加筆修正版 プロローグ 天空都市サンクリウムの案内
プロローグ 天空都市サンクリウムへの案内
生粋のアイスランド人の僕ことセリオ・オリオールは日本の椿原第一小学校で、肩身の狭い思いをしていた。
僕に友達はなく、毎日、孤独な日々を過ごしていたし、いつもこんな状況から抜け出したいと思っていた。
そんな僕にとって、本、それもライトノベルだけが友人だと言っても良い。
なので、いつか僕の前に自分の人生を変えてくれるような特殊な力を持った女の子が現れてくれないかなと空想したりもしていた。
だが、現実の壁はいとも高く、日々、悪魔からご町内の平和を守っている魔法少女なんて現れはしなかった。
魔法少女のアニメを熱心に見続けるのもだんだん恥ずかしくなってきた年頃だし。
その上、憂鬱な学校生活ではしつこく絡んでくる生意気な生徒たちもいたので、彼らと喧嘩になることもあった。
喧嘩で負けるのは、大抵、僕だ。
僕は体格に恵まれているとは言えず、ヒョロッとしている。なので、リーダー格の太った力の強いいじめっ子からは良く殴られた。
しかも、そのいじめっ子は一人で戦える力を持っているくせに手下たちを何人も引き連れているという卑怯ぶりだ。
その手下たちは何もせずに僕がやられているのを見ているだけ。何かあった時は先生に見ているだけでした、とでも言うつもりだろうか。
ただ、僕もやられるばかりではなく、その太ったいじめっ子にめり込むようなパンチをお見舞いしてやった時もあった。
不幸にもそのパンチは太ったいじめっ子の鼻の骨をボキッとへし折ってしまった。そのいじめっ子は大量の鼻血を流しながら失神して倒れた。
救急車で運ばれたいじめっ子はなぜか、みんなの同情を買い、本来なら被害者である僕には何の斟酌も与えられなかった。
僕の横で母さんが先生にペコペコ謝っている姿には、義憤を感じたし。
そして、その一件以来、僕に近づこうとする者は誰もいなくなった。苛めようとする生徒すらいなくなったのだ。
みんな、僕を校庭に植えられている木でも見ているかのように無視するようになった。
救急車で運ばれたいじめっ子は僕を見て怯えたような顔をする。
相手が自分よりも弱いと分かっていたからこそ発揮されていた暴力性は、鼻の骨と共にへし折られたらしい。
とにかく、こんな調子では、いつまで経っても友達なんてできそうになかった。
そして、僕が小学校を卒業する日が近づいてきた。このままでは近くにある椿原中学校に通わなくてはならない。
友達もできず、苛められるだけの悪夢のような三年間が続くのかと思うと気が滅入りそうになった。
いや、もしかしたら中学生になれば僕の環境が改善されるという見込みもある。
ただ、椿原中学校に通うことになる面子の中には小学校の時のクラスメイトも多分に含まれる。
中学生になったからと言って、彼らが掌を返したように僕と仲良くしてくれるとは、到底、思えなかった。
もし、自分が第一ではなく、椿原第二小学校に通っていたらどうなっていただろうか。やっぱり、今と結果は変わらなかっただろうか。
まあ、そんな空想を今更してもしょうがない。
もう小学校六年生の終わりなんだから。
僕は何で日本なんていう国に来てしまったんだろうかと思う。
僕に父親はおらず、母さんのリリアは日本の大学でアイスランド語の講師をしている。母さんは大の日本好きだったのだ。
しかも、母さんはアイスランドにいた時から日本語がペラペラで、僕にも日本語をみっちりと教え込んだ。
そのおかげで、僕も問題なく日本語が話せる。
そんな母さんはお寿司が大好きだった。飽きもせずに毎日のようにスーパーのパック寿司を買ってくる。
それを食べながら赤ワインを飲むのが乙なのだそうだ。
お寿司に赤ワインという組み合わせが本当に良いものなのかどうかは、子供の僕には分からないけど。
とにかく、僕の父さんが病気で死んでから、母さんは僕を連れて日本に移り住むことにした。
子供の僕にとっては迷惑な話もあったもんじゃないが。
僕はアイスランドの学校だったら、みんなと仲良くなれたのにと思う。現にアイスランドの幼稚園ではちゃんと友達がいたし。
ただ、苛められる奴はどこに行っても苛められると言うからな。アイスランドにいれば明るい生活が待っていたと思うのは、楽観的だと思う。
何にせよ、日本のゲームやアニメは大好きだけど、それだけの理由で、日本で暮らし続けたいとは思えなかった。
なので、僕は小学校を卒業するちょうど一ヶ月前になると、自分の気持ちを母さんにぶつけてみた。
「僕、アイスランドに帰りたいんだけど」
僕はそう切り出す。対する、母さんは自分の講義がない日なので、家でゆっくりしていた。
「どうして?」
母さんは優しげに笑う。
子供の訴えに嫌な顔をしないのは、良き母親だと言いたいところだけど、腹の奥では何を考えているか分からない。
僕は基本的に親ですら信じない捻くれた子供なのだ。
「日本の中学校にはどうしても通いたくないから。この分だと、中学生になっても友達はできそうにないし」
中学生になったら、もっと陰湿な苛めを受けるかもしれない。それに耐えられるだけの精神力はもはや僕にはなかった。
椿原第一小学校に通っていた時に精も根も尽き果ててしまったのだ。
それを理解できないほど母さんが無神経な人間だったとしたら、自殺でもするしか道はなくなってしまう。
「勇気を出せば大丈夫よ」
母さんの言葉に僕はやるせなくなった。ここは無理をしなくても良いとか言うべきところなんじゃないのか。
子供にガンバレは禁句。
テレビでそう胡散臭いことを言っていた精神科医がいたな。
「無理だよ。勇気を出していじめっ子に立ち向かった結果が今の状況なんだよ。中学生になったって、この状況は変わりはしないさ」
いじめっ子を叩きのめしても、誰も称賛してくれなかった。少しでも自分を見る目が変わると期待したことが、今ではたまらなく愚かしく思える。
「それは困ったわねぇ」
母さんは頬に手を当てた。
「僕、レイキャヴィクにいるお婆ちゃんの家で暮らそうかな」
僕のお婆ちゃんはとても優しい人だし、僕と一緒に暮らすことになっても文句は言わないはずだ。
ちなみにレイキャヴィクはアイスランドの首都だ。近くには海があり、平和で良い町だった。
ただ、日本の大都市に比べれば遥に田舎なので、本当にあそこで骨を埋めるまで生き続けられるかと問われれば首を捻らざるを得ないだろう。
「セリオは母さんと離ればなれになっても平気なの?」
母さんは寂しげな笑みを浮かべた。
「母さんなら僕がいなくてもやっていけるさ。妹のユイだっているし」
母さんは一人じゃない。
「そんなことはないわ。母さんだって、セリオがいなくなったら本当に辛いもの」
「でも…」
僕は言い淀んだ。
ここで母さんを突き放しても、何の解決策も見出せないと思う。
やっぱり、アイスランドに帰りたいなんていう無理は通らないし、日本で戦うしかないのかもしれないな。
母さんを置いて日本から逃げ出したら、どんなに良い生活が待っていても絶対に後悔することになると思うし。
例え日本の学校で戦って惨めに負けたとしても、それは必ず生きていく上で必要な強さに繋がると思う。
強くなりたい、と僕は母さんの顔を見ながら思った。
「そういうことなら、あんまり気は進まないけど、セリオに相応しい学校に通わせてあげるわ。そこなら、たぶん友達もできるわよ」
母さんはとっておきの悪戯話でも持ちかけるような声で言った。
この言葉には僕も目を輝かせる。インターナショナルの学校に通わせてくれると思ったからだ。
もし、インターナショナルの学校だったら、例え電車通学でも構わない。椿原中学に通わなくて良いのなら、それくらいの労力は払う価値がある。
何より、同じ外国人同士なら、気心も知れるはずだ。
そう考えた瞬間、僕は後ろめたさのようなものを感じてしまった。それはやっぱり逃げだと思ってしまったからだ。
強くなりたいと願ったばかりだというのに、人間の心は実に弱いな。
「本当なの?」
「ええ。サンクフォード学園って言うの。母さんが昔、通っていた学校よ」
「その学校はどこにあるの?」
聞いたことがない学校の名前だ。
カトリック系のミッションスクールだろうか。正直、ミッションスクールという場所には良いイメージがない。
やたら、規則にうるさくて、窮屈な学校生活を強要されるという映画に植え付けられたマイナス的なイメージがあるからだ。
「空の上よ」
母さんは家の天井を指さした。
「馬鹿にしないでよ」
これには僕もムッとする。
空の上というと、ひょっとして天国にある学校だろうか。だとすると、母さんは遠回しに僕に死ねと言っているのか。
僕はいつもニコニコしていて決して怒らない母さんに不信感を募らせる。
「これが本当なのよね。とにかく、入学案内書を取り寄せてあげるから、それを見てちょうだい」
そう言うと、母さんは得意の苺ジャム作りに戻る。その後、僕が何度、尋ねても母さんは微笑するだけで取り合ってはくれなかった。
そして、一時間ほどが経ち、夕方になると妹のユイが帰ってくる。
ユイは母さんの親戚の子供で、元から日本にいた。親戚と言っても、かなり遠縁なので僕とは少ししか血が繋がっていない。
でも、母さんは事故で両親を失ったユイを引き取った。
母さんも日本ではユイの両親に相当、お世話になったみたいだからな。その義理もあったのだろう。
ちなみにユイは僕と同じ歳だ。僕の方が早く生まれていたから妹という形になったに過ぎない。
学校でも違うクラスだし。
「兄さん、今日は家庭科の時間でクッキーを焼いたから食べてみてよ」
ユイはリビングのソファーに座っていた僕に小さな包みを渡してきた。
ちなみにユイのお父さんは日本人なので、ハーフ特有の可愛らしさがある。ツインテールにした栗色の髪は、ユイのチャームポイントと言って良いだろう。
「ありがとう」
僕は小さくお礼を言った。
「別に面と向かって礼を言われるほどのことじゃないわよ。でも、今日はいつになくそわそわしているけど、どうかしたの?」
ユイの視線が僕に浴びせられる。
「いやどうもしないよ。とにかく、クッキーは食べさせて貰うから、ティーパックの紅茶でも入れて欲しいな」
「何であたしがそこまでしなきゃならないのよ。つーか、クッキーを持ってきたのはあたしなんだから、アンタの方が気を利かせて紅茶を入れるべきでしょ」
でも、僕が入れる紅茶は美味しくないからな。
しかも、アンタ呼ばわりされると心にグサッと来る。たぶん、ユイは心の中では僕を兄として認めてないんだな。
もし、ユイの方が僕より早く生まれていたら、どういう接し方をされていたんだろうか。
「ご免」
ユイの言う通りだ。
「まっ、良いけど。ひょっとして、兄さんったら、学校でなんかあった?」
ユイは僕の顔を青みがかかった瞳で覗き込んでくる。
「何もないよ。ただ、僕は椿原中学校には通わないかもしれない。母さんが自分の通っていた学校を紹介してくれるみたいだから」
まだ、どう転ぶかは分からないけど。
「ふーん、逃げるんだ。ったく、情けない奴」
ユイの声がとんがった。
「そういう言い方はないだろ」
僕もムカッとする。
「だって本当のことでしょ。せっかくクソみたいないじめっ子を叩きのめして、男を上げたと思ったら、そんなこと言うんだもん」
「それは悪かったな。そういうユイはどうするんだよ?」
「私はそのまま椿原中学校に通うわよ。私は兄さんと違って友達もたくさんいるし、椿原中学校でも上手くやっていける自信があるから」
みんなと仲良くできないのは自分が外国人だから、なんて言ってはいけないのかもしれないな。
ハーフのユイだって、自分の体に流れている外国人の血に負けないで、ちゃんと頑張っているんだから。
結局、僕は楽な方に逃げているだけなんだ。こんなことじゃ、今は上手くいっても、いつか必ず躓く。
その時、僕は自力で立ち上がれるだろうか。
「そっか。ユイは強いな」
僕は苦笑した。
「そうでもないわよ。ま、いつも情けない面をしてる兄さんがいなくなれば、あたしも学校で恥を掻かされなくて良いけど」
そうせせら笑うように言うと、ユイはキッチンの方に行って、紅茶を入れるためのお湯を沸かし始める。
その背中を見詰めていると、苦い気持ちで満たされそうなので、僕はユイが持って来てくれた甘くて優しい味がするバタークッキーを食べた。
三日後の土曜日の夜になる。
僕は母さんからパンフレットのようなものを渡された。その表紙にはサンクフォード学園の案内書と記されていた。
僕はパンフレットを見て驚いた。
そこには空に浮いている大陸の写真があったからだ。大陸の上には都市のようなものがある。
パンフレットには天空都市サンクリウムと書いてあった。
どうやら、サンクフォード学園は、天空都市とかいう場所にあるらしい。
驚天動地とはこのことだと僕は思った。
幾ら僕が小学生でも、空に浮かんでいる大陸など存在するわけがないことは知っている。そんなのアニメやゲームの世界だ。
だとすると、これは何かのイメージ映像だろうか。空にあるとしか思えないほど高い場所にあるとか。
そうだとしても、これはないだろうと思うほど、パンフレットに載せられていた写真は鮮烈だった。
もちろん、僕は捻くれているので、すぐに質の悪い悪戯ではないかと疑った。が、パンフレットは良くできていた。
空にあるとされる都市の写真もかなりの数が載せられていたからな。
書かれている文章なんかを読んでみても、天空都市が現実に存在していることをちゃんとアピールしていたし。
とはいえ、天空都市なんていう代物をすぐに信じることはできない。写真なんて、今の技術なら幾らでも加工して作れるし。
だからこそ、疑ってかからなければならない。
だが、このパンフレットは母さんの渡したものなのだ。母さんは僕に対して、この手の悪戯はしない。
そんな悪戯をする親だったら、とっくに嫌いになっているし、そもそも、母さんに別の中学校に通いたいと相談することすらなかったはずだ。
更に、パンフレットには当、学園には魔法が使える子供もたくさんいますと書かれていたのだ。
魔法なんてあるわけがない。
僕はそう決めつけていたので、また驚いてしまった。ただ、ここまで来ると驚いたら負けと思うしかなくなる。
たぶん、このパンフレットはとびっきりのジョークに違いない。本気にした僕を誰かが嘲笑っているのだろう。
それが十年以上も共に生活してきた母さんだとは思いたくないが。
それから、僕は我慢しきれずにパンフレットの内容を色々と母さんに尋ねてみた。が、母さんは多くは語らず、自分の目で確かめなさいと言った。
僕はパンフレットにある体験入学、実施中という文字を見て、一度、行ってみる必要があると思った。
この目で確かめれば何もかもがはっきりする。何の行動も取らずに、母さんに対して疑心暗鬼になるよりはマシだ。
もし、ジョークだったら、その時は盛大に笑われてやっても良い。
とはいえ、どうすれば空にあると言い張る都市に行けるかが分からない。どこかでヘリコプターでも用意してくれているのだろうか。
そのままパンフレットを読み進めると、最寄りのゲートがある場所と書かれている部分があった。
そこには、椿原駅前の雑居ビルの三階に、ワープのゲートがありますと書いてあったのだ。
それを見た僕はワープだって、と思わず声を発してしまった。ワープなんてSFの世界だ。
しかも、ゲートは他にもたくさんあると書いてあった。
どうやら、世界中にゲートがあり、そこからサンクフォード学園に通う子供たちがやって来るようだ。
僕は世界中のゲートからやって来る子供たちを想像して少し興奮した。
このパンフレットが本当なら、僕のような日本人ではない子供もたくさん来るはずだからな。
ま、ここに書かれていることが本当ならの話だけど。
それから、ゲートに入る際には係員に見せてくださいというパンフレットに挟まれていたカードを手にする。
それはテレホンカードより少し大きいくらいの何の変哲もないカードだった。クレジットとカードにも似ているが、機械で読み込めるような部分はない。
僕は日曜日になったら、さっそくゲートがあるという場所に行ってみようと思った。
日曜日になると、僕は自転車で椿原駅へと来た。
椿原駅の前にはショッピングセンターや、アーケードの商店街などがある。他にも色々な会社のビルなどが建ち並んでいた。
日曜日と言うこともあってか、駅前には人がたくさんいた。近くにバスやタクシーが止まっている横断歩道にはずらりと人が並んでいたし。
それから、僕は駅の駐輪場に自転車を置いた。
そして、駅の向かい側にある雑居ビルに向かう。雑居ビルには色々なテナントが押し込まれていた。
一階が和食の店で、二階が金品の買い取りをしている質屋だった。四階は心療内科のクリニックになっている。
ただ、三階には何のテナントも入っていなかった。
僕は緊張しながら雑居ビルの階段を上っていく。雑居ビルの薄暗い階段を上るのはなかなか勇気が必要だった。
どう考えても小学生が親もおらずに一人で入るようなビルではないし。
僕はそんなビルをひたすら緊張しながら上っていく。すると、三階には警備員が立っている入り口があった。
「子供がこんなところに何のようかな?」
警備員は日本人だった。警察官にも似た制服を着ているので、僕は何だか怖くなってしまった。
だが、ここで背を向けて逃げ出したら、余計、不審がられるだろう。ここは勇気を見せるしかなかった。
「この奥にあるゲートに入りたいんですけど」
ゲートに入れば空に浮かぶ都市に行けるなんて話したら笑われそうだ。
下手したら、病院に行けとか言われるかもしれない。そういえば、このビルの四階は心療内科だったな。
あまりおかしなことを言うと、僕も心療内科の患者だと思われるかもしれない。
「身分を証明するものは?」
警備員は胡乱な目をした。
「ありませんけど、このカードがあります」
僕は慌てて、ポケットの中にあるカードを取り出して見せた。それを見た警備員は薄く笑った。
「通りなさい」
警備員が入り口の脇にどいた。
これには僕もおいおいと言いたくなる。
ここで警備員が「ゲートなんてありはしないから帰りなさい」と言ってくれることを僕も予想していたからだ。
それを受け、僕はおずおずと入り口の扉を開けて中に入る。すると、そこは何も置かれていない部屋になっていた。
ただ、床には黒い線で大きな魔方陣が描かれている。魔方陣は幾何学的で見たことがない文字や記号が躍っていた。
何ともオカルト染みた雰囲気を発している。魔方陣の上から悪魔でも現れそうな、真に迫った迫力があった。
この中に入れば良いんだろうか。
僕は天井にあるチカチカと点滅する電灯の光を浴びながら、魔方陣の中に恐る恐る足を踏み入れた。
これで何も起こらなかったら、僕が笑ってやる。
そう思った瞬間、僕の視界が塗り変わった。気が付けば僕は雑居ビルの中ではなく、広い空間の中にいた。
そこには白い柱が建ち並んでいて、天井も抜けるように高い。壁には神秘的なレリーフも刻まれていた。
まるで神殿のようだった。
僕の足下に描かれている魔方陣も光り輝いている。
僕はそのあり得ない光景を前にして、ぎょっとした。全身が総毛立つものも感じる。
まさか本当にワープできるなんて、と僕は息を呑んだ。
それから、僕は回廊のような通路を歩いて行く。神聖さを感じさせる通路は不気味なほど静まり返っていた。
この先に白い衣を着た神様がいても驚きはしなかっただろう。
そんなことを考えている内に僕は日の光が差し込んでいる外に出る。すると、そこは綺麗な白い石畳になっていた。
道の両脇には街路樹のようなものが一列に植えられていて、どこか見る者をほっとさせる空気が漂っていた。
そして、その先には建物も見える。白を基調としたビルにも似た建物だ。ただ、遠目からでも石造りだと言うことは分かる。
僕は視線の先にある青々とした空と綿飴のような雲を見る。雲が上ではなく、真横に見えたのだ。
太陽も何となく近くに感じられたし、例えようのない不思議な感覚だ。きっと、雲より高い山に登れば、こんな景色が拝めるのかもしれない。
僕が地上とは違う雰囲気を感じ取っていると、空を何かが飛んでいるのが見えた。最初は鳥かなと思った。
が、すぐに違うと分かった。
それはテレビゲームなんかに出て来るドラゴンだったのだ。
これには僕もまさかと思う。
ドラゴンなんて、僕はサンタクロースの存在以上に信じない。だが、今、僕の視線の先にいるのは紛れもなくドラゴンだった。
白昼夢でも見ているのかと、自分の正気を疑ったくらいだし。
一方、威風堂々とした黒いドラゴンは力強く羽をはばたかせながら、僕の頭上、十メートル付近を通過していった。
巻き起こる風が僕を吹き飛ばしかける。
ドラゴンの背中を見た僕は、もしかしたら、あの鋭い爪に掴まれて、そのまま空へと持ち上げられていたかもしれないと思う。
そう思うと、僕も膝が笑い出しそうになった。
何にせよ、本物のドラゴンの迫力はゲームなんかとは比べものにならなかった。ゲームのキャラが、ドラゴンを易々と倒す光景はやはり嘘なのだと実感させられる。
どう逆立ちしたって、あんな化け物に人間が勝てるわけがない。魔法が使える人間がいると聞いても今なら信じられる。
そして、黒いドラゴンは雲の中へと消えた。
それを見た僕は地面が不自然に途切れている場所へと走っていく。そこには柵が張り巡らされていた。
柵より下は崖のようになっていて、その更に下には青い海が見える。陸地はどこにも見えなかった。
僕はこの場所が空に浮かんでいることを改めて思い知らされた。とんでもないところに来てしまったものだ。
こんなところにある学校に通って平気だろうか。まだ椿原中学校に通っていた方が安全なのではないか。
僕は急に不安になって、やっぱり家に帰ろうかなと思った。
すると、一人の少年が話しかけてくる。
「そこのお前、そんなところにいると危ないぞ」
制服のブレザーのような服を着た茶髪の少年がやって来た。歳は僕と同じくらいに見える。
「う、うん」
相手が子供とは言え、僕も緊張を隠しきれなかった。こんなところにいる人間は普通ではないと警戒してしまったからだ。
それに日本にいた時は、同じ歳くらいの男の子に話しかけられたことなど、いじめっ子以外では滅多になかったからな。
緊張してしまった理由はそこにもある。
「お前、柵から身を乗り出して何をしてたんだ?まさか飛び降り自殺でもしようとしているんじゃ」
茶髪の少年は灰色の目をクルクルさせた。
「いや、本当に空に浮いているのか、見てみたくて」
幾ら柵の外が絶好の自殺スポットに見えても、健全な少年たる僕が自殺なんてするわけがない。
「というと、お前は今日、初めてこの天空都市サンクリウムに来たんだな。どうりで下にある海なんて見ていると思ったよ」
少年は馬鹿にする風でもなく笑った。
「そうだよ。僕、この天空都市のことについてはあまり知らないんだ」
嘘を吐いても仕方がない。
「そっか。確かに初めてこの天空都市に来た人たちはみんな驚くよなぁ」
「君は?」
「俺はカルベン・カルバーニ。今年の春からこの天空都市にあるサンクフォード学園に通うことになってる。ここで会えたのも何かの縁だし、よろしく」
カルベンは誇らしげに言うと僕に手を差し出してきた。
そうだ、僕は自分と同じ子供にこういう反応を求めていたのだ。だからこそ、僕はカルベンから親しみ以上の気持ちを感じていた。
「こちらこそよろしく」
僕はカルベンの手を握った。
カルベンの言うことが本当なら、カルベンと自分と同じ歳だろうか。
サンクフォード学園は六年制の学校だと聞いているし、自分ももし通うなら一年生から始まることになる。
「俺の両親は有名な魔法使いなんだ。でも、俺は魔法が全く使えないから、みんなをがっかりさせちまうだろうな」
「魔法か。まあ、ドラゴンを見た後じゃ信じるしかないよね」
くどいようだが、もう何が出て来ても驚きはしない。
ワープを経験し、ドラゴンを見てしてしまった後では魔法などたいしたものではないように思えるし。
「お前も邪竜ジャハナッグを見たのか。あのドラゴンは人懐っこい性格だけど、一度、怒り出すと手が付けられなくなるから、気を付けた方が良いぞ」
カルベンに言われなくても、あんな恐ろしいドラゴンを怒らせる気は僕にはなかった。
「分かった。でも、どうしてこんな言葉を話せるんだろう。こんな言葉は勉強したこともないのに」
僕は自分の口から発せられる聞いたこともない言葉に首を傾げた。
「簡単さ。お前もゲートの中に入って、この天空都市に来たクチだろ。ゲートの魔方陣には翻訳の魔法も組み込まれているのさ」
だから、聞いたことのない言葉を隅々まで理解できるのか。って、そんな説明で納得して良いのか。
「翻訳の魔法ねぇ」
便利な魔法もあったものだと僕は思った。
それから、そんなものがあるとすれば、真面目に語学を勉強している人たちは馬鹿みたいだとも思う。
翻訳の魔法が普及すれば母さんのような人間は職を失うな。
「とにかく、俺はこれから学園に行くつもりだけど、お前はどうする?」
カルベンが尋ねた。
「僕も学園に行くよ。実は僕、サンクフォード学園に体験入学をしに来たんだ」
「じゃあ、一緒に行こう。俺がサンクフォード学園の校舎に入ったことは一度や二度じゃないし、案内だってできる」
その言葉を聞き、渡りに船だと思った僕はカルベンと一緒にサンクフォード学園に行くことにした。
僕とカルベンはゲートのあった神殿を後にすると、石畳の道を進みながら町へとやって来た。
ヨーロッパの歴史的な町並みを彷彿とさせるところで、何とも風情があった。
通りに面したカフェテラスなんかはパリの町みたいにお洒落さを感じる。座って、コーヒーを飲んでいる人たちもセンスの良い服を着ていた。
ガラス張りになっている店もあり、その中には服や靴などが飾られている。
その一方で、カウンターが道に面している武器屋や防具屋もあった。物騒な剣や槍が棚に陳列されているのだ。
本物の剣なんて初めて見たよ。
しかも、道には帯剣した騎士のような制服を着た人たちも立っている。彼らが町の安全を守っていると言うことか。
警察官みたいなものだな。
他にも民族料理のようなものを提供している屋台や、怪しげなアクセサリーを売っている露天商もいた。
そんな天空都市サンクリウムの町は新しさを感じさせる部分もあれば、古さを感じさせる部分もあった。
僕の見る限りでは、新しさと古さが良い感じに調和していた。
近代化を要求されつつも、古き良き建物を何とかして残そうとしている感じかな。
さすがに車などは走っていないが、自転車に乗っている人はいる。時代遅れな馬車なんかも走っていたし。
僕はそんな通りを歩きながら、石造りの大きな建物がある場所へとやって来た。
その建物はヨーロッパの歴史と伝統のある大学を思い起こさせるが、それとは大きさがまるで違う。
とにかく、リゾートホテルのように敷地が広くて、建物が大きいのだ。
それでも、そこは確かに学校だった。
が、お城や宮殿のような雰囲気も併せ持っていた。
ファンタジーの世界に出て来る学校と言ってしまえばそれまでだが、他に例えようがないのも事実だった。
とにかく、その建物は煉瓦のような茶色を基調としていて、コンクリートでできた日本の無機質で灰色の学校の校舎とは何もかもが違った。
「ここがサンクフォード学園だ。凄いだろ。俺の父さんはこの学園で、先生をやっていた時もあるんだ」
カルベンは校門の前で、そう自慢した。
「へー」
僕は校門から続いている緑の芝に両脇を挟まれた石畳の道を見る。校舎に辿り着くまでに五分はかかりそうだ。
「この中で六年間も学ばなきゃならないんだぜ。ちょっと、ぞっとするよ」
カルベンはげんなりしたように言った。六年は確かに長く感じられるだろうな。とはいえ、住めば都という言葉もある。
「でも、面白そうだ」
「そうか?天空都市じゃ携帯電話は使えないし、テレビだって見れないんだぞ。他にも地上に比べて不便なことはけっこうある」
「それは辛いね」
その事実は注意事項としてパンフレットにも載っていた。
「ああ。ま、機械製品が全くないってワケじゃないけど、この天空都市にいる連中は何をするにしても魔法を使いたがるんだ」
「ふーん」
「ふーん、ってお前もこの学園に通うって言うなら、人事じゃないぞ。最近、魔法を使える生徒とそうでない生徒の対立が激しくなっているって言うし」
カルベンの顔に影が差した。
「僕は魔法なんて使えないよ」
「俺も同じだ。もちろん、魔法が使えなくたって、この学園で学ぶことはできる。でも、魔法の使える生徒は特別に魔法の授業を受けることができるんだ」
カルベンの言ったことはパンフレットにも書いてあったが、僕はすっかり忘れていた。
「どんな授業なの?」
僕は好奇心を抑えきれずに尋ねた。
「魔法を使った授業さ。手から炎の玉を出したり、空から雷を落としたりするんだ。まっ、魔法使いたちにとっちゃ難しいことじゃない」
「何だか、怖いね」
そんな力があるなら、手品師にでもなれば良いと僕は思った。きっとラスベガスのステージにも立てるはずだ。
「でも、そんな怖い力を持った奴らが、この天空都市どころか世界中を支配しているのもまた現実さ」
カルベンの声が真剣味を帯びた。
「どういう意味?」
「この世界は裏から魔法使いたちに操られてるんだ。みんなマヌケなことにそれに気付いていないんだよ」
「そうなの?」
あまり現実感は持てない話だった。ただ、魔法という言葉を聞くと、何でもアリのような気がしてくる。
現にこんな空に浮かぶ都市の存在が明らかになっていなかったわけだから。
「ああ。ま、そいつらは魔法が使えることをひた隠しにしているけどな。知られたら厄介なことになるし」
カルベンは「知られたとしても、裏から揉み消してくれる機関があるから心配ないけどな」と付け加えた。
「それと、お前は知らないかもしれないが、かつてこの世界はリバインニウムって呼ばれてたんだ」
カルベンは長々とした説明を始める。
「そこでは誰もが普通に魔法を使えた。でも、魔法の力に溺れた人間たちは神の怒りを買った。そして、大洪水で滅ぼされたんだ」
「大洪水ね」
どこにでもある伝説だ。だが、僕は信じていない。大洪水があったとされる科学的な根拠はどこにもないからだ。
ただ、あの恐竜たちが全て滅んでしまったのだから、どれくらい昔かは分からないが天変地異のようなことがあったのは確かだろう。
「そうさ。でも、天空都市にいた人間だけは生き延びられた。その後、水が引いた地上にはどこからともなく現れた人間たちが暮らし始めた」
カルベンの説明はまだまだ続く。
「が、そいつらは魔法が使えなかった。でも、ちゃんと生きていくことができたんだ。そして、天空都市にいた人間たちも地上に下りて、そいつらと共に暮らし始めた」
「天空都市にいる人たちは確かリバイン人って言うんだよね」
それもパンフレットに載っていた。
「そうだよ。とにかく、リバイン人と普通の人間たちは地に増え広がった」
カルベンの言葉を聞き、それが本当なら大洪水はいつ起きたのだろうかと僕は思った。
「でも、リバイン人の血はどんどん薄まっていって、やがてリバイン人の血を引いていても魔法が使えなくなったんだ」
「なるほど」
僕も遅まきながら、ようやく話が見えてきた。
「ゲートの中に入って天空都市にワープできるのは、魔法が使えるかどうかは関係しないけど、リバイン人の血をある程度、濃く引いている人間だけなんだよ」
カルベンもさすがに口が疲れてきたようだった。
一方、それを聞いた僕は自分も母さんもリバイン人の血を引いているということかと納得した。
死んだ父さんはどうだったんだろう。
母さんの親戚だった妹のユイも天空都市には来れるのだろうか。
まあ、何にしても自分は魔法なんて全く使えないのだから、血なんてものに拘っても意味はないかもしれない。
「そして、この天空都市に住んでいる連中は、魔法を使えない人間たちを快く思っていないんだ」
カルベンはどこか悔しそうな顔をする。
「それどころか、天空都市にいられるのは魔法が使える人間だけにしなきゃいけないって言い張っている連中もいるくらいだからな」
それを聞き、僕はどこの世界でも差別は存在するものだと思った。
「複雑だね」
「ああ。そこに善神サンクナートと邪神ゼラムナートの二人の神も加わってくるから、話が余計にややこしくなるんだけどな」
サンクナートとゼラムナートという名前を口にした瞬間、カルベンの唇が少しだけ震えた。
「この天空都市には神様がいるの?」
僕は急に怖くなった。
「いるさ。滅多なことじゃ姿を現さないけど確実にいる。そして、その影響力は決して無視できるものじゃない」
「そっか」
「とにかく、今の天空都市を取り巻く環境は、普通じゃないんだ。俺も厄介な時期にサンクフォード学園に通うことになったもんだよ」
カルベンは肩を竦めた。
「ま、どんな状況だろうと日本の椿原中学校に通うよりはマシと思うけどね」
僕は皮肉を込めて言った。
「そっか。ま、サンクフォード学園の校長、大賢者ウルベリウスは何に対しても寛容だし、何よりも差別を嫌うから、魔法が使えなくても大丈夫さ」
カルベンは気楽そうに笑いながら言葉を続ける。
「しかも、ウルベリウスは魔法至上主義に取り憑かれていた暗黒の魔導師ヘルガウストも打ち倒してくれたって話だし」
「ヘルガウストって」
何とも嫌な名前に聞こえた。
「天空都市、始まって以来の優れた魔法使いさ。大賢者ウルベリウスと暗黒の魔導師ヘルガウストはサンクフォード学園では同期生だったし、互いをライバル視してた」
カルベンは遠い目をする。
「呆れたことに、この二人は学園の重要なポストに就いてからも争い続けていたんだ」
「へー」
「ま、ヘルガウストは恐ろしい力を持つ魔王アルハザークなんかと手を組んだ奴だから、ウルベリウスに負けて良かったけどな」
カルベンは空恐ろしそうに言った。
「魔王なんているんだ」
「神がいるんだから魔王だっているに決まっているだろ。魔王アルハザークはその中でも別格の奴さ」
カルベンは声を震わせながら話し続ける。
「もちろん、魔王アルハザークの跡を継ぎ、魔界の支配者になった魔将アルゴルウスだって忘れちゃいけない」
カルベンは熱を帯びた声で言葉を続ける。
「単なる力比べだったら、どんな物でも切り裂く大剣を操るアルゴルウスはアルハザークを凌ぐ強さを持っているみたいだし」
カルベンは口早に言ってから「そんなアルゴルウスは豪傑の魔将と言われているんだ」と言葉を添えた。
「ふーん」
僕はまるでテレビゲームの世界みたいだと思った。
「いずれにせよ、当時はヘルガウストも魔王アルハザークを上手く従えることができなかったから、ウルベリウスもその辺には救われたって聞いてる」
カルベンはそう言うと「ま、こんな話は止めて、さっさと校舎の中に入ろうぜ」と僕を促す。
その後、僕とカルベンの二人はサンクフォード学園の中を見て回った。中は木造になっていて、やはり年季の入った古さを感じさせた。
歩くと軋んだ音を立てる床は、日本の田舎にある取り壊しが決まった学校の校舎みたいに思えたし。
火災が起きても大丈夫だろうかと僕に心配させる。
だが、コンサートでもできそうな広い講堂や、目が回りそうな程、たくさんの本がある図書室などには僕も驚かされた。
母さんが講師をしている大学にもこんなに立派な物はない。古いからと言って、馬鹿にできたものではないな。
ま、日本には校舎は真新しくて立派だけど偏差値の低い三流大学は山ほどあるし。
逆にヨーロッパのように、建物は古臭くても、世界で知らない者がいないくらい名を馳せている大学もある。
とにかく、休みの日だというのに校舎の中にはかなりの生徒がいた。
みんな青いブレザーのような制服を着ていて、その肩には金の刺繍が施されたケープが羽織られている。
男子はシンプルな紺のズボンで女子はチェックのスカートだった。ミッションスクールにありそうな制服だ。
でも、日本の中学校の学ランよりはずっと良い。
それから、僕とカルベンは食堂に行く。
茶色を基調とした木造でできた食堂からは良い匂いが漂ってきた。
小腹が減ったというカルベンは自分だけでなく僕にもハンバーグを食べさせてくれた。この天空都市で使えるお金をカルベンは持っていたからだ。
僕はハンバーグを食べると、カルベンと一緒に校舎の敷地を見て回った。
広々とした中庭にはのんびりしている生徒たちがたくさんいた。本当に大学みたいなところだなと僕は改めて思った。
その後、僕は学園の中を見て回ると、再び校門の前にやって来る。
「今日はどうだった、セリオ?」
カルベンは僕から教えて貰った名前を呼んだ。
「分からない」
僕は遠くを見る。
「俺はお前とこのサンクフォード学園で学べることを楽しみにしているんだけど、実現しそうにないかな?」
カルベンと僕はすっかり友達になっていた。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、僕にとっては何もかもが驚きで、正直、戸惑ってさえいる」
「それは悪いことじゃないさ。ま、考える時間はまだあるし、この学園で学ぶかどうかは前向きに検討してくれよ」
「そうだね」
僕もカルベンという友達がいるなら、この学園で学ぶのも悪くないと思っていた。
「じゃあ、俺は自分の家があるスペインに帰らせて貰うからな。お前は確か日本に住んでるんだろ?」
カルベンは地上で暮らしているが、小さい頃から天空都市に入り浸っていたらしい。
「うん」
「ま、日本みたいに漫画やゲームがたくさんある楽しい国にいれば、天空都市にもあまり魅力は感じないかもしれないな」
そう言うと、カルベンは門を出てゲートがある神殿の方に歩いて行く。
カルベンが言うにはゲートには高度な魔法が組み込まれていて、誰がどのゲートからやって来たのか判別できるそうだ。
だから、同じゲートの中に入っても、僕は日本に戻るし、カルベンはスペインに行ってしまう。
僕は邪竜ジャハナッグが悠々と空を飛ぶのを見ながら、ゲートのある神殿にまで戻ってきた。
「そうそう、俺がいない間に、お前はまたこの天空都市に来るかもしれないけど、あんまり危ないところに行かない方が良いぞ」
カルベンがそう忠告する。
「えっ」
僕は上擦った声を上げた。
「この天空都市には治安が悪いところもたくさんあるんだよ」
カルベンは言葉を続ける。
「それに善神サンクナートが裏で操る魔法主義同盟や、邪神ゼラムナートが広めているゼラム教の対立に巻き込まれないとも限らないし」
そう意味深に告げると、カルベンは「じゃあ、俺はこれで」と言って、魔方陣の中に入った。
すると、カルベンの体が光りの粒子と共に消える。
僕も怖がりながらも、魔方陣の中に入った。すると、雑居ビルの中にあった部屋へと戻ってきた。
僕はほっと息を吐くと、警備員のいる入り口を通り過ぎて、雑居ビルを出た。
ひょっとして、あの警備員は一日中、あそこにいるのか。だとしたら、退屈だろうし、給料は誰が払っているんだろうな。
それから、周囲を真っ赤に染め上げている綺麗な夕日を見ると、僕は真っ直ぐ家に帰ることにする。
だが、僕が自転車の駐輪場に行くと、そこには数人の高校生たちが屯していた。彼らは喧しく喋っていたが、僕を見ると声を潜めた。
やっぱり、この反応が日本人なんだよな。
もし、ここがアメリカだったら色々な人種の人間がいるわけだし、こんな反応をする者はいない。
現実にカルベンは何の不自然さもなく僕と接してくれた。
これが普通だし、おかしいのは日本人の方なんだと僕は思うことにした。
僕はまっすぐ帰ろうかと思ったけど、小腹が空いたのでコンビニに寄る。そこで、フランクフルトを買うと、今度こそ自分の家に帰ろうとする。
そして、家に帰ってくると、ユイとその友達がリビングにいた。なので、気付かれないように自室に行こうとすると、僕の話が聞こえて来る。
「ユイのお兄さんって、椿原中学校には通わないんだよね」
黒髪の女の子がそう言った。僕と同じ学年にいるはずだけど、あの子は知らないな。
「そうみたい。何か、お母さんがあいつのために、自分が通っていた学校を紹介したらしいし」
ユイは頬を膨らませる。
「ユイのお母さんって、日本にある学校に通ってたの?」
黒髪の女の子はなかなか鋭い質問をしてくる。
「わかんない。お母さんって謎が多い人だから。ま、日本が好きだって言うのは間違いないけどね」
まあ、あんなところにある学校に通っていたのを内緒にしていたんだから、謎が多いのは間違いないな。
そんなことは知らないユイは続けて口を開く。
「こっちがげんなりするくらい毎日、パック寿司を買ってくるし、あんこ物の和菓子なんかもよく食べてる」
パック寿司は母さんのささやかな楽しみだから文句を付けるわけにもいかない。
「日本と言えば寿司って言うのはいささか安直すぎるよねー。それで、ユイのお兄さんは日本は好きなの?」
頼むから僕の話はしないでくれ。あともう少しで、地獄のような学校生活が終わろうとしているんだから。
「あいつは嫌いでしょ。あたしにはアイスランドにいれば良かったって何回か愚痴を零してたし」
「感じ悪いね」
「外国人なんてみんなそんなもんじゃないの。あたしは、つまんないアイスランドなんて死んでも行きたくないけどさ」
ユイはそう言うけど、アイスランドは自然が多くて平和な国なんだ。何も知らないくせに馬鹿にして欲しくはない。
それにユイにだってアイスランド人の血が半分、流れてるんだぞ。そのことに誇りはないのか。
「それは言えてる」
「そんなことより、明日の放課後は駅前にあるショッピングセンターに行こうよ。超が付くほど可愛い服を売り出したって、SNSで聞いたしー」
ユイがそう言うと、もう一人いた女の子も「賛成ー」と声を上げた。
僕は何だか居たたまれなくなり、盗み聞きしているのがばれないウチに、さっさと自室に戻った。
それから、三十分ほど経っただろうか。玄関の扉が開けられる音が聞こえて「またねー」という声も僕の耳に届く。
たぶん、ユイの友達が帰ったのだろう。ユイの奴、僕がいないところで、僕の悪口ばかり言ってるんじゃないのか。
話のネタにされるのはご免だ。
ま、僕がサンクフォード学園に通うようになれば、そんな雑音に煩わされるようなこともなくなるんだろうけど。
ユイの友達がいなくなり、ほっとしたのも束の間、ノックの音もせずに僕の自室の扉がいきなり開いた。
「兄さん、体験入学はどうだったの?」
ユイはどこか機嫌悪そうに尋ねてきた。
「なかなか良かったよ」
嘘ではない。
「ふーん」
据わったような目をするユイ。
「あたし、色々、言ったけどアンタには椿原中学校に通って欲しいって、本気で思ってたんだからね」
ユイは恥ずかしそうに言った。しかも、アンタという言葉が、僕に妙な感情を抱かせる。
「そっか」
そう思ってくれたのは素直に嬉しい。ひょっとして、ユイは僕を兄妹ではなく異性として見ているのかもしれない。
まあ、本当の兄妹じゃないから無理もないけど、僕にとってユイはあくまで家族だ。異性という認識は今のところない。
「苛められるのが怖くて、みんなと違う学校に行こうとするなんて、カッコ悪すぎるよ。後ろ指さされるあたしの身にもなれ、バカッ」
そう叫ぶと、ユイは僕の部屋から出て、入り口の扉をバタンッと閉めた。
確かにユイの言うことも分かるけど、僕が学校からいなくなればユイだって清々するはずだ。
僕のせいでユイが学校で苦しむのは見たくない。
僕は苦々しい思いに駆られながら、ベッドに横になると、天空都市で見た光景を思い出しながら目を瞑った。
第一章に続く。




