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Lace Edge  作者: 一夏
23/36

23.ウジャトアイ

 首の無い馬の形をした雲が、瑪瑙のグラデーションをした空を駆けて行く。酷くゆっくりとした速度だ。水蒸気の馬にも附蝉があったなら、今の自分も見ているだろうと、三津は思った。

 むっつりと押し黙ったまま、三津は腰に手を当てて、所謂仁王立ちで男を睨んだ。座る気なんて更々無い。


--冷房強すぎ。


 腹立たしさは体温を上げているが、それにしたって寒い。三津は風の出所も睨んだ。

 それは一瞬のことで、目線は真ん前にすぐさま戻される。

 無駄に明るい室内で、一際浮いている。例えここが電車だろうがファミレスだろうが、誰も彼もが目をあわせようとしない類の浮き方だ。

 当然だろう。

 ぱっと見ただけで分かる痣をこしらえているのは、白黒の服を着た大男だ。削ったような眦はとても柔和とはいえないし、備わっている眼光も陰惨だ。全体的に酷薄なのだ。要は。


「嘘だって言うの?」


「確認しただけだろ。」


 ばつの悪そうな顔に、彼女は目を眇めた。


--大体、


「あんなの、形だけじゃない。」


「してないのか?」


 然して重要そうにしていない彼女に、今度は利人が不快を露にして見せた。


「した。」


「……ならいい。」


 なんという言い草か。


--莫迦らしい。


 この男が拘っているのは、なんてことは無い。送り火を焚いたか否かである。

 彼女が向かえ火で招いたひとは、炎の有無に関係なく来たければ来るだろうし、帰りたければ帰るだろう。同時に、留まりたければいつまででもその辺で笑っているに違いない。と、いうか、行く場所は限られている。


--姉さんのために焚いてるのに。


だから、


--関係ないのに。


 こればっかりは。これだけは誰にもどうしようもない。利人にかの人が存在した事を告げようと思ったことは、一度としてない。


「あたしより、利人だよ。」


「俺がなんだ。」


「その痣は何?」


「痣だ。」


 彼はもしかしたら、三津に着火したいのかも知れない。

 対面して睨めつけたまま、彼女はつかつかと傍寄った。近くなった利人を、ますます見上げる形になる。送り火の確認をして、胸の痞えを取り去ったようなすっきり顔が腹立たしい。


 ぶち、


 ぼちぼちぼち、


「……三津、」


「なに、これ。」


 自分が釦の存在を無視して、力いっぱいシャツを開いたことには全く頓着せず、彼女は一面の痣を柳眉をしかめて眺めた。


「夜尿の跡?」


「いや、」


「油染み?」


「おい、」


「マゾ?」


「三津!」


「何よ。」


 言うや否や、彼女は爪切りを昨夜に済ませた指先で、一際大きい青痰をぐいぐい押した。


「三津!」


「何。」


「……ごめんなさい。」


「いいえ。」


 三津に対してはおかしな心配をするくせに、自分は他人の拳が大好きなこんな男が好きなのだと、彼女の胸は声高に言う。情け無いことだ。


「……利人を好きになるのって、簡単だったけど。」


 事実だ。彼女はいとも容易く彼に恋をした。


「持続させるのって、もっのすっごく!」


大変。


「おい、」


 慌てた彼に浮いた悲壮感に、三津ははじける様に笑った。声が引く頃、彼女に唐突に飛来した悲しさは、涙を出すよう身体に命令を下した。


「利人、」


ねえ、


「お風呂入って来て。」


「は?」


 三津の矜持はその命令を無いものにしてしまいたかった。だから脅すように頼んだのだ。あんまり場にそぐわないお願いではあるが。


「今すぐ入って。」


入ってくれないと、


「持ってる中で一番細いヒールで殴っちゃいそうなの。」


「入ってくる。」


 ぱっと身を翻した彼を見送って、三津は漸く下を向いた。薄く張った涙で、角膜がぴりぴりした。


「出てくるな。」


--こんなのあたしじゃない、


「あたしじゃない。」


 あんな痣はどうってことない。

 過ぎた空調も問題ない。

 持続させる努力は極力しない。

 二度の炎に意味も無い。


「意味は無いわ。」


問題無い。


「問題無い。」


 彼女は泣かない。


--だって姉さんが泣かないんだもの。


 ぐいっとあげた目線の先はもう夜だった。雲は見えなくなっている。

 感傷は消えていた。


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