#エピローグ:1030年5月 百合若 1
百合若は父の顔をよく憶えていない。
それは当時の百合若が幼かったこともあるが、何より父は背が高く、見上げてもなかなか、どんな顔をしているかまでは判らないからでもあった。
いつも近づくことすら出来ないのが常のことだった。父の傍には姉がべったりと張り付いていたし、また、いかめしい武者たちが控えているのも常だった。
夢中になって百合若は必死に父のもとへと近づく。そしてようやく、その力強い手で頭を撫でてもらえる。父はそんな時は絵を書いてくれたり、紙鳥を飛ばしたり、時には肩車さえしてくれる。
百合若はそのつど父の手元を夢中で見ていた。その手はよく憶えていた。大きな手で、ものすごく器用で、まじないか何かのように様々なものを生み出す。
百合若は父の見ている先を一緒に見るのが好きだった。
そして結局、父の顔は見忘れるのだ。
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父が姿をくらまし、百合若たちの生活は一変した。
父はよく旅に出て家を空けた。だから帰りが遅くてもよくあることだった。しかし、ひと月帰りが遅れれば探されることになる。
なにぶんにも小さい頃の話である。その頃の騒ぎはただ母の暗い表情としてしか覚えていない。
悲嘆にくれる母はよく耐えていたと思うし、このように母を苦しめる父を許せないとも思った。
父はどこにも見つからなかった。そして少しづつ、百合若の周りも変わっていった。
まず変わったのが国庁だった。百合若はある日いつものように遊びに入ろうとすると、初めて見る顔の兵に行く手を遮られた。
足利屋敷から次々に人が消えていった。皆北へ向かうのだ。百合若とよく遊んでくれた別院のものも、どこか遠くへと旅立っていった。
家の様子も変わった。家人が減り、庭に枯れ葉が吹き溜まるようになった。食事も肉や甘いものが出ることが減った。
一家で遊びに出歩くこともなくなった。足利の街には百合若ひとりで出かけることになった。
足利の街も急に色々変わっていくようだった。
末法の世の到来を告げる説教法師が、足利の辻で人を集めていた。
いつのまにか人が減り、戸の破れた家が見えるようになった。良く知る行商人を見なくなり、足利の街は急につまらなくなった。
春の頃、都の母の家に身を寄せることになった。
それから盛大な荷造りが始まった。父のくれたおもちゃも全て荷造りされて、家はがらんと寂しく見えた。
百合若は急に悲しくなって泣きわめき、屋敷に残る、都へ行きたくないと駄々をこねた。やがて百合若は泣き疲れて寝てしまい、気が付いた時には馬車の上だった。
だから百合若は、足利にさよならを告げていない。
さよならは父の奇妙な挨拶、口癖だった。人との別れ際、そうらえば、と言って腰を上げるところで父は、さよならと言う。
手を振って別れを惜しむとき、さよならの言葉は妙に馴染んだ。
次いで一行は坂東にさよならを告げ、信濃の国に入った。
長い行列が谷間を進んでゆくのを、百合若は郎党に抱えられて馬上から眺めた。信濃に入るともう馬車の走る道が無かったのだ。
途中で善光寺にお参りをして半月ほど滞在した。あとから考えるに、あれは父を探していたのだろう。父はその近くの山中に消えたと聞いている。
百合若はその辺りまったく分からなかったので退屈で仕方が無かった。姉はよく面倒をみてくれたものだと思う。
当時、百合若の三歳年上である姉の寧子は八歳とまだ幼い頃合いであった筈である。しかし百合若にとっては姉は立派な大人だった。姉のいう事は絶対だったし、勿論絶対的に頼ることが出来た。
初夏のまぶしい光を避けて寺の暗い軒先に二人座っていたとき、姉はこう言った。
「この先困りごとあれば、猫の島に行きなさい」
困りごととは何だろうか。猫の島とはどこにあるのだろうか。
その時に聞くべきだったが、幼い百合若は、その言葉の内容が姉と別れた時のことを意味することに気づいてしまった。
それは足元がすくむような怖さだった。
泣き出した百合若に姉はごめんなさいと言って、それからそういう話は無くなった。
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再び一行が旅の歩みを始めると、百合若の記憶に次に残っているのは初夏の海、砂浜の風景だ。
海はどこか重く波も重く、灰色の雲も風も重く思えた。遥か遠くをゆく帆掛け船の帆の白さだけが軽やかだった。
一行はやがて舟に分かれて乗った。この先に難所のあるため、海から超えるという。
百合若は郎党に手を引かれて、姉や母とは別の舟に乗せられた。
「ここ寒原の険は、親不知の険、子不知の険とも言われておると聞きます」
舟の上から郎党が指さす風景は長く続く崖であり、なるほど険しいとはこのようなものかと思っていると、声が上がった。
「舟子よ、先の舟と離れおるように思う」
姉らの乗る舟はいつのまにか見えなくなっていた。逆の方からは別の舟が近づいてくる。荷を積んでいた舟だ。その上に見える舟子が弓を構えるのが見えた。
と思った時には、百合若の傍にいた郎党が舟縁から落ちるところだった。その頭に矢が突き刺さっていた。
百合若はその郎党の手に引かれて危うく海に落ちるところだった。
賊に襲われたのだ。百合若は荷物の影に、薦を被って隠れた。
後から思えば、その時一緒に海に落ちてしまった方が良かったのかも知れない。勿論五歳の百合若はまだ泳げず、その海で死んでいただろう。その後百合若は、苦しいときにはよくこの時のことを思い返した。
別の郎党が刀に倒れ、海に投げ落とされると、舟子たちは刀を振り上げて歓声を上げた。それは聞いたことも無いような蛮声、けだものの声だった。
舟はやがて岸に着き、荷物が次々に下ろされてゆく。
都に運ばれていた書物が、何の価値も認められることなく岸に投げ捨てられてゆく。
やがて百合若は木箱の陰にいるのを見つかり、腕を捕まれ引っ張り出される。
「この小さき児如何にする」
賊どもが寄ってくる。誰かが言う。
「売りてしまえ。売れば銭も入り足も付かぬ」
・
百合若が売られた先は、砂鉄採りだった。
長く続く黒い砂浜は砂鉄に富み、そこで百合若と同じくらいの子供達が働かされていた。浜の砂の黒いのは全て砂鉄なのだ。
浜辺には鉄選り輪が据付けられていた。
子供たちは浜辺で集めてきた黒い砂をこの輪の下に持ってくる。
水車のような円筒の中では、子供たちがひたすら歩んで輪を廻している。この回転で発電された電力が電磁石を動かし、電磁石は海岸の砂から砂鉄を吸い付ける。勿論この頃はそんな理屈はわからない。ただ運び、ただ廻すだけだ。
輪の外側に着いた砂鉄は掻き取られると箱に入れて、箱が一杯になれば小屋まで運ぶ。全て子供たちがやるのだ。
やがて砂鉄が一か所から採り尽くされると、鉄選り輪の木組みは解体され、新たな場所で組み立てなおされる。
初めの頃は寝付くのも難しかった。
よくぶたれた。泣いては叩かれ、転がっては蹴られた。五歳の子供の身体だ。丈夫と言うには程遠い。鈍く残る痛みに泣き声を堪えて、夜はただ身体を丸くした。
寝床は浜辺の小さな小屋に、茣蓙の上に皆転がるだけだ。夜は遠い海鳴りが響き、昼は海風に晒され続ける。しかしやがて百合若はどのような場所でも眠れるようになった。
百合若はここではコケ、と呼ばれた。百合若は言われたことをやる前にいちいち考える癖があり、それでのろまと思われたのが理由らしい。何故そう呼ばれるのか、ずっと不思議だったが、理由を知ると腹が立った。吾はのろまじゃない。
とはいえ、口ごたえはできない。それはもうたっぷり思い知っていた。
足利とは違う土地の、初めての冬は厳しいものだった。
砂鉄採りの大人たちは、冬だからと言って子供たちに容赦するようなことは決してなかった。
刺すような冷たい飛沫を避けて、子供たちは砂を集めた。
あまりに風が激しいときは鉄選り輪を廻すことも難しく、そういう時だけが子供たちの休息の時だった。冷たい身体を温めるための薪も子供たちが手分けして集めた。
この頃の事はぼんやりとしか覚えていない。
色々と記憶に残るようになったのは次の冬の時からだった。
百合若は子供たちの中でも特に年少の者たちのなか、生き残った一人だった。
年少の子供たちのうち三分の一が前の年の冬で死に、残り三分の一も熱病と飢え、過酷な労働に倒れて死んでいった。子供たちは消耗品だったのだ。
百合若は人の顔を見ることを覚えた。
子供たちは互いにうそをつき、優しさを裏切り、盗みに悪ぶれることもなく、さらに弱い子供を容赦なく殴った。大人たちがそうだったからだ。
人に優しくするだけ無駄だとやがて百合若は悟った。
体格が人より良かったためか、百合若は年少から年長へと組み入れられた。年長には力仕事が廻ってくるが、少しだけ飯が増える。
これらは子供たちが自分達の手で配分していた。しかし平等に配分されるとは限らない。
年長でも最年長となると仕事は楽で飯もいくらでも食うことが出来た。その分体格も良く、子供たちはどのような不公正に憤ろうとも、最年長の連中に逆らう事は難しかった。
百合若はただ無心に鉄選り輪を廻し続けた。
浜辺に打ち上げられる流木を拾い、海藻を拾い、貝を拾う。嵐のあとは真っ先に海岸に走り出て打ち上げられたものを拾った。
浜で拾った貝や蟹は大根の切れ端と交換して貰えた。少しでも食べ物を増やすことに必死だった。
そうして年少の子供たちに粥や大根の葉を分けてやる。
優しくするだけ無駄でも、冷たく骸となるのを見続けるよりはずっといい。
逃げ出したい。
でも、どこへ。
ここが何処かも知らないのだ。
希望というものは今や過去の思い出であり、思い出すと悲しくなるだけのものだった。
年少の子のなかに、タウメという子がいた。
百合若によくなついたが、ある日、獣のような唸り声をあげて泡を吹き暴れ、そして倒れた。
狐に憑かれたのだと、誰かが言った。気がちがったのだ。
こうなっては子供はただ捨てられるだけだ。
百合若はタウメを抱き上げて、橋の下に連れて行った。
暗がりに横たえて、水でも汲んで来ようと離れ、そして何か気配を感じて後ろを向くと、暗がりから一匹の獣、小さな狐と思しき獣が飛び出していった。
橋の下にタウメの姿はなくなっていた。
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その冬の頃から、鉄選り輪はいやな軋み音を立てるようになり、砂鉄を吸い付けなくなることが再三起こるようになっていた。
鉄選り輪は、百合若の単調な日常のほぼ唯一、見る価値のあるものだった。細いカネの線が丁寧に巻かれた鉄吸いと、百合若が廻す輪についたカネの線の巻いたものは同じように見えた。それらカネの線がそれぞれひと巡りしていることを発見すると、何か見えない鬼が線を巡っているのだと百合若は想像するようになっていた。
カネの線はよく切れては繋ぎなおされた。それが鉄ではなく銅というもので、ひとまわりちゃんと繋がっていることが大事で、そして別のところで繋がってはいけないのだと、修理中の大人を手伝うことで百合若は知った。
やがて百合若は、修理の際の助手としていつも指名されるようになった。
「足利の工事僧が呼べれば、こんなものすぐ直るのだろうがなぁ」
久々に聞いた足利の名前に、百合若の心は踊った。
「なぜ呼ばぬ」
「こいつの出所がよろしくないんだよ」
免手の無きゆえ、と言うと、それっきり詳しくは教えてくれることはなかった。
春先には二つのカネの線をすり合わせる鉄刷毛が根元からもげるようになった。
その度に輪を止めて鉄刷毛を取り付けなおすのだが、見る間に鉄刷毛はぼろぼろになっていくようだった。
、ある日もう一つの鉄刷毛ももげて、鉄選り輪はもう治らなくなってしまった。それから半月修理に粘ってもう治らないと決まると、子供たちは市に連れていかれた。売られるのだ。
半月のあいだ子供たちに与えられた飯は普段の半分で、更に最年長が分け前を多くとると、小さな子供たちはわずかな粥しか与えられず、立ち上がるのも難しいくらい衰弱していた。
国府の市と聞いたが、百合若の知る国府の市、足利のそれとは比べ物にならないほど寂しいものだった。干し魚売りと干し大根売りしかいない。
海から吹く冷たい風は、市の寂しい路地にも吹き荒れていた。
子供たちを引き連れた大人は歩く人ごとに声をかけて、子供を買わないかと呼びかけるのだが足を止める者すら無く、結局その日は誰も買われることは無かった。
「明日より吾子らに食わせる飯の無きゆえ、吾子らは勝手に己を人に売る声上げよ」
売れなければ飢えて、死ぬ。
聡い年長の子らは翌日から早速吾を買えと声を出すようになった。
百合若は考えた。
つまるところ、逃げてもよかろう。追われはすまい。
周りの年長の子が声を出すのにくたびれ果てたころ、百合若はシモに行くと言って列を離れ、そのままその場を歩み去った。
それからずっとずっと歩み、橋を越え、更に歩んで、くたびれたところで後ろを向いた。
晩春の陽気の中、無人の細い道が百合若の後ろにどこまでも続いていた。
そして前にも、無人の細い道がどこまでも続く。
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今日の飯のあてもない百合若の足取りは急に重くなった。
どこかに親切な長者がいて、百合若を拾ってくれないだろうか。
木の下で休む。
どこかの家で置いてくれないものだろうか。
水を探して彷徨う。
どこか家でもあれば、忍び込んで何か食ってやろう。
喉が渇く。
やがて百合若は野の向こう、森の陰に建物らしいものを見かけた。
忍び込もう。
近づくとそれが寺であり、しかもあばら家であることが分かってきた。
荒れ寺か。水くらいはあるかもしれない。
草木の生い茂る敷地の真ん中に小さなお堂があった。その周りだけ妙に小奇麗だったが百合若は特に疑うこともなく、お堂に踏み込んだ。
燈明の匂いだ。
「誰ぞ」
堂の奥から女の声がした。
#104 山椒大夫について
説経節「さんせう太夫」は、仏教説話を語り聞かせる説教・唱導のための物語として初出は17世紀まで遡りますが、物語内容は更に12~13世紀の頃まで遡るものです。
奥州四十五郡の領主、岩城判官正氏は帝の勘気をこうむり筑紫へと流されます。彼の家族は父のため領地を回復するため京へ向かいますが、しかし道中の越後直江津で、人買いの山岡太夫に騙され、岩城判官の子安寿と厨子王は丹波由良の山椒大夫に、母は佐渡に売られます。
安寿と厨子王の姉弟は山椒大夫によって塩焼きのために酷使されます。姉は潮汲み、弟は芝刈りに働かされますが、姉安寿は初山の日に弟を逃がすことに成功します。弟厨子王は国分寺の聖に匿われますが、姉安寿は山椒大夫の子に火責めにされ殺されます。
追っ手を逃れた厨子王は京に上り梅津院の養子となり、帝より父の領地を安堵され奥州の主に返り咲きます。厨子王は山椒大夫とその息子に復讐を果たします。
初山とは正月の仕事始めまたは7月の16日にあたる日です。山椒大夫の場合は正月のほうで要するに休み明けですね。
岩城判官の岩城とは、福島県のいわきではなく岩木、つまり津軽を指すものと考えられています。奥州四十五郡というのはすごい数で、例えば奥州藤原氏の直接支配地は奥六郡と出羽三郡の計九郡、残りは間接支配であったと考えられています。それにしては官位が判官と低いのですが、これは奥州藤原氏にも見られる特徴です。
ただ、岩城判官の館を奥州伊達の信夫の荘、つまり福島県とするものもあり、そうなると岩木を本拠地とするという説と噛み合わなくなります。一方で直江津から舟に乗るルートが合理的になります。
直江津は北陸道の難所、いわゆる親不知子不知を前にした地点で、ここで舟に乗り換えて越中に渡るのが一般的でした。舟を使わないと、波打ち際の潮の引いた頃合を見計らっての、中間駅を含めて合計60キロのかなり険しい経路をとることになります。
また舟だと、安寿と厨子王が売られた先、丹波や若狭にも直接向かうことができます。おそらくは想定旅程はこちらで、津軽からは会津を経由して越後に出てきて、そこから既に発達していた海路をとることになっていたのでしょう。
山椒大夫が姉弟を使役して行わせているのは古い姿の藻塩焼きです。
違うバージョンでは安寿と厨子王の母は蝦夷に売られます。また別のものでは、逃げる相談をしていた安寿と厨子王の二人は山椒大夫の息子に焼き鏝を当てられ、飢え死にさせようとさせられます。佐渡に売られた安寿と厨子王の母は盲目となり、二人の子を想う歌をうたってさ迷いますが、厨子王が探し当てたことにより眼が再び見えるようになります。