#エピローグ:1031年7月 百合若 3
武者は平の将恒、秩父の乱の責を問われて佐渡に流された身であった。
百合若が訪れた当時の状況が飲み込めるようになったのは、ずっと後になってからだった。
百合若がまだわずか八歳の身では全く分からなかった事だが、当時の佐渡は大きく変わる境の頃であった。この時に百合若の会った人たちのうち多くがその後二度と会えない遥か海の果てへと旅立っていったのだ。
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事の始まりは平良衡という受領が佐渡の国司となった事であった。これが万寿の四年の事だという。百合若が佐渡にやってくる五年前だ。
平良衡は父と親しくしており、前の任地の頃から海を越えて日本国の外、渤海国の残党と様々に売り買いをしており、佐渡では更に金を掘ろうとしたという。
その為に足利の別所や足尾、秩父から人を多く雇って佐渡へ連れてきて、更には別院も造っていた。その為に荘園ひとつ開墾して、別院へ寄進するという熱の入れようだった。
佐渡の金掘りは最初からうまくいき、初めの年から金四百両を得たという。四百両というのは重さでいうと銭四貫ほどになる。以前から知られていた鉱のほか、新たな金の鉱、銀の鉱も見当てをつけ、金掘りの為に越後から連れてきた散所の衆で新しい村が造られた。
こういう新参者が多くやってくると古くから住むものは色々と険しくなるものだが、平良衡は堤を多く作り石灰を田に撒き、そして私出挙を禁じた。郡司たちには砂金を握らせ黙らせた。
洪水を防いだ事と翌年の豊作とをみて、佐渡の人々は平良衡を善司であると褒めそやした。
翌年は更に金千両を掘り、十間の信太船も得て、様々に船を走らせては様々な珍品で一杯にして佐渡へ帰って来たという。
特に海の向こう、渤海残党との売り買いは武者郎党の貸し出しまでおこなうようになっていた。
当時その地を支配していた契丹国の力は弱っており、盗賊の多く群れ乱れていたという。商いを守るために付けた武者はやがて、大きないくさ働きにも出るようになったのだ。
遂には向こう、東京なるところに屋敷まで建ててしまったという。
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平良衡の黄金の日々は、当人には全くの咎無く終わりを告げた。
長元二年、興遼、渤海後裔の復興した国から都に使いが来た。興遼は前の年に契丹国に住む渤海残党らが謀反して起こした国であった。
彼らは日本に交易と支援を望んだが、朝廷の朝議では支援はよろしくなく、従って交易もよろしくなかろう、何か物持たせて帰そうという話に落ち着いてしまった。
問題はその時使節が漏らした平良衡の話であった。
朝廷の許しなき交易は禁じられていた。だから平良衡は珍品を各所に貢ぐとき、出所を北夷のもとからであると説明していた。北夷の野人が宋などから交易で得た珍品を、また交易で平良衡が得るという理屈だった。
これら説明はある程度は正しかった、なにせ交易相手は国の体を成していない渤海残党だったのだ。
ところが渤海残党が国をつくってしまった。そして既に付き合いのある交易相手として平良衡を挙げた訳だ。
これは重罪だった。
去年出来たばかりのぽっと出の国であろうと関係ない。その翌年には滅びてしまう国であろうと関係ない。
関係累系みな罰せられる。もはや平良衡に栄達の道は閉ざされた。
いかに富を積み上げようと、都での官途はもはや望めない。
ここで平良衡は思いもよらぬ挙に出た。
一族郎党を引き連れて海を渡ったのだ。
この頃既に興遼、渤海残党の国は契丹に攻め滅ぼされてしまった後である。結局興遼は二年と持たなかった。そんな連中のせいで平良衡の日本での出世は無くなってしまった。だが、別の国ではどうだろうか。
海を渡った平良衡は渤海のうち海に面した辺りの残党をまとめると契丹の宮廷に赴き、契丹の皇帝の前にひざまずいた。平良衡としては朝貢貿易の相手とようやく出会えた、という所だったのかもしれない。
渤海の海沿いは既に契丹の支配から離れた地とみなされており、興遼の渤海残党を受け入れる余地があることから契丹皇帝はこれを厚く遇して渤海残党の支配に利用した。少数の新顔である日本人なら反乱したとしてもたかがが知れている。
平良衡は契丹国から官位を貰う身分となった訳だ。支配を任された土地の広さは坂東にも勝るものだという。
平良衡に海を渡るのを決めさせたのは石炭であるという。良い石炭と石灰が簡単に得られて、鉄も得られると知った平良衡はここに別所を新たに設けて鉄をつくることとした。
寒地の石炭は意味がちがう。それは命そのものである。
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さて、佐渡を去った平良衡に代わり、佐渡に目を付けたのが当時の越後国司、従五位下高階敏章であった。
佐渡の国は遙任国となり、高階敏章の推薦した目代が佐渡を監督することとなった。狙いはもちろん金である。
しかし、平良衡は海を渡る前に金鉱をみな隠し、人も連れて行ってしまった。隠したのは後に金を掘りに戻る事も考えていたためだというが、後に渤海の領地でも金を掘るようになり、人をみな海の向こうに引き揚げたという。
自前で金を掘ることが難しいと知った高階敏章はとりあえず手当たり次第に越後に持って帰った。直江の津の鉄選り輪はそういう由来であったのだ。
高階敏章は諦めず、伝手を頼って足利や鎌倉から人を得ようとした。ここで手を組んだのが相模三浦と下野足利の荘代、佐伯兄弟だった。
佐伯兄弟と高階敏章の繋がりは少しだけ前に遡るが、ここで佐伯兄弟は事実上、高階敏章の郎党となった。源頼義に仕えながら別の主人に、つまり二君に仕えたのである。
秩父の乱ののち、村岡の将恒の処遇について高階敏章は様々に財を用いて、佐渡に流されるようにした。村岡将恒が秩父の鉱山を掌握していたことを佐伯兄弟が教えたのだ。
秩父の乱と言うのは、我が父藤永修理権亮のいなくなった後に起きた騒乱のうち、もっとも大きなものだ。
次々に我が父のあとに任ぜられた各国の目代は、税をいきなり段別三斗五分まで引き上げた。他所では普通の税率だが、ここ坂東では久しく無かった重税である。
賦役をもって税に替えるやりかたも停止され、各地の土木工事はここでいきなり打ち切りとなり、工事の終わっておらぬ堤もそのまま打ち捨てられた。
重税と共に私出挙が再開された。税が一度でも納められなければ容赦なく私出挙の強制貸し付けの対象となった。一度借りればその利子率ゆえに絶対に完済は不可能となる。
この税を納めるためにほぼ無利子で米を貸す窮民講があちこちで設立された。皆で米を出し合って苦しいものに貸すのだ。これを目代の郎党がさんざんに荒らすと郷毎に武装した百姓が逆に郎党を返り討ちにするようになった。
やがて郷が焼かれ、そして地元の武者たちが領民を守るために目代と対決することになる。
この対立は長元二年の春、源頼信が鎮守府将軍として坂東入りするまで続いた。その後地元武者たちは様々に和解して騒乱は終わりとなった。こののち窮民講はおおっぴらに許されることとなった。
だが、騒乱の中でも最大のものとなった秩父の乱は、乱の首領とされた藤原真枝が討ち取られ、秩父の武者の中で最も武威の高かった村岡将恒の責が問われることとなった。
こうして村岡将恒は佐渡に流され、秩父の山掘り共を率いて金を掘ることを強制されていた。金掘りの人夫は高階敏章が散所の者など構わずかき集め、散所太夫の名をほしいままにしていた。
八歳の百合若が佐渡を訪れたのはそういう時期であった。
そういう事を考えると、この時、村岡将恒が百合若のために船を出すと言ったのはなかなか大きな賭けであったことが判る。
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月の無い夜中を見計らって、小舟は沖に漕ぎだした。
沖には潮流れがあるゆえ、静かに待てと言われてしばらく待つと、突如として目の前に大きな信太船が現れた。気づかなかったのは帆を降ろしていたからか。
船の両横腹に、竹を束ねたものが束ね降ろしてある。
「あれが波の荒いものより防ぐ。それに竹は渤海にて高く売れる」
小舟をつける間、漕いでいた男がそう教えてくれた。
信太船に登ると、わずかな星明りのなか船乗りたちの相貌が見えてきた。様々な顔つきの男たち。明らかに夷人であろうという姿も見える。
「荷は無き」
船に乗り込んだのは百合若と安東安方、そして村岡将恒だ。
将恒が行き先を告げる。
「猫の島などありはせぬ。あるのは鬼が島のみにて」
船頭がこう言うのを、将恒はいや是非とも行けと命じた。
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「猫の島は物語りの島にて」
村岡将恒はそう言う。では猫の島など無いのか。
いや、前々から不可思議な話の良く伝わる島であるという。いわく、牛頭の者たちの最期の隠れ家であり、そこに彼らの宝が隠されている。これは牛頭講の者共が信じる話だ。
化け物の住む島であり、退治すると島に住めるようになるという話もある。これは猫の島の手前にある鬼が島の話であるとも言う。
船乗りたちにとっての猫の島は、鬼が島の事だ。
話に伝わる猫の島は平坦で水の湧き、人の住むことのできる島であるという。但し田も畑も無いゆえ、食べる物だけは魚以外は持ち込まなければならない。
だが、どう探してもそんな島には出くわさない。代わりに見つかるのが鬼が島だ。こちらはただの岩の立ち並ぶ暗礁である。近づけば船は波の下の岩にぶつかって打ち壊されてしまうだろう。
それら島は、能登の国の北の海の果てにある。
昔は漁師たちは猫の島に夏の間だけ住んで漁をして、冬の前に陸へ帰っていたという。それがいつのまにか、鬼が島にしか行けなくなってしまった、という。
船頭はこの辺りの海を知り尽くしていた。
船は平良衡のもので、能登を根城にして佐渡や津軽、渡島や海の向こうの渤海までを行き来していた。渤海への荷運びの船だ。
渤海へは海が荒れると行くのが難しいため、冬の間は能登や佐渡の辺りに居るのだという。
そして月に一度、新月の夜に佐渡の南へやってきて、秘密の連絡をするのだ。
「しかし、なぜに猫の島と?」
「知らぬ」
その名の由来を誰も知らないという。
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二日後、船は鬼が島を前にしていた。
鬼ヶ島というのは、ばらばらに海に突き出した、複数の岩に過ぎない。
「ほれみよ、猫ではなく鬼ではないか」
船頭は言う。
村岡将恒は構わず、北へ行けと命令した。元々の猫の島は、鬼が島の北にあると伝わっていたのだ。
陽の陰る頃、いきなり背の低い島が目の前に現れた。
ちいさな島だ。浜辺にいくつか小屋が見える。
船を寄せて碇を下ろし、小舟を出す。上陸した者が、だれもおらぬと言う。
「上がりたき」
百合若が言うと、村岡将恒はよかろう、と答えた。
夕日の中、舟を出してもらう。
既に上陸した者が浜に焚き火を熾していた。彼らに混じって火の周りを囲む。
にゃあ、と声がした。
「何かおるぞ」
いつのまにか火の傍に、小さな獣がいた。
「犬か」
「奇妙な犬ぞ」
いや、犬はそんな鳴き方はしない。
「それは猫にて」
柔らかな声が背後でして、振り向くと、
姉がいた。
#106 渤海国について
渤海国は現在の北朝鮮の東北、ロシア沿海地方、更に内陸外満州に住んでいたツングース族のうち、粛慎、靺鞨といった人々の後代、粟末靺鞨と呼ばれた人々が建国した国です。高句麗滅亡ののち7世紀末に建国された渤海国は初期には遼東半島をその版図に含み、渤海に面したこともあって渤海国を名乗りましたが、その後国勢の衰退によって遼東半島の版図を失いました。
渤海国の建国者とその末裔は高句麗の末裔であることを強調しましたが、女真族とそのルーツを同じくする半農半牧のツングース族です。漁業や狩猟、牧畜、養豚、農業、養蚕などが盛んでした。また仏教国であり、共通公用語として漢語、文字として漢字を採用していました。
また彼らは製鉄などに優れた部族を抱えており、後に契丹によって滅ぼされたのち渤海残党は南満州に集住させられますが、この時に鞍山などの鉄の産地で製鉄をおこなうようになります。
渤海国は日本と国交があったことが知られています。日本では高麗と呼び高句麗の継承国と考えていたようですが、同時に渤海という国号も使用しています。日本への来訪は8世紀末には17隻にも及ぶ規模のものとなりました。渤海は唐にも朝貢しましたが、新羅とは外交関係を持つ事はありませんでした。
9世紀の渤海国の人口は多くて三百万人程度であっただろうと推測されています。
渤海国は926年に契丹国によって滅ぼされます。この時契丹は渤海遺民をまとめて東丹国として契丹の外周国家としましたが、この国は初代皇帝の長子を封じるためのものに過ぎず、これはやがて契丹の東満州、沿海州への興味を失う過程に従い、自然消滅します。
かつての渤海国の国土のうち、日本海沿いは東丹の範囲外とされ、また新羅はこの時期女真族の圧迫を受けていました。
この女真はかつての靺鞨、東満州に住んでいたのが鴨緑江を遡下して高麗北端を脅かすようになったものと思われます。女真は契丹に臣従しており、彼らのせいでその東側は契丹側から見えなくなってしまったものと思われます。
その南、朝鮮半島ではこの時期に新羅が倒れ高麗が起こります。
1019年の刀伊の入寇が女真族による説は流石にその航海能力を過大に見積もっても難しく思われ、高麗側の虚偽であろうと思われます。
女真ではなく渤海遺民であるとすれば、過去には日本海を渡る能力を有していた訳ですが、その航海能力は海流と季節風に強く依存し、狙った土地に入港することは難しいものでした。日本側は渤海使を迎えるため、若狭から出羽に至るまで国司は漢文の能力を問われました。どこに流れ着いても対応できるようにする為です。
更に、国家を失った後は大型船を建造するのは難しかったでしょう。大型船でなければ長距離渡洋は難しく、対馬海流の還流が無ければ往復の交易は難しかったでしょう。