<第5章>
ただ証明したかったのだ。
自分は魔女なのだと。自分は出来損ないなどではないのだと。
魔法を失敗する度に自分は持たざる者なのだと突き付けられているような気がした。それが悔しくて、悲しくて、何度も抗った。何度も挑戦し、何度も失敗し、何度も笑われた。その度に拳を振り上げて相手を傷つけながら黙らせた。その度に自分の心も傷付いた。
出来損ない。それがこの学院で彼女に張られたレッテルだった。湊はこの学院でも数少ない魔法の使えない魔女だった。彼女は術理回路を操る才能を持ちながら、それを魔法という形で顕現することが出来なかった。それでも彼女は魔女であることを、魔女であろうとすることを決して諦めたりはしなかった。
魔女であること。それは彼女の夢だった。幼い日に抱いた目標だった。ただそれだけを目指して一心不乱に駆けて来た。稚拙な回路を磨き、誰にも負けない回路を構築出来るようになって、でも、彼女は出来損ないでしかなかった。彼女には魔法を操ることはできなかった。それは、魔法とは完全に制御された力であるべきという魔女の理念に反したものだった。故に彼女は魔女の出来損ないと呼ばれた。
それでも、諦め切れずに彼女はその原理について学んだ。魔法を操るための基礎理論たる術理学を。そして、その知識だけを武器に全国から魔女を目指す者たちが集まる最高難度の魔法学校たる私立蒼華学院高等魔法女学校の魔法術理学科へと入学してみせた。
そこは、魔法を扱う才を問われない唯一の学科だった。
もっと、学びさえすればこんな自分でも魔法を使うことが出来るのではないか。そんな思いを胸に必死に抗った。みっともなく拳を振り上げては罵倒の声を打ちすえ、無様に這いずった。それでも、彼女には魔法を扱うことは出来なかった。自分は持たざる者なのではないか。必死に振り払ったはずの疑念が苛んできた。出来損ない。その言葉がまるで半身であるかのようにどこまでも追い迫ってきた。そんな時なのだ。彼女の前に一人の少女が現れたのは――
その少女を見た瞬間、彼女は思った。
これは自分だ、と。そこには彼女と瓜二つの少女が蹲っていた。
(あたし一人ではもう出来損ないじゃないなんて信じられないかもしれない。でも――)
彼女は、その少女へとそっと手を差し伸べた。なに泣いてんのっ、泣き虫さんっ、そう笑い掛けていた。
(あたしが助けるからさ。あんたの涙を全部拭ってやるからさ。だから、あたしに信じさせてよ。あたしは、あたしたちは出来損ないなんかじゃないって――)
少女は彼女にとって最後の希望だった。
それが一場湊と遠山詩乃の出会いだった――
◆ ◇ ◆
その朝も、遠山詩乃は少し離れたテーブルから、術理学科生専用のテーブルで朝食を摂る一場湊のことを見つめていた。
詩乃が、湊とではなくルームメイトの有馬怜奈と共にいること以外、概ねいつも通りの術理学科寮こと丁香花寮の朝の風景だった。
変わりたいと、出来損ないでしかない自分を変えたいと、そう詩乃が思うことの出来たあの日から早数日。あの時の決意とは裏腹に、詩乃はいつまでたっても変われない自分にもどかしさを覚えていた。
湊に選んでもらえた詩乃という魔女に相応しい、そんな自分になりたい。そう思った気持ちに嘘偽りはなくて、でも、どう変われば良いのか分からない詩乃は一歩を踏み出せずにいるのだった。
「詩乃ちゃん。さっきからずっと、ぼうっとしてますよ」
詩乃の隣で朝食を摂っている怜奈が少し窘めるような口調で言った。怜奈の言う通り、詩乃はろくに食事にも手をつけずに心ここにあらずといった様子で術理学科のテーブルの方を見つめていた。
「ごめんなさい……その――」
「湊先輩、ですね。声を掛けに行かなくてもいいんですか?」
怜奈は、複雑な表情で湊のいる方を見つめていた詩乃へと尋ねる。
「行かなくちゃいけないとは思うんですわ。でも、今のわたしでは、湊先輩に会えない。会うのが怖いのですわ……」
結局はその想いが詩乃に最後の一歩を踏み出すことを躊躇らわさせていた。変わりたいと思って、でも、それだけで何もかもが劇的に変わるわけではなかった。
「私は今の詩乃ちゃんもままでも大丈夫だと思いますよ」
「湊先輩は優しいですから、たぶん怜奈さんの言う通りになるとは思うんです。でも、それでは、わたしが自分自身を許せないんですわ」
湊に選んでもらった魔女。今の自分はまだその魔女に相応しいとは思えなかった。でも、だからこそ、相応しい自分になりたいと、今の詩乃には思えるようになっていた。
「詩乃ちゃんが決めたことなら、私は無理強いはしません。でも、もう夜会の参加申し込みの期限が目前まで迫っていることだけは覚えておいてください。夜会だけがすべてだとは言いませんけど、でも、詩乃ちゃんと湊先輩にとっては大切なものだとは思いますから」
怜奈の言葉に力なく頷いて返す。
それは、今まであまり考えないようにしていた事実だった。湊が誘ってくれた夜会。それは、もう目前まで迫っていた。
早く変わらなくてはいけないという焦燥。それでも、どうやれば変わることが出来るのか分からないもどかしさ。遠山詩乃はそれらに苦悩していた。
◆ ◇ ◆
「どうしても駄目なんですの?」
無駄に広い部屋に詩乃の少し落ち込んだ声が響く。
放課後、詩乃は魔法術理学科の授業棟の一階にある術理学科の職員室にいた。
生徒数の少ない魔法術理学科の職員室だけあって、術理学科専属の常勤の教師は少なく、他学科の教師や非常勤講師が多いため、部屋はいつもどこか閑散としている。
「ごめんなさいね。でも、それが規則なの」
女性教師はやんわりと諭すように詩乃へと告げた。
詩乃が基礎術理学の授業でお世話になっている術理学科の数少ない常勤の教師だった。
「一年生一人だけでは、何かあった時に対処出来ないでしょう? だから、上級生と一緒でないと貸せない決まりになっているのよ」
そうは言いながらも、彼女はどこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
意地悪をしている訳ではなくそれがただ純粋に曲げようのないことだということは詩乃にも十分に伝わっていた。これ以上足掻いたところで、彼女を困らせてしまうだけなのだ。
「それでもっ」
だが、詩乃は少しだけ涙目になりながらも食い下がった。
それは、詩乃にはとても珍しいことだった。いつもの詩乃ならば、どうしようもないことなのだと、自分に言い聞かせて引き下がっていたことだろう。誰かを困らせてまで、自分の意志を押し通せるような少女ではなかったはずだった。
「どうしても必要なんですわ……」
詩乃は縋るような声を漏らす。
詩乃は魔法の練習をするために術理学科の魔法演習場を使用する許可をもらおうと思っていたのだ。だが、一年生一人だけでは貸せないとやんわりと断られてしまった。
それは本当にどうしようもない決まりなのだろう。でも、納得は出来ても、それを受け入れることの出来ない詩乃がいた。
変わらなくてはいけない。そう思えば思うほどにどうすれば変われるのかが分からなくなって、ただ焦燥だけが募ってしまう。夜会の参加申し込みの期限は刻一刻と迫っていた。
悩むよりも先に行動に移そうと思い立ってこの職員室までやって来たのだが、あっさりと出鼻をくじかれてしまい、詩乃は溢れそうになる涙を堪えるのが精一杯だった。
「なにを焦っているのかは分からないけれど、もう少し肩の力を抜いたほうがいいわよ」
教師は少し窘めるような口調でそう言って見せた。
「がんばりたいって気持ちは十分に伝わって来ているわ。でも、がんばることと無茶をすることは別なの。だから、一度戻って落ち着いたら、誰でもいいから先輩に頼んでみて。あなたのその必死な表情を見て断る様な生徒はうちの科にはいないわよ」
「でもっ、わたし、先輩に知り合いなんて……」
詩乃は口を噤んでしまう。
どちらかというと人付き合いの苦手な詩乃には、親しい先輩の知り合いがほとんどいないのだ。たったひとりだけ、頼める相手に心当たりはあったが、でも、この件だけは彼女の力を借りるわけにはいかなかった。だから、一人では駄目だと言われてしまうと、もう詩乃にはどうすることも出来なかった。
そんな時、不意に、
「失礼しますっ」
威勢のいい声と共に職員室の扉が開く音がした。自然と音の方へと視線が向く。そこには、何故か一場湊の姿があって――
「み、湊先輩っ!」
思わず詩乃は驚きの声をあげてしまう。どうしてこんな場所にという驚きと、どうすればいいのだろうという困惑とが混ざり合って混乱してしまう。
そんな詩乃の表情を見て、湊は表情を緩めながら、
「久しぶりだね、泣き虫さんっ」
そう呼び掛けてくれた。それは、いつも通りの湊だった。
「こんな場所で何やってんのさ」
湊はこの前の一件などなかったかのように気安く声を掛けてくれていた。それが嬉しくて、でも、どこか申し訳なくて、思わず顔を伏せてしまう。
変わろうと思っているのに、でも、心は泣き虫のままの詩乃だった。
湊は、そんな詩乃の小さな額に手を当てて彼女の顔を少し強引に上げさせる。
「ほら、まず涙を拭ってやるからさ。だから、落ち着いたら話してよ。あたしでよければ力になるよ?」
目頭にうっすらと浮かぶ涙を湊の指が拭う。久しぶりに近くに感じる湊に、恥ずかしくて思わず頬が紅潮してしまう。
「落ち着いた?」
詩乃の頬に涙を拭った手を当てたまま、湊が尋ねる。詩乃は首を縦に振って応じる。
「じゃあ、話してみな」
そう促されて、詩乃はゆっくりと口を開く。
「その、演習場は、一年生一人だけでは、借りられないって……」
「そういう決まりだからね。詩乃は使いたいの?」
「はい……」
頷きながらそう応える詩乃に、湊は少し悩んでから、
「なら、一緒に行かない?」
そう提案していた。
「で、でも……」
詩乃は困惑してしまう。その提案はありがたいものではあるのだ。でも、まだ何も変われていない今の自分が本当に湊に頼っていいのだろうかという気持ちにもなってしまう。
「使いたいんでしょ?」
「そ、そうですわ……」
「なら、迷う必要なんてないじゃんか。あたしもさ、詩乃がひとりでどうにか出来ることなら黙ってようかとも思ったんだけどさ、でも、こればっかりはしょうがないっしょ。だから、そういう時は頼ってくれていいんだよ」
湊は詩乃の頬に当てていた手を離すと、詩乃の背中をぽんぽんと叩いて見せる。そして、
「と、言うことで、演習場借りますね」
先程から黙って微笑ましく二人のやり取りを見ていた教諭へと声を掛ける。
「いつもの場所でいいわよね? その子のこと頼んだわよ。しっかりとね」
そう返しながら、鍵を手渡してくれる。
「分かってますって。さぁ、行こうぜ、詩乃っ」
湊はそう言いながら詩乃の返事も待たずに手を引いて歩き出す。
振りほどくことも出来たはずなのに、でも、詩乃は大人しく湊に手を引かれて職員室を後にしてしまう。
手を掴まれた瞬間、このまま一緒に行ってもいいのではないか。いや、このまま一緒に行きたいと詩乃は思っていた。
自分の数歩前を、手を引いて歩いてくれる湊。たぶん、そんな湊の姿に自分はどうしようもなく惹かれているのだろうと詩乃は感じていた。
「湊先輩は、どうしてあんな場所にいらしたんですの?」
術理学科棟の校舎を出た所で意を決して詩乃が尋ねる。
「あたし、暇なときはいつもここで練習してるからさ」
鍵を詩乃へと見せながらいたずらな笑みを浮かべて見せる。
「そういう、泣き虫さんこそどうしたんだよ。あんなとこで泣きそうになっちゃってさっ」
「わ、わたし、泣いてなんかいませんでしたわっ」
意地悪な質問をしてくる湊に顔を真っ赤にしながら反論する詩乃。でも、そんな湊も嫌いにはなれなかった。それは詩乃が取り戻したいと思っていたいつも通りのやり取りで、いつも通りの湊だった。
「うそ、詩乃ってば、涙が零れそうになってたって」
「でも、まだ泣いてはいませんでしたもの!」
詩乃は少しだけ嬉しそうな表情で怒って見せるのだった。
◆ ◇ ◆
「本当にやらなくてはいけませんの?」
詩乃は躊躇いがちに尋ねた。
詩乃と湊の二人は演習服へと着替えて、魔法術理学科屋外魔法演習場のだだっ広い敷地の中にいた。そこは戦術魔法学科の魔法演用の観客席付きのスタジアムとは違い、原始的な魔法防壁の張り巡らされただけの大きなグラウンドだった。
「そのために来たんでしょ?」
「そうですけど……」
「なら、ほらっ、さっさと始めてみせてよ」
どこか煮え切らない詩乃に、さっさとやりなさいと湊が促す。
詩乃は意を決して、ゆっくりと手を動かし、術理回路を描いていく。湊に見られている。ただ、それだけのことで動転しそうになる気を落ちつけながら集中する。思考を研ぎ澄まし、魔法という一事象を生み出す大きなシステムを動かす歯車へとなって行く。積み上がり、刻み込まれていく回路。でも――
(こんなんじゃない、全然足りないのですわっ――)
術理回路を描きながら、胸の中で叫ぶ。いつもと同じように回路を描いている。失敗は何一つとして犯していない。でも、先日永花と対峙した時の様な、凪いでいるのにどこまでも高揚して行くあの感覚にはまったくと言っていいほど届かなかった。
攻性魔法の基礎格子を描き、それを素早く肉付けして行く。理想通りに回路が組み上がっていく。でも、そこにはあの時の様に自分の限界を超えて行くような手応えはない。
そこにいるのは詩乃で、そこにある魔法は出来損ないであることを心の底で認めてしまっていた頃と何一つ変わることないものだった。そう思う度に、変われないのではないかという悪夢が迫ってくる。
変わらなくてはいけない。変われないという現実を突き付けられるのが怖い。そのジレンマから、詩乃は抜け出せないでいた。いや、出来損ないという言葉を受け入れることで必死に見ないようにしていた現実へと再び向き合うことになったのだ。
「遙か彼方に詩声を、遠き彼方に幸いを――」
詩乃は術理回路の末尾を刻み、始動鍵を口にする。そこには何の手応えもない。それはなんてことはないただの魔法で、詩乃が求めているものとは致命的に違っていた。
これではない。こんなものではない。その想いが胸を占める。
詩乃の魔力を吸って淡く発光した回路が、青白く揺らめく窒素プラズマを生じさせる。それを解き放つ。真っ直ぐに飛翔したプラズマ球は演習場の境界面で強制的に消滅させられてしまう。
「詩乃は、すごいね……」
崩れ行く詩乃の術理回路を見つめながら湊がぽつりと呟いた。
「すごくなんて、ないですわ……」
でも詩乃は俯いてこの言葉を否定してしまう。だって、それは詩乃が求めているものとは全くかけ離れていて、出来損ないだと言われ続けた詩乃のままでしかなかったから。
「すごいって、こんなにも出来るんだからさっ」
「ダメなんですわ。こんなんじゃ全然足りないんです。こんな魔法じゃ、わたしは変われないんです。いつまでたっても出来損ないのままなんですわ」
湊が掛けてくれる優しい言葉。
でも、そんな湊の好意にいつまでも甘える訳にはいかないと詩乃は思った。変わらなくてはいけない、そう焦る気持ちが詩乃を支配していた。
「そんなことないって! 詩乃はすごい。あたしが保証する」
「やめて下さい、湊先輩。わたしがダメなことくらいわたし自身が一番よく分かっているんですわ」
「それでも、それでも詩乃はすごいよ。出来損ないなんかじゃないっ。絶対に違うんだっ」
「出来損ないじゃなくなりたいんです。そうだと思いたいんですわ。でも、どうやっても、わたしは変われない……どうやって変わればいいのか分からないんですわ。どうすれば、わたしは先輩に相応しいわたしになれるんですかっ?」
「もう十分だよ。今のままの詩乃でいいんだっ」
「ダメなんです! こんな出来損ないのままじゃ、湊先輩の隣には並べないんですわ!」
詩乃は感情的になって、自分のことを卑下する。自分なんかでは湊には釣り合わないのだと。自分は所詮出来損ないなのだと。そんな詩乃の叫びを掻き消す様に、
「もうやめてよ!」
湊が叫んだ。それは悲鳴にも近い声だった。その声は今までの詩乃の事を慰めるような、宥めるような声とは明らかに違った。
「み、湊先輩っ!?」
何が起こったのか分からずに、詩乃は湊の名前を漏らしてしまう。
湊は今にも泣き出しそうな顔をしていた。そんな彼女の表情を見るのは初めてのことだった。彼女はいつだって屈託なく笑って、たまに詩乃の事を思って怒ってくれて。
なにが彼女にそんな顔をさせてしまったのか詩乃には分からなかった。でも、それはたぶん自分のせいなのだ。それだけは分かった。
「もう……やめてよ…………」
彼女はふらふらと力なく、詩乃から離れて行く。詩乃には、その姿を茫然と眼で追うことしか出来なかった。
湊は、少し離れた場所で立ち止まると、真っ直ぐと宙へと手を伸ばす。それだけで、詩乃には彼女が何をしようとしているのか分かった。
(魔法、ですの……)
詩乃は胸の中で呟いた。
湊はゆっくりと手を動かしながら虚空に術理回路を描いていた。
何処までも、繊細に、緻密に刻まれていく光の紋様。それは、執拗なまでに丁寧に描き込まれて行く。寸分の狂いもなく、寸分の乱れもなく、精緻に並ぶ光の列。詩乃が描く回路と同様か、それ以上の精度で描かれる術理回路。
(すごいですわ……)
思わず詩乃の口から吐息が漏れる。
あれだけ綺麗で正確な回路を描きながら、一切その動きに遅滞がない。まるで、精密機械の様なその動きに見惚れる。
描き上がったのは、精密にして強靭な攻性魔法の術理回路だった。
「たゆたう水の行方、その果ては彼方明日に――」
湊は悲しげな音色で始動鍵を口にする。
堰を切った様に雪崩れ込む大量の魔力が、回路を光の海へと沈める。丁寧に描き込むことで、極限まで魔力抵抗値を下げたはずの回路が、膨大すぎる魔力を前にその基本格子を維持できずに捻じれて砕けてしまう。
(失敗、したんですの?)
破綻した回路から、魔力が漏れ出し、光の粒子へと変わっていく様子を見つめながら詩乃は思わず息を飲む。
湊は、表情の消えた顔でその回路を茫然と見つめていた。そこにあるのは、悔しさだろうか、それとも、諦観なのだろうか。詩乃には窺い知ることは出来なかった。
でも、なぜだか、そんな湊の姿の中にかつての自分の姿を見ていた。圧倒的に少ない魔力のせいで、ろくな魔法すらも始動させることの出来なかった自分。ただ、青白い燐光を帯びる回路を無力に見つめていることしか出来なかった少女。
(湊先輩も、魔法が……)
『その子は魔法戦闘の腕はひどいもんだった――』あの日、貴音が口にしていた言葉がよみがえる。こういう事だったのだ。
やがて回路は後かたもなく霧散し、風に消えていく。
湊はそれを見守ってから、詩乃の前へと戻ってくる。声を掛けようと思って、でも、詩乃には口にするべき言葉が見つからなかった。
「ねぇ、詩乃。あたしはさ、出来損ないかな?」
湊は青白い顔で、詩乃へと問い掛けた。
違う。そんな事はない。そう叫びたかった。でも、喉が凍りついて、息を吐き出すことすらできなかった。
(わたしは、なんてことを……)
途方もない後悔が込み上げてくる。
湊は、何も口に出来ない詩乃に背を向ける。
「ごめん、今日はここまでにしよっか」
それは、いつも通りの無邪気な湊の声だった。でも、詩乃は全然安心など出来なかった。
湊はそれだけ告げると詩乃から遠ざかるように歩いて行ってしまう。今度こそ、本当に置いて行かれてしまう。そう思った。今ここで、何かを告げなくては、その機会が永遠に失われてしまうのではないか。いや、もう、すでに何もかもが遅いのではないのか。もう、冷静ではいられなかった。
「ま、待って下さいましっ」
喉を吐いたのは、縋りつくようなそんな声だけだった。でも――
「ごめん――」
湊は、それだけを残して詩乃の前から去って行ってしまった。
◆ ◇ ◆
日が沈み、夜の帳が下りようとしていた。
「こんな場所にひとりで、どうしてしまったんですか?」
静まり返った校舎裏によく澄んだ少女の声が響き渡る。
「ここはもう必要ないはずの場所なんじゃないんですか、詩乃ちゃん」
青白い外灯の明かりに照らされて、そこには怜奈が立っていた。彼女はゆっくりと校舎裏で蹲っている詩乃へと歩み寄ってくる。
詩乃は、いつかのように膝の間に顔をうずめて小さく縮こまってしまっていた。
「変わって行こうって、そう思ったんですよね、詩乃ちゃん」
怜奈は詩乃の前に立つ。彼女の落とす影が詩乃へとかかる。
「戻りましょう。立ち止まることを悪いことだとは言いません。でも、詩乃ちゃんは決めたはずですよね。だから、いつまでもここで蹲っている訳にはいきませんよ」
怜奈はいつかの様に詩乃の隣に座るのではなく、そっと手を差し伸べてくれた。そこから救い出すように。でも――
「ごめんなさい……」
漏れるのは謝罪の言葉だった。詩乃には差し出されたその手をとることが出来なかった。
「わたし、変われないのかもしれませんわ……」
ぼそりと、呻くように言葉が紡がれる。
「なにがあったんですか?」
ただならぬ詩乃の様子に怜奈は深く息を吸い込み、落ち着いてから尋ねる。
「わたし、なにも知らなかったんですわ。まさか、湊先輩が魔法を使えない魔女だったなんて……」
「詩乃ちゃんは、知らなかったんですか?」
あれだけ親しくしていたはずの詩乃がそのことを知らなかったということに怜奈は驚いていた。
「怜奈さんは知っていたんですか?」
「はい、訳あってうかがったことがあるんです」
それは、詩乃の帰りが遅くて湊のところまで行った時のことだ。
その時に、湊の事情を聴き、そして、詩乃のために力を貸してほしいと頼まれたのだ。
「そうなんですか……知らなかったのはわたしだけなんですね……なんで、わたしにだけ教えてくれなかったんでしょうね……」
「湊先輩は教えなかったんじゃなくて、言えなかったんだと思います」
悲しそうに呟く詩乃へと言葉を掛ける。
「先輩にとって、詩乃ちゃんはとても特別な存在ですから」
「でも、そのせいで、わたし、湊先輩の気持ちも知らずにひどいことをし続けてしまっていたのかもしれません……」
詩乃は悲しみと後悔に満ちた口調で告げる。
湊はいつだって、詩乃の事を出来損ないなどではないと、そう言ってくれた。でも、その度に詩乃は劣等感に負けてその言葉を否定してしまったのだ。
もし、あの時、詩乃が自らの姿を湊に重ねていた様に、湊も詩乃に自分の姿を重ねていたのだとしたら、湊は詩乃の言葉をどんな気持ちで聞いていたのだろうか。それを考えただけで胸が締め付けられる様に痛かった。
「わたし、今度こそ、本当にもう湊先輩に合わせる顔がありませんわ……」
詩乃は震える声で涙ながらに漏らす。
そんな詩乃のことを見下ろしながら怜奈は小さく息を吸い込む。
あの日、怜奈は約束したのだ。詩乃の力になると。そう、湊と。だから、
「そんなことで立ち止まってしまうのですか?」
怜奈は責めるような響きで冷たく告げる。
もう、詩乃はここでいつまでも泣き続ける詩乃でいてはいけないのだ。怜奈のためにも、そして、湊のためにも。
「そんなことってっ!」
詩乃が抗議の声を上げる。
「そんなことですよ。詩乃ちゃんは、湊先輩を傷付けてしまったという事実と向き合うことが怖くて、それから逃げ出そうとしているだけじゃないんですか?」
「それは……」
口を開いて、でも否定することが出来ずに力ない吐息だけが漏れる。
「湊先輩の選んでくれた遠山詩乃という魔女に相応しい。そんな魔女になりたいって、そう思った気持はどうするんですかっ?」
「なんでそれを知ってらっしゃいますの?」
「四條先輩に頼み込んでこっそり教えてもらったんです。ねぇ、詩乃ちゃん。詩乃ちゃんには湊先輩が必要なんです。そして、同じくらい湊先輩にも詩乃ちゃんが必要なんです。詩乃ちゃんにも分かってるんじゃないんですか?」
「本当に、湊先輩が私なんかを必要としているとでも言うんですの?」
詩乃は顔を上げ、怜奈に縋りつくように尋ねていた。その頬には涙が伝っていて、それを拭い去ってやりたいと、怜奈は心の底から思った。
「なんとなく分かる気がするんです。湊先輩は詩乃ちゃんに優しくしてくれた分だけ、詩乃ちゃんに救いを求めていたんじゃないんですか?」
湊は自分と同じ境遇の詩乃に出来損ないではないと言葉を掛け、彼女のことを救うことで、自分も救われたいと思っていたのだ。
そんな第三者の怜奈からはそんな湊の気持ちがよく見えた。
「でも、わたしは湊先輩の気持ちを裏切って、傷付けてしまったのですわ……」
「それが、なんだって言うんですか。悪いことをしてしまったと思うなら謝ればいいんです。詩乃ちゃんが言ったんですよ。変わるんだって。変わって行くんだって。そうあの時言いましたよね?」
怜奈の問いに力なく詩乃は頷く。
確かにあの時、変わりたいのだと言った。でも、詩乃にはどうやって変わればいいのか、その見当すらも付かなかった。そのせいで、変わりたいと想う気持ちだけが空回りして、焦燥だけが募ってしまった。
「今がその時なんじゃないんですか?」
「その時……」
「そうですよ。今変わらなくていつ変わるんですか? 今度は、詩乃ちゃんが助けてあげる番なんです」
詩乃の顔を上げさせようと、怜奈が叫ぶように口にする。
『わたしは、湊先輩の選んでくださった遠山詩乃という魔女に相応しい。そんな魔女になりたいのですわっ!』
あの日永花へと告げた言葉がよみがえる。どんな魔女になりたいのか、その姿は見えていても、どうすればその理想へと近づけるのか分からずにただ足踏みばかりを続けていた。
でも、怜奈の言葉を聞いて少しだけ見えた気がした。
ただ助けられるだけの自分ではなくて、湊と対等な自分になりたいと、湊と肩を並べて立つことの出来る自分になりたいと、そう思うことこそが、そう変わって行くことこそがすべての答えだった。
湊のことを助けたい。
どうすればいいのかなんて想像もつかなくて、でも、どんなことをしてでも、湊が詩乃にしてくれたことと同じか、それ以上のものを湊へと返してやりたいと詩乃は思った。そう思うことが出来た。
「わたしは、いつも怜奈さんに迷惑を掛けてばかりですよね……」
優しく手を差し伸べてくれている怜奈に申し訳なくてそう呟く。
大切なことを気付かせてもらって、いつだって落ち込んだ詩乃を慰めてくれているのに、詩乃は自分のことで精一杯で、彼女に何かを返すどころか、迷惑ばかりを掛けてしまっているのだ。
「いいんですよ、詩乃ちゃん。私は詩乃ちゃんの力になれることが嬉しいんですから。だから、詩乃ちゃんは、まっすぐ進んで下さい。詩乃ちゃんが望む姿へと」
そう優しく微笑んでくれる怜奈の手を取る。彼女は優しくその手を引き上げて詩乃の事を立ち上がらせてくれる。
「さぁ、戻りましょう。早くしないとまた怒られてしまいますよ」
そう言って手を引いてくれる怜奈はまだまだ詩乃よりもずっと先を歩いているように見えて、詩乃は変わっていきたいと、怜奈や湊と並んで歩ける自分になりたいと強く思った。
◆ ◇ ◆
翌日の放課後、詩乃は、昨日と同じ術理学科の屋外魔法演習場へと向かっていた。
昨日会ったとき、湊が言っていたのだ。暇な時はいつもここで練習していると。詩乃は、ここに来れば湊に会えるという確かな予感とともに足を進める。
そんな詩乃の予感通りに、演習服に身を包んだ湊は広いグラウンドの真ん中で術理回路を描いていた。
遅々とした手付きで、慎重に、丁寧に、何処までも細かく回路を刻み込んでいく。それは、実戦魔法としてはてんで話にならないような代物だった。
詩乃はそんな湊の姿を見つけて声を掛けようとし、でも、息を呑む。
回路が完成し、湊が淡々と始動鍵を口にする。
「たゆたう水の行方、その果ては彼方明日に――」
回路が激しい光に包まれて、昨日と同じように破綻してしまう。湊がその限界を振り絞って描いた回路でさえ、彼女の圧倒的なまでの魔力の前では無力でしかなかった。魔法の使えない魔女。詩乃と本質的には正反対ではあるが、でも、結果においてはまったくと言っていいほど同じだった。
詩乃は、そんな湊の姿に自分を重ねていた。
幼いあの日、遠山の家で必死に足掻いた自分。魔法が使えるようになれば、何もかもが変わるのだと、そう信じて無我夢中で抗っていた頃の自分。そして、今、必死に変わろうともがいている自分。そんな自分と同じものが確かに湊の中にあった。
「湊先輩……」
詩乃は、呼び掛けながら彼女へと歩み寄っていく。湊は、すでに詩乃の存在に気付いていたのだろう。驚くことなく、詩乃へと向き直り複雑そうな表情で曖昧な笑みを浮かべて見せる。今にも壊れてしまいそうな、泣き出してしまいそうな笑み。湊の泣き顔なんて見たこともないのに、何とはなしに詩乃はそう思った。
二人の間に沈黙が横たわる。それは、恐ろしく長い時間続いたかのように感じて、でもその実ほんの僅かだった。その沈黙を破ったのは湊だった。
「あたしはさ、魔女になりたかったんだ……どんな魔女でもいい、とにかく魔女になりたかったんだよ」
彼女は重い唇を開いて、胸の内にわだかまる想いを吐露する。
「あたしが魔法を使える才能を持っていると知った時さ、父さんも、母さんも喜んでくれたんだ。本当にすごく喜んでくれたんだ。あたしも、喜んだ。魔女になれるんだって。あたしには人にはない特別な何かがあるんだって」
苦々しい表情で語られる言葉。詩乃はその言葉を真正面から受け止めていた。幾度となく湊の前から逃げ出してきた。湊の優しさに甘えて、彼女の気持ちを踏みにじって来た。でも、もうそんな自分とは決別しなくてはいけないのだと、詩乃は強く思う。今度は、自分の番なのだと。自分が湊の力になるのだと。そんな自分へと変わっていくのだと。これはその最初の一歩だった。
「でも、そうはなれなかった……あたしには、魔力を知覚し、術理回路を組み立てる才能はあっても、魔力を制御することが出来なかった……あたしにはさ、人とは比べ物にならないくらいに沢山の魔力があるんだって」
「わたしとは、正反対なんですわね」
「でも、結果としてはまったく同じだよ。あたしはその莫大な魔力を制御出来なかった。壊れた蛇口なんて言ってよく馬鹿にされたよ。ほんの少しだけコップに水を入れたくても、そんな芸当はあたしには出来ない。少しでも蛇口をひねれば、噴出した水がコップを粉々に砕いちゃうわけだ。あたしの魔力にあたしの術理回路は耐えられない。あたしは一切魔法が使えない出来損ないなんだよ」
湊の口をついて出た出来損ないという言葉。それをどうしようもなく悲しい気持ちで詩乃は聞いた。湊にそんな言葉を言ってほしくなかった。自分のことを卑下してほしくなかった。そう思う気持ちは、たぶん、湊が詩乃に抱いていた気持ちそのものなのだろう。そう感じることが出来た。
「それでもあたしは魔女になりたかった。諦めきれなかった。だから、こんな学校に入ってまでさ、どうにかしてこの魔力を制御する術が見つかれば、こんなあたしだって自分は魔女だって胸を張れるんじゃないかって、今でもあたしはみっともなく足掻いてるわけよ」
そこにいたのは、詩乃と何一つ変わることない小さな魔女だった。本当の湊の姿を見ることなく、壁を作っていたのは詩乃だった。壁なんて初めからなかったのだ。詩乃と湊は同じ弱さを抱えていた。だからこそ、互いに惹かれて、互いに傷付け、傷付いて、それでも一緒に前に進みたいと、そう思えたのだ。
「湊先輩は、みっともなくなんてないですわ」
今なら、湊の気持ちが分かる気がした。彼女がどんな気持ちで詩乃に声を掛けていたのか。その気持ちが分かる気がした。
「ねぇ、詩乃。あたしはさ、出来損ないなのかな?」
「ちがいますわ、そんなことあるわけないじゃありませんか!」
力の限り否定する。そんなわけないと。こんなにも頑張っている湊が出来損ないだなんて、そんなの悲しすぎるから。
「ならさ、詩乃はどうなの? 詩乃は出来損ないじゃないの?」
「わたしは……」
突然自分に振られて、とっさに、違うとは言えなかった。何故なら、今でも詩乃はその言葉の呪縛から逃れられないでいるのだから。
「ちがうとは言ってくれないんだね」
湊は悲しげな瞳で詩乃の事を見つめる。
そんな目を見るのは嫌だった。そんな顔をさせたい訳ではなかった。湊には笑っていてほしかった。詩乃は、ここに湊を助けるために、湊の力になるために来たのだ。そんな自分になりたかったのだ。だから――
「確かに、今のわたしはまだ出来損ないなのかもしれませんわ。そのことをまだわたし自身が認めてしまっている今はまだ。でも、そうではない自分になりたいと、そう思っているわたしも確かにいるんですの。そうわたしに思わせてくれたのは他でもない、湊先輩なんですわ!」
うまく言葉にならない気持ちを、それでも精一杯口にする。
「あたしは何もしてないよ」
「してくれましたわ。沢山の物をもらったんです。でも、わたしはいつも何も返せないままで……でも、そんな自分はもう嫌なんですわ」
湊の隣に並べる自分になりたい。湊と対等な自分になりたい。
「わたし一人では出来損ないなのかもしれません。でも、わたしと湊先輩の二人なら、きっと変われるはずですわ! 先輩は言ってくれましたわよね。わたしに足りない部分は先輩が補ってくれるって。なら、湊先輩に足りない部分をわたしに補わせて下さい! 補える自分になりますから、だから――」
詩乃一人では無理でも、湊一人では無理でも、詩乃と湊の二人なら出来る。それは、ただの妄想かもしれない。互いにただ縋りついて傷を舐め合っているだけなのかもしれない。でも、それならそれでもいいと思う。だって、詩乃は、詩乃たちは進むことを決めたのだから。二人で、前へと。
「湊先輩、わたしと一緒に夜会に出ていただけませんか?」
詩乃が手を差し出す。この手をとって欲しいと。湊が詩乃にそうしてくれたように、今度は詩乃が湊へと手を差し伸べていた。
「詩乃……」
言葉が見つからなくて、ただその名前を呼ぶ。
少し見ない間に湊の知っている泣き虫は、ずいぶんと大きくなっていた。そんな、詩乃を見て怖くなっていたのだ。自分だけが出来損ないなのではないか。詩乃は自分のことを置いていってしまったのではないか。そう怯えている湊がいた。
「わたしには、湊先輩が必要なんですわ」
縋りつくように詩乃が口にする。そんな詩乃の瞳にうっすらと浮かぶ涙の粒を見て湊は少しだけ微笑む。彼女は詩乃のままだった。成長して、でも詩乃は詩乃のままだった。泣き虫で、ひたむきで、少しだけ頑固で、放っておけない湊の後輩だった。それが嬉しくて、湊はその手をとる。
「ねぇ、詩乃。少しだけ目を閉じてよ」
顔を寄せ詩乃の耳元でそういたずらに囁く。少し戸惑っている詩乃。
「え、あの? こう、ですの?」
訳も分からず、でも言われた通りに瞳を閉じる。視界が閉ざされ闇が広がる。でも、すぐ傍に湊を感じていられたから、不安はなかった。
不意に詩乃の唇を暖かな感覚が塞ぐ。思考が真っ白になって停止してしまう。湊の唇が重なっているのだということに気付いたのは少し経ってからだった。
唇を通して一つにつながった、湊と詩乃。
詩乃の空っぽの身体に、淡い光を帯びた何かが満ちていく。それは不思議な感覚だった。仄かな熱を持って、詩乃の身体の細胞一つ一つまで沁み渡って行く。
(これは、湊先輩の――)
思わず目を開けてしまう。すぐ傍に湊の顔があった。きめの細かい肌に勝気な瞳。でも、そんな瞳は今柔らかく緩み、詩乃の顔を映していた。
口付けは僅かな時間だった。
「元気の出るおまじない終了っと。みっともないとこ見せちゃったね、泣き虫さんっ」
湊は唇を離してからそう笑い掛ける。それは、もう本当にいつも通りの湊だった。
「み、湊先輩っ!? ひどいですわっ」
今更のように、恥ずかしさと怒りと、言葉に出来ない複雑な気持ちとが湧き上がって、ついつい大きな声で抗議してしまう。
「でも、元気は出たっしょっ? あたしも、詩乃もさ」
「そ、それは、そうですけど……」
「もう大丈夫。いつものあたしだからさっ」
そう言って、湊は詩乃の手を引く。
「やってやろうぜっ! あたしと詩乃の二人でさ。あたしたちなら出来る。そんな気がするんだ。絶対に二人で変わってやる。そうだろ、詩乃っ!」
「はいっ」
詩乃は力強く頷く。
二人は、歩き出す。今はまだ、出来損ないなのかもしれない。でも、彼女達が出来損ないである時間は、もうそう長くは続きそうもなかった。
◆ ◇ ◆
その朝、水沢莉伽子は恨みのこもった瞳でその掲示板を見上げていた。
そこには『蒼華学院夜会第一幕組み合わせ表』と題された大きな紙が貼られていた。莉伽子の瞳に映るのはその中程に記された遠山詩乃という名前だった。
何故彼女なんかの名前がこの神聖なる夜会の参加者の中にあるのか、莉伽子には納得がいかなかった。そして、何より――
『夜会第六の夜――一場湊・遠山詩乃 対 桐生貴音・水沢莉伽子』
そうはっきりと印字された紙を睨みつける。
(何故私の相手がよりにもよってあの出来損ないなのっ!)
彼女の様な出来損ないが憧れの舞台である夜会の場に立つことですらもが腹立たしいのだ。その上、莉伽子の前に立ちはだかろうとしている。それは、莉伽子には到底許せそうにもないことだった。
「ふざけないでよっ!」
短い怒りの声が漏れてしまう。
彼女に対して腹を立てることはよくあった。でも、遠山詩乃に対して憎しみを抱くのはこれが初めてだった。




