【四章】今の自分にできること。 *1*
*1*
遥が空良に謝罪できないまま一週間が過ぎようとしていた、ある日の午後――。
「こんにちは~」
突然式獣課に現れたスーツ姿の青年の姿に、遥は驚きのあまり持っていたティーカップをノートパソコンの上に落としてしまった。
「おっ、お兄ちゃんが何でここに!? っていうか、いやーっ! パソコンが~っ!」
『いいから、まずは落ち着け。ほら、早く何かで水気を拭けって……』
立ち上がり、ワタワタと真っ暗になったパソコン画面と、式獣課に入ってきた兄を交互に見やり、遥は大混乱に陥った。
もう一人、遥の隣でわかりやすく頬を朱に染めた香澄が勢いよく立ち上がる。と、その波はさらに広がり、今度は灯也が不機嫌そうに席を立った。
「あー……パソコンが……データがぁ」
せっかく昨日、承認が下りたばかりの式獣課ブログの記事をまとめているところだったのにー、と遥が半泣き状態になる。
「大丈夫ですか、遥さん?」
慌てふためく遥を見かねてパソコン救出のフォローに入ったのは愁一郎だけだった。
空良は何も言わずに、現れた涼の前に出ると、スッと奥の会議スペースへと誘導した。
「渡月警視、本日はどういったご用件で? まさかとは思いますが、妹さんの様子を見るためだけに来たわけではないですよね」
聞こえてきた空良の言葉に、遥はまさか、と兄に視線を向けた。スピカも、涼ならやりかねんな、と呆れたようにため息をついた。
「そのまさかだったら、朝霧くんはどうするんだい?」
「……いえ、別に。こちらは本部に提出する書類作りに忙しいので、手短に願いますよ」
「冗談だよ。抜き打ちの監査と、本部からの極秘情報を伝えに来ただけさ」
「そうですか。それはどうも、霞ヶ関からこの遠い彩瀬署までわざわざ、ご苦労様です」
空良と涼のやり取りに含まれる、底知れぬ何かを感じ取った一同はハッと我に返った。
さっきよりも、部屋の空気が数度下がった気がするのは気のせいだろう。
「なんか……お兄ちゃんがいつもと別人に見えるよぅ、スッピー」
キーボードに零れた紅茶をタオルで拭きながら、遥は足元のスピカに囁く。
『……あっちが本性だっつーの』
「え?」
「あ、そういえば……花島さん、折田部長から、例の件、考えてくれましたか、と伝言を預かりましたけど?」
忙しいから早く帰れ、という冷たいオーラを発している空良を、涼はわざと困らせるかのように本題と逸れたことを話しだす。
そして、その一言に、灯也が真っ先に反応を示した。
「折田って、総本部長の折田さんだよな? まさか、愁先輩……」
「今ここでそれを言いますか。渡月警視も、なかなか人が悪いですね」
「なぁなぁ、愁先輩、もしかして総本部へ来いって誘われてるのか? そりゃたしかに、先輩とコルンは、情報分野に関してはトップだろうけど……でも!」
「ありがとうございます、灯也くん」
愁一郎は困ったように笑い、心配そうな表情をしている灯也の肩をポンと叩くと、涼の方へ向き直り、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「渡月警視、私の気持ちは以前と変わっていませんよ。わたくしは彩瀬署で、やるべき事をしますから、と折田部長にお伝え下さい」
「うーん、そうですか。まぁ、部長の方も、これですんなり諦めるとは思いませんけど」
「で、本部からの情報というのは一体何なんです? 警視自ら伝えに来るぐらいですから、まぁ、何となく予想はつきますが」
業を煮やした空良が、ため息まじりに口を挟むと、涼はフッと笑みを消した。
「ええ。皆さんには、過激派の動きに気をつけてくださいと言いにきました」
涼の言葉に派閥の存在を知っていた遥以外の全員が息を呑む。
何のことだかサッパリ分からない遥は一人だけ首を傾げたが、ただならぬ空気を察して黙っておくことにした。
チッと、灯也が苦々しげに舌打ちする。
「あいつら、まだ懲りてなかったのかよ。大体、オレらは別に、穏健派に正式に属してるわけじゃねーのに、なんで?」
「彼ら過激派から見たら、私たちは充分、穏健派として映るのでしょうね」
「花島さんの言うとおりです。ともかく、なるべく皆さんは絆侶と離れて行動しないように、身辺にはくれぐれも注意してください」
皆が頷くと、涼はホッとしたように息をついた。
「さて、じゃあ、次は抜き打ち監査するので、皆さん協力お願いしますよー」
「あの、涼さまっ! よろしければあたしが手伝いますわ!」
「香澄は今日中の報告書、残ってるんだろ? ここはオレが……」
「あら、風見くんこそ、昨日締め切りの報告書があったんじゃなかったかしら?」
「ぐ……」
「では、榎木さん、お手数ですが資料の閲覧等に協力お願いします」
「はいっ、涼さま!」
香澄の瞳から溢れるハートマークに完敗した灯也は、がっくりとうなだれ、昨日のうちに報告書を書き終わらせておかなかったことを激しく後悔した。
それから一時間後、涼が書類などのチェックを終えると、空良は静かに席を立った。
「地下の訓練場にいるので、何かありましたら呼んでください」
いつものように言い合いになった灯也と香澄、なんとか復活したノートパソコンを前に騒ぐ遥たちから逃げるように、アリエスを連れて式獣課を出て行ってしまった。
唯一、静かな愁一郎だったが、どこか心配そうに、たびたび窓の外を眺めていた。
そんな愁一郎に気付いた涼が、声を掛ける。
「雨、降りそうですね……」
「ええ。今日は娘が筑羽山に山登り遠足に行っているので心配だなと……」
「あぁ、なるほど。それは心配ですね。遠足といえば、遥が保育園の頃、遠足の日の朝に大ゲンカしましてねー」
「へぇ……兄妹ケンカですか」
「ええ。お弁当にどうしてもウサギさんリンゴを入れてー、と朝から大泣きされましてね。リンゴがないから入れようがないって言ったのに聞かなくて……」
「ちょっ! お兄ちゃんってば、恥ずかしいからやめてよ~!」
赤面する遥をからかうように、涼は話を続ける。
「でも、その山登り遠足で遥が遭難しちゃいましてねぇ。あの時は、もう妹と会えないんじゃないか、謝っておけばよかったーって、ケンカしたことを本当に後悔したんですよ」
遥は「それは初耳……」とつぶやきながら、なぜ今その話をするんだ、と首を捻る。
大体、山にいる娘を心配している愁一郎に、遭難話は不謹慎すぎるだろう。そんなことに気付かない兄ではないはずだ。
「遥、朝霧くんとケンカしたんだって?」
どうやらこちらが本題だったらしい。
遥は聞こえなかったフリをして、手近にあった本をパラパラとめくった。
と、本の間に何かが挟まっていることに気付き、手を止める。
四つ葉のクローバー……これは、優芽から貰ったものだ。押し花にしようと思って挟んでおいて、回収するのをすっかり忘れていた。
遥は、綺麗に乾燥したクローバーをそっと持ち上げると、式獣使いの証である本革手帳を取り出し、その中にそっと挟みこんだ。
「ちょっと、あなた、涼さまの話を無視したらダメじゃない。それに、課長に謝りに行くなら今がチャンスよ!」
「そうそう、案外もう忘れてるかもしれないしさぁ。大丈夫だよ、遥ちゃん」
「私も、空良くんは、ちゃんと話せば許してくれると思いますよ」
三人の援護を受けて、最後は涼がダメ押しの提案をする。
「ちゃんと仲直りしてこれたら、今夜の夕飯はナスづくしにしてあげるから、ほら!」
「ナスづくし……じゃあ、頑張る!」
『おいおい、食べ物に釣られるのかよっ!』
「よし、じゃあ、行くわよスッピー!」
『え、なに、なんで? オイラも行くわけ?』
ようやく重い腰を上げた遥は、足元でツッコミを入れてるスピカを無言で抱き上げる。
『ついでにスピカ殿も、アリエス殿に告白でもしてきたら、どうじゃ?』
『おいっ、なに勘違いしてるんだよ!? この前のアレは別に……』
コルンの冷やかしに喚くスピカを連れて、遥は地下にいる空良の元へ向かったのだった。




