#102:2034年9月 フィリピン、ダバオ、オーキッド・ストリート
何もかも焼き尽くすような日差しを逃れて事務所の前に辿り着くと、参事殿は足を青いプラスチックのたらいの中の水に突っ込んで、木陰で涼んでいた。
冷えた缶ビールを手渡される。この昼間から酒盛りかよ。
日差しは僅かに北に傾いていた真夏の頃を過ぎて、この季節再び真上に戻っていた。つまり、暑い。
「クーラーはどうした」
「二時から緊急打ち上げだってさ。電圧変動が多分あるからマージンをサーバに譲っているの」
ダバオの東15キロほどのところ、沖合いの島にマイクロ波打ち上げ施設が広がっている。600メガワットだかの電力を食うので、太陽光発電の昼間の余剰発電を使って打ち上げるのだが、それでも瞬間的な電圧低下は頻発して地元では結構な問題になっていた。
「で、事は済んだの?」
参事殿の質問にアキラは答える。
「大岡のおっさんなら、内地への送還手続きは終了。柳原のじいさんは、いかんな。別の受け入れ先が要る」
「もう受け入れ先なんてないわよ。もうそんな都合のいいところは」
日本からフィリピンへ流入してくる負け犬老人たちの世話係。それが今のアキラの仕事だった。
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2027年の秋の半ば、長野県の山中の林道でアキラは目を覚ました。
寒さに震えながら起き上がると、あの鬼無里の館で着せられた麻の草木染のシャツとスラックス姿、頭は長くぼさぼさで、地面は舗装されたアスファルト。裸足で歩くのはいいが、冷たい。
山を下り、派出所でわけを話し、翌日福岡の父がやってきた。
福岡では十年分の知識の吸収に努めたが、一年くらいは何もする事無くぼうっとして暮らした。妻子を失ったのだ。帰れるものなら帰っている。しかし、どうすることもできない。無力感が身を苛んだ。
そんな翌年、日本は中国と戦争をやった。
戦争は双方の海上戦力をほぼ半減させて終わった。休戦時点で尖閣を取られて確定したから、そういう意味では日本の負けだが、それ以上に両国は経済を破綻させていた。
日本は短期間のハイパーインフレを経験し、国債をゴミにしていた。戦時国債の発行失敗が致命的だったらしいが、ちゃんと説明できるほど理解している訳じゃない。
一年半ほどの期間のあいだに過去の資産の多くが失われて、エネルギーや演算能力、通信容量といった新資産が、暗号通貨を経由して日常品の取引に利用された。
ちょっと面白かったのは直接の交戦国ではない韓国も経済崩壊していたことだろう。要するに社会の高齢化の進んだ日中韓の極東三国が、ちょっとしたきっかけで矛盾を噴き出しながら頓死したのだ。
三国の中では日本の復興が一番早いくらいで、ただ、完全にアジアの主役はインドやフィリピンに移っていた。そしてフィリピンは突然降ってわいたバブルに乗って太陽光発電に投資、更に宇宙に投資して、今や新しい種類のエネルギー供給者となっていた。
その短期に集中した投資に活性化した経済は、日本などの経済的に困窮した者たちを引き寄せることになる。
極東三国の超高齢化社会は世代別に分断されていた。
そういう社会は過去に例が無い訳じゃない。社会分断は民族だけのものじゃない。例えば性別は社会の中に見えない分断として横たわっている。
しかし超高齢化がそれらと違うのは明らかな冨の格差、社会不安の原因となるに充分な冨の格差だった。
ハイパーインフレが来て若者の職がなくなった時、その格差は憎しみに火をつけるのに充分なまでに到達したのだ。
これは中国では最も顕著で、それは新種の内戦状態にまで憎悪が進行していた。日本でもいつ憎悪が武力衝突にまで進むかわからない。
そんな国内から逃げ出した年寄りたちが、インドやベトナム、フィリピンの新経済の恩恵にあずかろうと群がっていた。当然、面倒事も起きる。
日本国外の年寄り共は、国際NGOの注目する貧困問題の一種とされていた。
そして面倒事こそ、アキラの今の飯の種なのだ。
「そろそろかな」
遠雷のような音が響いてくる。射場は沖合いの島の東岸だし、距離があるのでわりと小さな音だ。
轟きはいっとき大きくなり、そして小さくなってゆく。ほぼ聞こえなくなるまで5分ほど。
マイクロ波で加熱された液体水素が、100トンのペイロードを宇宙へと打ち上げる。半年前からのそれはもう日常だった。新しい安価な宇宙への道だ。
打ち上げられたのは新しい太陽光送電衛星だろうか。地上の発電をマイクロ波で静止軌道まで送電して、そこから逆に地上までマイクロ波で折り返し送電する。仕組みは放送衛星と変わらない。ただ伝送するパワーが全くの桁違いだ。
安価な太陽電池を地球上のどこにでも置いて、夜中だろうが僻地だろうが地球の裏側から電力を引っ張ってくるのだ。
太陽光発電が安価になった時代、最大のボトルネックは送電網だった。その次が昼の発電力のピークと需要のピークのずれ、そこを解決したフィリピンは一躍エネルギーの覇者になろうとしていた。
今も歴史は動いている。
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アキラの調べた限り、日本史には変化は何一つ見つからなかった。
いろいろ本も読んだが、例えば11世紀に種痘が発明されるとか足尾銅山が開発されるとか、そんな事は一切無く、では自分の身の上に起きた事は一体何だったのかと怒りも湧いてくる。家族、妻もわが子も幻なのか。
源頼季は長野の村の領主で人生を終えていた。平忠常の乱は5年ずれていたし終わるまで3年もかかっていた。平光衡の名前は13世紀の別人しか検索に引っかからない。
足利や足尾も自分の足で歩き回ったが、ほとんど全くの別の土地だった。うっすらと山の形が記憶と一致するくらいだ。渡良瀬川は流路を変え、山野も様子が全く違って見える。
つまるところ、アキラの人生を10年無駄にしたというだけなのか。
役に立ったことと言えば、荒事に慣れた事くらいだろうか。この千年後の世も、人の心というのは大して変わりはしない。
さて、そろそろクーラーの効いた室内に引っ込みたいところだが。
アキラの腕にメッセージが入る。
"柳原がヨナに渡りをつけた。やばい。逃げな" 古屋
アキラは腕輪をタップ。音声入力で相手を指定。「古屋マサハル」タップ。
「予想はしていたから、先方に話はつけてある。心配ないよ」ダブルタップ。
音声認識でテキスト化されたショートメッセージが送信される。アキラはまだこのやりかたに慣れていない。年寄りたちみたいにスマートフォンが欲しかったが、そんなものを使えば現地の人間にバカにされるだろう。
馬鹿にされるのはマズい。治安の崩壊したここの日本人社会と現地人社会の一番ガラが悪い部分では、馬鹿にされたら即座にやりかえさないと、社会的に死ぬ。
そこらへんは丸っきり中世だった。つまり、慣れた社会だ。
ダバオは、フィリピンで最も富の格差の大きな都市だった。つまり、場所によっては治安がすこぶる悪い。
ジョナサン(ヨナ)・メンデス・サラザールはこの都市の裏のボスだ。こいつは市長でも県知事でもなんでもない。水道会社のオーナーで地元の名士、いや勿論そんなものじゃない。
かつてのドゥテルテ時代の治安部隊を叩きのめして取って代わったのが、ヨナ・サラザールの息のかかった法執行部隊だ。法執行を謳ってはいたが、その実は暗殺部隊、最盛期にはこのダバオで年に二百人近く殺していたという。
新人民軍残党掃討のためと名目さえつけば、事実上の私兵も許されるのが今のフィリピンだ。
コンプレッサーが息を吹き返した。クーラーが動き出したのだ。
「じゃあ、終わったら呼んでね」
参事殿は立ち上がるとメガネの位置を直し、ビール缶を掴んだ。胸元から何かが零れ落ちる。
細いチェーンで首からぶら下がったのは、大きな紫水晶だ。
「そういうパワーストーンみたいな趣味あったんだ」
ソーカにそんな趣味があったとは。乱視気味で眼鏡をかけてもなお目つきの悪い、見た目通りの性格で実利一辺倒の、装身具くれるくらいならアマゾンの欲しいものリストを見ろと言うような奴だというのが今でもアキラの、参事殿こと上津原桑果に対する印象だった。
「いや、これ確かアンタがくれたものよ」
よく覚えていないけど、あんたがくれたのは確かよ、そう参事殿は言う。大学の頃でしょ?
まぁ、そうだろうな。その時期しかタイミングは無い。
建物に参事殿が引っ込んでしまうと、アキラは缶ビールを冷水に戻し、木陰に腰を下ろす。
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ビールを飲みながら待てば良かったと思うくらい待たされた後だった。
事務所の前にバンが停車し、数人が降りてきた。タタのEVバンで、断熱グレードの高い奴だ。そのせいで見かけほど内部容積は無い。降りたのが全員の筈だ。
四人か。バンが走り出す。呼べば戻ってくるタイプの自動運転車だろう。この辺りは駐車違反に厳しい。
先頭に柳原のじいさん、残り三人はヨナ・サラザールの紹介で雇った人間か。
「柳原さん、茨城に帰る決心はついたのかな」
柳原はアキラの言葉を無視して、アキラのすぐ前までやってきて背中に隠していたらしき銃を突き付けてくる。
「いちいち偉そうにしやがって!」
銃はポリマーフレームの、現地の法執行機関で使っている奴と同じタイプ、確かBluetoothで暗号化コードを送ってトリガをアンロックする奴だ。しかし、柳原のような年齢の人間がそういう事情を知っているとは思えない。つまり、弾が出てくることは無い。
多分、ちょっと人を脅すために銃を貸してほしい、柳原はそんな事を言ったのだろう。勿論撃つつもりはないよ、あくまで脅すだけだよ。
貸すほうは、それを真に受けた、と。多分録音もしているだろう。勿論それは柳原に手を貸すつもりなど欠片もないという事に他ならない。
銃の使用はもちろん犯罪だ。映像記録に残るならそれは確定した事実になる。
「さぁ、強制送還手続きを取り消せ。さっさとやれよ。その手首の奴から出来るんだろう」
スマホしか使えないくせに、そういう事は知っているんだな。
アキラは立ち上がり銃を掴むと柳原の腕をひねり上げた。銃が落ちる。
柳原はなぜ銃が使えないのか戸惑った様子だったか、すぐに後ろを向いて叫んだ。
「おいっ、さっさと助けろ、こいつを」
腕を放し、頬を引っぱたく。
説明してやらなきゃいけないかな。
「なぁ、右のほう、建屋の軒下、そう、ごついカメラが見えるかな。
あれはダバオ市の監視カメラじゃ無いんだ。ここのNGOの自前でね、マニラまで直に繋がっていて法執行機関直通なんだよ」
アキラは国際NGO、IGPAとかIPGAだったか、そういう団体の現地雇用者の一人だった。正規職員であるソーカ、日本人国外者担当参事が自分の伝手で雇っているのが今のアキラの立場だった。国際組織だからお金はちゃんとある。
アキラはこの時代への帰還後、福岡で低賃金の短期雇用職にありついたが、そこの手伝いの縁で日本人から外人を保護する荒事サービスみたいなものに関わり、それが今の状況に繋がっていた。
大昔の元カレだろうが役に立つとみれば構わず雇うあたり全くソーカらしい。一方でフワフワしたことも結構好きだという辺りが国際NGO職員という今のポジションに繋がったのだろう。十年もあればこのくらいは差が付く。
それで人気のない日本籍老人対策なんて閑職に廻されているのだから、才能の無駄遣いと言うしかない。ちなみに現地語であるビサヤ語をしゃべることができるのはこの事務所でソーカだけだ。法執行機関にはおおよそ英語が通じるから良いが、基本的に交渉はソーカ頼みだ。
今の時代、監視カメラは法秩序の基礎だった。
安価な監視カメラと安価な画像認識が世界の至る所に張り巡らされていた。好むと好まないとに関わらず、世界はそのように変化したのだ。
「柳原さん、あんた本当にお手軽にハメられたんだよ。ヨナくらいの権力があれば、あんたの身の上なんて瞬時に丸裸のうえ、誰と取引すればいいかサジェストまであったと思うよ」
このご近所の市域系監視カメラを切るとヨナに約束してもらっていたのだろう。
監視カメラ社会で法を犯して人を脅そうとすれば、そうするより他はない。多分ヨナはちゃんと約束を守ったのだろう。この近辺、ダバオ市の分だけは監視カメラを切ったのだろう。ここが独自カメラを持っていることは、勿論最初から承知した上で。
映像に写らない部分はいくらでもごまかしがきく。しかし映像は絶対だ。
「柳原シゲルサン、十五時二十二分、銃器規制令違反ニツキ、即時ノ拘束ヲシマス」
イントネーションにちょっと違和感があるくらいの聞き取りやすい日本語で、柳原に一緒についてきた人物の一人が告げる。
残り二人は両側から柳原を拘束して連れ帰っていった。その後姿は売られていく子牛のようだ。
ヨナ・サラザールは任意の法を任意に組み合わせて、このあと好きなように柳原を料理できるだろう。監視カメラの下で法に引っかかったら、もう逃げることはできない。
新しい自力救済の社会とは、こういうものなのだ。
バンが再びやってきて一行を乗せて去っていくと、茶番の終わったことを告げに建屋に入る。
うわ、ちょっと寒くないかこれ。クーラーが効き過ぎだ。
腕輪で時刻を確認する。
「晩飯はチョビ・チョビで良いか?あそこタコ食わせるんだってさ」
予約していいか参事殿に聞くと、うんざりしたって感じの返事が。
「なんであんた執拗にタコ食わせようとする訳?
だいたいこの辺のシーフードはイカは出してもタコは出さないのよ。調理法が無いから」
あ、それより、と参事殿の言葉は続く。
「あんたにメールが来てる」
メールか。懐かしい響きだ。21世紀に戻ってくるとメールは廃れたものの一つになっていた。だからアキラは今メールアドレスを持ってはいない。だが参事殿は持ち続けていたようだ。
メールの内容はだから、直接には参事殿へのものである。だが、どこで調べたのか、アキラに伝手のある人物として参事殿に、アキラへの伝言が託されていた。
「訳わかんない内容だから、断ったほうがいいとは思うけど……」
聞いたことのない団体からの、学会か何かへの招待だった。
腕輪をタップして、手近なスクリーンを借りる。検索によれば、タイを本拠とする仏教系の団体だ。だが、ちゃんとした仏教の宗派には見えない。何らかの研究機関のようだ。しかし、まともな研究内容とは思えない。
しばらくして、気が付いた。往復の交通費と思しき額がすでにアキラに支払われている。チケット手続きまで既に済んでいた。
「来月だな。行ってみるよ」
#102 レーザ打ち上げについて
ロケットは推進剤に運動エネルギーを与えるのに、推進剤の化学反応由来の熱を利用します。これは普通酸化反応で、質量当たりの得られるエネルギーには極めて厳しい上限があります。これが化学ロケットの性能を厳しく制限しているのです。
これを例えば原子力を利用すると性能は著しく向上しますが、重たくリスクのある原子炉を一緒に打ち上げるのは難しいでしょう。実際のところ必要なのは熱なのであって、熱だけをロケットに渡すことが出来れば、化学反応の制限のない高性能なロケットが実現できる理屈です。
エネルギーの伝送には大きく二つの方式が考えられます。マイクロ波による伝送とレーザーによる伝送です。比較的最近まではエネルギー伝送と言うとマイクロ波の一択でしたが、半導体励起ガラスレーザによるエネルギー変換効率の向上はレーザに大きく有利に働きました。しかし、GaN半導体によるマイクロ波直接励起の可能性は、更にそれを一変する変換効率を実現するものと思われています。
ただ、マイクロ波の開放空間での使用は通信などに影響を与えることが考えられますが、レーザではそれがありません。
気象による伝送エネルギーの減衰は頭の痛い問題ですが、ロケットの性能を向上させるのに比べれば地上設備の出力を増すのは容易です。要するに減衰するより多くのエネルギーを注ぎ込みさえすれば良いのです。
ロケットが地上から見えなくなるとレーザもまた届けられなくなりますが、その頃には宇宙からのレーザまたはマイクロ波の照射が可能になるでしょう。大気による減衰はもうありませんし、打ち上げ時のような大出力も必要ありません。