元日の朝ぼらけに
ぴろりぴろりぴろり。
辺りにただよう不穏な空気をかきわけて、間の抜けた電子音が不意に響きました。こんな時に電話なんぞ掛けてくるのは誰や、と彼は立腹しましたが、そもそも彼の電話を鳴らすなど、将来の定まらぬ不甲斐ない息子に小言を垂れるばかりの両親か、人の都合などおかまいなしにバイトのシフトを入れる先輩か、せいぜいその程度しか居なかったはずです。しかしそれ以上に、あちら側へ行こうとした折角の決断に水を差されたようで、それが彼の気に障ったのでした。
足をとめ、ポケットに手を突っ込んだまま彼は逡巡します。このまま無視を決め込むべきか、それとも通話ボタンを押すべきか。それが問題でした。どうせ電話に出たところで不愉快な思いをするばかりで良いことなどひとつもないのです。
けれども一方で、かすかな期待を抱いている自分が居ることに彼は気づいていました。正月ぐらい、誰かが電話をくれるのではないか。誰かが、あたたかい言葉をかけてくれるのではないか。そしてその誰かは、できれば彼女であって欲しい。真織の声が聴きたい。
そんなご都合主義をあざわらうかの如く、電子音はなおも彼のポケットを基点に路地中に響いています。それはあたかも、彼に決断を促すかのように聞こえるのでした。全てをすっぱり断ち切りあちら側へ渉るのか、それとも身を焦がす苦しみを甘受してでもこちら側に踏みとどまるのか。空気をふるわせ、彼の未練をちくちくといやらしく刺激し、うぬうぬと身ぶるいさせるのです。
彼は小さく息を吐いて、それから勢いをつけてポケットから手を引き抜きました。ちりんと音を立てるストラップ、電子音がいちだんと大きくなって、液晶画面に表示されるは今宮真織の名前、願っていたはずなのにいざとなると心がきゅっと絞まるようで、息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、第一声は何と言うべきか、あまり素っ気なくてもいけないし、かといってのどを鳴らし猫なで声で応えるのもなんだか癪だし、ともかく今は真織の声が聞けたらあとのことはどうでも良いのだと思い直し、ボタンに添えられた親指に力を入れて、
――お犬様は堪忍しとくれやす!
見れば舞妓はん、顔を両手ですっかり覆い、こちらに背を向けわなわなと震えていらっしゃる、わけを問えばお犬様は苦手どす、犬などどこに居るんやと見やれば携帯電話のストラップ、CMでおなじみの白いむく犬が揺れている、うち犬はほんまにあきませんのん、涙声の舞妓はん、だらりの帯はいつしか茶色いふさふさに姿を変えて、彼が目を丸うしているうちに、どこぞの家の寝ぼけたる、
わおぉぉぉん、わん、わん、わん。
そのときでした。
足もとがもにゃもにゃと波打ったかと思うと、天地が逆さになったかのような感覚に彼はとらわれました。いえ、それは決して気のせいなどではなく、彼はふにゃりと柔らかくなった地面に背をつけ、木から落ちた死にかけの蝉よろしく手足を宙に向けてじたばたするばかりなのでした。おうおうと呻る彼の背の下で、ずるりずるずると地面が動いていきます。それはまるで巨大な毛氈のうえを転がされているようでありました。ぐるぐるとまわる彼の眼の中で景色は二重写し三重写し、あたかも巨大な万華鏡の筒の中へ放り込まれたようであり、子供の手遊びの餌食となった草花のごとくぶちぶちと引きはがされる赤提灯、紙くずよろしくくしゃくしゃに丸められていく板塀塗塀レンガ塀、全てが混然一体と化し轟轟と音を立てて渦を巻き、舞妓はんはいずこやら、いつしか姿は雲散霧消、最後の最後にひとかかえほどの茶色の毛玉がお社の中へそそくさと飛び込んで、ばたんと扉が閉じると同時に彼の視界は暗転したのでした。
――こら、小十郎。どこで寝てんねん。さっさと起きぃ。
するどく、けれどもどこか懐かしく耳朶を打つ声に彼は意識を取り戻しました。どうやら魂は六道珍皇寺の冥府の井戸をくぐりぬけ、無事に帰ってくることができたようです。
いつしか初日は東山の向こうから顔を出し、京都という名の四角いお盆の、その底に刻み込まれたようなか細い路地にもお天道様の恵みが届きつつありました。
気づけばお社の前で丸くなって寝てしまっていた彼は、背中の痛さと冷たさに思わず顔をしかめました。ばきばきに固まった身体を、ねこのように背伸びをしてほぐしていきます。
――なんや、生きてるやん。死んでたら生ごみと一緒にほかすところやったで。
アルミホイルのように冷たくキシキシと身体を包むこの声の主に、彼はたしかに覚えがありました。昨年末、彼をボロクソにののしってジングルベルの鳴る街へ消えて行ったあの女の子です。今頃は実家でぬくぬくと正月を迎えているはずなのに、一体どうしたのでしょうか。
彼が寝ぼけ眼をわしわしとこすると、果たしてそこには見目麗しき振り袖姿があったのでした。
まあるく結った割れしのぶ、からすの濡れ羽を思わせるつややかなおぐしは紫めいた光沢を放ち、彩そえるは稲穂のかんざし。引き振袖は松竹梅に鶴が舞い、立て矢に結んだ帯は黄金色、ちらりと覗く襦袢の真紅が目にしみます。
わ、舞妓はん、と帯をぺたぺた触る彼を足蹴にして真織の曰く、「何寝ぼけてんねん。それともお狸にでも化かされたんと違うか」。
目の前には色とりどりの花名刺にまみれた小さなお社、この街の辻辻にあるお地蔵さんのお堂よりもなお小さく、一丁前に設えた破風も彼の目線ほどの高さにあって、神様を納めた格子戸も電話帳ほどの大きさしかありません。
真織はその足元に置かれたみかん箱ほどの大きさの真ちゅう製の賽銭箱に小銭を入れて、ぱんぱん、と柏手を打ちました。
――ここのお社なぁ、むかしこの辺が火事になったときに火ぃがここで止まらはって、ちょうど焼け止まったところに居はった狸の置きもんが真っ二つに割れてやったさかい、こらお狸が身代わりになって守ってくれたんや言うて近所の人が祀らはったんえ。
――せやしここの神さんはお狸やねん。
けどな、と真織は続けます。
――アホな願い事しよる不届きモノにはバチ当てるらしいで。神さんに頼んだら何でも叶えてもらえると思うてるやつ、居るやろ? そんな奴は化かされてどっか連れてかれてしまうんやて。
そんなアホな、と彼は笑いました。狸が人を化かすなんて、今のご時世にあるわけがない。彼は文学部生でしたから、古来狸が人を化かすと言われてきたことを民俗学の講義で知っていました。けれども現実の狸は、食いしん坊で、好奇心旺盛で、それゆえ不慣れな人里に下りてきてはうっかり車にはねられてしまう、ちょっと間抜けでかわいそうなコたちなのです。とても人を化かすとは思えませんし、そんなことは信じたくもありませんでした。
なぜなら――人を化かすのはうちらの本業や、と彼はコートの中に隠した二股のしっぽをなでつつ思いました。そう、彼はまだ若いほうではありましたが、立派な猫又なのでした。猫又が狸に化かされたなんて知られたら、ただでさえ人間に交わることを良しとしない両親に教育的指導を施されてしまいます。しゃあ、と耳もとまで裂けた口で怒る顔を思い出して、おお怖、と彼は独りごちました。
――さあ、そんなとこ突っ立っとかんとうちおいでやす。あんたの好きなぶりの焼いたん、お重に入れてありますえ。
袖をひらひらさせながら真織が笑います。何はともあれ、おいしいご飯があるのはよきことかな。しっぽがぴんと立ちそうになるのをこらえつつ、足取りも軽く彼はあとをついていきます。
願わくは、これからも平穏にのんべんだらりと過ごせんことを。ご都合主義的願い事が、正月にしてはあたたかな日差しの中、猫っ毛のごとくふわふわと風に乗ってどこかへ飛んでいくのでありました。
(平成26年12月5日脱稿)
(平成26年12月5日冬童話2015投稿)