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#101:1027年10月 鬼無里

 信濃国の北部、善光寺の東に広がる千曲川の氾濫原は広く横たわっていた。

 アキラの訪れた開拓地はその千曲川の支流の扇状地で、今はまだ荒れ野に過ぎない。遠く眺めるが、もしや川中島とは川向かいあたりだろうか。

 ここは源頼信殿が開拓を推し進める土地だった。頼清殿の領地となると聞いていたが、もしかすると頼季様の領地となっていた可能性もあったのだろうか。

 足利学校の卒業生たちは川の流路変更が必要だと考えていた。上流に悪水があり流路を分けたいという。何か鉱床でも露出しているのか。


 川の流路変更は既に坂東では大きく推し進められている工事である。

 利根川の流域では川筋を真っすぐにする工事が続いていたし、更に荒川の流路を入間川に付け替える工事も進んでいた。

 利根川を太日川下流に付け替える工事なんてものも構想だけはしっかりと進行中だった。これはただ単に、下総から武蔵に、葛飾郡の西半分を分捕るのが目的の代物だった。

 二国の国境は利根川と決まっている。しかし利根川を動かしてしまえばどうか。悪魔的な発想である。こんな無意味な工事をおこなうつもりはアキラには全く無かった。

 更に、利根川を常陸川に繋ぐ構想なるものでは下総の北三分の一を切り取るのが狙いだ。ああ、こうして下総がチーバ君になる訳か。


 アキラは越後に寄った帰りに、開拓前の測量で悩んでいるという卒業生の許を訪れていた。

 越後で会った平良衡は今や立派な受領、貴族様だった。

 能登を拠点とした交易で得た富を成功(じょうごう)に充て、来年からの佐渡国司の内定というか、そういう感触を得たという。年明けにははっきりするだろう。

 現在の佐渡国司は藤原頼行に殺された藤原文行の子であり、アキラの送った使いの感触は今のところ良い。金を掘るという話は既にしているが、大したものにはならないだろうとは向こうの意見だ。

 平良衡は能登と比べると数段劣る小国佐渡の受領任に全てを賭けていた。だが足尾の技術があれば佐渡の金掘りは成功するだろう。


 問題は、どのくらい成功するかだ。


 平良衡は既に日本海を越えた国際貿易に手を染めている。但し向こうで見つけたのは契丹国の政府出先ではなく定安国とやらの残党、要するに渤海残党どもだったらしい。従って大きな貿易量にはならずがっかりしたようだが、さて、これから金が出るようになると大陸にも金が渡っていくことになるのだろうか。


「ここで五尺もずれおりました」


 測量図を指さして卒業生が言う、田堵学士である彼は望遠鏡と角度割り出しを駆使する最新の測量技法を会得していた。

 測量図を見直したがわからない。計算記録を見て、計算をし直してようやく原因がわかった。三角関数の数表に間違いがあるのだ。


 三角関数の数表は、最初に活版印刷をおこなったものの一つだった。何しろ使う活字の種類が少なくて済む。

 この世界に関数電卓は無い。三角関数の計算をしたければ、一度おきに計算済みの数表から計算結果を拾うことになる。その表は足利の別所で莫大な人力計算で割り出されたものだ。

 対数表も足利では制作されていた。足利ではかなり前に小数点以下の表現を分数から十進小数に切り替えている。最近では船上からの方梁攻撃の為に、船上で使う測距盤が制作されていた。これに三角関数は多用される。

 武士の中でも船乗りとなると、数学の履修が必須とされるようになっていた。


  ・


 アキラはようやく三角関数俵の中の間違いの位置を突き止めたが、どこをどう間違ったのか、完全にランダムな数が書かれているように見える。

 それに、活字の形がそこだけ微妙に違うようにも見える。


「もしや、こちらも」


 対数表が出てくる。こっちは流石にどこが問題なのかわからない。

 しかし、これらは足利で印刷されたものだろうか。


 足利で印刷製造された三角関数表も対数表も、これらはただの紙を折った、折本でしかない。紙は糊で繋ぎ合わされた巻物と同じ形態のもので、それをアコーディオン状に折っているだけだ。

 この時代、基本的には書物は巻物である。冊子の形態も存在するが、折本か、糊で合わせるか、穴に紐を通すか、それくらいである。背を紐で綴った本はまだ無いのだ。

 どれも簡単なつくりであり、複製は容易だ。

 勿論需要は全く別の話だ。


「これら、行商の者から買ったものゆえ」


 は?

 この世の中に対数表を売って歩く行商人なんている訳が無い。

 しかし、聞けばまさしく、行商人から買ったものだという。値段は一冊につき一貫。三角関数表は手持ちが擦り切れたために代わりが欲しかったのだという。対数表はついでに買ったと。


「何者ぞ、その、行商の者は」


「きなし、の者と言うておりました」


  ・


 鬼無里、と書くのだそうだ。


 開拓地から千曲川を渡って真っすぐ西の山中だという。

 途中の郷で変な話を聞いた。鬼がいる、という。


 転生者の隠れ里だろうか。アキラが知っているのは足尾の山中と丹波大江山、どこも廃棄された筈だ。

 それらはもう、随分昔に聞いた話だ。


 山中は川沿いにわずかに開墾された田地が点々と続いていた。例によって郷村から逃げ出した逃散の民が開拓した土地だ。

 更に奥に、ちっちゃな盆地が広がっていた。鬼無里だ。

 村人に聞くと、すぐに答えが返ってきた。


「ああ、姫にあるな」


 鬼ではなく、姫だという。

 更に山の奥に住んでいるという。

 その日はそこに泊めてもらい、翌日更に山奥へと向かった。


   ・


 山奥に、奇妙な建物が建っている。

 これはジオデシックドームの一種だろうか。細かな三角のトラス構造で表面を構成して荷重を受け止める建築様式に見える。

 勿論この時代にこれはおかしい。どういう加工精度で実現したのか。木材フレームの間を檜皮で埋めているように見えるが、こういう事が可能な材料だったっけ。

 これは、鬼の住処と思われても仕方あるまい。


 敷地の外周には石垣があり、その上へ石段を登りきると、チリン、とどこかで澄んだ鈴の音が鳴った。

 敷地は豊かな緑の苔と、紅葉だろうか、わずかに色づき始めた立木の林だった。思ったよりずっと広い。その奥に例の奇妙な建物はある。建物まで敷石が点々と続いている。


 建物の玄関は立派な唐門だった。背後の建物が奇矯な代物でなければ違和感も無かったのであろうが、とにかくチグハグに過ぎる。

 身綺麗な格好をした雑色が玄関の扉を開いてくれる。扉は内開きだ。これはこの時代の普通とはかなり違う。

 そのままアキラは中へと進んだ。更に前に扉がある。背後で扉が閉まると、前の扉が開けられた。


 広い室内は柔らかな白い光が点々と灯され、暖かかった。

 これまたちぐはぐだが、奥に小さな庵がある。


 庵の前に、女が待っていた。

 砧打ちされた光沢のある五重の衣の上に綾の唐衣ひとつ、裳は付けず、髪は童女のように肩ほどまでしか届いていない。美人だが、ちょっとケバく見える。

 いや、よく見るとちょっと違う。21世紀のケバさに第一印象がなんとなく似ているのに印象が引っ張られている。たぶん、違う文化の美的感覚の産物だ。


「ふじなが、あきら、さん、ですね」


 女は妙に文節を区切って話した。


「吾子はいずこの者ぞ」


 アキラはこの時代の話し方で応じる。


 目の前の人物が、九重丸子と同じ歴史の出身なら、同じ文化から二つに分かれた、千年づつの断絶が二人の間にあることになる。

 どれほど違う文化、文明なのか。九重丸子の言う通りなら、相手は二百年か三百年はテクノロジーの進んだ世界からやってきている事になる。

 ならば、コミュニケーションは共通語、この時代の言葉を使うべきだろう。


「吾の名は紅葉と呼ばれよ。それで、吾子は藤永のアキラで正しきか」


 合わせてきた。


「いかにも」


 アキラも答えを返す。

 

   ・


 庵の中は普通の民家のように見えた。

 しかし、清潔さがここにはある。塵一つ、土くれ一つこの空間には存在しないだろう。


「待ちもうしておりました」


 もう一年ばかり待っていたという。


「お蔭で、帰還点の随分と西にずれてしまいました」


「帰還点とは?」


 これには彼女は答えず、お茶を勧めてきた。

 いつもの麦湯だと思っていたのが、久しぶりのお茶だ。少なくとも本物のお茶の味のように思える。

 中国から交易で持ち帰ったもののひとつ、茶の木は今、相模と安房で本格的な栽培が始まったばかりだった。ごく少量だが茶の葉が収穫され、一緒に持ち帰った茶の製法に従ってお茶が供されていたが、今のところその味は不評だ。


「これ、は」


「いや、紛いもので申し訳なき。これらは積造機で試しに作りしものにて」


 テクノロジーの産物か。つまり彼女は未来のテクノロジーを持ち込んでいるのか。

 アキラが湯呑を床に置くまで、彼女は待っているようだった。

 ちなみにこの時代にこんな姿の湯呑は無い。茶碗という名も無い。椀で飲むのだ。


「さて、聞いてくだされ。

 われらをこの時代に送った者は、遠い先の世の人でありましょう。それはどれほど遠いかもわからぬほど先の、先の人でありましょう」


「その人どもは、何故にわれらをここに送ったか、あなたには何か考えあらるや」


 どう考えているか聞いてみたい。彼女の時代、進んだ技術のもとで、もっと何か知られていてもいい。


「より良き歴史に変えようとしているのであろう」


 シンプルな答えだ。


「但し、その働きは粗雑そのもの。

 わたしの世の日本の歴史はひどいものよ。それも全て、全て吾子のせいにあろう。

 中華諸国との長きにわたる戦も、メキシコ戦争の敗戦も、分割統治の45年も、みな吾子のせいにて」


 無茶苦茶だ。俺のせいにしないでくれ。


「冗談にて、気にされるな。

 いずれ別の未来の者が、どこかまた、この歴史も変えおろう。

 わたしの知る歴史も幻と消えよう」


 さて、と言って、彼女は一枚の紙を広げて見せた。

 地図だ。カラーで、光沢紙だ。なんと。


「あなたが送り込まれしはこの足尾。そしてわたしの送り込まれしがここ、鬼無里」


 その地図は精巧な出来だった。どのくらい正しいのだろうか。鬼無里は足尾の真西のように見える。


「帰還点は年に二十六里ほど西に動きよる」


 すると一日に十間、30メートルくらい動いているというのか。

 そして指さした点がここ、この場所なのだろう。


「彼らの用いる技術には大きな束縛があると見ゆる。彼らは人を全くの好きな所に送り込むことの出来ぬらしき。

 推量するに、時間の方もその操作は限られるのかと。

 つまり、彼らは万能では無き」


「興味深き話なれど、何故にわたしにその話を」


 彼女はアキラに向き直った。


「わたしの帰還を手伝って頂きたく」


「その前に」


 ちょっと待ってくれ、アキラは手で制した。


「厠はいずこぞ」


 あのお茶に下剤でも入れていたのか、それとも腹か水が合わなかったのか。


   ・


 トイレに案内されると、中には4つの小部屋があって、一つの扉が自動的に開いた。

 中は現地式、つまり穴だ。壁に作り付けになった棚に、尻拭きに使うのか半紙が積まれていた。ものすごく良い紙だ。


    ・


 何もかも出してしまった気分だ。

 げっそりとなってトイレを出る。

 手洗いらしき窪みに手を置くと、さっと熱い蒸気が手を洗ってくれた。


 入った時には無かった籐の台車の上に、服らしきものがある。手に取ると、


「着替え用意致した」


 と声がした。いや、着替える理由が無い。

 服は麻のズボン状のものとシャツ状の上着だった。ズボンは紐で腰を絞る奴だ。ああ、英語が出てこない。


 これはアレだ、「注文の多い料理店」という言葉が脳裏をよぎる。

 変な、望まぬ展開があるとみた。


「着替えなど要らぬ」


 しかし膝から力が抜ける。

 ガスか。だとしたら透明無臭……

 アキラはくたりと倒れ、やがて気を失った。


    ・


 頭の靄が少し去り、まぶたが開くようになると、アキラは自分の手足が動かないことに気づいた。手足が誰かに捕まれている。

 頭を巡らせる。アキラはまるで狩りで仕留められた猪のように運ばれていた。


 アキラは雑色二人がかりで田んぼの畦道を運ばれてゆく。後ろに棒を持った雑色、前には紅葉と自己紹介した女、彼女は豪勢に見えた衣装のまま、軽やかに歩いてゆく。

 アキラはいつの間にかさっきの服に着替えさせられていた。頭には烏帽子が無い。


「これは何の真似ぞ」


 アキラはかすれた声で聞いた。何の痺れ薬だったのか、舌にはまだ感覚が無い。


「帰還点に参るぞ」


 そう答えがあった。


 これは、俺を未来に帰すつもりか。

 水干姿ではなく、アキラの属した元の時代のものに似せた服に着替えさせ、ご丁寧に腸内微生物まで消毒し、この時代の痕跡を消して何をするのか。

 

 だが、いや、そもそもおかしい。


「吾の未来はもう無き。どこへ返すというのか」


 紅葉はよくわからない返事をする。


「何も無くなってはおらぬ。結縁(むすびえにし)が吾子を導く。すぐに阿頼耶識の別の相に至るであろう」


「返すことなぞ要らぬ。この手足放せ」


 じたばたしてみるが、手足に力が入らない。


 山道に入る手前で一行は停止した。

 紅葉が見ているのは、さっきまでいた建物のほうだと気が付いた。

 アキラも首を向けて気が付いたが、谷の向こうの、さっきまでいたドームの建物がぺしゃんこに潰れているように見える。まるで中の空気が抜けたボールのようだ。

 紅葉はすぐに向き直り、歩きだす。


 山道に入ってしばらくしたところで、棒を持った雑色がここかと、と言い、そして一行は停止した。

 アキラは地面に下ろされる。痺れた手首を揉み、立ち上がろうとするが、不意に体が動かなくなる。目の前が暗くなる。

 声が遠くから聞こえてくる。


「そこが吾子の帰還点ぞ」


 俺は帰るつもりは無いぞ。

 そもそも、お前の帰還の手伝いという話だったじゃないか。帰るとしたらお前だろ。


「吾子を帰さねば吾も帰れぬのよ。

 補綴機構を弄られておってな、これは命令にて。逆らう事出来ぬ」


 待て、帰らぬ

 絶対帰らぬ


 十年暮らしたんだ。今や妻も子供たちもいて、結構幸せに暮らしているのだ。


 叫ぶ。

 今やアキラの全てがこの時代にあるのだ。

 しかし、


「さようなら」


 ずっと聞かなかった、別れの言葉。

 アキラの意識は途絶えた。

#101 河内源氏の開拓地について


 源頼信が上野国司であった時代に開いた荘園、八幡荘は、碓氷郡の東、碓氷川と烏川の合流点内側に立地していました。上野は源頼信が受領となった最初の国で、まだ三十歳頃のことでした。八幡荘の立地をみると、烏川のものだったとみられる河床の跡が真ん中を横切っているのが目につきます。恐らくは源頼信が上野国司だった時代か直前か、更に遡る昔か、この流路変更が八幡荘の立券の理由だったのでしょう。つまり開発荘園であったと思われます。この荘園は摂関家領となります。

 次の任国である常陸では立荘したかどうかは知られていません。また以降の任地でも知られていません。結局、自領となる訳でも無い開拓荘園には懲りたのでしょうか。


 信濃国更級郡村上郷は千曲川流域の小さな扇状地上の開拓地で、源頼信の次男、源頼清の子孫が没落した後の領地です。

 信濃国高井郡井上郷はこれも千曲川流域の扇状地上の開拓地です。上流に硫黄鉱山があり古来より川の色に変色が見られたらしく、また荒れ川として近代まで知られた場所で、上流での河川分離が自然のものか人工のものかは不明ですが、かなり難しい開拓地だったと思われます。但し井上郷はこの扇状地の端の方で、つまり当時望みうる水準での開拓の結果ではなかったかと思われます。

 ここに源頼季は入植しました。平忠常の乱の際の活躍によって与えられた領地であるとされていますが、誰が与えるのか考えれば、そのような事情は無かったものと思われます。そういう恩賞を与えるような時代はもうちょっと後のことになります。


 長男源頼義の開発領地というのは具体的には知られていませんが、相模国三浦荘、三崎荘、大庭御厨といった寄進系荘園の立券に関わっていきます。これらは既に開発された小さな領地をまとめたもので、その元の小領地の開発時期については定かではありません。

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