【二章】冷たい雨と現実。 *5*
*5*
遥たちが、式獣課で帰りを待っていた愁一郎に出迎えられたのは、17時半を過ぎた頃だった。
「みなさん、お疲れ様でした」
そう言って出された温かいほうじ茶に誰もがホッと息をつく中、遥は未だショックから立ち直れずにいた。
遥だけは救助活動服のまま、右腕の傷跡――帰りの車中で香澄とリラが治癒してくれたので跡形もなく消えている――を見つめながら、自分の席に座っている。
傷は見えなくなっても、心に刻まれた痛みは、そう簡単には消えてくれなかった。
そんな遥を見かねた香澄が、とうとう痺れを切らして声をかけた。
「あなた、いつまでそうやってウジウジしてるつもりなの?」
「……ウジウジなんて」
「してるじゃないの。それに、酷い顔よ。何なら、鏡で自分の顔、見てみなさいよ」
香澄に差し出された手鏡を見て、遥は自分のことが余計、情けなく思えてきた。
泣いたせいで目の周りは腫れぼったく、頬には撥ねた泥が乾いてこびりついている。綺麗にまとめてあった黒髪もボサボサだ。
あまりに惨めなその姿に、再び涙がこみ上げてくる。
「助けられなかったことで一番辛いのは私たちではないのよ。残された家族や関係者たちでしょう? 私たちは泣く前に、やるべきことがあるのよ」
「でも……私、また、何もできなかった。スピカのことも、全然気付けなかったし……」
配属初日のあの時と一緒。現場にいたのに、遥は何も、見ていることすらできなかった。
「最初はみんな、そんなもんだろ。現実はそんなに甘くないぜ……」
灯也が、あっけらかんとした様子で言う。
「ええ、灯也くんの言うとおりです。遥さん、あなたはまだまだこれからではないですか。今は今の自分にできる範囲で、精一杯努力すれば良いんですよ」
しかし遥は、灯也と愁一郎の言葉や、香澄や空良の様子に、疑問を感じた。
「みんな、なんで……人が亡くなったのに、そんなに平然としていられるんですか?」
「これでもオレは落ち込んでんだけど……」
ポツリと漏らした灯也の一言に、今度は空良が呆れたようにため息をつく。
「落ち込んでる暇があったら、次に何ができるか考えろ。気持ちだけじゃ人は救えないぞ」
「まぁ、そーなんすけどね……」
「でも……じゃあ、あの時の課長の判断って、本当に正しかったんですか?」
もしあの時、一時撤退せず、すぐに救助活動を行っていたら、彼を助けることはできたのではないか。 式獣使いは、命がけで人を救おうとするものではないのだろうか。
そしてその後も、自分と遥を連れて行ってくれていたら、少しは手伝えて……例え助けられなかったとしても、ああして女性に責められることも、なかったのではないか。
遥の頭に、様々な仮定が浮かんでは消えていく。
「撤退していなければ、遥さんたちはココへ戻って来られなかったと思いますよ。コルンから状況を聞いた私でも、おそらく課長と同じ命令を出していたでしょうね」
「……でも」
愁一郎の説明にも納得しない遥に、空良は報告書をパソコンに打ち込んでいた手を止め、顔を上げた。
「渡月、お前は俺に、自分の命と引き換えにしてでも、彼を助けるべきだったと言いたいのか? それとも、彼を殺したのはお前じゃなくて俺だから安心しろ、とでも言って欲しかったのか?」
「そんなこと……」
思ってない、と言おうとして、遥は口を閉ざした。
平然と、無表情のまま淡々と言った空良に、図星をさされた遥の頭にカッと血が上る。
そうだ。空良の言うとおり、思っていたのかもしれない。自分が何もできなかったのを、空良のせいにして、楽になってしまいたかったのだ。
でも、こんな気持ち、優秀だといわれている空良にはきっと――。
「……どうせ、課長みたいに何でもできる優秀な人間には、私の気持ちなんてわからないですよね!」
吐き捨てるように叫んだ遥は、黙り込んだ空良の方を見てハッと息をのんだ。
いつも、どんなときも無表情だった空良が、その瞳に映した感情の色は、哀しげな氷青。
(――課長を、傷つけた?)
気まずい空気が流れるその場から、遥はスピカの引き止める声すらも無視して、逃げるように飛び出していった。
『おい、待てってば……遥っ!』
追いかけようとして勢いよく閉まったドアに阻まれたスピカは肩を落とした。それを見ていた灯也は立ち上がると、さりげなくドアを開け、廊下に出してやる。
「遥ちゃんのことは頼んだぞー……。それにしても、課長がキレたのって、オレ初めて見たかも。なんか今日の課長、いつもより機嫌悪くねぇ?」
絆侶を追って駆けていくスピカの背にそっとエールを送りながら、灯也はふと疑問を口にした。
「それはきっと……雨だから、ですよ」
「は? なんスかソレ? 意味わかんねーッスよ」
真っ暗な窓の向こうでシトシトと降り続いている雨を眺めながら、つぶやかれた愁一郎の言葉に、灯也は余計、首を傾げたのだった。