その社、一切の苦厄を度し給う
――すっぽんぽこぽんすっぽんぽん、ようこそお参りしておくれやした!
底抜けに明るい声がだしぬけに辺りに響いて、彼は飛び上がらんばかりに驚きました。そればかりではありません。いったいどんなカラクリなのかとんと見当もつきませんが、先ほどまで奈落の底のように真っ暗だったはずの路地には端から端まで見渡すかぎり紅白幕が張り巡らされ、赤地に墨痕淋漓たる勘亭流で「狸」と大書された提灯がずらりと並び、周りをあまねく照らしています。狸狸狸狸狸狸狸猫狸狸狸と提灯は軒下に続き、彼はゲシュタルト崩壊を起こしかけました。くらくらと目を回しかけた彼を此岸に呼び戻したのは、やはりあの声でした。
――今年初めてのお参り、えろうおおきに。特別になぁんでも願い事かなえますえ!
ははぁん、そういうことか、と彼は合点がいきました。ここのお社は先斗町料飲組合がお世話してはって、正月の客寄せのためにこういう仕掛けを用意してるんやろ。
――さあ、はようお願い事しよし。
――はよせんと時間切れどっせ!
なんだか妙に急かしてくる神様です。けれども、早く何か願い事をしろと言われても、そう浮かんでくるものではありません。特に彼はそういう男でした。家から一番近い公立高校に潜り込むように入り、ほどほどに勉強をして、まあこのぐらいなら世間様から笑われへんやろという大学に進み、競争倍率の低そうなゼミを選び、そしてそんな自分でも入れる、のんびり出来そうな会社に勤めたいと思っているのが彼でした。ですから間違っても、将来の夢は世界征服とか、海賊王に僕はなるとか、そういう頭の軽いことを言う人間でもありませんでした。
そうこうしている間にも、ぴいちくぱあちく願い事をせがまれます。ありがたい提案も一定量を超えると、為された側は思考することができなくなるものです。むしろ、それを放棄してしまうといった方が近いのかもしれません。畳みかけるように商品を提案するあの甲高い声の社長にほだされて、分割手数料を負担してくれるのをいいことに思わずテレビショッピングに申し込んでしまったことがあるでしょう。見渡す限りモノモノモノ、店を埋め尽くす勢いの商品量と派手な色使いのポップにほだされて、激安の殿堂の一員になってしまったことがあるでしょう。今の彼は、まさにその状態にあるのです。
「お、女の子。かわいいの。それから――うまいぶりが食べたい。ほんで今年こそは真人間になるんや! 」
もうこうなるとお願い事なのか何なのかさっぱり訳がわかりません。頭に浮かんだものをただそのまま言ったにすぎません。
――へえ、ほなちょっと待っとっておくれやっしゃ!
くだんの声がきんきん鼓膜を振るわせたそのときでした。
足もとがもにゃもにゃと波打ったかと思うと、天地が逆さになったかのような感覚に彼はとらわれました。いえ、それは決して気のせいなどではなく、彼はふにゃりと柔らかくなった地面に背をつけ、木から落ちた死にかけの蝉よろしく手足を宙に向けてじたばたするばかりなのでした。おうおうと呻る彼の背の下で、ずるりずるずると地面が動いていきます。それはまるで巨大な毛氈のうえを転がされているようでありました。そして、お社の扉が衆生に救いの手を差し伸べるかの如く開き、その中がご来光のように金色に輝いているのを目にした直後、彼の視界は暗転したのでした。
――おにいさん、おにいさん。寝ておいやすか、起きとくれやす。
やわらかく耳朶を打つ声に彼は意識を取り戻しました。どうやら魂は六道の辻を越えることなく、無事に帰ってくることができたようです。
いつの間にかお社の前で丸くなって寝てしまっていた彼は、背中の痛さと冷たさに思わず顔をしかめました。ばきばきに固まった身体を、ねこのように背伸びをしてほぐしていきます。
――ああ、良かった。死んだはったらどないしよかと思うて。
真綿のようにやさしく包んでくれるこの声の主はいったい誰なのでしょう。夢うつつの中で彼は考えました。もちろん、彼をボロクソにののしってジングルベルの鳴る街へ消えて行ったあの女の子のはずがありません。卒論の書き直しなんてできん、就職も決まってへんしいっそ留年して一年先延ばしにしよか、と言う彼に、このアンポンタン一生やっとれド阿呆という言葉を吐き捨て、着替えとナイフ、ランプを鞄に詰め込みドアを足蹴にして出て行ったのでした。今頃は実家でぬくぬくと正月を迎えているのでしょうか。
それはさておき、彼が寝ぼけ眼をわしわしとこすると、果たしてそこには見目麗しき舞妓はんの姿があったのでした。
まあるく結った割れしのぶ、からすの濡れ羽を思わせるつややかなおぐしは紫めいた光沢を放ち、彩そえるは稲穂のかんざし。黒紋付は松竹梅に鶴が舞い、裾までのびるだらりの帯は黄金色、ちらりと覗く襦袢の真紅が目にしみます。
まゆ墨ひいて紅さして、お白粉塗ってもおぼこさは隠しきれず、丸顔に垂れ気味のおおきな目。正月ならではの華やかで凛としたお召し物でも、小柄な背丈も相まってこちらさんに限っては七五三か十三参りのように幼く見えるのでした。
黒くうるんだ瞳がまっすぐこちらを見つめています。思いつめた彼が百年の恋に身を投じるべく清水の舞台の欄干を乗り越えようとしたまさにそのとき、目は彼女の手許に引き寄せられたのでした。
右手には三尺はあろうかという立派な寒ぶりが、口とえらをわら紐で結わえられて、その頭を天にまっすぐ向けています。その表面は顔を近づければ映りこみそうなほどにてかてかと輝き、丸々と脂ののるその様は旨さを想像するに余りあります。
方や左の掌中には、先端をじがじがと明滅させた火縄が握られています。鉄砲でも撃つわけじゃあるまいし、一体これは何に使うのやろか、と彼は思いました。
そのとき、ぐるん。と不意に舞妓はんが火縄を振り回しました。思わず身を仰け反らせた彼に舞妓はんは微笑んで言ったのでした。
――八坂さんのおけら詣り行ってきたんどすえ。ほら、神さんの火ぃもろて来ましたえ。
そう言ってまた、火縄をぐるんと回すのでした。聞けば、八坂神社で古式に則り点した神聖な火を分けてもらい、それが消えてしまわぬように時折ぐるぐると回しながら自宅まで持って帰るのが本式なのだそうです。火のついた縄を振り回していれば普段なら違うお縄を頂戴するところでしょうが、今夜に限ってはそれも許されてしまうのです。大つごもりの夜は、不思議な夜です。
――さあさ、早よ帰っておくどさんに火ぃ入れんと。小十郎はんもうち来てご飯食べて行かはったらよろしわ。
フンフン、それもそうやな、と彼は思いました。くらくらする身体を無理やり原付に牽かせて下宿へ帰ってもどうせ死んだように眠るだけやし、それやったらこたつで丸うなって、おいしいごはんでも食べさせてもろたらええわ、と考えたのです。八坂さんからもらった火で炊くかまどご飯。ぶりは煮てよし焼いてよし刺身でもよし、出世魚とは雲泥の差、こんな雑魚にはゼイタクですが、なんとも縁起の良い、目出度い正月ではありませんか。そそと傍寄る舞妓はん、つつと注がれる徳利の燗。全てを忘れ鼓腹撃壌言うことなし、頬がぽおっとなるのはお屠蘇のせいか、隣にまします美人のせいか。
――こっちどっせ、お越しやす。さあさあ早う、お越しやす。
舞妓はんは唄うように口ずさみ、舞うように彼の手を引き先へ先へと進んでいきます。その力は思いのほか強く、こんな小さな体のどこから湧いてくるのだろう、と不思議に思えるほどでした。
しかし、そんなことなど今となってはもうどうでもいいことなのです。彼はもう今の生活の全てが嫌になっていました。このままこうしてついて行けば、卒論から逃れられる。情け容赦ない教授から逃れられる。就活から逃れられる。さっさと内定も単位も取り終えてしまった同期から逃れられる。まともな学歴も職もないくせに文句だけは一流の両親から逃れられる。自分は安穏と暮らしながら他人には厳しいあの彼女から逃れられる。頼みもしないのにやってきた新年から逃れられる。本当はそんな余裕もないのに見栄で申し込んでしまった友人との卒業旅行から逃れられる。そして何より、追いかけ追いつめてくる自分自身から逃れられる。そんな気がするのです。
だから、行く手の先にやっぱりお社が口を開けて待っていても、その中が先ほどまでと違って墨で塗りつぶしたように真っ黒になっていても、何だか辺りの景色がぐにゃりと歪んで見えても、周りの空気が渦を巻いてお社の中に飲み込まれていっても、妙にうれしそうな笑みを浮かべて跳ねまわる舞妓はんにただならぬ気配を感じて毛が逆立っても、彼はもう気にしませんでした。