32.口の虎
呼び鈴が鳴って、三津は時計を見た。21時だった。半ば以上嫌な予感がしたので、そのまま居留守を使おうか、本気で悩む。
けれども、
三津、
外から呼ばわれて、彼女は抗えなかった。頑張った声だったのだ。
利人は痣で出来ていた。
「--っと、」
声が出ない。咽喉笛に噛み付かれているからだ。扉を開けると同時に、歯を立てられて、獲物そのままにずるずるとソファまで引きずられた。
「ぃた、」
犬歯が僅かに首から離れ、その寒色に怖気がたつ。思わず痛みを訴えたのは失敗だった。ひゅっと獣の間合いで息をした男は、再び三津に噛み付いた。ぎりぎりと歯軋りまでする始末だ。悪化している。重力に沿って、唾液が皮膚の上を走る。利人は噛み締めているだけで、右手も左手も大人しく静止していた。
--この男は、
全く、と思う。
獣だ。甘噛している獣なのだ。
手放しで可愛らしいと思えない理由は、彼女の肢に、きちんと充血させてきちんと当てているあたりにある。
--莫迦だわ。
正真正銘の莫迦だ、と思う。
ぐい、
両手を頭に添えて、引き剥がす。痛がるとまた調子に乗るので、極力反応は返さない。
「利人、」
首根っこをひっ捕まえて、目線を合わせた。強く強く。犬を脅す要領と同じである。
「めっ。」
いけません。
電柱をコンクリに戻してしまう、規格外の強さを有しているその獣は、彼女のたった一言で諌められてしまった。
「待て。」
「……三津、」
明らかに犬扱いである。ようよう人らしく途方に暮れ始めた利人は、それでもやっぱり待ってしまう。
行き届いている躾に、彼女は幾分満足した。
「しょうがないなあ。」
よしよし。
三津が頭を撫でる。
利人は目を閉ざす。
飴と鞭。
「利人、」
眠たげなのは目元だけなので、三津はとっときの飴玉を口に放り込んでやることにした。
「良い子良い子してあげる。」
仕方が無いではないか。褒めて育てるのが定石なのだから。
「痣だらけになるまで、」
よくがんばりました。




