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#1 :1018年2月 春

「今は昔、下野国に藤○アキラ(意図的欠字。藤原と思われる)という人がいた。前上野国司源頼信(みなもとのよりのぶ)朝臣の屋敷の雑色であったが背が高く訛りが酷く、血筋も定かでは無いものの卑しくは見えず、学の程もあるのか無いのか判らない奇妙な男だった。

 男は行き倒れていたのを源頼信の子の乳母に助けられ、その時自分は伊勢または加古の住人であると述べたらしいがこれもまた奇妙なことであった」

             --今昔物語集 本朝部巻第二十一 本朝付雑事 より

               ・


 春霞の向こう、荒れた元田んぼを覆う淡い草原を縫って続く道の上に、黒い塊の列が見えた。騎馬の列か。

 これを屋敷に伝える手段が今無い事を改めてアキラは思い返した。スマホは遠くなりにけり。とにかくあれが盗賊なら早く屋敷の守りを固めなければならない。薪にする小枝を入れた竹籠を背負ったまま、アキラは山道を駆け下り始めた。


 山道と言っても小高い丘みたいなもので、ただここだけは郷の住民や炭焼きの立ち入りを禁じていたお陰で、鬱蒼とした木立がまだ残っていた。

 近隣の山はすっかり丸裸、背の低い灌木に覆われてぽつぽつと松の木立が残るばかりで、去年の秋の大雨で崩れた山肌も見える。

 山中の獣道を蜘蛛の巣を払いしばらく駆け下りると、足利の屋敷が見えてきた。


 屋敷を囲うのは薄く掘った溝と、笹や細い木の枝を縛って作った柴垣、それきりだ。

 防壁としては馬の邪魔になる程度のもので、火をつけられたら柴垣はひどく燃えるだろう。実際あの柴垣は放牧した馬を屋敷に入れないためのものでしかない。

 門は屋根の無い押立門だ。裏手には門も無い。建物は檜皮葺きの建屋が三棟、茅葺きの掘っ立て小屋が裏手に8つほどあるだけだ。櫓も何も無い。


 屋敷のおもてには人影も見えない。裏手から屋敷の敷地に走り込む。作業場にしている置き場に背負い籠を置くと弓を取る。矢筒を背負うと母屋に走る。


「西より騎馬幾つかあり、誰ぞおるか、用意あるか」

「何ぞけわしい話か」


 尼女御付きの女房が顔を出すのを、騎馬の者共が近づいていることを奥に伝えるよう言付けると、母屋の廻り縁に身を乗り出し、再び叫ぶ。


「西より騎馬幾つかあり」


 やがて足音が聞こえ、屋敷詰めの郎党たち10名ほどが弓を手に飛び出してくる。頭目に弓と矢を渡し、門の前に陣取る。

 周りのものが弓に矢をつがえる。やがて先頭の騎馬が見えてくる。まだ構えない。


「待て」


 騎馬の若者が目の前に飛び出す。若殿だ。

 本名は源頼季(みなもとのよりすえ)、本人は三郎頼季とよく名乗るが、それは三兄弟の三男坊である為だ。


「兄背だ、兄背が戻られた」


 兄となると話に聞く前常陸介源頼信の息子、長男頼義(よりよし)か次男頼清(よりきよ)のどちらか、


「太郎兄だ。皆迎えの準備をいたせ」


 つまり長男、源頼義か。

 頼季様は迎えに一騎駆けていった。アキラは門柱の後ろに弓と矢筒を置き、門の前で、屋敷の主人である兄弟たちを待つことにした。


 やがてこちらに向かってくる一行の様子が明らかになってきた。

 騎馬は1騎だけだったらしい。だがその後ろに少なくない数の徒歩の男たちが見える。


 薄汚れた男たちだ。成人には達しているが壮年にまでは達していない。自分と同年代程度か。数えて彼らが20名であることを確認した。

 皆揃って似たような、砂埃で汚れた無地の小袖に草木染の短袴姿で、荷物は肩に背負った袋一つきり。そんな男たちが騎馬の後ろに続く。

 遠く旅して来たのだろう。彼らの疲れきった顔に今浮かぶのは、目的地にようやくたどり着いた喜びに違いなかった。


 アキラの目の前で騎馬が止まる。

 アキラは軽く一礼した。両手のひらを太股の前に並べて着けて軽く頭を下げる。この時代の人々にとって、礼とはこれ一種しか無いのではなかろうかとアキラは内心思っていた。


「これは」


 騎馬上の人物が聞くのにその横から頼季様が応える。


「アキラと名乗っております。去る年行き倒れておるのを尼女御様が拾われて、以来うちで雑色をやっています」


「藤永アキラに有ります」


 アキラは本名を名乗った。


「背の高いな。6尺あるか」


 6尺とはほぼ180センチ、アキラの身長ほぼぴったりだ。アキラは頼義の馬の口綱を取る。


「頼季様はもとより屋敷の方々にはよき扱いを給わっております」


 屋敷の敷地へと馬を案内する。馬の後ろからぞろぞろと男たちがついてくる。

 頼義殿は馬を下りると、その男たちに向かいあった。


「吾子ら良くここまでついて来てくれた。ここぞ、この地こそ吾子らの住処ぞ。

 皆屋敷へ上がり休め、飯用意させる!」


 足を洗わせる準備が出来たという声を聞いて男たちは歩き出した。

 アキラは馬を厩へと連れて行く。念のため頼季様に、鞍を下ろしてよいか聞く。


「良い。いざとなれば我の馬を使われる」


 頼義の馬の世話を済ませて屋敷に上がる頃には、疲れ果てて転がる男たちで屋敷の母屋は足の踏み場も無いような有様になっていた。

 母屋は廻りに縁側を巡らせた、奥行き10メートル幅12メートルくらいの板間だった。

 奥は壁に、左右は妻戸になっているが、あとは柱が並ぶだけで正面は開け放しである。

 開け放しとは言っても、風雨があるときは上に吊り上げている格子と呼ばれる板を降ろして塞いでしまうようになっていた。板だから完全に降ろしてしまうと中は真っ暗になる。

 朝に母屋の格子を上げて夕方に格子を降ろすのはアキラの仕事だった。普段は母屋は半分も使わない。屏風などの設えで部屋を区切って、半分ほどを朝夕の食事時に使うだけである。

 それが今日は男たちでいっぱいである。


「おい、こっちに来い」


 裏手に廻ってめしたきの手伝いでもしようかと思っていたのだが、頼義殿に呼ばれたからにはそうはいかない。おとなしく近くへ行き、胡坐をかく。そばには頼季様も居る。


「どこの出か?」


「生まれは筑紫にて」


 アキラの生まれ育ったのは九州、福岡県だ。就職のときに埼玉に出て来た。

 推測どおりなら千年くらい後の話だ。


「ほぉ、加古か伊勢では無かったのか」


「いえ、それはここが何処なのか判らず、ここはひょっとして伊勢ではないのか、と言っただけの事で、その、伊勢は武者が多いと聞いたもので」


 アキラは全力で過去の発言をごまかした。

 件の発言はアキラがこの千年前の世界で最初に発した言葉である。

 だが、正確には、


「ここは過去か、異世界か」


 周りの皆が時代劇のような格好をしているし、それに、見間違いでなければ、いや、今となっては見間違いに違いないのだが、鬼らしき角を頭に生やした赤膚の大男が見えた。


 後で聞いてみたが、その場の誰もそんな鬼のような大男を見ていないと言う。それから半年、アキラは流石にその時見た鬼の姿を疑うようになっていた。

 だがその時は確かに見えていたし、ならばファンタジーの世界と考えるのも無理からぬ話だ。

 だが、過去か異世界か、は流石に発言としておかしい。

 聞いた周りの者は、アキラの言葉訛りが酷いこともあって、播磨の地名である加古か、伊勢のことを言っているのだろうと合点したという訳だ。

 お陰でアキラは暫く伊勢と呼ばれることになった。


「なら丁度良い」


 頼義殿は板間に思い思いに座り込む男たちを指して、


「あれらは豊前豊後の出の者たちだ。アキラよ、あやつらの口を利いてやれ」


 世話をしろ、という事か。だがそもそもあの男たちは何者なのだ。


「あれらは俘囚(ふしゅう)ぞ」


 先回りして頼季様が答える。


「俘囚というのはだな、かつて大和に楯突いた陸奥の夷どもを、懲らしめ罰として西国に流した者たちだ。今となってはその子孫共よ」


 頼季様の説明を、更に頼義殿が継ぐ。


「ところが西国に流しても乱暴で生業一向に治まらず、西国の治安を乱しておった。そこに純友の乱があって、治安を乱す俘囚を東国に返すこととなった」


「随分昔の話ではありませぬか」


 頼季様が口を挟む。確かに、藤原純友の乱は平将門の乱の一年後だったっけ、西暦939年と940年か。計算では80年近い昔の話だ。


「だが、この令が取り消されたという話を聞かぬ。西国の治安は今でも大事なりとの事。

 つまり、いま東国に人を新たに連れてくるのも、また令に適った話だ。

 しかも、俘囚どもは税を納めずとも良い」


「ははぁ」


 なるほどと頼季様は相槌を打つ。アキラが良く判っていないと見て取った頼義殿は解説した。


「俘囚どもは陸奥の夷ゆえ、いきなり西国で畑仕事をやらせてもうまくはできまい、という計らいだったのよ。そのうち良民となりて税を納めれば良いと。

 だが、税を納めずに良い身分なら、誰が好きで税を納めたりするものか。

 これが西国で俘囚どもが良民づらをしなかった大きな理由だ」


「それを連れてこられた」


 アキラはそう口を挟んだ。頼義殿が答える。


「東国はどこもかしこも荒れ果て、人の数も少ない。

 ここ足利も人を増やしたいが、どうせなら税の免ぜられるほうが嬉しい」


「しかし、税が取れぬのでは世話を焼く由が無いのでは?」


「あやつらはいざとなれば領地の兵として働く約をとっておる。弓馬の腕はあると言っておったが、その腕前はあやしいものだがな」


 なるほど、養う必要の無い私兵か。屯田兵みたいなものだな。

 どうやらアキラが理解したらしきことを見て取った頼義殿は、


「こやつ、智恵の巡りはそこそこ良さそうだな」


「アキラは読み書きが出来、しかも算を置くことが出来ます」


 頼季様が言う算を置くとは、計算が出来るという事だ。この時代どうやら複雑な計算は陰陽道のまじないに分類されているらしい。


 読み書きのほうが本当のところアキラにとっては問題だ。崩したかな書きは流石に半年あれば大体読めるようになったが、いまだ書けない。

 崩した漢字は未だにかなり読めない。

 ただ、崩さない漢字、楷書が書けるのは大変重宝されている。アキラはそれほど漢字を憶えている方では無いが、そもそもこの時代、使われている漢字も語彙も本当に少ない。それで何とかやっていけている。

 ただ、ちょっとした辞書でもあれば便利だろうなとは常々思う。


「ほう」


 頼義殿は短いあごひげをしごいて、


目代(もくだい)勤めも出来そうだな」


 そこで目を細めて、


「アキラとはどういう字か」


 そこでアキラは指先を唾で湿らせると、床の埃の上に、頼義殿の側から正面に見えるように、


 明 


 の字を書いた。


 頼義殿は暫く黙って、


「……明子(あきらこ)様の例もあるゆえ、不思議ではないが、一字か。

 いや一字の名も不思議ではない。そもそも……」


「兄?」


 再び黙ってしまった頼義殿に頼季様が声をかける。


「乳母殿はこやつを何と言っておる?」


 頼義殿の問いに頼季様は、


「初めは唐人、異国の者ではないかと言っておられたが、そうではなかろう、と。ただ、不思議な者には違いないと」


「異国の者か。唐も渤海も滅びた。確かに異国のものでは無かろうな」


「下働きのものは、アキラが時々不思議な言葉やまじないをするのを怖がっておりましたが、最近はよくやっているようです」


「ほう」


 頼義殿は興が乗った面持ちで、


「アキラよ、なにかまじないの一つもやってみよ」


 アキラは大袈裟に手を振り、


「まじないなど滅相もなき」


 この時代、人々は学問と言うものをほとんどうけておらず、字を学ばず、メディアも無く、したがって会話の語彙そのものが極端に少ない。


 おおよそ、人々の間に流通する知識そのものが劇的に少ない。

 恐らくは都の貴族たちは語彙も知識も豊富に持っているだろう。だがここは遠い関東で、貴族などいないのだ。

 そしてアキラの知っている言葉、語彙の殆どがこの時代まだ存在していない。単純に、挨拶すら存在していない。

 おはようございます、と言うと、何ぞそのまじないは、と言われる。

 手を挙げるだけでもまじない呼ばわりされる。

 おはようの挨拶は現代人の身体に染み付いた習慣だ。これをしないようにするのは相当の意志の力を要した。とにかく挨拶をしないと言うのがムズムズする。


「だが算を置くのだろう?」


「計算はまじないごとであらざれば」


 アキラは答える。

 だが計算がまじないとされるのは、今なら少し理解できる。

 この屋敷でまじないごと、つまり陰陽道のあれこれを本気に取っているのは尼女御、出家された頼季様の乳母様くらいなのだが、そのまじないの物忌(ものい)みとか方違(かたちが)えとか、そういう事柄の手助けをアキラはやるようになっていた。


 要は計算なのだ。

 その日の行動を控える物忌みの日も、特定の方角への行動を控える方忌みの方角も、計算で割り出せる。陰陽師は計算でそういう日付や方向を割り出しているのだ。

 だからやり方さえわかれば誰にでも出来る。だがその辺りを隠しているからこそ陰陽師の仕事が成り立つのであり、まじないになる。


 アキラは物忌みの日、滅日(めつじつ)没日(もつじつ)の規則性について、暦をまとめておおよそのやりかたを割り出すことが出来た。方忌みについても同様である。

 東国では陰陽師がそもそも居ない。暦は都から毎年写しを届けさせていたが解釈はまた別である。アキラのおかげで尼女御は怪しげな流しの陰陽師に頼らずに済んでいた。


「ふむ、まじないはしないと言うのであれば、誓言と受け取っておく」


「お受け取りいただき嬉しゅうあります」


 アキラはまじないをしないと誓ったと、何か問題が起きたとき等に頼義殿が言ってくださるという話である。


 そこで気が付いたが、頼義殿は、"は"を"ふぁ"と発音するように聞こえる。

 そういえば平安時代の人は発音が違うって話があったっけ。これまで周りの人の発音にほとんど違和感が無かったから気が付かなかった。

 そこで気が付く。もしかして現代の発音とはこの時代の東国なまりの事ではないのか、と。

 ……いやまさか。

1# 風景について


 11世紀初頭の日本の山野は、急速に高木を失っていく時期でした。炭焼きの技法が普及し、炭焼長者なる言葉が生まれたのはこの少し前の時代です。それ以前からずっと、住人達は近郊の山野を共有地として、主に燃料として利用していました。

 桃太郎の物語の中で、おじいさんが柴刈りに行く、この柴とは立木にならない程度の、鎌で刈れる程度の低木のことです。この細い小枝程度のものを燃料としていたのです。

 人里近い山はそういう柴、低木で覆われた、いわば青刈りの姿をしていました。

 この時代の山野の姿は、例えば石山寺縁起などの絵巻物に見ることが出来ます。


 では奥山はと言うと、炭焼きがゆっくりと森を炭に変えていくプロセスが進行する事になります。

 近畿では特に、内裏の火事などが相次ぎ、大掛かりな木造建築が相次いだお陰で、摂関期には建築用の木材は希少化しすっかり利権と化す事になります。木材を巡って様々な争いが起こります。まだ枯渇はしていませんが、時間の問題だろうという、そんな時期です。

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