婆が待っていた。
老婆は床に臥せていたのを、傍にいた美しい女性に上体を起こさせた。
「無事で、まことに、まことに良かった」
尼女御か。しばし気づかなかった。
手を取る。枯れ木のように細い。
「お身体はいかがか」
しかし尼女御は、済まなかった、津軽の厳しい頃で探すに人手の取れず、済まなかったと繰り返すばかりだった。
流石にこれ以上は身体に障ろうと、その場を辞した。
戻ると、源頼季は既に村岡将恒からの手紙を読み、返事を認めたあとだった。
「喜んで加冠役いたそう。吾が子もそろそろ元服をと思うておった処ぞ。三人、来月の吉日を選び元服とりおこなおう」
・
百合若はそれからひと月の間、馬の練習にはげんだ。
源頼季の子、千代若は百合若と同じ年齢で、馬に乗るのが極めて巧みであった。自然、百合若の馬の師は千代若となった。
若竹丸も佐渡ではあまり馬を乗り廻したほうではない。三人で遠駈けできるようになるまで百合若たちは練習に励んだ。
遠駈けの夜は津軽の武者たちが使っている行軍用の小陣幕を使った。竹の棒を立てて柿渋と油を引いた布で三角に小屋を作るのだ。
寝袋という袋の使い方も教わった。寒くなると袋に入って寝るのだという。折り畳みの鉄台に鉄鍋を掛け、豆炭と呼ばれる小さな塊に火を点け米を焚き湯を沸かす。
千代若は弩の扱いも手慣れたものだった。山鳥を射て落とすと羽根をむしり焼いて食う。
千代若は島の暮らしについて話をせがんだ。この津軽からまだ出たことが無いのだという。元服すれば好きな所に行けばよかろう、と若竹丸は言う。
しかしそれより、五十の郎党だ。
「渡島にいくらでもおると聞く」
千代若は気楽に言うが、聞くととにかく寒そうだ。というか津軽ですら寒そうだ。
若竹丸は、以前百合若が言った言葉を蒸し返した。
「疫座の者共から郎党募れば良かろう」
姉がそう言っていたからその気になっていたが、果たして出来るのか。
百合若と千代若、若竹丸の三人は髪を結い、烏帽子を被り、諱を貰った。
百合若は季明、千代若は国季、若竹丸は武基と名乗ることとなる。
三人はここで義兄弟の誓いをした。諱は普段呼ぶことは無い。代わりに千代若こと源国季は津軽小太郎、百合若こと藤永季明は藤永小次郎、若竹丸こと平武基は秩父小三郎とそれぞれ名乗ることとした。
郎党を得るため、三人は二手に分かれることになった。小太郎と小三郎は渡島へ、小次郎つまり百合若は疫座の者から郎党を探す。
期日は一年、来年の夏とした。
・
「で、得た郎党は十名か」
小太郎と小三郎の後ろに並ぶのは、言葉の通じぬ男たちだった。
「吾子は五名か」
百合若の後ろ、実のところは三名、あとの二人はミドリマルと安東安方だ。
津軽で二人と別れたあと、百合若は出羽の秋田城へ行った。
秋田城はこの頃再び建て直されたもので、その城柵のすぐ前に臭水つまり油の湧くためこれを汲んで各所に運び、蒸し留め釜で様々な油に選り分けていた。というか、臭水からつくる油は石炭の採れぬ今の津軽の命綱であった。
また、ここで造る黒臭水、樽物と呼ばれるものは船の水漏れを防ぐために多く使われるという。
百合若はここにいた安東安方の仕事と油採りを手伝いながら、牛頭講の伝手を頼ってミドリマルを呼び寄せた。
「疫座の多くおるは会津にて」
ミドリマルは即答した。佐伯兄弟の兄が廃した鎌倉別院の者たちのほとんどが会津の慧日寺に流れたという。
会津に行くしかあるまい。
それとは別に、ミドリマルには頼みたいことが有る。越後国司の動きが知りたい。
「猫の島の姫の為とあらば、牛頭講でその役引き請けおう」
牛頭講の者たちは越前から能登、越後までに広がっていた。ただ、出羽は南の方だけだという。
出羽の北の山のほう、仙北三郡は武者とも呼べぬ荒き者共の地で、疫座や牛頭講、傀儡子に至るまで見かければ殺すと言われていた。
「陸奥の北の方も荒きと聞くが、この地は更に険しき」
馬を借りたので旅は順調そのものだった。阿賀野川の河口でミドリマルと別れると百合若は会津へと向かった。
稲刈りの終わる時期の会津、慧日寺で百合若は郎党を募った。
二十日もしないうちに三十名ほどが慧日寺に集まった。いずれも曰くの在りそうな剣呑な連中と見えた。
「坂東別当の子とは吾子の事か」
ある男は猿楽の面を付けたまま、慈恩寺の粕原太郎と名乗った。僧だと言うが髪はしっかり伸ばしており、結っていないだけで、そもそも法名すら名乗っていない。
羽黒九郎という大男は、八津の丸子という小柄な女が連れてきた者だった。
八津の丸子は百合若の袖を引くと、これは化生の者であるが吾子の為に働かせる、と百合若の耳元で囁いた。
タウメと同じような者か。百合若は頷いた。
集まった頭数にさてどうやって食わせるか思案していたところに、直垂姿の武者が、ではそろそろ、若君の郎党たるを決めようか、と言い出した。
いつのまにか、相撲がはじまっていた。
慧日寺の鐘搗き堂の前で、どんどん男たちが投げ飛ばされてゆく。毛皮を被った荒夷も、武者立ちの良い大男も、分け隔てなく投げ飛ばされてゆく。
残ったのは、三名。
「出羽慈恩寺の猿楽法師、沙阿にて」
粕原太郎だ。こいつ法名を今頃名乗りやがった。
羽黒九郎はその場に立っていただけだったが、どうやら勝ち残ったらしい。
「良照にあります」
僧形の男だ。袈裟を着込むと立派な法師にしか見えないのだが、これがさっきは下帯姿で男たちをさんざ放り投げていたのだ。
その冬は会津慧日寺の別院に篭って越した。新たな郎党と共に寺の労使に汗を流し、学問僧や工事僧に様々なことを学んだ。
鉄弓の事を知っている僧もいた。百合若は鉄弓を使うための諸々を詳しく知り、そして疫座を通じて硝石を手に入れる手筈を整えた。唐のほう山東では、土のうえに硝石がごろごろと転がっているという。これを契丹経由で手に入れようと言うのだ。
春が来て、百合若は三名とミドリマルを連れて津軽へと戻ってきた。
よくよく考えてみれば、三名で十倍の働きをするのだから問題は無い。食わせる分も三人分で良いのだからこれは得である。
途中で寄った秋田城の安東安方があまり身の置き所がなさそうなので、百合若は吾が郎党にならぬかと勧誘した。返事は禄次第とのこと。
「しかし、十五では五十には程遠き」
顔をしかめる百合若に津軽小太郎は切り出した。
「いや、術ならある」
#109 元服について
子供を成人へと認める儀式である元服は、決まった年齢や日付で行われるものではなく、何らかの条件が揃えば任意の時期に行われました。勿論年齢の幅というものはあり、五歳程度から十六歳程度までのどこかで行われました。
ここで子供は髪を結い烏帽子を被り、諱を得る事になります。ただ諱は呼ばれるのを避けるため、普段は字名や綽名を使いました。また、一般庶民は成人してもそのまま幼名を名として使う場合も多かったようです。
成人すると例えば官位を得られるため、貴族の一部は元服をひどく急ぎました。とりあえず宮中に上げるために娘の成人儀式である裳着を早く行う例も同様にありました。
武士の元服は戦への参加をするかしないかの境になります。従って初陣を飾る能力が見込める年齢まで元服は遅らせるのが普通でした。
諱は親や親しい上位者の名前から一字貰って作ることがありました。初めは勝手に付けていたものと思われますが、上位者から正式に貰う偏諱という形式が後に定まります。
家で共通に伝承する諱である通字や、兄弟で同じ一字をもつ系字も作中時期からよく使われるようになります。ただ作中時代はそれほど厳密な適用はありません。例えば源頼信の諱は親(源満仲)から伝承したものではなく、藤原頼忠あたりから勝手に採ったものかと思われます。
作中の源(津軽)小太郎国季の諱は、源頼季の諱から季の字を、信太小太郎の諱である国将から国の字を貰ったものです。
百合若こと藤永小次郎季明の諱は、源頼季の諱から季の字を、アキラの名から明の字を貰ったものです。
平(秩父)小三郎武基の諱は、武の字を武蔵竹芝にちなんで付けたものと思われます。幼名若竹丸の竹の字もここに由来します。