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#100:1027年8月 晩夏

 国司屋敷は足利の東はずれに位置していた。

 一町四方に水堀と白漆喰の築地塀を巡らせた堅固かつ豪奢なもので、都の公卿の屋敷の風雅と、下野藤原氏の足利への出先、武者の詰める拠点としての双方の役割を持ったものだった。

 ただ、足利勢と下野藤原氏の間には以前ほどの緊張関係は今は無く、武者たちもほとんどが安蘇郡へ戻っていたし、藤原頼行殿にしても国司の任期はあと一年、来年にはここを引き払って新しい国司を迎える事となる。もしくは現地赴任の無い遙任国司となるか。


 雑色に馬を渡すと中廊下から殿上に昇る。寝殿に近づくと送風機の送り出す風がわずかに感じられた。

 堀に引き込まれた用水は落差で水車を廻し、これで鉱山のお古のふいごを動かしていた。送風は木製の送風管を通って寝殿に導かれていたが、送風路が長い分損失が大きく、少々ぬるめの風になっていることは否めなかった。


 母屋の格子はすべて上げられ、障子も取り払われているのが見える。床は畳を全面に張り巡らせていた。

 もう晩夏の頃だったが、暑い日々が続いていた。


「藤永修理権亮にあります」


 挨拶すると畳の上に眼をやる。無残な光景が広がっていた。


「蒸し火車の動かぬ」


 藤原頼行殿が指さすのは、模型の蒸気機関車だ。

 一尺四方の鉄の箱がボイラー、その中に銅の水管、そして外部に真鍮のピストンとはずみ車、そして車輪などが揃っている。スプリングばねの安全弁も一応ついているが、正直まだ動作するのを見た事が無い。蒸気圧が危険なほどには高くならない。ボイラーの鋲の継ぎ目から蒸気が盛大に漏れるのだ。

 燃料は石炭を細かく砕いたものを燃やすことになっていたが着火の難しいため、最近は木炭の燃えさしを突っ込んで動かしているようだった。


 蒸気機関車を修理しようとしたのか、分解しようとしたのか、畳の上に黒く石炭の粉が散らばり、漏れた水が汚ない染みを作っていた。


「まずは水にてよく洗われよ」


 機関車がどこかに持っていかれると、アキラは改めて庭を眺めた。

 黒い鋳鉄の二条のレールが20メートルほどの小さなループを作っている。レールの間隔は四分の三尺、およそ25センチほどだ。

 暑いだろうに、よく動かそうと思ったものだ。


 そう思って聞くと、暑気払いに動かせと家人に命じたところ動かなくなった、という事らしい。何でこんな暑苦しいのが暑気払いになるのか。


「これは面白うあったからな」


 要するに、退屈したらしい。


 洗って水分を拭いて落とした機関車が運ばれてくると、アキラは早速細部を観察した。


「しうしうと言いおるが動かぬ」


 下から覗いて、原因を見つけた。銅製の水管が破裂している。


「これは工作に戻して修理せねばなりますまい」


「動かぬか。修理はいかほどかかろうか」


「ひと月はかかろうかと」


 水管は銅板を巻いて作っていた。継ぎ目のないチューブを作ろうとすれば圧力をかけて引き抜きで製造することになるが、勿論そんな技術力は無い。だからどうしても水管には継ぎ目ができる。鉛と錫のはんだで隙間は一応埋めてはいたが、圧力がかかれば漏れてしまう。


 蒸気機関の開発の行く手は険しかった。


 足尾と秩父、どちらの鉱山も既に地下水が大きな問題になっていた。

 足尾では水車動力の汲み上げポンプが稼働していたが、設置個所が限られるためこれ以上の採鉱規模の拡大に制限があった。川から離れたところに坑道を掘れないのだ。

 秩父はそもそも川が細く、ポンプの稼働は人力に頼っていた。鉄製の揚水ピストンポンプはよく動いたが、動力源の制限は大きかった。


 アキラは鉄板を鋲、この時代はホシと呼ばれるそれを三列にびっしり打って、多少の圧力に耐えるボイラーを試作した。

 この時代、鉄板の張り合わせに慣れているのは武者の兜作りの職人である。彼らを指導して作った最初のボイラーは鬼兜と称された。

 最初のボイラーは水管ではなく煙管式だった。今足尾で動いている奴も煙管式だ。煙を流す部分も鉄板を丸めた鉄管で、鋲で全体が覆われたような代物だった。どうしても熱伝導効率は悪くなる。が、とりあえずポンプは動いていた。


 アキラは将来の水管式ボイラーの製造のために、まずは模型を作ろうと考えた。そして出来上がったのがこの蒸気機関車だ。

 鉄道の実現はどう考えても時期尚早だろう。足尾からは銅と同じ分量の鋼が生産されていたが、線路を作るには明らかに足りない。鉄道は数万トンの鉄を必要とするのだ。


 勿論、生産された鉄は有効に使われている。

 既に足尾にはトロッコ用の鋳造のレールが張り巡らされていた。馬や人力で押される台車が既に二十台くらい動いている。このトロッコに乗って走らせて怪我をする馬鹿が絶えないのが悩みの種だ。

 坂東では農具が大きく刷新されていた。鍬の歯はどれも柄の根元まで鉄の一体となり、三又鍬や歯の軽い除草鍬なども出回るようになっていた。

 釣り針は簗田で生産が続いていた。下野藤原氏によって事業は継続されていた。

 鉄釜や鉄鍋も普及し、食用油の流通によって浅鍋、つまり中華鍋風のフライパンも見られるようになっていた。カチカチの強飯も油で炒めて醤油で味付けすれば焼き飯になる。食事情の改善は目覚ましいばかりだった。


 鉄製品で最も付加価値の高いのは、磁石だった。

 電磁石による磁石強化をひとまず諦めたアキラは、ボルタ電池堆を作ることで銅線コイルに電流を流し、磁場を作ることに成功していた。

 電池堆は銅板と亜鉛板を麻布を挟んで積み上げたものだ。

 秩父では脱硫設備を鉄製に更新して以来、効率的に亜鉛を選鉱できるようになっていた。鉄板に水を掛け流しただけの水冷ジャケットで排煙を冷却すると、蒸発気化していた亜鉛がそこに析出するようになったのだ。おかげで銅と亜鉛の合金である真鍮が作れるようになった。


 真っ赤に熱した鉄片をコイルの中で磁化しながら自然冷却していけば、従来のものより遙かに磁力の強い磁石の完成だ。

 こうして製造された磁石は、透明なガラスの天板を持った漆塗りの小さな防水箱に収められ、中国、宋へ輸出される。

 これはちょっと、宋ではコピーすることが難しいだろう。

 お陰で、多くのものが輸入できるようになった。


「何かほかに楽しうこと、なきや」


 小さな宋の壺を指先で弾くと、藤原頼行殿は言う。


   ・


 藤原頼行殿の受領としての任期は、今のところほぼ問題無く過ぎていた。

 これは予め藤原兼光殿と話し合ったのも大きい。

 藤原頼行殿といえば坂東まで音に聞こえるレイパーである。それは勿論対策が要る。


 アキラは藤原頼行専属として、傀儡子の中から令色良く芸事に堪能な女性を選びあてがう用意があることを藤原兼光殿に告げていた。更に、生まれた子は足利側で養育することも。

 それで急遽、頼行殿に宛がわれる女は全て藤原兼光殿の用意することとなった。もちろん足利側が下野藤原氏の継嗣を得てしまう可能性を憂慮しての事だ。

 下野藤原氏が一族の長者跡継ぎで揉めれば、足利の息のかかった子供が跡継ぎにねじ込まれる可能性もありうる。そういう事態は絶対に避けたいだろう。


 という訳で、頼行殿の下半身の心配は要らなくなった訳だが、去年の事だったか、国司屋敷の見知った雑色の一人が見当たらなくなっていて、調べたところ頼行殿を怒らせて斬られていたことがわかった。

 ほぼ問題無い、とは、こういう状況のことを言ったものである。


 アキラは自分が結局、貴族たちの機嫌をとって気持ちよくさせていなければ成功がおぼつかないことを改めて思い知っていた。

 結局のところ、アキラは道化、傀儡子の役どころなのだ。


 坂東が手のかからない富の源泉である限り、国司がアキラを目代として選任して統治をまかせるという現状は黙認されることだろう。しかし、誰かが更に富を求めてアキラにとって代わろうとすれば、それは勿論可能だし、それを阻む術も無いのだ。

 例えば関白、藤原頼通が坂東の富を欲しいと思ったら、その瞬間アキラの破滅が始まるだろう。


 そうならないのは関白ら公卿、高位の貴族たちが内裏の中にしか興味を抱いていないからだ。地方の統治は低位の官人の仕事であり、貢物が十分にあれば地方はそれで良いのだ。

 勿論地方の情勢は朝廷の朝議にかけられるが、それらは故実旧例に従って粛々と間違いなく処理されていれば良いものなのだ。


 資本主義の概念が見出されていないことは幸いと言うしかない。律令の税制は、田んぼと田からの収穫の区別がついていない。しかし、田んぼは資本であり、富の源泉だ。資本主義が分かっている奴は収穫ではなく田んぼを取る。

 連中が田んぼでは無く、収穫を欲しがっているうちは何とかなる。


「管弦でもされてはいかがか」


 頼行殿に水を向けてみる。

 放生会の際にプレゼントした竹琴はどうしたのか。竹を音階別にばらばらの長さに切って縄でまとめて枠に固定しただけの代物だったが、撥で叩くだけだというのが好評だった筈だ。


「吾には(がく)の事なぞ難しきと悟ったぞ。やさしき琴と聞いたが、やはり明経道など難しき。何が楽しいかよく分からぬ」


 雑色が持ってきたガラスの器に注がれた麦湯を飲む。屋敷内に引き込んだ用水で冷やしていると聞いていたが、ぬるい。


「いつぞやの先々の話は面白うあった。あれの続き聞きたき」


 話題に困って未来の歴史の話をしたことがあった。アキラの未来、もう実現することの無い未来の話だ。

 だから正確には未来の話ではない。しかし、最初から外れた未来予測だったとしても、誰も困ることはない。


 蒸気機関車の模型の梱包と別所への運搬を指示すると、アキラも座り込んだ。


「さて、どこまで話いたしましたか」


「確か、唐より夷賊(いぞく)の軍勢の攻め入るところ、その後功あった武者への褒美の少なき事のあたりまでであった」


 よく覚えているな。中国の扱いは結局、宋も元も何でも唐になるようだ。


「では今日は、その後、後醍醐の帝の綸旨(りんじ)発するところからにいたしましょう」


   ・


「その足利なんぞは、足利荘の者か」


 いや、足利尊氏の先祖はそうなのだが、と説明する。

 アキラはあまり日本史について覚えている訳ではない。記憶力は良い方だとは思っているが、歴史にはたいした興味を持っていなかった。だから説明は曖昧になる。


 新田義貞が鎌倉に攻め入るくだりを説明すると、


「新田とはそこの新田郡であろう。ふむ、足利が鎌倉を攻めるか」


 勝手に納得されてしまう。

 北条氏が滅び、建武の新政が始まる。百官そして国司を任じ、武者の領地を吟味しようとする。さて、足利尊氏はどうして離反するんだったっけ。


「朝敵とされたゆえ朝敵となるかな。将門のごとき事よ」


 このあたりこそよく分かる、と頼行殿は言う。


「院の政事(まつりごと)おこなう、平氏の関白となる、院を島に流す、そして帝もまた島に流すか」


 わからぬのはこれ、呆れた先の世ぞ、と笑われる。


「将門の如きが国取る時の来るかという話はあったが、いちいち考えていけば吾子の話のようになろう。面白き」


 家人がアキラと頼行殿の会話をいちいち書き留めている。あとで読むのもまた面白き、だそうだ。


「北の方、頼季殿はいかがか」


 いきなり話題が飛ぶのは、未来の話はこれで終わりという事なのだろう。アキラはそのまま話題変更に応じた。


「つがる、という地の西に良き地を得たと聞いております」


 最初に入植に挑戦した、つも、という土地は気象条件が悪すぎた。

 夏の日照時間があまりにも短く、君子部三郎と田堵博士、百姓たちは地元の人間になんとか助けて貰って冬を越した。この時に百姓二人が生命を落したと聞いている。


 春になると一行はつがるの地を西へ横断にかかった。

 陸奥湾に出ると地元住人に協力を求めて小さな田を開いて人を置き、更に西へ進み、山を越えると広い原野に出たという。おそらく津軽平野だ。

 北に向かうにつれて湿地となり、海、つまり湖に出たらしい。外海との境、小高い丘の上に夷族が住んでいたが、彼らとは言葉が通じなかったそうだ。

 そして何か行き違いから君子部三郎は彼らに殺された。毒矢だったらしい。

 残った者は引き返して閉伊の一番北の村まで戻り、そこから船で足利へ戻ってきた。


 彼らの報告を聞くと、頼季様は討伐を決意された。

 急いで船を仕立てると軍勢を率いて出発された。軍勢と言っても数は多くない。馬が十騎に兵が五十、兵馬と糧食を積んだ長さ五間の取り回しの良い船が四隻、そして方梁船という船団だ。

 五間船の多用は、武蔵海つまり東京湾から印旛沼の運河を通って香住の海に出られる最大のサイズであることに起因していた。

 

 印旛沼の運河は、上総下総の公共事業としてはっきりと成功したものだった。

 どのような船も鹿島灘を越えることができない現在、内陸を通して船を行き来させることが出来るようになったことで坂東の物流は劇的に変わった。

 しかし運河を通ることのできる船のサイズの制限はきつかった。倍の十間船が既に九品津や更に西へ運行していたが運河は通れない。北日本のどこかでも大型船を建造できればよかったが、その場所こそ頼季様の新天地となる筈だった。


 頼季様が急がれたのは、10月朔日の日食に乗じる計画からだった。

 戻ってきた船による報告によるとまずは方梁で夷族の村を焼き討ちにし、辺りが真っ暗になると騎馬武者が突撃したそうだが、夷族たちはその場に座り込んであっけなく降伏したという。

 津軽から戻ってきた船には食料と燃料、そして入植に必要な資材、交易に必要な資材を満載にして津軽へ戻した。

 越冬準備の基準は足尾の冬だった。つまり大変なのだ。


 三月に船団が戻ってきた時にはアキラは本当に胸をなでおろした。

 さっそく入植希望者を募り、新たな物資と共に送り出した。

 入植先としては津軽平野は良い場所だろう。勿論、気象条件を除けば、だが。わりと広かった印象がある。十三湖という条件も悪くない。今回向かわせた船を使えば越後や若狭、北海道、はては海の向こう沿海州まで手が伸びる。


 国一つほどの広き空き地に、まずは小さな村と港ひとつ。そこから変わる筈だ。避難港第十三番は大きな貿易港になるだろう。

 そして今頃は、赤い早稲の稲が重く稲穂を垂れている頃だろう。


「何の任命も税も無く、どこまでも吾が手に掴むことのできる地か。

 心踊るような話ぞ。男子(おのこ)ならば血滾ろう」


「頼行殿も津軽、渡島あたりいかがか」


 羨ましいと言う頼行殿にアキラは水を向けてみたが、


「さようにはいかぬ。都にてあれこれ勤め、決して疎かにはできぬ。一族の誰かが勤めせねばならぬ事ぞ」


 頼行殿は首を振りながら言う。

 都で儀式に参加し、しきたりに従って決まった儀礼のごく一部づつを担うのが彼らの仕事だ。毎年決まった日に行われる祭礼と何の意味も無い儀式の連続の生活だ。だが、そこにごく些細な間違いがあっても批難され、出世はなくなるだろう。

 そうして、長年ひたすら間違いなく儀式をこなして、ようやく一つづつ出世がかなう。

 そういう世界の人たちにとって、遙か彼方で自由に己が未来を作り上げるのはどのように映るだろうか。


 ああ、だからか。

 保守的な、決まりきった儀式でできた世界がこの先どうなるのか、ただのおとぎ話に過ぎないとしても、彼は知りたかったのだ。

 

「さて、足利の何ぞが大将軍になるところまでであったか、続き知りたき」


 まったく急な話題の切り替えだ。でも付き合おう。


 日本史のこの辺りよく覚えていないんだよなぁ。色々いたのになぜか尊氏だけが生き残って南朝も滅ぶようなよくわからない展開だったと記憶していた。


「さて足利の尊氏は……」

#100: 麻疹ワクチンについて


 麻疹ワクチンの開発は有精卵での経代培養による弱毒化が有効であることが知られています。不自然な宿主での経代培養は弱毒化技法の基本となっています。但し初期の麻疹ワクチンはいずれも百世代以上の経代培養の結果としてもたらされたもので、なお接種後の発熱などの臨床反応が強く出るものでした。

 そのため、不活化ワクチンを先に接種する手法が編み出され、これは副作用を実際に軽減しましたが、これは次に接種される生ワクチンによる抗体の産生を逆に妨げるものであることが判明したため、この手法は採られなくなりました。

 現在では遺伝子配列の解読が進んだ結果として、臨床反応は更に弱いものが作り出されて利用されています。


 作中では経代培養はわずか数代、しかし運搬中に低温環境に晒され、生き残ったのが低温に順応した低温感受性変異株だと思われます。ヒト体温では増殖性の落ちるこれら変異株は毒性が低くなる事が知られています。しかし、本当に望まれていたほどの毒性の低下は無く、感染性はそのままに残ったように思われます。

 作中では恐らく経代培養を繰り返して、そう遠くない将来ワクチン開発に成功することでしょう。

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