#1 暗中のアイデンティティ
「――んっ……。」
僕を目覚めさせたのは、誰かの優しい言葉なんかじゃなく、額に落ちてきた冷たい水滴だった。
「ん……なに……?」
寝ぼけたままの脳が、ようやく自分が眠っていたことを理解し始めた。
(いつの間に寝ちゃったんだろう?)
記憶を辿ろうとするものの、自分が眠りに落ちる前の記憶というものがどうにも靄がかかって思い出せない。
思考が掴もうとするよりも先に沈んでいくようで、現実感が無い。
(それより、ここ……どこ?)
益体のない自問自答の裏側で、ゆっくりとだが確実に周囲に対する違和感というものを感じ始める。
周囲は真っ暗で、視界は悪いことこの上ない。
仰向けに寝転がったままの状態で、背中と手の平からは硬いゴツゴツとした岩肌のような感触が返ってきた。
(なんでこんなところにいるんだろう……。
昨日は一体何をしていたっけ?
そもそも、僕の部屋はどんなだったろう……。
僕の住んでいた街はどんなだったろう……。
家族は?恋人は?友達は?
僕は普段何をしていたっけ?
僕は何が得意で、何が苦手だったっけ?
何が好きで、何が嫌いだったっけ……。
……全部思い出せない。
忘れるはずがないようなことも、
忘れちゃいけなかったはずのことも。
僕を形作るモノ全部、僕の中に残っていない……。
――僕はいったい、誰だったっけ?)
どうしようもない虚無感に脱力すること数秒、僕は静かにその場で立ち上がった。
(分からないことに悩んでいたって仕方ない。)
コントロールしようとしても暴れだす焦りや不安から逃れたくて、まずは自分の身の回りを確認すべきだ、と半ば開き直るように自分に言い聞かせた。
足の裏にはついさっきまで寝転がっていた硬い地面の感触を感じる。
両面の凹凸まで仔細に感じられるということは、自分は今裸足なんだろうか?
その割には硬い地面を踏みしめた時に予想される足の痛みや反発といったものが感じられない……。
カーペットの敷かれた床の上に立っているかのようで、不快感は感じない。
そういえば、自分が今どんな格好をしているのかも分からない。
立ち上がった際や今現在肌に感じてる衣服の感触から察するに、布でできた簡素なつなぎを着ているようだが…
それが動物性のものか植物性のものかまでは分からなかった。
着心地自体は悪くない。
軽い素材で出来ているのか、負担は全く感じられない。
動きを阻害するような作りになっているわけでもなく、あつらえたかのように体の形にピッタリとあっている。
暑苦しさや肌寒さを感じることもなく、ここの季節感もわからない段階で断言はできないけれど、ひとまず衣服の心配をする必要は無さそうだ。
答えのない不安感の中を漂い続けて、ようやく確かな安心を一つ見つけることができた。
安堵感というのは小さくともそれまで気づけなかったことに気付かせてくれる。
いつの間にか暗闇に慣れていた目は、様々なことを教えてくれた。
どうやらここは洞窟みたいだ。
左右と天井に当たる部分を、床と同じような岩に囲まれている。
そんなところにいる僕だが、空間が広いためか閉塞感は全くない。
左右の壁の間、つまり今自分が立っている道幅は目測でおよそ5〜6m程。
天井は上のほうが薄暗くなって見えにくくなっているが、ゆうに10mはあるかと思う。
重機でも余裕で通れそうな広さだ。
でこぼことして見るからに歩き辛そうな道が、不自然なほどにまっすぐどこまでも続いている。
遥か遠くの方に僅かに光が零れ落ちているのが見える。
あそこがこの洞窟の出口……あるいは入り口だろうか。
(どっちにしろ一緒なんだけどね……。)
誰かが聞いていたら笑われそうなどこか抜けた疑問が浮かび、心の中で自ら冷静に訂正を入れた。
僅かではあるが、心に余裕が出てきたようだ。
改めて周囲に意識を向けてみると分かるが、この洞窟はとても居心地がいい。
こうしてジッとしていると体の周りを柔らかな空気に優しく包まれているかのような感覚がする。
一方で風通しもよく、細かな穴が開いているのか時折心地よい風が吹き込んでくる。
なんというか、自分の呼吸に合わせて洞窟そのものが息をしているような、そんな感覚だ。
「あれ?じゃあ、さっきのはどこから――。」
もう一度言うが、洞窟の中は風通しがよく湿気は全く感じられない。
では先程自分の額を打った、あの水滴は一体どこから落ちてきたのだろうか?
そう疑問に思って目線をちょうど自分の真上に向かって上げたところで、薄暗い天井からぶら下がった、ソイツと目があった。