<第3章>
翌日、遠山詩乃は、人で溢れる丁香花寮の食堂でほとんど手のつけられていない朝食を前に深いため息を吐いていた。彼女が座るのは、食堂の中央に位置する魔法術理学科専用のテーブルではなく、食堂の隅のテーブルだった。
「ため息ばかり吐いていると幸せが逃げていっちゃいますよ」
いっこうにフォークを握った手の進まない詩乃へと、隣の席に座る有馬怜奈が上品に紅茶のカップを傾けてから優しく声を掛ける。今朝は、同じ学科の人とではなくルームメイトと一緒に食事をとっているのだ。
「そう、ですわね……」
詩乃は曖昧な態度で短く返事を返す。
ため息ばかり吐いていても何も変わらないということは自分でも分かっていた。でも、不意に昨日の出来事を思い出しては、ついつい零れてしまうのだ。
冷たくなったスクランブルエッグをフォークで弄びながら、ため息をもう一つ。昨日、怜奈と一緒に寮へと戻り、二人して寮監の先生に叱られて以来ずっとこの調子だった。
「ねぇ、詩乃ちゃん――」
怜奈が詩乃の肩をつんつんと突いて、顔を上げさせ、
「湊先輩もいらしたみたいですよ」
そう言って、広い食堂の中央の方を見る様に詩乃の事を促す。それに従って、顔を上げた詩乃の視線の先には、よく見知った彼女の先輩である一場湊の姿があった。湊は他の術理学科の生徒と共に楽しそうに談笑しながら朝食をとっていた。昨日までならば詩乃がいた場所。でも、そこには違う人がいて、それなのに湊が笑っているのだ。詩乃はそんな光景を複雑そうな表情で見つめていた。
湊が詩乃の視線に気付き、小さく手を振ってみせる。だが、詩乃はそれから逃げる様に顔を背けてしまう。
「挨拶してこなくていいんですか?」
怜奈が背中を押すように尋ねる。だが、詩乃は頭を振って、
「今の、わたしには、湊先輩に合わせる顔がありませんわ――」
と悲しそうに呟いてから、また、ため息を溢してしまう。
そんな詩乃の様子を眺めながら、横目で食堂の壁に掛けられた時計を窺う怜奈。このままでいいわけがない。その想いと共に少し冷めた紅茶を飲み干し、
「申し訳ないのですが、詩乃ちゃん」
ソーサーにカップを戻しながら、怜奈が続ける。
「私はちょっと人と会ってくる用事があるので先に失礼させてもらいますね」
怜奈のことをきょとんとした顔で見つめる詩乃に微笑み掛ける。
「そ、そうですの……いってらっしゃいまし……」
歯切れの悪い言葉で見送る詩乃の声に後ろ髪を引かれる思いになりながらも立ち上がる。今の詩乃を一人で残して行ってしまうことに後ろめたさを感じていた。でも、これも詩乃のためなのだ、そう言い聞かせながら食器の載ったトレイを手に立ち上がり、思い出したかのように切り出す。
「そういえば詩乃ちゃん。今日のデートの約束、忘れないでくださいね。放課後に寮の前で待ってますから。詩乃ちゃんが来てくれるまで待ってますから。だから、絶対に来てください」
それに詩乃が頷いて応えてくれるのを待ってから、満足してくるりと踵を返す。
怜奈がいなくなり、一人残された詩乃は、見知らぬ他学科の生徒たちの中でいつものようにまた俯いてしまう。フォークで突かれすぎたスクランブルエッグは最早ぼろぼろになって、フォークでは拾えなくなってしまっていた。もう自分も行こう。そう思い、ほとんど減っていない食器の載ったトレイへと手を伸ばし掛けた所で、
「お隣、失礼するわね」
不意に声が掛かる。食堂が人で混んでいるためだろう。怜奈が席を立ったため、その空いた席へとすぐに別の生徒がやって来たようだ。
「は、はい、どうぞ――」
突然のことに、少し上擦った声で返してしまう詩乃。そんな彼女へと、
「あら、珍しいわね。あなたがこんな場所に居るだなんて」
隣の席に座った水沢莉伽子がどこか冷やかな視線を詩乃へと向けていた。
「ご、ごめんなさい……」
「耳障りな声を上げるのはやめて。朝食がまずくなるわ」
莉伽子は俯く詩乃へと冷たく言い放ってから、自らの朝食に手をつけ始める。それに気圧されて、伸ばし掛けた手を力なく項垂れさせ、黙り込んでしまう。
出来損ないでしかない自分。それが悲しくて、またため息を吐いてしまう。それを見た莉伽子が、紅茶で喉を潤してから少し苛立ちながらも努めて冷静に口にする。
「ため息なんてついて、どうせまたろくでもないことで思い悩んでいるんでしょうけど、少しは昨日の授業の反省はしたの?」
昨日のことをまだ怒っている様子だった。
「ごめんなさい……」
詩乃はいつもの悪い癖で、ついつい謝罪の言葉を口にしてしまう。
「その様子だと、まだのようね。まったく、こちらの方がため息を吐きたいくらいよ」
刺すような莉伽子の視線に居たたまれなくなって、椅子を鳴らして立ち上がる。手には食器の載ったトレイ。
「し、失礼させてもらいますわ――」
逃げ出すように、そそくさと歩き去って行く詩乃。その後ろ姿を僅かの間眺めながら、
「ほんとにあの子はもう」
いつも通りの詩乃の卑屈な態度に、莉伽子までもがため息を漏らしていた。
◆ ◇ ◆
「あの、結局、デートというのはどういう意味なんですの?」
詩乃が先を歩く怜奈へと不安げに尋ね掛ける。
放課後、丁香花寮の前で合流した詩乃は怜奈に連れられて蒼華学院の校内を奥へと向かって歩いていた。そこは、今まで、詩乃が踏み入れたことのない戦術魔法学科の校舎が立ち並ぶ区画だった。場違いな所に連れて来られたという気持ちが強くて、詩乃は萎縮して怜奈の背後で縮こまってしまっていた。
「詩乃ちゃんに見てもらいたいものがあるんですよ。たぶん、詩乃ちゃんにとって意味があるものだと思いますよ」
そう告げながら怜奈は自らの背後に隠れようとする詩乃の腕を取って、隣を歩くように促す。だが、怜奈の隣に並んだ途端に顔を俯けてしまう。そんな姿に怜奈は苦笑する。
「俯いてたら危ないですよ、詩乃ちゃん」
「でも……わたし、場違いじゃありませんの?」
胸元に揺れる術理魔法学科の証である紫色のタイを弄りながら上目づかいに尋ねる。
確かに、同じ蒼華学院の中でも、魔法戦闘における全国区の魔女たちが多く集う戦術魔法学科は別次元のような場所ではあった。
「大丈夫ですよ。それよりも、そんな風に俯いてた方が目立っちゃうかもしれないですよ?」
「そういうものなんですの?」
「はい。だから、もっと胸を張って歩いてみましょう。だって、詩乃ちゃんも立派なこの学院の魔女なんですよ?」
「で、でも、わたしなんかが、怜奈さんたちと同じだなんて――」
悲しそうな顔で自虐的に呟いてから、また俯いてしまう。
そんな、詩乃のことを窘めるように、怜奈は少しだけ強い口調で言葉を発する。
「今日だけは弱気なの、禁止にしませんか?」
「ど、どういうことですの?」
「今日だけは、『わたしなんか』って言うの禁止です、詩乃ちゃん」
そう言われて、詩乃は困惑してしまう。
「あ、あの、言っちゃだめなんですの?」
「はい、禁止です。今日だけは胸を張ってみてください。私は立派な魔女なんだって、そう思って私の隣に立ってくれると嬉しいです」
「む、難しいかもしれませんわ……」
「大丈夫ですよ。だって、詩乃ちゃんは立派な魔女なんですから」
自信なさげに顔を伏せる詩乃を励ますように言葉を掛ける。
そうしている間に、怜奈たちは目的の場所へと到着してしまう。そこは、蒼華学園の最奥だった。
「着きましたよ」
怜奈はその建物を前に、歩を止め、詩乃に声を掛ける。
二人の前には大きなスタジアム状の建造物が聳えていた。蒼華学院の中にある建物の中でもひときわ大きな魔法演習用の施設。
「これは――」
「戦術魔法学科屋外魔法演習場ですよ。詩乃ちゃん」
「こんな場所に来てどうするんですの?」
「言ったはずですよ、詩乃ちゃん。詩乃ちゃんに見て欲しいものがあるんです。さぁ、行きましょう」
そう声を掛け、詩乃の手を取って建物の中へと進む。
建物の中へと入り、階段を上って、舞台を中心に円形に配置された観客席へと出る。
そこは、音と光とで溢れていた。
「っ―――――」
目の前に広がる光景に思わず詩乃は息を呑む。
観客席から見下ろせる広大なステージでは、四人の魔女が華麗に舞っていた。
術理回路が光を織り成し、魔法による光と音の応酬が繰り広げられていた。この学院における魔術戦闘の最高峰、戦術魔法学科生による魔法演習が繰り広げられていた。
「どうですか、詩乃ちゃん?」
怜奈がそっと耳元で囁く。
「すごいですわ――」
憧憬にも似た眼差しを向けながら、言葉をぽつりと溢す。
日頃、詩乃が合同で受けている普通魔法科の演習授業が幼稚なままごとに見えてしまいそうなほどに洗練された魔法の応酬。
莉伽子の魔法の腕は確かにすごかった。だが、この場所に立つ魔女たちは、その一人一人が術理回路構築力、魔力強度、戦術、どれ一つとっても莉伽子ですら及びもつかないような超越した魔女だった。
「すごいですよね。あの方々こそが、この学院が誇る最高の魔女なんです」
そう言って、怜奈が向ける視線の先には一人の魔女の姿があった。
髪留めによって頭の後ろで一つに纏められた艶のある夜色の長い髪を揺らしながら戦場に舞う魔女。黒い演習服の裾から除く手足はすらりと伸び、引き締まっており、まるで抜き身の刃の様な鋭さを感じさせている。
彼女は、ステージの上で戦う四人の中にあってなお抜きん出た動きで他を圧倒していた。
周りの三人よりも頭一つ抜け出た技術で、相手ペアを翻弄し、一瞬の隙をついて、魔法の刃を相手ペアに届かせてしまう。
その終わりを見届けてから、
「ねぇ、詩乃ちゃん。詩乃ちゃんは、あんな風になりたいですか?」
怜奈は、詩乃の方へと向き直って尋ねる。
尋ねられた詩乃は、魔女の姿を目で追いながら肩を落とす。
「わたしには、無理ですわ……」
「詩乃ちゃんは、あんな風にはなりたくないんですか?」
「なりたい、ですわ……わたしも、あんな素敵な魔女になれたらって……」
悲しげに吐き出し、頭を振ってから続ける。
「でも、わたしには、無理なんですわ」
悲痛な声を漏らす。出来損ないではない自分になりたくて、でも、どうしようもなくなれなくて。それが悲しくて。ただ、無力さを感じることしかできなかった。
そんな自虐的になっていく詩乃のことを窘めるように怜奈は声を上げる。
「そういうのは、禁止だって言ったはずですよ、詩乃ちゃん」
「それでも――」
「言い訳はいりませんよ。大切なことなので、よく考えて答えてください。詩乃ちゃんはどんな魔女になりたいんですか?」
肩に手を置き、詩乃のことを向き直らせて問い掛ける。
詩乃は、不意の問いに戸惑い、それから、考え込んでしまう。
「わたしは――」
答えは、すぐには浮かんでこなかった。自分はどんな魔女になりたいのか。それに答えることの出来る自分なんて詩乃の中にはいなかった。
「なんでそんなことを聞くんですの?」
思わず言葉に詰まって、尋ね返してしまう。
「私は、詩乃ちゃんに戦い方を教えてあげることが出来ます。たぶん、詩乃ちゃんは今よりも強くなれます。でも、強くなっただけでは何も変わらない。違いますか?」
「わ、わかりません……」
「たとえ多少魔法がうまく使えるようになったとしても、詩乃ちゃん自身が変わらなければ、何も変わらないんですよ。大切なのは、何が出来るかじゃありません。何をするか、なんですよ」
怜奈は詩乃を諭すように言葉を紡ぐ。彼女には、詩乃に足りないものがなんなのか分かっていた。そして、それを彼女に分かってもらいたかった。
「魔法が使えるようになるというのは、魔女になるというのは、結果じゃないんです。それが目標じゃダメなんです。魔法というのは、あくまで手段に過ぎないんです。それを使って何をするか、どんな自分になるか。それが一番大切なことです」
だが、今の詩乃には怜奈が何を告げたいのか分からなかった。
詩乃にとって、魔女になるということがすべてだった。それ以外の何かを、考える余裕などはなかったのだ。
「だから、もう一度聞きますね。詩乃ちゃんは、魔法を使って何がしたいんですか? どんな魔女になりたいんですか?」
「わたしは……わたしには……」
だから、詩乃の中には、怜奈の問いに答えることの出来るような何かはなかった。
魔女になること。それが目的で、それ以上の何かを詩乃は持ってはいないのだ。
「くだらないわね……」
声は、不意に響いた。
それは、呆れに満ちた響きの冷たい声だった。
「え?」
「し、四條先輩っ!」
突如として現れたのは、演習服に身を包んだ、先ほどまでステージ上でひときわ目立っていた魔女だった。
彼女は、詩乃の方へと近づき、値踏みするような目で詩乃のことを見下ろしていた。
「有馬が会ってほしいというから、どんな魔女かと思って期待していたのだけれど、興ざめだわ。魔女ですらなかっただなんてね」
彼女は、侮蔑にも似た眼差しを詩乃へと向けた。それは、いつも莉伽子が詩乃へと向ける眼差しにも似ていた。
「言い過ぎです、先輩っ!」
怜奈の抗議の声を無視して、彼女は呆然としたままの詩乃へと尋ねる。
「あなた、名前は?」
「と、遠山詩乃、ですわ……」
答える詩乃の声は尻すぼみな声になってしまう。
その魔女は、詩乃のそんな態度に冷ややかな視線を送りながら、
「私は、四條永花。有馬から聞いているかもしれないけれど、あの子の先輩で、そして、あの子の夜会のパートナーよ」
そう告げられたのを聞きながら詩乃は、怜奈の言葉を思い出していた。
自分には釣り合わないような、そんなすごい先輩に夜会に誘われたのだと怜奈は言っていた。彼女こそが、怜奈をもってすごいと言わしめたその先輩本人なのだ。
「ねぇ、遠山さん。あなたは、何のために魔法を使っているの?」
「わ、わたしは――」
口を開いて、でも、語るべき言葉が見つからずに、力なく吐息だけが零れる。
「魔女なら、誰でも答えることの出来る質問よ。それでもあなたは答えられないの?」
「すいません――」
顔を俯けてそう漏らす。
永花が告げるように、それは魔女ならば誰でも当たり前のように持っているものなのだ。それを、詩乃だけが持っていない。
あの春の日。妹が告げた言葉がよみがえる。
『あの学院にとってお姉様のような出来損ないは異質な存在なのですから』
彼女の言葉通り、詩乃だけが異質な存在であることは間違いなかった。
「謝る必要はないわ。それがないのであれば、持てばいい。見つければいい。それだけのものだから。ねぇ、遠山さん。あなたには、本当にどんな魔女になりたいのか、その目標はないのかしら?」
「わたしは……」
言葉に詰まる詩乃へと、永花がゆっくりと口を開く。
「遠山さん、ステージに上がりなさい」
「え?」
不意の言葉に戸惑いの声を上げてしまう。
「聞こえなかった? ステージに上がりなさい。そう言ったのよ」
「どういうことですの?」
なぜ自分にそんなことを言うのか、詩乃には理解できなかった。先ほどまで魔女たちが華麗に舞っていた舞台。その場所に、詩乃が立つなど場違いにもほどがあった。
「もともとそのつもりで彼女のことを連れてきたのでしょ、有馬」
「そうでしたけど、でも……」
話を振られた怜奈は肯定しながらも、戸惑いを隠せなかった。
「まどろっこしいことはいらないわ。私と練習試合をしましょう。私があなたに分からせてあげるわ」
「む、無理ですわ。だって、わたしの魔力では――」
とっさに、否定の言葉が口をつく。
「なら、あなたにハンデを上げるわ。そうね……」
永花は少し思案して見せてから、
「五回でいいわ。私はたった五回しか攻性魔法を使わない。それをすべて防ぎきることができたのならあなたの勝ち。これなら、不公平にはならないはずよね?」
永花は挑戦的な笑みを浮かべる。
攻性魔法に比べて防性魔法の方が簡単だと言うのは魔法戦闘における基礎だ。提示された条件としては、不公平にならないどころか、詩乃の方が圧倒的なほどに有利なはずだった。たった五回程度の魔法のやり取りでは、その常識は覆りはしない。
断る理由は何一つなかった。詩乃の魔力でも防性魔法を五回行使することは間違いなく出来る。その上守り切るだけでいいのだ。いつもとはまったく逆の立場といってもいい。
「異論はないわよね?」
詩乃に尋ねる。頷きはしないが、でも、否定もしない。
「なら、待っているわ。あのステージの上で――」
永花は、舞台を指差して告げ、元来た道をステージへと戻ってゆく。
「わたしは……」
「大丈夫ですよ。詩乃ちゃん。行きましょう。大切なものを見つけるために――」
怜奈が詩乃の手を引く。
◆◇ ◆
「怜奈さん、これはどういうことなんですの?」
更衣室に連れられて来た詩乃は、彼女のことを連れてきた怜奈へと尋ねる。
詩乃は、怜奈に促されるまま、紫色のタイを解き、濃紺の制服を脱いで、怜奈の準備していた演習服へと着替えている所だった。
こんなものが用意されていたことからも、これはすべて怜奈の計画したことなのだということが詩乃にも分かった。
「昨日ちゃんと言ったはずですよ、詩乃ちゃん。私が詩乃ちゃんに自信をつけさせてあげるって」
「こんなことをしても無駄ですわ……」
黒を基調とした演習服に身を包みながら、吐き出すように詩乃が漏らす。
怜奈の演習服のため、詩乃には少しサイズが余ってしまっていた。
「無駄じゃありませんよ、詩乃ちゃん」
「無駄なんですわ。だって、わたしは――」
「そういう弱気はだめだって言ったはずですよ。さぁ、顔を上げて行きましょう。条件は互角以上です。詩乃ちゃんにだって十分に勝ち目はありますよ」
俯きそうになる詩乃の背中を押す。
「でも――」
「さっき四條先輩たちのようになりたいって、そう言いましたよね、詩乃ちゃん。その先輩と同じ舞台に立てるんですよ。同じ条件で、対峙できるんですよ。それは嬉しいことなんじゃないんですか?」
まだ戸惑っている詩乃の手を引き、更衣室から通路を抜け、ステージへと連れ出す。
ステージには、永花が凛と立ち、詩乃の登場を待ってくれていた。
「さぁ、詩乃ちゃん。詩乃ちゃんの力を見せてください」
「わたしは――」
それでも、まだ俯きそうになる詩乃の背中を少し強く押し、ステージの上に立たせる。
「別に負けたっていいんですよ。この試合から詩乃ちゃんが何かを学んでくれるなら、それで。だから、逃げないでください。あの人から、魔女であることから――」
そう告げて、怜奈は詩乃のことを突き放す。
詩乃には、もう前へと進む道しか残されてはいなかった。
ステージに立つ永花の方へと俯きながらも歩み寄る。
「顔を上げなさい、遠山さん。あなたにこの学院最高の魔女を見せてあげるわ。だから、しっかりと、焼き付けなさい。そして、考えなさい。あなたにとって魔法とは、魔女とはなんなのか――」
永花は恫喝にも似た声で詩乃の顔を上げさせる。洗練された動きで真っ直ぐに虚空へと指を伸ばし、術理回路を描く態勢を作る。
それに合わせて自然に詩乃も同様の態勢を整える。幾度となく繰り返した動作。ただ、魔法だけを求めて繰り返し練習を重ねてきたのだ。考えるよりも早く、永花の動作を見て身体が反応していた。
「さぁ、いくわよ――」
そう、口にしながら、永花は華麗な手つきで術理回路を描き始める。
見慣れた莉伽子の動きと同等か、それよりも速い。永花の描く術理回路が複雑に入り組み展開されていく。だが、
(これならば、間に合いますわ――)
永花が描く回路を解析しながら詩乃は胸の中でそう安堵の声を上げる。衝撃波を生み出す基本的な魔法。それに対抗する魔法を行使するべく、詩乃も回路を編み上げていく。永花の魔法の腕は確かにすごくはある。だが魔法戦闘の黄金律を破るには至らない。
「永久の法、絶えなる調べ――」
回路を完成させた永花が始動鍵を口にする。
「遙か彼方に詩声を、遠き彼方に幸いを――」
それに合わせるように響く詩乃の声。昨日の失敗を生かし、注意深く永花の動向を窺う。過詠唱の兆候はなし。回路が仄かに青白い燐光を帯び、解放された力が予定通りに詩乃の生み出した壁に阻まれる。それを見届けてから、詩乃は新たな回路を描き始める。
(この調子で後四回……わたしに、出来るのでしょうか?)
手ごたえと、戸惑いとが入り混じりながらも、永花に失望されないことだけを意識して、いつも通りに回路を描いていく。だが、そんな詩乃へと、
「気を引き締めなさい。でないとこれでお終いよ」
叱責の声が上がる。永花は、先ほどの速度とは比較にならないような速さで回路を組み上げていた。先の一撃の速度に合わせて描いていた詩乃の防性魔法を圧倒する回路構築速度。莉伽子など最早比ではなかった。
詩乃は、つい先ほどこの場所で戦う戦術魔法学科生同士の演習風景を見ていたはずなのだ。彼女の実力が先程の一撃程度であるはずがないことは知っていたはずだった。
(このままでは間に合わないですわ……)
焦りと共に思考が純化していく。この一撃をいなす。その一事象だけを求めて必死に回路を描く。攻性魔法は圧倒的な力量差でもない限り防性魔法を破れない。でも、それは、
(圧倒的な力量差さえあれば破れる、ということですわ――)
変換効率を度外視し、回路を簡略化、再構築する。完全に防ぐことはもう無理だ。でも、致命打にならない、ぎりぎりのラインまで減衰させることができれば、この一撃で終わることはない。それならば出来る、と言う確かな手ごたえと同時に、出来損ないでしかない自分に本当にそんな事が出来るのか、という疑念が襲いかかってくる。それを必死に振り払い、始動鍵を叫ぶ。
永花の生み出したプラズマ球を詩乃の魔法が直撃直前で迎撃する。完全に打ち消しきれなかった余波が熱となって、詩乃の肌を焦がす。熱風に煽られながら、それでも懸命に立ち向かう。まだ、致命打にはなっていない。焦る気持ちを必死に抑えながら、次の攻撃に備えて手を動かす。速く、もっと速く。自分の持ちうる全てを出し切って、それでも、まだ足りない。永花はそんな相手だった。
(わたしなんかが、勝てるわけありませんわ……)
心が悲鳴を上げる。それでも、詩乃の手は術理回路を描き続ける。魔法という事象を求めて何千回、何万回と必死に描いてきた回路。
「ねぇ、遠山さん。もう一度質問するわ。あなたは、何のために魔法を使っているの?」
永花は自らの回路を華麗に描きながら尋ねる。
詩乃は応えられない。いつからか、詩乃は急き立てられる様に魔法を使っていた。使わざるを得なかった。
「空っぽの魔法じゃ私には勝てないわよ」
そう口にし、永花の術理回路が完成する。
(空っぽでも、わたしにはもうこれに縋りつくしかないのですわ)
魔法という存在に縋りついて、それでも、何も変わらない自分に絶望して、それが詩乃という少女だった。始動鍵を高らかに口にすべく永花の唇が開く。間に合って。半ば祈るように、手を動かし続ける。
「永久の法、絶えなる調べ――」
永花の声が響く。その瞬間には、詩乃の術理回路もかろうじて完成していた。発光し始める永花の魔法の片鱗。それを押し留めんと詩乃も始動鍵を叫ぶ。だが、そんな詩乃をとがめる様に、
「ちゃんと見なさい」
永花の声が上げる。永花の手が始動中の術理回路を改変しているのに気付く。先程まで意識していたはずの過詠唱の可能性。それがこの一瞬すっぽりと頭から抜け落ちてしまっていた。
(間に合ってくださいましっ)
その思いを胸に、自らの回路に触れる。起動しつつある回路を無理やり改変させ、魔法の起動を遅らせる。永花の放つ三発目の魔法をかろうじて防ぐ。
「終わりにしましょうか」
口にして、永花は意味のない断片的な回路を描いていく。他者に回路を解析されることを防ぐために、あえてダミー回路を描く基礎技術だ。これは、相手に適切な魔法での対処をさせないための技術なのだが、大きな欠陥もある。余分な回路を多量に描かなくてはいけないため、どうしても速度が遅くなってしまう。一方防ぐ側としては、相手の動きを無視して、どんな魔法でも防げる防性魔法を構築しさえすれば簡単に防げてしまうのだ。
その基本通りに、詩乃は大型の防性魔法を描く。油断も、慢心もない。ただ、全力で回路を描く。だが、相手は魔法戦闘における黄金律すらも覆しかねない魔女なのだ。詩乃はその一点を読み違えていた。
「あなたの魔法は綺麗ね。そう、それこそまったく教科書通り。でも、そんなものはあなたの魔法とは呼べないわ」
永花は少し呆れた顔で、意味などないはずのダミー回路を繋ぎ合わす。
その瞬間、ありえないはずの術理回路が生まれる。
ダミー回路に偽装された攻性魔法の回路の断片が永花の手によって紡ぎあげられ、刹那のうちに術理回路としての形を整えてしまう。
「永久の法、絶えなる調べ――」
永花の声が響く。詩乃の魔法は致命的なまでに間に合わない。それでも詩乃は諦めずに本能の告げるままに手を動かす。理論も、計算も、すべて関係ない。ただ、間に合せることだけを考えて、爆発的なまでに回路が広がっていく。その回路ごと詩乃を撃ち抜かんと永花が解放した魔法のつぶてが迫る。その刹那、
「遙か彼方に詩声を、遠き彼方に幸いを――」
末尾を綴り、声を響かせる。
だが、その回路は、無情にもなんの奇跡も起こしてはくれない。詩乃の描いた回路は、彼女の僅かな魔力を吸いつくしほんのりと燐光を帯びるだけで、なんの事象も生み出さない。回路が必要とする魔力量に、詩乃が持つ魔力が足りていないのだ。そのため、事象を生み出すに至らなかった魔力が損失として回路を焼きながら淡い光へと変換されていく。
その回路を貫いて、永花の魔法が詩乃の身体を打ち据える。その直前にほんのりと光を帯びた演習服が詩乃の事を守る。
無慈悲に光を放つ回路を茫然と見つめながら、詩乃にはただ佇むことしか出来なかった。
「ねぇ、遠山さん――」
圧倒的なまでの力で詩乃の事をねじ伏せた永花が、ゆっくりと詩乃の方へと近づいてくる。詩乃は思わず後ずさってしまう。
「何故、あなたが負けたか分かるかしら?」
真剣な眼差しで詩乃の事を見据える。そんな永花の瞳から逃げる様に、詩乃は顔を伏せて、
「わたしが……出来損ない、だから、ですわ……」
そう掠れる声で漏らす。
「条件は別にあなたが不利という訳ではなかったわ」
「…………」
冷たく付きつけられる事実に詩乃は押し黙ってしまう。
「それが分からないのだとしたら、何をしたとしても無駄よ。いくら強くなったところで、あなたは出来損ないでしかないわ――」
「わ、わたしは――」
出来損ない。永花の口から出たその言葉に、詩乃は込み上げてくる涙を堪えることが出来なくて駆け出す。これ以上みっともない姿を見せてしまうのが嫌で、ステージの上から逃げ出してしまう。
「詩乃ちゃんっ!」
それを追い縋るように上げられた怜奈の声からも逃げるように顔を伏せて走り去る。
後に残されたのは、ステージ上の永花と二人のことを見守っていた怜奈。そして――
「これで、本当によかったの?」
永花が、怜奈のもとへと近寄り、尋ねる。
「はい。詩乃ちゃんには、必要なことですから」
頷いて応える。
すべては、詩乃のために彼女たちが仕組んだことなのだ。
「四條先輩こそ、わざわざ憎まれ役を買ってもらって本当にありがとうございます」
「このくらい構わないわ。有馬の頼みですもの。でも、本当によかったの? もしかすると、彼女はもう二度と魔法を使わなくなってしまうかもしれないわよ」
「大丈夫ですよ。詩乃ちゃんは、このくらいで魔法を捨てられるような子じゃありませんから。そうですよね、湊先輩」
怜奈は観客席の陰からすべての成り行きを窺っていたもう一人の観客へと呼び掛ける。
「そう、だね……」
その魔女は、感情を押し殺した声で頷きながら二人の前に姿を現す。
「あの子は、あたしと同じで魔法に縋りつくことしかできないから――」
悲しげな響きでそう告げて、湊は勝気な瞳に不安の色を映しながら詩乃が去って行った方へと視線を向けていた。
◆◇ ◆
詩乃は、一人、丁香花寮の食堂にいた。
人で溢れる食堂の中で唯一がらりと席のあいたテーブル。術理学科生専用という暗黙の了解のあるそのテーブルの隅で、詩乃は俯いていた。
まだ夕食には早いのだが、食堂はティーカップを片手に雑談に花を咲かせる生徒たちの姿でにぎわっていた。
いつも通りに、校舎裏にうずくまっていてもよかったのだ。でも、足は自然とあの場所ではなく此処へと向かった。校舎裏で泣いていても湊はもうやって来てはくれない。それが分かっていたからだろうか。詩乃は、食堂へと逃げ込みテーブルの前で俯いてしまっていた。ここでこうしていたら、湊が見つけてくれるのではないか、そんな事を考えている自分がどうしようもなく惨めだった。
何故負けたのか考えなさい。永花の吐き捨てた言葉が胸の中によみがえる。
(そんなの、わたしが出来損ないだからに決まってるじゃないですの――)
苦々しい思いを噛み締める。
何のために魔法を使っているのか。どんな魔女になりたいのか。怜奈の、永花の問いの答えが、詩乃にはどうしようもなく見つけられなかった。詩乃にとって魔法を使うことは不可避の戦いだった。ただ急き立てられる様に魔法を使うしかなかった。出来損ないなどではないと、そう証明する為に。だから、どんな魔女になりたいかなんて考えたこともなかったのだ。ただ、魔女になることだけが目標だったのだから。
「こんなに席が空いてんのになんで誰も座んないんだろうね」
一人で悶々と思い悩む詩乃へと不意に声が掛る。期待を胸に詩乃が顔を上げると、すぐ隣にいた少女と目が合ってしまう。だが、縋る様な眼差しのその先に居たのは湊ではなくて――
「実は君がみんなから避けられたりしてるとか?」
詩乃の隣に無遠慮に座りながら、その少女は嫌味にも取れる台詞を悪意を感じさせずにごく自然と口にしていた。見ず知らずの相手から突然話しかけられ思わず俯いてしまいそうになる詩乃。だが、その少女の応えを求めるその表情から逃げることができなくて、
「その、そういうわけではなくて……たぶんですけど、ここがうちの学科専用のテーブルだからじゃないかと……」
詩乃は、その少女の胸元を飾る真紅のタイをちらりと盗み見ながらしどろもどろに反す。
「あ~、じゃ、私が座っちゃ、まずかったかな?」
「あの、暗黙の了解の様なものですし、たぶん大丈夫じゃないかと思いますわ」
詩乃は戸惑いながら口にしつつ、相手のことを窺う。
髪留めを使って肩口でサイドに一纏めにしてある黒髪とまっすぐと伸びる長い睫毛。その奥に潜む少し色素の薄い灰色味がかった瞳。冴え渡る中性的な顔立ちのかっこいいという言葉が似合う、そんな少女だった。
「それならよかった。そういうことなら、このままもう少し隣に失礼させてもらうね」
その少女は、端正な顔を綻ばせて、詩乃に笑いかけてくる。それに、控え目に、どうぞと言って返す詩乃。
「実は私ここの寮生じゃないのよ。あ、これ秘密ね」
少女は人差し指を立てて口元に寄せ、秘密だよという仕草をして見せる。かっこいい雰囲気と何処となく幼く映る仕草のギャップに反応に困ってしまう詩乃へと彼女は続ける。
「だから、そういうこの寮のルールみたいなのは分からなくってさ、他にもまだあるようなら教えてよ」
「その、特にこれといって他には……」
「なら、もう大丈夫かな。そういえば自己紹介がまだだったね。私は貴音。よろしくね」
そう言って少女――貴音はウィンクして見せる。嫌みにはならない、とても自然な仕草だった。思わず見惚れてしまう詩乃。だが、すぐに我に返り、
「あ、あの、わたしは遠山詩乃と言いますわ」
恥ずかしそうに自らの名前を口にする。
「詩乃ちゃんか。可愛らしい名前だね」
「あ、ありがとうございます」
お世辞だろうと言うことは分かっていても、少し嬉しくなって頬を染めてしまう。
「その、貴音さんの名前も、すごく凛々しい感じですわ」
そう口にしてから、女の子を相手に凛々しいと言うのは褒め言葉としてどうなのだろうかと少し後悔してしまう詩乃。だが、貴音ははにかみながら、
「少し堅苦しくて、私なんかにはもったいない名前だけどね。そう言ってくれて嬉しいよ」
詩乃の言葉に笑顔で返してくれる。
「そういえば、詩乃ちゃん」
貴音は詩乃の方へと手を伸ばし、詩乃の胸元を飾る紫色のタイへと触れる。
「このタイの色って、どこの学科だっけか? ちょっと待って、今思い出すから……」
貴音は少し思案してから、
「そう、術理学科だ。あってる?」
自信ありげに詩乃へと尋ねる。
「は、はい。あってますわ」
「ここ以外の寮ってさ、他の学科の生徒がいないから、違う色のタイを見ることってほとんどないんだよね。でも、その紫色のタイは一年生の頃に魔法演習の授業でよく見かけたから覚えてたみたい」
「魔法演習、ですの……」
詩乃は嫌な思い出の詰まったその単語を少し肩を落としながら呟いてしまう。そんな詩乃の様子に、
「なんか嫌な思い出でも、って聞くまでないか。あの授業は君たちには少し酷だもんな。あの時の術理学科の子たちも相当苦労してたし」
貴音は詩乃の肩に置きながら続ける。
「まぁ、そんなに気にやむなって。顔を上げて前を向きな。そんなんじゃ立派な魔女になれないよ」
小さな詩乃の背中を優しく叩きながら励ます。それが優しさから出た言葉だと言うことは分かっていた。でも、色々と思い悩んでいたせいだろうか、その言葉が詩乃の中で引っかかって、
「立派な魔女ってなんなんですの?」
気が付けばそう疑問の声が上がっていた。突然相手にそんな言葉を投げかけてしまったことを申し訳なく思い、
「あの、すいませんでした……つい、その……」
とうなだれる様に謝罪の言葉を漏らす。
「いや、別にかまわないよ。詩乃ちゃん、君、魔女のスランプってやつなのかな?」
「魔女のスランプ、ですの?」
「そう。みんな、はじめは魔女になるってさ、なんでも出来るんだって、そう思うんだよ。だって、魔法が使える様になるんだ、なんだって出来て、なんにだってなれるんだって、不思議とそう思い込んじゃうわけよ」
貴音は詩乃へと言い聞かせる様に優しく語りかける。
「でも成長するにつれて、自分の限界が徐々に見えてきちゃうんだよ。あれも出来ない、これも出来ないって。魔法っていっても万能ってわけにはいかないからさ。本当なら、もっと小さな頃にぶつかる壁なんだけど、詩乃ちゃんの場合は少しみんなよりもそれが遅かったみたいだね」
「みんな、同じなんですの?」
不思議そうに詩乃が尋ね返す。詩乃の目から見た他の魔女達は、彼女では到底届かないような高みにいて、彼女の抱くような悩みとは無縁のように感じられていたのだ。でも、貴音はそうではないと言う。
「そう、私も経験したよ。壁にぶつかって、今まで自分の抱いてきた理想と現実の自分とのギャップに苦しんださ」
懐かしそうな顔でそう口にする貴音。
「貴音さんは、どうしたんですの?」
詩乃は縋るように尋ねる。
何か掴めるのではないか。そんな淡い期待を胸に貴音の言葉に耳を傾ける。だが、
「別に、特別どうもしなかったよ。ただ、認めてあげただけ。どんなに背伸びをしたところで私は私にしかなれないんだってね。だから、君も深く悩み過ぎないことだよ。君は君にしかなれないんだ」
貴音の答えは、詩乃の期待していたものとは大きく異なっていた。
「わたしは、わたしにしかなれない……」
ぽつりと呟く。裏切られたかのような気持ちだった。
出来損ないでしかない自分。自分は、自分にしかなれない。それは、つまり、出来損ないは出来損ないでしかないと、それをかえることは出来ないということだ。そんなことは、嫌だと言うほど思い知らされてきた。自らが出来損ないであると言うことを、ただ認めることが解決策なのだというのなら、詩乃にはもうどうすることも出来なかった。薄々は分かってはいたのだ。どれだけ詩乃ががんばろうと、それには何の意味もないのだと。
「わたしは、出来損ないにしか……」
立ち上がり、必死に泣きだすまいと堪えて、逃げ出そうとしてしまう。そんな詩乃の今にも泣き出しそうな表情に、
「ごめん、私どうやら勘違いしてたみたい。君もうまく魔法が使えない口だったんだね」
貴音は申し訳なさそうに口にする。詩乃はそんな彼女に今にも泣き出してしまいそうな顔を見られてしまうのだが嫌で、顔を俯ける。そんな詩乃の耳もとで、
「顔を上げな、小さな魔女さん。ちょっと人より劣るからって落ち込む必要はないんだよ」
貴音は囁くように告げる。
「魔法戦闘での強さなんてものは、私たち魔女の力を測る物差しの一つにしかすぎないんだから。そもそも、純粋な破壊力だけを求めるのであれば、私たち魔女なんかよりも爆弾が一つあった方がよっぽど効率はいいんだ。じゃあ、私達は爆弾一個に劣る存在なのかい? 違うだろう?」
詩乃は俯きながらも首を横に振って応える。それは、ある種の詭弁ではあるのかもしれない。でも、優しく語られるその言葉にはどうしようもなく縋りつきたくなるだけの魅力があった。
「確かに魔法戦闘による強さっていうのは分かりやすい物差しではあるとは思うさ。でも、私たち魔女の価値っていうのはそれだけで測れるものじゃない、って、まぁ、全部他人からの受け売りなんだけどね。魔法演習の時間にみんなの前で君の学科の先輩がそう叫んでたんだ。うちの学科のみんなは負け犬の遠吠えだって笑っていたけど、私はそうは思わなかったね。なら、君はどう? こんなのただの負け惜しみだって、そう思うかい?」
「お、思いませんわ」
必死に喉を震わせて出した声は、自分で思っていたよりもはっきりと言葉になっていた。
「ならいいじゃない。確かに君は人より劣ってしまうのかもしれない。でもさ、君が君であることは、君が出来損ないであることとは決して等価なんかじゃないんだよ。人より劣ろうが、それを補って余りある君になればいい。自分にないものばかりを求めてもしょうがないんだ。だから、君が君であることを認めてあげた上で、君が持ってるものを輝かしてあげればいい。たった、それだけのことなんだよ。それだけで、誰だって、立派な魔女になれる。君だって、君のまま立派な魔女になれるはずだよ」
貴音は優しい言葉を囁く。
詩乃は、いままで自らにないものばかりを強請って、足りないものばかりを補おうと必死に抗ってきた。そして、その度に何も変わらない自分に絶望してきた。
でも、貴音は言う。詩乃が詩乃であることを認めた上で、詩乃が持つものを輝かせる。そうすれば、詩乃ですらもが立派な魔女になれるのだと。それは、優しい嘘なのかもしれない。でも、
(わたしにも、輝けるだけの何かがあるのでしょうか……)
自らに問い掛ける。それに答えられる何かを、まだ詩乃は手にしてはいなかった。それでも、何故か詩乃はその言葉を信じてもいい気がしていた。
『あたしたち魔女の価値をそんなもんだけで測れるわけないじゃんっ』
聞いたことのない台詞が、聞いたことのある声で頭の中に響き渡る。不思議な予感を胸に詩乃は尋ねる。
「あ、あのっ、その先輩って、誰なんだったんですの?」
「名前はちょっと覚えてないかな。直接喋ったことはないんだ。でもさ、その子は魔法戦闘の腕はひどいもんだったけど、私の目には立派な魔女に映ってたよ」
「そう、ですか……」
貴音は、覚えていないと言う。でも、詩乃にはその術理学科の生徒が誰だったのか、なんとなく分かる気がした。彼女の声は、いつだって詩乃の事を励ましてくれていた。たとえ今は離れていても、必要な言葉を彼女の為に告げてくれていた。
「どう? 少しは元気が出たかな」
「わかりませんわ……でも、そうですわね。少し楽になった気がしますわ……」
詩乃は顔を上げながら貴音へと返す。その顔は、今にも泣き出しそうないつもの詩乃ではなかった。
「がんばりな、小さな魔女さん」
何度もお礼の言葉を繰り返してから去っていく詩乃の背中を見つめながら、貴音は半ば祈るようにそう告げた。
◆ ◇ ◆
「で、あなたはこんな場所で何してるんですか? 先輩」
優雅に紅茶のカップを傾ける貴音へと声が掛る。彼女は、詩乃と別れた後もまだ丁香花寮の食堂で術理学科生専用のテーブルに陣取っていた。
「なにって、それはもちろん君のことを待ってたんだよ。莉伽子」
貴音はカップをソーサーへと戻しながら声の主――水沢莉伽子へと嬉しげに告げる。彼女は呆れた顔をしながら貴音の方へと寄って行き、
「待っていたって、ここは丁香花寮ですよ」
少し責めるような口調で言う。
「知ってるよ、そんなこと」
だが、貴音はさも当然のようにそう返す。そんな彼女を前に莉伽子は思わず頭を抱えそうになってしまう。
「あなたって人は……」
愚痴るように言葉を漏らす莉伽子。だが、そんな彼女のことなどお構いなく貴音は、
「どうしても莉伽子に会いたくってさ、だめだった?」
少し首をかしげながら尋ねてみせる。
「だめに決まってます。私、先輩のそういう軽薄なところ、嫌いですから」
「私は莉伽子のそういう真面目なところが好きだよ」
「そう言って、どうせ先輩はみんなに好きだとか言ってるんでしょう?」
「そんなことないって。確かに可愛いとは言うけどさ、好きだっていうのは莉伽子だけだよ」
「信じられませんね」
少し拗ねた態度で莉伽子が言う。そんな彼女をなだめる様に、
「うそじゃないって、その証拠に、はい」
そう言って貴音はスカートのポケットから一枚の綺麗に折りたたまれた白い紙を取り出して、莉伽子へと手渡す。
「これは?」
紙を開きながら、莉伽子が怪訝そうに尋ねる。
「夜会の参加申込書だよ。私が二人分の名前を書いてもよかったんだけどね。でも、どうしてもこれだけは莉伽子に書いてもらいたかったからさ」
開かれた紙面の上には、『夜会参加申込書』と書かれた見出しの下に普通魔法学科二年生、桐生貴音と綺麗な文字で貴音の所属と名前とが書かれていた。
「私が選んだのは、他の誰でもない、莉伽子、君なんだからさ」
そう言いながら手渡されるボールペンを莉伽子は受け取る。
「やっぱり私、先輩のそういうところ、嫌いです」
口ではそう言いながらも、莉伽子は貴音の名前の下にすらすらと流麗な文字を綴って行く。普通魔法学科一年、水沢莉伽子、と。
「それでいいさ、私はそういう莉伽子が好きなんだからね」
二人の名前が記された紙を受け取りながら、貴音は無邪気に笑ってみせるのだった。




