23.ウジャトアイ
首の無い馬の形をした雲が、瑪瑙のグラデーションをした空を駆けて行く。酷くゆっくりとした速度だ。水蒸気の馬にも附蝉があったなら、今の自分も見ているだろうと、三津は思った。
むっつりと押し黙ったまま、三津は腰に手を当てて、所謂仁王立ちで男を睨んだ。座る気なんて更々無い。
--冷房強すぎ。
腹立たしさは体温を上げているが、それにしたって寒い。三津は風の出所も睨んだ。
それは一瞬のことで、目線は真ん前にすぐさま戻される。
無駄に明るい室内で、一際浮いている。例えここが電車だろうがファミレスだろうが、誰も彼もが目をあわせようとしない類の浮き方だ。
当然だろう。
ぱっと見ただけで分かる痣をこしらえているのは、白黒の服を着た大男だ。削ったような眦はとても柔和とはいえないし、備わっている眼光も陰惨だ。全体的に酷薄なのだ。要は。
「嘘だって言うの?」
「確認しただけだろ。」
ばつの悪そうな顔に、彼女は目を眇めた。
--大体、
「あんなの、形だけじゃない。」
「してないのか?」
然して重要そうにしていない彼女に、今度は利人が不快を露にして見せた。
「した。」
「……ならいい。」
なんという言い草か。
--莫迦らしい。
この男が拘っているのは、なんてことは無い。送り火を焚いたか否かである。
彼女が向かえ火で招いたひとは、炎の有無に関係なく来たければ来るだろうし、帰りたければ帰るだろう。同時に、留まりたければいつまででもその辺で笑っているに違いない。と、いうか、行く場所は限られている。
--姉さんのために焚いてるのに。
だから、
--関係ないのに。
こればっかりは。これだけは誰にもどうしようもない。利人にかの人が存在した事を告げようと思ったことは、一度としてない。
「あたしより、利人だよ。」
「俺がなんだ。」
「その痣は何?」
「痣だ。」
彼はもしかしたら、三津に着火したいのかも知れない。
対面して睨めつけたまま、彼女はつかつかと傍寄った。近くなった利人を、ますます見上げる形になる。送り火の確認をして、胸の痞えを取り去ったようなすっきり顔が腹立たしい。
ぶち、
ぼちぼちぼち、
「……三津、」
「なに、これ。」
自分が釦の存在を無視して、力いっぱいシャツを開いたことには全く頓着せず、彼女は一面の痣を柳眉をしかめて眺めた。
「夜尿の跡?」
「いや、」
「油染み?」
「おい、」
「マゾ?」
「三津!」
「何よ。」
言うや否や、彼女は爪切りを昨夜に済ませた指先で、一際大きい青痰をぐいぐい押した。
「三津!」
「何。」
「……ごめんなさい。」
「いいえ。」
三津に対してはおかしな心配をするくせに、自分は他人の拳が大好きなこんな男が好きなのだと、彼女の胸は声高に言う。情け無いことだ。
「……利人を好きになるのって、簡単だったけど。」
事実だ。彼女はいとも容易く彼に恋をした。
「持続させるのって、もっのすっごく!」
大変。
「おい、」
慌てた彼に浮いた悲壮感に、三津ははじける様に笑った。声が引く頃、彼女に唐突に飛来した悲しさは、涙を出すよう身体に命令を下した。
「利人、」
ねえ、
「お風呂入って来て。」
「は?」
三津の矜持はその命令を無いものにしてしまいたかった。だから脅すように頼んだのだ。あんまり場にそぐわないお願いではあるが。
「今すぐ入って。」
入ってくれないと、
「持ってる中で一番細いヒールで殴っちゃいそうなの。」
「入ってくる。」
ぱっと身を翻した彼を見送って、三津は漸く下を向いた。薄く張った涙で、角膜がぴりぴりした。
「出てくるな。」
--こんなのあたしじゃない、
「あたしじゃない。」
あんな痣はどうってことない。
過ぎた空調も問題ない。
持続させる努力は極力しない。
二度の炎に意味も無い。
「意味は無いわ。」
問題無い。
「問題無い。」
彼女は泣かない。
--だって姉さんが泣かないんだもの。
ぐいっとあげた目線の先はもう夜だった。雲は見えなくなっている。
感傷は消えていた。




